ちょっとしたきっかけで、喜多郁代と付き合うようになった。けれど、俺は嘘をついてしまった。

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第1話

 博多ラーメンの麺バリカタを食いながらスマホをいじると、結束バンドの情報が出てきた。

 出てきたっていうか俺が自分で検索した。検索するとすぐに何でも出てくるんだから今の時代はすごい。

 俺の名前も検索するとすぐ出てくるんだろうかってやってみたがそんなものは何も出てこない。俺は何も世の中に残していないから。

 結束バンドのライブは、今夜で、街の小さなライブハウスだった。

 彼女らが根城にしているのは別のライブハウスだが、ほかにもいくつかに出演している。別に対して売れてるわけでもないが、それでもたいしたもんだ。

 俺は、ラーメンを食べ終えると、「ごっそさん」と言って立ち上がった。

 つい昔から、食べ終えるとごっそさんと言ってしまう。そういうのわざわざ言うのはダサいっていう友達もいるが、まぁ癖なんだ、しょうがない。

 店の外に出ると、外の空気は寒かった。

 秋の空気だ。もうすぐ、大学2年生の秋が終わる。

 この年は激動だった。俺は、喜多郁代って子と付き合って、そして別れた。その子は今、例の結束バンドってバンドでギターとヴォーカルをやっている。

 あの子の唇にキスはできなかった。俺がキスしなかった唇が、歌を歌う。歌を歌うと、言葉が宙に舞う。宙に舞う言葉は、誰かの胸に刺さるのだろうか。

 俺は舌打ちをした。どうしてこうなったんだ。こうなった理由が知りたい。理由はわかるようでわからない。俺は俺なりに精いっぱいやったはずなのに、何かがうまくいかなかったんだ。

 それは、ねじ回しとねじの大きさが微妙に合わなかったようなものだ。俺はねじを回そうとした。しかしねじは回らなかった。ジエンド。そういうことだ。

 

 

 俺と喜多郁代が出会ったのは、郊外のちょっとしたカフェだった。

その日俺は演劇のオーディションの帰りで、どうせ今回もうまくいかなかったから、むしゃくしゃしていた。

 金はあまりなかったけど、なんだか金を使いたくなって、普段立ち寄るようなタリーズだとかドトールだとかよりも高いカフェに入った。

 そこで喜多郁代と出会った。彼女は、高校一年生。春のことだから、まだ入学して間もなく、初々しかった。

 知り合いでもない俺と彼女が会話をするようになったきっかけは単純だ。目が合ったからだ。俺は彼女をなんとなく見つめていたし、彼女と彼女の友達も、俺をちらちらと見つめていた。

 その時俺は、カエターノ・ヴェローゾを聞きながらイタロ・カルヴィーノの短編集を読んでいた。

 読む行為にほとんど意味はない。別に頭に入ってくるわけでもないが、カルヴィーノぐらい読んでおかなきゃとなんとなく思っていただけだ。読んでおかなきゃならない理由なんて本当は何もないのだが。

 多分、演劇の足しにでもなると思っていたのだろう。俺は、大学に通う傍ら、舞台劇に熱中していた。まだ役は取れていなかったが、いつか大きなや役を取りたかった。

 彼女とその友達が俺をチラ見している理由はわかりやすかった。俺が彼女たちにとって、程よく大人で程よく格好よく見えたからだ。そういう推測は難しくない。

 俺は、ルックスにはそこそこ自信があったし、大学生の自由な雰囲気は、高校生ぐらいの女の子には少し背伸びした好奇心を刺激する。こういうのはよくあるパターンだ。

 で、俺はそのパターンに忠実に、彼女たちをさりげなく見つめ返したり、逆に興味なさげに本に目をやったりした。

 やがて、彼女たちはその手に持っていた甘いカプチーノフラッペを飲み干し、ごみを捨てるついでに俺のそばによって、問いかけてきた。

 

「あの、難しそうな本読んでますね」

 

 俺はイヤホンを話し「そう? 別に難しくはないよ」と言った。

 

「なんて本ですか?」

「見えない都市」

 

 タイトルを見せる。

 タイトルすら見えてなかったのに、難しそうというのだから、彼女たちの言葉は、単なる符牒に過ぎない。俺もそれをわかっていて、彼女たちと戯れる。

 

「なんだかすごそう」

「そんなことはないけどね」

 

 おどけて言うと、彼女らは笑った。

 

「あの、先週は、青山通りのタリーズにいましたよね」

 

 もう彼女らは、向かいの席に腰かけていた。

 あぁ、そうだったかな。そうかもしれない。先週も別にやることがなくてふらついていたから。

 

「あそこに君たちもいたの?」

「はい、なんかかっこいい人がいる~ってみんなで話題にしてたんです」

「へぇ」

 

 君たちも可愛いじゃん、と言いそうになって、そこまで言うとキザたらしいような気もして言うのをやめた。

 その時、空の雲行きが怪しくなって、小雨が降りだした。

 

「わっ、これ、本降りになるかも」

「帰った方がいいんじゃないか?」

 

 俺が大人っぽい余裕を作って見せると、少女たちはうなづいてから、意を決したように連絡先の交換を申し出る。

 俺はもちろん交換した。

 少女たちが帰って行ってから、雨は本降りになり、俺はそのままカルヴィーノを読んでいたけれど、ちっとも頭に入らなかった。そもそも俺は、イタリアの文学小説が読めるほど頭がよくはないのだ。

 

 

 その日の夜には、少女たちとメッセージのやり取りをして、翌週には、二人の少女たちの片方、喜多郁代と付き合うことになった。理由は単純だ。顔が良かったから。さらに言えば、俺よりも頭が空っぽそうだったからだ。

 大学は居心地がいいとは言えない。

 実家にいるのが嫌で、都心の大学に入ったが、地方出身の俺は何となく居心地が悪い。結果、アルバイトと、演劇にばかり精を出していた。

 あとは酒。なんとなく飲んでしまう。飲んでる間は陽気になる。その時限りの友達だってできる。友達の一人が言っていた。

 

「馬鹿、陽気になるんじゃなくてさ、正気になるんだよ。飲んでる間だけ正気になるんだ」

 

 ふぅん、そういう考え方もあるのか。

 あれはどこに酒屋だったか。渋谷のはずれの小汚い居酒屋だったかもしれない。

 真剣に演劇をやってるやつの中には、酒なんか飲まないやつもいる。そんなもの飲んでたら、顔だってむくむし、思考力が落ちるぜって、その通りかもしれない。

 だが俺は、そこまでストイックにはなれない。

 何者かになりたい。自分の中にある才能のひとかけらを開花させたいと思いつつ、努力をする気力がない。持って生まれた、そこそこモテる顔に胡坐をかいている。この顔があるから、まぁいいやと。

 そういう意味では、喜多郁代は、少し俺と似たタイプだと思うし、まだ高校生で頭もあまりよくなくて、何よりも彼女にとってやりたいことなんて何もなさそうだ。

 いうなれば、俺の下位互換で、俺にとっては心地よい存在。

 俺は彼女を連れまわす。俺が何をしても、彼女は無邪気にすごいという。まるでBOTかお人形だ。でもそれでいい。俺の頭脳の処理は、そういう気楽な存在を求めてる。俺は俺なりに楽しいし、郁代を愛しているんだ。

 俺はわざと郁代の前でこ難しい本を読む。ポール・オースターを読んで、ロラン・バルトを読んで、柄谷行人を読む。でも何も頭に入ってはこない。

 彼女はそんな俺を褒めてくれる。そして、彼女がおずおずと差し出してくる、ありふれた少女漫画を受け取る。

 

「私、こういうのしか読んでなくて。でも面白いの」

 

 正直、家に帰ってその少女漫画を読んだら、カルヴィーノよりもバルトよりも、よっぽど面白い。

 でも、そのことは言わない。

 俺は、郁代の前で、聞きかじりの演劇論を語り、現代美術展に彼女を連れていく。なんとなくの雰囲気で彼女を圧倒する。

 

「恋愛なんて、相手をどう圧倒するかなんだよ」

 

 これもどこかの居酒屋で聞いた言葉だ。いや、もしかしたら大学の学食でこれ見よがしな男が語っていた武勇伝の一つだったかもしれない。 

 でもまぁ、真実だ。俺は郁代を圧倒し、快楽を得ている。

 

 

 郁代との恋愛が心地よく進行している一方で、演劇のほうはどうにもならなかった。もう大学2年生の俺には、緩やかな焦りがあった。来年になれば、就活が始まりだす。忙しくなってくる。そうなれば、どちらにも身が入らなくなるのが目に見えている。

 そろそろ、なにかいい役を射止めたかった。もちろん、小さなアングラ劇場に出入りすれば、ちょっとした役なんかはすぐに取れるだろう。でも、それでは郁代を圧倒できない。

 今の俺は、何物でもないチャレンジャーであることで、彼女に対してミステリアスな魅力を発揮できている。

 しかし、何かしら小さな答えを見せてしまうと、その魅力は崩壊するような気がする。

 そんなことを考えてばかりいるうちに、タバコを吸う本数が増えた。アパートに帰ると、一人きりで、ケニー・バレルを聞くことが増えた。ケニー・バレルのざくざくとしたギターの音は、俺の心を癒してくれる。いや、寄り添ってくれる……ような気がする。

 

 

 俺が、ケニー・バレルのギターのことを話すと、郁代は目を輝かせた。珍しいなと思った。よくわからないけどすごいね、じゃなくて、具体的に興味ありげな表情をするなんて。この子はそういう表情を、スィーツか映えエスポットにしか向けないと思っていた。

 問いかけると、実は最近、ロックに興味があるんだと言う。「へぇ」と俺は答えた。

 

「ケニー・バレルはロックじゃないけどね」

 

 俺がそう言うと、郁代は首をかしげる。そんな仕草に俺はちょっとした優越感を感じる。

 

「で、なにかきっかけがあったの?」

 

 その問いかけへの答えは「あなたがいつもロックとか音楽を聞かせてくれるから」だろうと思っていた。

 けれど違った。

 郁代は、ストリートで演奏しているミュージシャンに聞き惚れたんだという。

 ぎょっとしたが、そいつが女だと知ってホッとした。山田リョウなんて名前だから、男かと思った。

 自宅に帰ってから、ノートパソコンを立ち上げてネット検索して音源を探すと、そいつが以前いたバンドのが見つかった。悪くない感じだった。ふぅん。ま、俺と同じようなワナビーだな。こういうのって、ちょっと上手くても、デビューなんてできないもんなんだ。

 俺はネットのページを閉じる。

 ケニー・バレルのほうがずっといいよ。ってかケニー・バレルが分かる奴なんて俺ぐらいだろ、少なくとも俺の周辺では。そうつぶやいて、缶ビールのプルタブを開けた。

 

 

 郁代が謎の行動力を発揮したのはその直後だった。

 例の山田リョウのバンドに入ると言い出したのだ。

 俺は面食らって、言葉が出なかった。

 

「え、どういうこと?」

 

 やっとつぶやいた言葉がそれだ。

 お前、楽器なんかできないよな?

 

「実はもう、ギターができるって嘘をついて、バンドに入れてもらっちゃったの」

 

 郁代が、困ったように告白する。

 嘘だろおい。

 

「お願い!一緒にギターを買いに行ってほしいの!」

 

 父親から小遣いを前借りまでしたという。

 俺は、断り切れなくてうなづいた。

 

 

 晴れた日曜日の午後、すがすがしい光が射す通りを二人で歩きながら、俺は嫌な想像をしていた。

 それは、山田リョウのバンドに入った郁代が、あっという間に人気者になっていく想像だ。

 山田リョウのベースは、割と上手かった。それに前のバンドの実績もある。郁代は素人だけど、顔が良いからフロントマンには向いているし、声だってかわいい。ギターも、練習すればうまくなるかもしれない。そうなれば、俺が彼女に対して持てる優位性はどうなる? 

 俺は、息が詰まりそうになった。そんなことを理解しない郁代は終始楽しそうにはしゃいでいて、楽器屋につくまでに、路面店で甘ったるいチョコレートジュースを買ったりしていた。俺はとてもそれを一緒に飲む気分にはなれなかった。

 やがてお目当ての楽器店についた。

 目移りするような楽器の数々が並んでいる。

 

「わぁ、素敵ね」

 

 郁代が無邪気にキラキラした声を上げる。

 いくつかの楽器を見て回る。値段はピンキリだし、本当に種類が多い。どれか一つ選ぶのはなかなか大変だ。かといって、試し弾きはできない。彼女は、全くの初心者だからだ。

 こういう時、普通は安いのをとりあえず買うか、友達からいらないのを譲ってもらったりとかでもいいと思うんだけど……。

 そんなことを考えていると、郁代が、ひとつの楽器に目をとめた。

 

「これ! すっごく可愛いわ!」

 

 目を輝かせる。色合いや形が気に入ったようだ。それはよく見ると、ベースだった。6弦ベースだ。ギターじゃない。

 でも、郁代は気が付いていないみたいだ。

 俺は……言わなかった。それはベースだよ、と、言わなかった。

 

「でも、ちょっと高いかも、前借りしたお小遣い全部なくなっちゃうわ」

 

 と悩む彼女を、後押しさえした。

 

「こういう時、気に入ったのを買うべきだと思うよ。でないと、後で後悔するから」

「ありがとう!」

 

 他人を疑わない表情でほほ笑んで、郁代はそのベースを買った。

 俺は、後ろめたさに息が詰まりそうだった。

 

 帰りに、二人でファミレスに寄った。そこで食べたチキンステーキのディアボロ風ソース和えは、味を覚えていない。

 

 

 俺が指摘しなかったせいでベースを買ってしまった郁代の練習は、当たり前だが、はかどらなかった。いくら弾いても良い音が出ないと悩む 彼女に、俺はしらばっくれ続けた。

 やがて、バンドに嘘をつき続けられなくなった彼女は、逃げ出した。

 俺はホッとした。

 これでもう、バンドの連中とは縁が切れるだろう。俺と郁代の、小さな平和な世界が、侵されなくて済む。俺のついた嘘だって、バンドの連中に合わなければバレることはないだろう。

 

 ※

 

 でもそれは、甘い考えだった。

 数週間後、郁代は、バンドに復帰した。

 同じ学校の女の子の力添えがあったらしい。詳細は知らない。聞いたかもしれないが、頭に入ってこなかった。

 

 

 いずれにせよ、一緒に買いに行った楽器がギターではなかったことはバレてしまったわけだが、彼女はそのことを咎めなかった。

 まるで、俺が本当に気が付いていなかったと信じ言っているような笑顔で「あんなにそっくりだと、勘違いするわよね」と言ってくれた。

 俺は、その笑顔が少し怖かった。本当は、俺がわざと黙っていたと気がついているとしたら? 

 彼女は、もう俺を見下しているのかもしれない。……いや、違う。

もっと怖いのは、彼女が、本当に心の底から無邪気で善良で、何一つ俺を疑っていないであろう可能性だ。

 もしそうだとしたら、俺は、魂の純粋さで、彼女からとっくに突き放されている。

 

 ※

 

 もう俺に残されている希望は、二つだけだった。なんとか、演劇で自分にふさわしい役を取り、あるべき自分を演出すること。それから、郁代のバンドが、案外大したことがないという可能性。

 

 その希望が二つともうち砕かれたのは、夏の終り頃だった。

 

 

 俺が受けた舞台のオーディションは、ものの見事に審査落ちの通知が来た。

 箸にも棒にもかからない、一次審査落ちだった。

 審査落ちの通知を受け取った日の夕刻。

 いつも清掃のバイトをしている雑居ビルのトイレで、唐突な吐き気がしてきたので、トイレに駆け込んだ。

 嘔吐し、ペットボトルの水で口をゆすいで、洗面所の鏡で自分の顔を見た。

 ひどい顔だった。

 不自然にやせ、目にクマができている。肌はどこかかさついていて、覇気がない。焦りとストレスと金欠で、深夜にカップ麺ばかり食べていたからだろうか。あるいは、酒かたばこの影響か。

 憂鬱な病人役ならばお似合いかもしれないが、こんな顔で、主人公役なんて射止められるわけがない。俺は、いつの間にかたった一つのとりえである自分の顔まで、損なっていたのだ。

 その時、携帯にメッセージが来た。郁代からだった。彼女のバンドのちょっとしたライブへのお誘いだった。これまで何度か誘われていたが、ずっと適当に理由をつけて断ってきた。

 彼女との付き合いは、まだ続いていた。俺は、そのことが怖かった。けれど、その日の俺は、何かが吹っ切れていた。オーディションに落ちたこと、自分の顔が、衰えてしまったこと。今、現実を認知したことが、心のタガを外していた。

 俺は、「今から見に行くよ」とメッセージを送る。郁代は、すごくうれしそうに小さな花の咲いたスタンプを交えて返事をしてきた。

 

 ※

 

 ライブ会場は、下北沢の小規模なライブハウスだった。

 以前から郁代は、あまりお客さんはいないと言っていた。ならば、さほど評価されていないのだろう。俺は、心の奥で、そう強く思った。それは願望のようなものだった。

 まだ、大丈夫だ。まだ、俺は、郁代の優位に立てる。

 彼女に、見捨てられるわけがない。

 

 地下に通じる細い階段を下り、ネオンライトきらめく看板の下の扉を開く。

 ちょうど対バン相手が終わり、郁代たちのバンドの出番になったところだった。

 お客は、少ない。せいぜい10人もいない。

 俺は少しほっとした。呼吸が楽になる。

 郁代が、俺に気づき、小さく微笑んだ。

 その微笑は驚くほど愛らしく、俺は、性的な欲望を感じすらした。

 今夜、ライブが終わったら、キスがしたい。あまり上手くできなかったライブのことを慰め、唇を奪いたい。

 そんなことを考えてたら。

 ギターのフィードバック音が始まり、やがてそれが収束していくと、はっと目が覚めるようなドラムが、鳴り響いた。心臓に直接、届いてくるような、重量の低音。それが、うねるようなビートになり、リズムを刻む。手数が多く、グルーヴ感がある。

 やがてベース音が加わった。絡みつくようなベースラインも見事しか言いようがない。あれが山田リョウなのか? 表情一つ変えずに淡々と弾く指先から、強烈なほどにファンキーなラインが生み出されていく。

 そして、ギター。俺の好きなケニー・バレルとは全く違う、けれどどこか重みがあって攻撃性や爆発性、それなのに、深い抑圧がある。抑圧のベールをがむしゃらに剥ぎ取りたいと苦しんで喘いでいるようなような、魂の叫びのようなギター。生きているギターの音。それは、イヤホンなんかで聴く音楽とは、根本から違う音の体験だ。

 俺は、息をのんだ。息をのんだ瞬間、郁代が歌った。

 甘く柔らかいのに、芯があって、とても美しい歌声。そこには、ちゃんと感情が潜んでいる。あふれだしそうな感情が、言葉に乗って、メロディになって、紡がれていく。生きている生身の熱が、ぐんぐんとほとばしっている。

 俺は、しゃがみ込みそうになってしまった。勘違いしていた。ずっと。郁代は、人形なんかじゃない。ただ顔が可愛いだけの、何の感情も持たない、薄っぺらな存在なんかじゃない。

 薄っぺらい、人形みたいな人間は、俺の方だったんだ。

 

 最後まで、ライブを聞いていることなんて、とてもできなかった。

1曲目が終わると、俺は、ドリンクチケットで買ったビールを飲み干し、その場を後にした。

 

 

 アパートに帰る気にもならず、騒がしい街の通りで、缶チューハイを飲んだ。

 俺は今どこにいるんだろう?と思った。

 携帯が鳴った。

 郁代からだった。

 せっかく見に来てくれたのに、どこに行ったの?と彼女は問いかけてきた。今から打ち上げだから、来てほしい、と。

 俺は断った。

 電話を切ってからすぐに、「別れよう」とメッセージを打った。

 そのあと郁代からたくさんのメッセージが来たが、すべて無視して、ブロックをした。

 

 アパートに帰ると、ようやく現実味が戻ってきた。薄汚れた俺の部屋。都心に暮らしていたって、安アパートの狭い部屋には、何のきらめきも本当は存在しない。

 無意味に買っただけの文学書と演劇論とシナリオブック。カッコをつけて壁に立てかけた、ケニー・バレルのLPレコード。

 すべてが偽物だ。

 そういうキャラクターを作り上げるための、がらんどうの虚構。

 俺は、郁代に、およびもしない人間だった。

 もしかしたら最初からずっとそうだったのかもしれない。憐憫を受けていたのは、俺の方だったのかも、知れない。

 敗北。そんな2文字が、頭の中を駆け巡る。

 「別れよう」と、メッセージを打ったのは、正解だった。

 これで俺は、負けていない。

 彼女から振ったのではなく、俺からあの女を振ったのだから。

 

「は、はは……」

 

 乾いた笑いを漏らしながら、深夜二時まで、酒を飲み続けた。

 

 ※

 

 それから、一月ほど経った時のことだ。

 晩飯のラーメンを食べた後、通りをぶらぶらと歩いていると、女に声をかけられた。

 

「あれ、郁代の彼氏じゃん」

「え?」

 

 驚いて女の方を見る。金髪の、眼付きの悪い女だった。俺よりも少し年上だろうか?

 

「ほら、覚えてないかな? 前にライブハウスに来てくれたでしょ。私そこの店長やってるんだよね。あんときは受付やってたんだけど」

「あ、あぁ、なるほど」

 

 声が乾いていく。

 

「郁代さ、あんたのこと探してたよ。ずっと」

「あ、それは……」

「連絡、取ってないんでしょ」

「いや、その……」

 

 あいまいに、言葉を濁す俺。

 そんな俺を見て、女はため息をついた。

 

「ちょっと、そこ。付き合いなよ」

 

 女が、近くのカフェを指さした。

 

 

 女は、意外に親切だった。

 郁代がこの一か月悩んでいたこと、郁代は怒ってないと思う、というようなことを伝えてくれた。

 でも、俺は、的確な言葉を返せなかった。

 

「ねぇ、あんたさぁ」

 

 女が、再びため息をついた。俺は身構える。何か、怒鳴りつけられるだろうか。

 しかし、投げかけられたのは、まったく予想外の言葉だった。

 

「無理をする必要はないよ」

 

 俺は、思わず顔を上げた。

 

「アンタさ、自分を追い込んで、つぶれそうになってるような顔してる」

「う、ぁ」

 

 俺は、小さくうなる。

 

「一応さ、あーいうお店の店長やってるとアンタみたいなタイプの子、よく見かけるのよ」

 

 俺は、泣いた。

 他人にはっきり言われて、ようやく、認めることができた。

 俺は、よくいるタイプ。

 この街に、よくいるタイプの一人でしかないんだ。

 

 自分のことを、そう認め、ありったけの涙を流すと、肩の重みが楽になったような気がした。

 

 唐突に泣き出した大学生の男を、周囲の客は奇異な目で見ていたかもしれない。きっとそうだろう。しかし、女は、俺が泣き止むまで黙って待っていてくれた。

 

「まだ誰でもないんだから。これから自分らしく自分を作ってけばいんだって」

 

 ようやく泣き止んだ頃に、女が軽い感じでそう言った。

 俺は、涙でべちゃべちゃの顔で、うなづいた。

 

 

 別れ際に女が問いかけてきた。

 

「でさ、郁代のこと、どうすんの?」

 

 俺は、何とか言葉を絞り出した。

 

「やっぱ、その。続けては、いけないと思います」

「そっか」

 

 女が苦笑いした。

 

「ま、しゃーないな。いい子だと思うけどね」

「それは、わかってます、いや、やっとわかりました」

「後で悔しがるなよ~」

「はい」

 

 女が、俺の背中を叩いた。

 

「ま、適当にがんばれ。返事だけは、ちゃんとしてやれよ? ブロックはすんな」

 

 そう言って、カフェの会計伝票を取り上げて行った。

 

 ※

 

 その日の夜、俺は郁代に連絡した。どう語るべきか迷った。迷いに迷ったけど、結局、はっきりとした言葉は言えなかった。

 郁代が悪いわけじゃないということだけは、真剣に伝え、そして俺たちは、正式に分かれた。

 他人同士になった。

 

 

 それから俺は、酒を飲むことをやめた。頭に入ってこない文学書をがむしゃらに読むこともやめた。

 自分自身を見定め、一歩づつ、できることを増やしていく。

 それを改めて目標に定めなおした。

 すぐには上手くはいかなかった。

 どうやら俺は、心が弱いみたいで、ちょっとしたストレスがあると、酒が飲みたくなってしまう。

 それでも、何とか少しづつ、本数を減らしていく。

 体を鍛えなおし、演劇の勉強を、基礎からやり直す。

 翌年には、小さな役がとれるようになってきた。

 大学3年生。

 遊んでばかりいたから、就職もおぼつかないし、なに一つ成し遂げられてはいない。

 しかし、地に足がついている、実感が生まれ始めた。

 

 ※※※

 

 地方の劇場の控室は、小さくて薄暗く、人いきれで息が詰まりそうだ。それでも俺は、自分を鼓舞するように、頬をはたいた。地下室に、音が響き、隣の席に座っている藤沢さんが俺を見た。

 

「どうした、気合入ってるじゃないか」

「チェーホフは初めてなんで、緊張して」

「まぁ、誰だってそうさ。初めてやる台本の時はね」

 

 すでにベテランの域に達している藤沢さんは、大人らしい余裕の表情を見せる。

 あれから、7年が経った。

 俺は地方の企業に就職し、働きながら演劇を続けている。小さな劇団だが、それなりのやりがいはあるし、今はそれが生きがいになっている。

 

「じゃ、俺は先に行くから」

 

 藤沢さんが席を立った。他の人々も、控室を出ていく。すぐ行くから、と、答えて、俺は、鏡を見た。相変わらず、表情は少し不安げで、これが本当の俺の顔なんだと、実感する。しかし、あの頃のように病的ではない。

 

「やれる、やれる、やれる」

 

 俺はつぶやき、、もう一度自分の頬をはたいた。

 よしっ。

 気合が入った。

 ワーニャ叔父さんのアーストロフは難しい役どころだが、やるしかない。

 立ち上がる。

 あれから、郁代とは一度も会ってはいないけれど、結束バンドの活躍は今も続いているし、実はずっと音源を聞き続けている。俺の携帯の音楽ファイルは、郁代の歌声ばかりだ。

 

「ようやく俺も、自分の役が持てたよ」

 

 そう呟いて、俺は控室を後にする。

 

 ※

 

 開幕のブザーが鳴り響く。暗幕が開き、照明のきらめきが俺の瞳を射した。俺はゆっくりと、深呼吸をした。

 

 

 

 

 

 









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