手に入れた七個の宝玉をさらに調べてみたところ、驚くべきことが分かった。
なんとその宝玉には、それぞれに我々刀剣男子に勝るとも劣らないほどの、武人の魂が宿っていたのだった。
さらに驚くべきことに、「榛名」の文字が刻まれた宝玉に宿っている魂は、私のよく知るものだったのである。
私こと数珠丸恒次は、非番で手が空いているとき、尼崎の街をよく散策している。
なぜ尼崎であるかというと、尼崎のさる寺に私の本体となる刀と同じものが安置されているからだ。
まあ、私自身は本体の刀ごと別の時空から送られて来た存在であり、尼崎の寺に安置している刀とは厳密には並行同位体とも呼ばれる別固体となるのだが、それでも自分と同じ存在がこの町にいると思うと、愛着がわいてくるというものだ。
そしてある時、いつものように尼崎の街を散策しているときに、面白いものを見つけたのである。
それは、私の本体が安置されている寺から北西に1Kmほどの場所にある、とある神社に設置されていたのだった。
旗などを掲揚するときに使用する一本のポール。
何の変哲もないポールではあるが、驚くべきことにそのポールには、我々刀剣男子にも劣らぬほどの武人の魂が宿っていたのであった。
一見武器とも思えないこのポールになぜ。
俄然興味がわいてきた私は、その神社の宮司さんにポールについて尋ねてみたところ、そのポールはかつて第二次世界大戦で活躍した、一隻の超弩級戦艦の一部であることが判明したのだった。
その名は「榛名」。 それは神戸の民間造船所で竣工された、日本で最初の純国産超弩級戦艦であった。
1915年4月19日に生まれたその戦艦は純国産の最初の戦艦で、数回の改装を経て長きにわたり活躍することとなる。
そして30年後、引退を間近にしているところで、姉妹艦揃って太平洋戦争に投入されたのであった。
太平洋戦争では、既に空母による航空機動隊が主役になっており、戦艦が活躍できる機会はほとんどなかった。
しかし、その中で榛名を含めた金剛型戦艦は、既に老朽管で沈んでも惜しくないなどの理由で、常に最前線に投入され、かつ、空母に付いていけるように魔改造されていたため、戦艦の中で唯一活躍できたのであった。
その中でも榛名の挙げた戦果は頭一つ抜けており、日本戦艦最高武勲艦と呼ぶにふさわしいものだったのである。
1942年3月には金剛らとともにクリスマス島を砲撃してこれを陥落。
同年8月には金剛とともに、この戦いの最大の障害、ヘンダーソン飛行場の砲撃に成功。
これらの成果は日本の戦艦が挙げた武功としては、飛びぬけて輝かしい武勲である。
しかし、度重なる戦いの中で、榛名は徐々に傷ついていったのである。
「ミッドウェー海戦」では敵空母から発艦してきた敵機動部隊から至近弾を受け、「第三次ソロモン海戦」では姉妹艦の「比叡」と「霧島」を喪失。
「マリアナ沖海戦」では、250kg爆弾の直撃で推進器軸を支えるスクリューブラケットが激しく損傷。 最高速で走れなくなってしまう。
そして、「レイテ沖海戦」では、唯一生き残っていた姉妹艦、「金剛」が沈没してしまう。
最後は燃料もなくなり、呉で浮き砲台としてアメリカ軍の空襲に抵抗し、大破着底した状態で終戦を迎えるのである。
こうして榛名は戦後引き上げられ、解体されて戦後復興のための資材として最期を迎えるのである。
日本で最も多くの海戦に参加し、戦後復興にまで貢献したことで日本戦艦の最高武勲艦として称される超弩級戦艦榛名。 その一部が、尼崎の片隅にある神社に置かれたポールの正体であった。
宮司さんから聞かされたその戦い、その生きざまは、刀剣男子である私の目からしても、非常に大きな驚きと感銘を覚えたものであった。
私の知らない世界でこのような戦いがあったとは・・・。
このような経緯で、ポールに宿った「榛名」の魂の色は、私の記憶に深く刻み込まれたのであった。
そう、「榛名」の文字が刻まれた宝玉に宿っている魂は、まさしく記憶に刻まれた超弩級戦艦「榛名」の魂と同じものだったのである。
そして思い出す。 かつて「深海棲艦」と戦っていた「艦娘」と呼ばれた者たちは、第二次世界大戦で活躍した艦艇たちが生まれ変わったものだといわれていたことを。
このことから推測できることは、この宝玉は「艦娘」と呼ばれる存在に何らかの関わりがあるだろうということ。
そして、おそらくこの宝玉は、彼女たちにとって非常に重要なアイテムではないかということに思い至る。
もしかしたら、「艦娘」たちに急に勢いがなくなった原因はこの宝玉にあるのかもしれない。
もしその推測通りなら、この宝玉は早急に「艦娘」たち、もしくはその関係者に渡さなければならないだろう。
そう思った私は、急遽七個の宝玉を携えて向かったのであった。 「榛名」の生まれた場所、神戸港へ。