無遠慮に家に上がる吸血鬼を魔理沙は止めることができなかった。
「良いお家ね。あまり拡張はしていないようだけど。客間は?」
フランは雨傘を隅に立てかけ、軽快に廊下を進んで食卓につく。無邪気な手招き。魔理沙は強張る足でフランの向かいに座る。
「良い家って言ったけどじめじめしてるわね。来客のために調整しないと」
「何しに来たんだ」 忙しなく揺する膝。
「楽しいお茶会を開くのよ」
フランはにこりとして卓に魔法陣を描く。完成した陣からアンティーク調の紅茶セットが浮き上がった。
「ごめんね、茶葉はアッサムしかないの。本当は人血をミルク代わりに入れるんだけど、共食いさせるわけにもいかないしね。ケーキはお好き?」
「私を殺しに来たのか」 声を張れない。
「危害を加える気なんてないわ。甘さ控えめよ?」
「殺そうとしてきた」
「殺す気なんてなかったよ。全ては巫女の反応を見るため。巫女はどんなことに関心があって、どこに弱みがあるのか。威力偵察ってとこね。咲夜はそこのところ上手く理解してなかったみたいだけど。だから今日はお詫びって面もあるかな。どうぞ肩の力を抜きなさって?」
フランの提案に反して、魔理沙は机の木目ばかりを目で追っていた。家の中は雨のせいでひどくじめついていて、連日の蝉時雨の暑さと相まって蒸し暑い。当の朗々とした蝉は鳴りを潜め、屋根を踏み荒らす雨足と、窓に叩き付けられる雨粒ばかりが、気圧で締め付けられる脳に響く。
ポットが宙に浮いた。輝くティースプーンがひらひらと舞って茶葉を掬い、ポットはステップを踏みながら湯を沸かす。茶器たちはどこか楽しげに紅茶を作り2人のカップに紅茶を注いだ。
「どうぞ遠慮なく召し上がって?」
フランは頬杖をつき上目で魔理沙を見る。魔理沙は俯いたまま黙りこくり口をつけなかった。ただフランを満足させて早々に帰ってもらおうと、自らは主導権を手放し、好きに振舞ってもらおうとしている。早く帰ってもらうなんてあり得ないのに。
「私ね、魔理沙ちゃんとなかよしになりたいの」
笑みを含むフラン。魔理沙は目線を合わせないまま胸に手を寄せる。
「仲良く?」
「魔理沙となかよしになって信頼関係を築いてね、私の家にご招待したいんだ。それで魔法について語らいたいのよ。私魔理沙の洞察力には一目置いてるんだ。屋敷で時間停止の魔法を暴いたのは驚いた。私はその優秀な観察眼を交えて議論して、魔法をより高次に高めたいの。魔理沙の学びにもなるし悪い話ではないでしょ?」
魔理沙は返答もせず下を向いている。ただ増幅する不安に急き立てられ葦のように思考を回す。
――フランは私をどうするつもりだ。わざわざ私の家まで出向いて話をしに来た理由。仲良くなりたいなんて方便だ。何か別の狙いがある。私と直接会うことでしか成しえない、何か重要なこと。何か。
浴衣の裾を握る。
本当は気付いている。フランの目的は何なのか。フランが私に何をしようとしているのか。でも考えたくなかった。
フランは、私を人質にしようとしている。霊夢との戦いでの駒にしようとしている。私をどこにあるとも分からない場所に連れ去って、閉じ込めようとしている。自由を奪おうとしているんだ。
そんなの嫌だ。フランが私を連れ去って何をするのか、何をされるのか、まるで分らない。逃げないと。隙を見て、フランに攻撃して、そして逃げる猶予を。
「紅茶が冷めちゃうよ?」
フランはティースプーンを紅茶に浸し、前後に動かして混ぜている。波が立たないようゆったりと、優しく繊細な手つきでスプーンを揺らしている。反して魔理沙の肩は縮こまって、心臓が重々しく波打った。
……そう、いくら頭を捻ったところで意味なんてない。どんなに良い方法が思い浮かんでも、何も変わらないし変えられない。私は弱いから。フランは私をいつでも殺すことができるんだ。今私が殺されていないのは私が有用な駒だから。その価値だけで私は生かされている。いや、殺されていないのは、ただの気紛れなのかもしれない。
魔理沙は首を固定したまま瞳孔だけをおずおずと動かしてフランを窺う。フランは微笑しながらスプーンを動かしている。
自身のティーカップを見る。アンティーク調のカップからはうっすらと湯気が立ち上っている。
私に選択肢なんて用意されていない。何も意味がない。
カップに手を伸ばす。取っ手を摘み、胸元まで持ち上げる。
何ならおとなしく従う方が理に適っているんじゃないか? 従順にしてフランの印象を良くすれば待遇を良くしてくれるかもしれない。もしかしたら私を気に入って本当に魔法談義をしてくれるかも。フランの高度な魔法を学べたなら格段に成長できる。より自由に近付けるじゃないか。歯向かうよりずっと利益があることじゃないか。私は自由になって、霊夢と並んで飛んで……。
カップの中身が目に入った。ミルクの混ざっていない赤褐色の水面に、魔理沙の顔が映し出される。映る私は、いつものぱりっとした魔女服の代わりに、地味な紺の浴衣を着ていた。浴衣は生地が薄くボリュームがなくて身体を貧相に見せている。魔女帽子も被っていないから普段のシルエットと乖離して、まるで別人のよう。化粧もせず、金髪も結んでいない。普段の魔法使いの私からは考えられないほど野暮ったい姿だった。
ふと霊夢の姿を想起する。大きな赤いリボンと、洋風の黄色のネクタイ、紅白の巫女服。記憶の中の霊夢はいつもその装いだった。
そう、いつも同じだ。幼い頃境内で一緒に竹馬遊びをしていた時も、人里で一緒に買い物に行った時も、里の人々と談笑している時も、血を流しながらフランと戦っている時も、ずっと同じ装い。あの代々博麗に受け継がれてきたとかいう、巫女服を身に纏っていた。
霊夢は何度も謝った。霊夢に非はないのに。何で謝ったんだ。霊夢自身が謝らなければならないと考えた理由。霊夢自身が罪悪感を抱いた理由。霊夢は。
霊夢の前で跪き手を合わせる人々を思い出す。
私たちにとって、霊夢はずっと、博麗の巫女だった。
指先が強張りカップが震えた。固くなる腕を何とか動かして、ゆっくりとカップを下ろしていく。そしてソーサーに、そっと置いた。
「何してるの?」
フランはスプーンを上げ横向きに置く。陶器と銀食器が擦れて音が鳴った。魔理沙は首を垂れたまま、きゅっと拳を締める。
「飲めない」
「何で?」
「霊夢を裏切るなんてできない」
「裏切る」
フランは皮肉っぽく声に抑揚をつける。
「裏切りにはならないんじゃないかな。だって仕方のないことじゃない。たとえ抵抗しなくても、巫女は魔理沙くんを咎めないよ」
「それでもだ」
魔理沙は顔を上げた。笑みのないフランと視線がかち合う。
「抵抗が無意味でも、私にとっては意味があることなんだ」
「どんな意味があるっていうの」
フランの紅い瞳。艶のない真珠のような瞳が、じっと私を見詰めている。
冷や汗が首を伝った。震える拳を抑えようと強く握り締める。何で恐怖に耐えてこんな合理性の欠片もないことを言っているのだろう。得られる利益なんてないのに。フランの機嫌を損ねて傷付けられる危険さえあるのに。私、どうかしてしまったのかな。でも、そうしたいと思ったから。この気持ちに偽りはないから。
息を吸う。
「霊夢は、友達だ」
フランの視線はしばらく動かなかった。しかし唐突に瞼をぴくりと動かし、ふっと表情を緩めた。
「魔理沙くんも咲夜と同じなのね」
「私をどうするつもりだ」 腹に魔力を込める。
「なかよしになりたいのよ」
「違う。本当の目的だ」
「誤魔化しても仕方ないか。魔理沙ちゃんを交渉材料にしたいの。巫女を殺すために」
「殺させない」
「分かってほしいよ。巫女はお姉様を殺したんだよ。でもお姉様に殺されるような非はなかった。先にメイドを殺したのは人間だ。お姉様は傾いた天秤を元に戻そうとしただけだったんだよ。それなのに巫女は」
フランは立ち上がった。つかつかと歩き魔理沙の横につく。
「巫女が殺されるのも当然のことだと、むしろそうあるべきだと思わない?」
「……そうか」
魔理沙はフランを仰ぎ、顔を見せた。まるで巫女のように凛として、しかし僅かに揺れる機微が漏れ出た、未熟な表情。
「私も覚悟を決めるよ」
矢のような光線がフランの頭を撃ち抜いた。脳髄が弾ける音。大きく崩れるフランの重心。魔理沙は身を屈めて指を鳴らす。更なる光線がフランの全身を穿った。万が一のために家に仕掛けていた攻撃魔法。ティーセットが粉々になって足元に散らばり、フランも床に倒れる。魔理沙は椅子を蹴って玄関に駆け出し箒で夜の雨空に飛び出した。
魔理沙は全速力で木々の合間を縫い、浴衣をはためかせ風を切った。流れた汗は篠突く雨に溶け込んで後ろに吹き飛んでいく。
私はフランに勝てない。まともにやりあえばすぐに殺される。私の勝利条件は霊夢に助けを求めること。このまま神社に向かって飛ぶ。
「ははっ」
魔理沙は自分自身を嘲った。無我夢中に飛び出して、どうしたいんだろうな、私。
後方で聞こえる爆発音。光線が魔理沙の髪を掠めた。
「来た」
次々と魔理沙を狙って発射される鉄のように熱く固い光線。何本も目の前に現れる石柱のような木々の迷路。光線に焼き折られ進路を防ぐ幹。それらを魔理沙は、身体を左右に振り、急旋回し、身体を1回転させながら避け続けた。魔力で限界を超えて動かす身体。体内で血潮が暴れ狂う。激しい呼吸に肺が破裂しそうになる。それでも魔理沙は飛んだ。
血が沸騰して意識が飛びかけた。取り戻す気。目の前の太い枝。魔理沙は避けられず頭を打ち付けた。
「いッ!」
ぬかるんだ地面を転がり幹に衝突した。全身に痺れる痛みが走る。鼻から血が滴ってぬかるんだ土を赤茶色に染める。フランが歩いてくる。
「魔理沙くんなら分かってくれると思ったのに」
フランス人形のような面。魔理沙は噎せながらフランを見上げる。
「一緒に行くわけにはいかないぜ。フラン」
紅白の残影が目に映った。フランの横腹にめり込む脚。影に釘付けになるフランの双眸。フランは血を吐いて、木をいくつも薙ぎ倒しながら吹っ飛んだ。ふわりと着地する朱。拳を握り、緩め、また握る。霊夢は険しい目つきで薙ぎ倒れた木の先を見据えていた。魔理沙は立ち上がる。
「霊夢」
「お願い。下がってて」
立ち上がって、爪を噛むフラン。噛んで噛んで、噛み砕く。