主人公が魔理沙になります。
第1話 気持ちのいい日とよくない日
衝動。
それは突発的で、盲動的で、破壊的で、無意味に起こった。
ひどく頭痛がする。頭の中で何かが叫び回っている。黒い水が石の隙間から滴り落ちる。空しい反響音が、ひとりぼっちの広大な地下空間をまざまざと浮かび上がらせた。
何もかも分かっている。頭痛や衝動の原因も、これから私がやろうとしている行為も。意味がないものだ。頭痛は微かな自我で、衝動は出る場を失った膿に過ぎない。仮に行為を成したところで何も残らない。何にも誰にも繋がらない。それどころか私の破滅に繋がるかもしれない。刹那の満足すら得られないかもしれない。未来になんてなりやしない。でも、言われたならやるしかないじゃない。
腕に爪を突き立て、引く。皮をかき分け血肉を掘る。何度も何度も何度も。冷たい石造の床に温かいドブができていく。私はこの衝動を抑える術を他に知らない。
剥き出しの血管に指が引っ掛かる。波打つ感触が指を伝わる。その細い管は健気に一生懸命血液を運んでいた。血がなくとも、私は生きられるというのに。指に少し力を入れ、血管を引きちぎる。
衝動が収まる頃には、前腕の肉は剥がれ骨は摩耗し皮膚は垂れ下がっていた。爪を離すと断面が蠢き肉も骨も治っていく。私の痛みの証明は消えていく。
「分かってるよ」
虚しく声が反響する。振り返って顔を綻ばせる。私まだここにいられるかな。
磨いたばかりの黒光りするパンプス。軽快に土に埋もれた石を蹴っ飛ばすも、木の幹に跳ね返り足元に返ってきた。霧雨魔理沙は少しの不愉快を抱きつつ、石を靴の内側で蹴って森の奥へ失せさせる。
昼下がりの森の中、魔理沙は立ち止まり、晴天の空を見上げた。繁る葉の隙間から眩しい日光が差し込んで、魔理沙を照らし出している。木を縫う悪戯な風が、金のロングヘアを靡かせ、魔女帽子を攫おうとした。帽子を抑えながら魔理沙は相好を崩す。今日はなんて気持ちのいい日だろう。夏なので暑かったが、風が服の隙間に入り込み、優しく肌を撫でていく。通り抜けた風は大きなうねりに合流し、心地良く森を揺らして枝葉をざわめかせた。こんな日には、妖精を吹き飛ばせばもっと心地良くなれるぜ。
「来たな! 英吉利野郎! ここで会ったが100年目だ!」
加減の知らない大声に魔理沙は耳を塞ぐ。いつも同じ場所、時間、思考。お陰で新しい魔法を試したければすぐにでも戦れる。
目の前には水色ボブヘアの幼女、氷の妖精、チルノが仁王立ちしていた。根拠のないしたり顔はいつも笑顔を提供してくれる。
「お前100まで数字を数えられるのか?」 魔理沙は前後に足を広げる。
「甘いな! あたいは今日まで1から129万までを数えたんだ! すごいだろう!」
「はー頭すごいな」
「今日こそぶっ倒してやるぞ人間め!」
「言われなくとも返り討ちにしてやるぜ」
妖精ってのは都合がいい。殺しても自然の力で復活するんだから。私の魔法使いの道の礎になってもらうぜ。
腕を振り上げるチルノを前に、魔理沙の脳裏には目まぐるしく戦いの情景が浮かぶ。相手がこう仕掛けてきたならどう対応する? 攻撃を差し込まれた時どう回避する? 相手が隙を見せたらどの魔法が有効だ? 何百もの思考が光っては消え光っては消え、一瞬は疾うの昔に過ぎ去った。魔理沙は笑みを浮かべる。
「喰らえ!」
チルノの叫びを引き金に思考は収束した。地から氷の柱が魔理沙を串刺しにしようと迫る。
「毎度学習せんなぁ」
炎が視界を埋め尽くした。掌に収まる八角柱の魔法発射台、ミニ八卦炉が噴いた業火は一瞬にして氷を蒸気に変えた。追撃に備えて八卦炉を構える。だがチルノは湯気に紛れていなくなっていた。
草を掻き分ける音。音のした方に光弾を撃つと、見かけない妖精が倒れ伏した。
「あー? 仲間を呼んだのか? 最強の名が廃れるな」
「違う! そいつらは私の奴隷で」
「そこ」
光線を放った。軽い着弾音と共に、茂みからチルノが倒れ込む。鼻に青痣をつけて、下唇を噛み締めた怒り顔。そのまま唇を飲み込んでしまいそう。魔理沙は思わず噴き出してしまった。
「くそう! やっちまえ!」
木の葉が一斉に騒めく。すると無数の妖精が汚い勇み声を散らしながら飛び出した。魔理沙は素早く目を動かす。左右、前後、頭上。完全に私を包囲している。逃げる隙間はない。妖精たちは光弾を放たんと腕を前に突き出す。まさに八方塞がり――。
「そうこなくちゃな!」
魔理沙は口角が上がるのを抑え切れなかった。八卦炉を頭上に向ける。そしてシャボンのような薄いベールを放った。ベールは魔理沙を囲み、妖精の弾を全て受け止める。
「何をー?」
「まだ終わりじゃないぜ」
弾を受けた部分は沈み込んでいく。そして一気に反発して弾を撃ち返した。壁となって迫る弾幕に、妖精たちは避ける暇もなく次々と撃ち落される。鳴り止まない爆発音と悲鳴。ボロボロと枯葉のように落ちる妖精たち。パニックと絶叫が織り成す阿鼻叫喚の地獄絵図。妖精のカーテンの中で魔理沙は白い歯を見せた。
「試作にしては良いんじゃないか?」
「人間め! 私の可愛い奴隷をよくも!」
もうチルノと数人しか残っていない。わなわなと震える手は氷の槍を作り上げ、野性的なシャウトと共に投擲される。槍はベールに突き刺さり、ベールは萎んでいった。やはり刺突攻撃には弱いな。斬撃も怪しいか。
魔理沙は箒を手に取り風を切って飛翔する。放たれる氷塊を掠め、掠め、森の冠から空へ飛び出した。
雲の切れ間から熱い日光が差し込んで、魔理沙の全身を包み込んだ。まるで青空に溶けていくような、そんな温かさ。枝という枝が騒めいて魔理沙を歓迎する。ああ何て気持ちの良い日。魔理沙は太陽に身を曝け出しながら、敢えて飛翔魔法を解除し自然の落下に身を委ねた。
手下の妖精が泣き出しそうな顔で追いかけてくる。魔理沙は陶酔した表情で照準を合わせ、苦労なく妖精を撃ち落とす。
「馬鹿め! そいつらはおとりだ!」
凍てついていく箒。チルノが勝ち誇った顔で箒を掴んでいた。そしてもう一方の手で槍を振るって――。
「じゃ、また休み明けにな」
「痛ッ!?」
箒に電流が流れた。チルノは思わず手を離し落ちていく。魔理沙は宙に浮き、ニイと笑みを見せる。徐に魔女の帽子を押さえ、ミニ八卦炉を下へ。光を放ち出す八卦炉。そして星のように瞬いて。
「マスタースパーク!!」
流星のような光が発射された。猛烈な風が巻き起こって枝と鳥を吹き飛ばす。目を白黒させるチルノ。断末魔を発する間もなく、光に飲み込まれて消し飛んだ。そしてスパークは地面に着弾し、大爆発と大量の粉塵を巻き起こした。
「ふぅ。実戦でも上々だな」
撃ち終わって、衝撃が収まっていく。魔理沙は帽子から手を離し下を窺う。スパークの着弾点にできた巨大なクレーター。抉れた赤茶色の地面から炭の匂いがしている。その雄大な光景に、魔理沙はうっとりとしていた。魔法というのは自然を意のままに操る技。これを自由、と呼ばずしてなんと呼べばいいだろう。
痙攣する腕が魔理沙の気を引き戻す。スパークを撃つ度に脱臼しそうになる。これは何とかしなくちゃなぁ。
汗をハンケチで拭き、目先の現実のことを考える。魔理沙は後の予定を何も考えていなかった。帰って魔法研究の続きでもしようか。それとも人に会いに行こうか。ふと馴染みの顔が脳裏に浮かぶ。
「偶には顔を見に行ってやるか」
魔理沙は箒の向きを変え直進した。
果てしない緑の中にただ1つ奥ゆかしい朱色が浮いている。魔理沙は無駄に長い階段をショートカットして鳥居の前に降り立った。
眼前に広がる境内。境内を囲む木々と、蝉が大合唱する陽炎の中で、博麗霊夢は打ち水をしていた。霊夢は、夏でも冬でも変わらない紅白の巫女服で、柄杓を振っている。桶から水を掬い、撒く。その単純な動作を、霊夢は追い立てられることも急くこともなく、時折汗を拭いながら繰り返していた。
「よー霊夢―。景気どうだ?」
霊夢は鳥居をくぐる魔理沙を認める。その瞬間、暑さにやられた霊夢の表情が、面倒臭そうな顔にシフトしていった。
「あんたのせいで不景気ね」
「何だ? 私は貧乏神か何かか?」
「というより、火事を率先して起こす火事場泥棒かしら」
「良いなそれ! 私の通り名にするぜ」
「あー、ただでさえ暑いのに暑苦しい言葉を使っちゃったわ」
霊夢は呆れながら打ち水を止める。桶を重そうにぶら下げて本殿に片付けに行く。
魔理沙は大手を振って境内を横切り、縁側の定位置にどかっと座った。遅れて霊夢も魔理沙の横に座る。
「2週間くらい顔を見せなかったじゃない。何してたの?」
「あー、魔法していたぜ。あと素晴らしい羽毛敷布団での仮眠」
「どんな魔法?」
「そりゃロピタルの定理を証明するための――」
「あっそう」
途端に霊夢はそっけなくなる。詮索されたくないときはこの手が一番。
「にしても暑いなー。お茶でも注ぐか」
「私もちょーだい」
「世話の焼ける巫女だぜ」
魔理沙は立ち上がって社務所の台所に入った。食器棚から湯呑みを2つ取り出し、貯めてある水を淹れる。引き出しから麦茶パックを取り出して水に溶かして、魔法で急速に冷やした。考えずとも手足が動くほど動作が染みついてしまった。2人分を用意して持って行く。
「ありがとう魔理沙」
「私がいないと冷えたお茶飲めないな」
「氷売りなんてここまで来ないしね。あんたには毎日お茶だけ淹れに来て欲しいわ」
「高くつくぜ? いろいろと」
霊夢は湯呑を両手で受け取る。魔理沙も並んで腰を下ろした。湯呑越しに麦茶の過剰な冷たさが伝わる。やっぱり冷やす魔法は調整不足。帰ったら試行だな。
澄んだ風が肌を撫でた。魔理沙は肩の力を抜き、涼風に身を晒す。霊夢も同じように身体を反らして目を瞑った。風が運んでくる打ち水の清涼を余すことなく浴びながら、2人で冷たい茶を啜る。汗ばんだ身体を巡る爽やかな涼しさと、カラカラに乾いた喉に流す冷えたお茶。内と外から熱のこもった身体を冷ましていく。2人に言葉はなかった。言葉を交わさずとも、同じ涼を堪能できた。
「そういえば前はどうだったんだ?」 魔理沙は後ろに手をついたまま口を切る。
「前って?」
「吸血鬼の紅霧騒ぎだよ。大丈夫だったのか?」
「別に何ともなかったわよ。人への被害はなかったし」 霊夢は背を直して茶を一口飲む。 「魔理沙は?」
「あの時は慌てるかと思ったぜ。森まで霧が来てさ、周りの草木が残らず枯れていくんだよ。私は家にバリアを張ったから何ともなかったけどな。あーでも当分は里まで買い出ししなきゃいけなかったんだよなぁ。神社は被害なかったのか?」
「霧は届かなかったから平気よ」
「そりゃそうか。吸血鬼はどうした? 死んだって聞いたけど、弾幕ごっこしなかったのか?」
「しなかったわ」
「へー珍しい。私も参戦したかったなー」
「何で?」
魔理沙は茶で唇を潤す。
「そりゃ戦いたかったからだよ。身体が一瞬で治ったり岩をも砕くパワーだったり、吸血鬼の力をお目に掛かれる機会はなかなかないぜ。しかもあの霧を放った張本人なんだろ? あれほど膨大な有毒霧をどんな魔法で生成したのか聞いてみたかったよ」
「あまり面白いものじゃないわよ」
「そりゃお前にとってはなー」
霊夢は魔法に興味がないし、魔法が不要なほどハチャメチャに強い。たとえ吸血鬼でも霊夢にとっては手応えが薄かっただろう。
「それで、吸血鬼はどんな感じだった? どんな魔法使った? やっぱアレ飲むのか?」
「もうやめにしない?」
「そう言うなよー」
「別にいいじゃない」
霊夢は黙りこくって湯呑を腿まで下げる。目が伏せられ、横髪が垂れる。
魔理沙は何となく居心地が悪くなって縁側に寝転んだ。霊夢にしては珍しい反応だった。大抵は悪態をつかれるか呆れられるのに。もしかして気にしているのか? 吸血鬼を殺したことに負い目を感じてたりするのか? 悪いこと聞いたかな。
「今日は氷の妖精をボコッてきたぜ!」 話題を変える。
「あーあの地響きはあんただったのね。よくやるわ」
「あいつらも懲りないよな。何十回も負かしてるのに挑んでくる。私が人間だからって甘く見られているのかね」
「そりゃそうですよ」
霊夢の声じゃない。目の前に黒い羽根が舞い散る。黒の幕から降下してくる、半袖シャツと機能性重視のミニスカート。背の鴉の翼をはためかせながら、射命丸文が満面の笑みで着地した。
「この幻想郷じゃあ人間は食物連鎖の最下層。妖精にさえ搾取される植物プランクトンですから」
「また貧乏神が来たわね」 霊夢は垂れた髪を直す。
「いやぁ巫女様に言われたら立つ瀬ないですね」
「鼻は伸びないのか天狗さんよ」 魔理沙は眉を寄せ起き上がる。
「生憎私の身体はジャーナリズムでできていますので。それより霊夢さん、本日は耳より情報を仕入れてきたんですよ。良いニュースと悪いニュースがあるんですけど、どちらから聞きたいですか?」
「どっちも聞きたかないわよ」
「悪いニュースは?」 魔理沙は首を傾ける。
「あやや失敬! 良いニュースと悪いニュース、どちらも同じ見出しでした。タイトルはこう! 『複雑怪奇なり! 人間連続捕食事件!?』ってね」
「何それ」 霊夢の声音が変わる。
「先日から捕食された人間の死体が何体と見つかっているんですよ。主に森や沢といった人里離れたところでね。食べ方も千差万別で、粗雑に食い散らかしていたり、舐め回して綺麗に骨だけ残っていたり。散発の捕食は珍しくないですが今度のは同時多発です。こんなこと幻想郷創始以来の大スク……大事件ですよ! 我々で周到綿密にルポしたいのは山々なのですが、ただいま職場が立て込んでおりまして。そこで彼の高名な博麗霊夢さんに解明を懇願申し上げたいんですよ」
文は笑みを浮かべながら霊夢ににじり寄る。
「商売あがったりの巫女様には悪い話じゃないと思うんですがね」
「商売がない方がありがたいんだけどね」
「ですが看過はできないでしょう?」
「分かったわ」
その言葉を聞くとパッと文は破顔した。
「では決まりですね! 詳細はこのメモを活用してください!」
ポケットから皮のメモ帳を取り出し、恭しく霊夢の手に乗せる。
「じゃあ霊夢さん。良いご報告をお待ちしておりますよ」
文はそう言い残し、くす玉のように羽根を降らせながら足早に飛び去った。
「あいつ私のことは眼中にないみたいだな。今度弾幕ごっこで吠え面かかせてやろう」
魔理沙は不服そうに口を尖らす。魔理沙の横で霊夢はメモ帳を捲っている。アニメーションでも見えそうな速度で捲っていて、まともに読めているとは思えない。
「それで読めるのか?」
「あーなんとなく」
メモ帳を閉じ立ち上がる。
「じゃあ行ってくるわ」
「まさか私を置いていくのか?」
「邪魔なのよあんた」
「貧乏神はとり憑くものだぜ」
霊夢はしばらく魔理沙を面倒そうに見ていたが、諦めがちに溜息をついた。
「怪我しても面倒見れないからね」
「怪我してなんぼの魔法使いだぜ」
霊夢はそのまま浮遊し、炎天下に飛び立った。魔理沙は箒にまたがり後を追った。