繰り返し見る不気味な夢、頭に響くノイズに悩まされながらも、静かに日々を過ごしていた。
しかし、謎の怪物に襲われ命の危機に瀕した瞬間、彼女の左腕は“異形”へと変貌し、日常は静かに壊れていく。
――運命を変えたいなら、神浜市に来て
――私は、人間なの?
――その子は魔女よ!! 魔法少女じゃない!! その腕とが何よりの証明でしょ!!
――ソウルジェムが、ない?
――ドッペルも使っていないのに魔女化しない!?
――何この生物、アリナの作品の材料にピッタリなんですケド!!
――契約していないのになぜ君は魔法少女の力を使えるんだい?
生きて、証明しろ。
立ち止まらず、歩み続けろ。
たとえ道が、呪いで彩られていたとしても。
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現在執筆中の小説になります。
ある程度形になってきたので序盤だけ投稿します。
もし、時間あれば目を通して感想などいただければ幸いです。
お見苦しい個所もあるかもしれませんが、読んでいただけますと幸いです。
どろり、とした液体を踏みしめる音が響く。
白く、淡い靄(もや)がかかった空間。天も地も曖昧なその場所に、黒い影が蠢(うごめ)いていた。
まるで人の絶望をすべて詰め込んだような、怪物。
怪物はひときわ大きく、禍々しい翼のようなものを背に持ち、世にもっと絶望や苦しみを撒き散らすように瘴気を振りまきながら笑っていた。
けれど、その笑いはすぐに掻き消えた。
鈍い音とともに、何かが地を踏みしめる。
現れたのは、白い服を纏(まと)ったひとりの女だった。
──いや、女というにはあまりにも大きすぎた。
黒いローブのようなものを身にまとい、全身から靄のようなものを絶え間なく放っている。
その手にはランタンのような光があり、どこか幻想的な雰囲気を漂わせていた。
女と怪物、ふたつの存在が向き合う。
突如として、女の左腕が崩れはじめた。
崩れた右腕から、蛇のような触手が覗く。
そこからは、一瞬の出来事だった。
触手はまるで一本一本に意思があるかのように怪物に襲いかかり、喰らいはじめる。
肉や骨を砕く嫌な音が、空間に響いた。
怪物は、なすすべもなく、女に喰われていく。
そして、その味は――
(……味?)
(私が、食べているのは……?)
その答えに行きつく前に、視点が変わる。
女が私に向かって微笑んでいた。
顔…といってよいのかは分からないが不思議とそれが顔で微笑んでいるのだと認識できた。
ついさっき、あれほど恐ろしい存在を一瞬で喰らったというのに。
理由は分からない。けれど、あたたかくて、懐かしくて――
その腕が、私の頬に触れる。
どす黒くて、醜いはずのその手が、優しくて……
「…………」
(待って、なんて言ったの?)
「――待って!!……」
◆◆◆◆◆◆
蓮見日和は、汗ばんだ身体でベッドから飛び起きた。
朝の光が、少しだけ冷たく感じられた。
夢の残滓が、まだ頭の奥にこびりついていた。
日和は乱れた呼吸を整えながら、布団をめくって起き上がる。
「……また、あの夢」
靄の中、得体の知れない怪物を喰らう女。
その視点で見る夢は、物心がついたころから何度も何度も見てきた。
はじめは怖かったけれど、回数を重ねるごとに、どこか当たり前のような感覚に変わっていった。
――まるで、自分自身の記憶のように。
夢の続きを見たくないわけじゃない。むしろ見たいとすら思う。
そうすれば大切な『何か』が分かる気がして…。
ただ、いつもあの場面で目が覚めてしまう。
それを何度も繰り返すうちに早起きが習慣になってしまっていた。
窓の外は、まだ薄暗い。
だけど日和はゆっくりと布団から抜け出し、制服に着替え始めた。
幸いなことに児童養護施設のこの部屋には、彼女しかいない。
本来なら四人で使うことになっているけれど、十二歳の彼女は最年長で、生活態度も真面目だったから、特例として一人部屋になった。
……それに、「夜中に騒がないから」というのも理由のひとつだろう。
手が掛からないから一人で生活させても大丈夫と判断されている。
信頼されていると思えば嬉しいが、少し寂しさのようなものも感じる。
けれどもありがたい部分もあるのは事実だ。
誰にも言うことができていないが、小学校高学年になってから夜中にあの夢のせいでうなされ、声を上げることがあった。
少し寂しさを感じるが、誰にも気を遣わせないために、一人でいた方がよかった。
学校指定の制服へ着替えて、部屋の前の水道場で顔を洗い、髪を整える。
夢から覚めてからの一連の作業は一人でずっと繰り返してきたため、もう体に染み付いてしまっている。
年少の子供に対しては職員さんが一緒に身だしなみの整え方を教えてくれるが、日和は一度教えてもらっただけで覚えてしまった。職員さんの手を煩わせたくない一心だったが…
(やっぱりちょっと…寂しい…かな)
食堂へ行くと、朝早く目を覚ます日和に合わせて、夜のうちに調理員さんが朝食を冷蔵庫に用意してくれていた。
何度も早くに目を覚ますせいで、顔を覚えられてしまったのだ。
申し訳ないが、同時にありがたくも思う。
『日和ちゃんは早起きさんだね〜』と言われるたびに、少し情けない気持ちになる。
夢のせいで目が覚めているだけで、全然早起きというわけでもないのだ。申し訳なさすら感じる時がある。
暗い気持ちをなんとか抑え込み、電子レンジで食事を温める。
今日の朝食はパンと目玉焼き、それからキャベツの千切り。
定番だけど、栄養のバランスは多分いいはず。
目玉焼きには職員さんが既に調味料をかけてくれているようだ。
「……いただきます」
小さく手を合わせて、目玉焼きを口に入れる。
……と、その瞬間、夢の中の“味”がよみがえりかけた。
骨の砕ける感触。
血の匂いと、臓物の舌触り。
熱を帯びた、ねっとりとした肉の味。
まるで、人の涙と血液で味付けされたような――
(なんで私、あんな味を知ってるの?)
口の中に広がる卵にかかった砂糖の甘さが、かえって夢で体験したあの味を思い出させる。
けれど、顔には出さないし、出せない。
作ってくれた人に申し訳ない。
「……おいしい」
強がりとして少しだけ作り笑いを浮かべながら、なんとか卵をパンと一緒に呑み込んだ。
それと同時にお腹の中に食べ物が入った感触が出てくる。
夢の中で食したあの塊の感触が。
なのに、その感触に慣れ始めている自分がいることに日和は少しだけショックを受けた。
まるで、人間じゃないみたいで。
けれども、誰にも気づかれたくない。
誰にも心配されたくない。
誰にも、迷惑をかけたくない。
「普通」で、いなくてはいけない。
これが日和の一日の始まりだった。
◆◆◆◆◆◆
しばらくして、施設の子どもたちが一人、また一人と食堂にやってきた。
日和より小さな子ばかりだけれど、皆、元気に「おはよう」と声をかけてくれる。
日和も作り笑いではなく、自然な笑みで「おはよう」と返した。
にぎやかになっていく食堂の中で、ふと、日和は自分がここにいる理由を思い出す。
──物心ついた時には、いや、赤ん坊の頃から、日和には“親”という存在がいなかった。
私を見つけてくれた看護師によると、日和はかつて大量失踪事件のあった病棟の跡地に、布にくるまれた状態で置かれていたらしい。
病院の改築に伴って、備品の確認に来た看護師が、偶然見つけてくれたのだ。
日和がその話を初めて聞かされたのは、小学四年生のときだった。
身元を示すものは何一つなく、どこから来たのか、誰の子なのかも分からなかった。
捨て子なのか、あるいは何か事情があるのか──病院の人たちは戸惑い、どう扱えばいいかで困り果てたという。
結局、日和はDNA検査を受けることになった。
病院や警察のデータベースと照合すれば、もしかしたら親が分かるかもしれない、と医師が提案してくれたそうだ。
そして──該当者は、いた。
だが、その人物はすでに故人だった。
より正確に言うと死亡扱いとなった女性というべきか。
かつて妊婦として入院していたが、例の失踪事件の際に姿を消し、そのまま戻らなかったらしい。
行方不明者は七年経てば法的に死亡とされる。
「死んだはずの人間の子どもが、なぜ今ここにいるのか?」
「行方不明者は生きていたのか?」
様々な憶測が飛び交い、ニュースにもなったらしい。
けれど、赤ん坊だった日和にはその記憶は一切ない。
警察も調査を進めようとしたが、建物はすでに取り壊される寸前で、証拠となるものは残っていなかった。
何より、唯一の『目撃者』が赤ん坊である日和では、どうしようもなかったのだろう。
やがて世間の関心から事件は外れ、風化していった。
そして──日和の引き取り手も現れなかった。
正確には、『引き取りたい人がいなかった』のではなく、両親に親族がまったくいなかったのだ。
父とされる人物も、母とされる人物も、それぞれ一人っ子。
祖父母たちも、二人の失踪後に心労で亡くなっていたという。
結局わざわざDNA検査までして日和が得ることができたのは『蓮見』という名字だけだった。
まぁ、もし親族がいたとしても、どこで生まれたのかも分からない、血が繋がっているだけの不気味な赤ん坊なんて誰も引き取りたくはないだろう、と日和は思う。
──それが、日和と日和の『家族』に関する、すべてだった。
結果として、日和は今の施設に入れられることになった。
けれど、赤ん坊だった日和は、泣き叫ぶこともなく、驚くほど静かだったらしい。
『手のかからない良い子』、それが12年間暮らしてきた施設での評価だった。
兎にも角にも日和の肉親は、もう誰も残っていない。
日和にとって、ここが『家』である──
(……はずなんだけどなあ)
何処か現実感が持てず、他者から一歩引いてしまう。たとえそれが長年育ってきた『家』…『家族』だとしても。
そんな事をつい考えてしまう日和であった。
◆◆◆◆◆◆
しばらくして、施設の子どもたちが一人、また一人と食堂にやってきた。
日和より小さな子ばかりだけれど、皆、元気に「おはよう」と声をかけてくれる。
日和も、作り笑いではなく、自然な笑みを返して「おはよう」と挨拶した。
にぎやかになっていく食堂。
その片隅から、園長先生が日和の方へ歩いてくる。
「日和ちゃん、おはよう。今日も早起きだったね」
「……おはようございます。お声をかけていただいて、ありがとうございます」
柔らかい笑顔のまま、園長先生は日和の頭をそっと撫でた。
日和はもう小学六年生なのに、背が低いせいか、よく頭を撫でられる。
園長先生は優しい人だ。
『日和』という名前は園長先生がつけてくれた名前だ。
『穏やかな日々を過ごせるようになって欲しい』と願ってつけてくれた。
日和は自分の名前までつけてくれた園長先生に感謝をしている。
けれど園長先生は時々、何かを見透かすような目をする。
日和はその目を向けられた時何と言えない胸騒ぎを感じてしまう。
今も──そんな目をしていた。
「……もうすぐ中学生になるんだね。本当に大きくなったね…」
「はい。本当に……ここまで育ててくださって、ありがとうございます」
しっかりと立って、丁寧にお辞儀をする。
日和は人にお礼を言うことを欠かさなくない。
感謝の気持ちを忘れないため……というより、人に嫌われないため。
優しくされた分だけ、「ありがとう」と言わなきゃと思う。
そうしないと、きっと嫌われる気がしてしまい不安になってしまうのだ。
だから、ありがとうと口にするたびに自己嫌悪する。
こんな浅ましい自分が嫌になるけれど、それでもお礼は言わなきゃいけない。
そういう義務感と、心のどこかにある後ろめたさがぶつかり合って、胸が苦しくなる。
それを笑顔でごまかして、また、自己嫌悪する。
(――本当に嫌な子だな、私)
そんな日和の感情に気づいているのかいないのか。
園長は変わらぬ穏やかな声と笑顔で話しかけてきた。
「卒業式、私も他の職員も参加するからね」
「ありがとうございます……でも、無理なさらないでください。他の子の行事もあるでしょうし……」
「何言ってるの。ウチで一番のお姉ちゃんなんですもの。ぜひ行かせてちょうだい」
園長はそう言って、日和の目線に合わせるようにしゃがみ込み、そっと頭を撫でた。
「……進路のほう、まだ迷ってる?」
「が、学校から連絡が……? ご迷惑を……」
思わず罪悪感が湧きあがり、反射的に頭を下げかけた日和を、園長は苦笑しながら優しく遮った。
「違うのよ、そんなつもりで聞いたんじゃないの」
その笑顔に少しだけ救われる。
けれど、それ以上に自分の反応に自己嫌悪が募った。
また、悪い癖が出てしまった。
謝ること、お礼を言うこと、それ自体は悪くない。
でも日和にとってそれは「嫌われないための儀式」で、言うたびに自分がどんどん浅ましく思えて、苦しくなる。
それでも、そんな感情を見せてはいけない。
もし顔に出してしまったら──
頭の中でぐるぐると巡る反芻思考を、どうにか振り払う。
意識を、目の前の園長に向け直した。
「まだ時間はたっぷりあるから大丈夫よ。ただ、どんな中学校に行きたいのか気になってね。日和ちゃん、成績もいいし、真面目だって先生も褒めてたわ。今の学校も、幼稚園の頃から頑張って、奨学金まで取れるほどだもの」
園長の言葉は、ゆっくりと優しく胸に届いた。
「このまま中等部に進むのもいいと思うけど、もしやりたいことや、行きたい学校があるなら、ぜひ教えてほしいの。できる限り、協力させてちょうだい」
日和の胸は、まだどこかざわついていた。動悸と、不安と──それらが、なかなか静まってくれない。
それでも園長の言葉には、少なくとも偽りはなかった。
そう思い込むことで、なんとか心を落ち着けようとする。
「はい」
小さく頷いた日和に、園長はそれ以上は何も言わず、静かにその場を離れていった。
(──また、気を遣わせてしまった)
胸にじわりと広がる罪悪感。
気づいた時にはもう遅くて、後悔だけが残る。
せめて次こそは、もう少しうまくやれるように。
無理やりにでもそう思い込んで、気持ちを前向きな方へと押し出した。
(進路も……やっぱり、園長や他の人たちが喜んでくれるところを選んだ方がいいのかな)
夜ごとに見る、あの夢──
そのことで頭がいっぱいで、これまで進路のことをまともに考える余裕なんてなかった。
けれど、小学校の卒業まで、もう時間はあまり残されていない。
想像でしかない夢に縛られて立ち止まるよりも、現実のことを、これからのことを、少しずつでも考えていかなくちゃ。
(学校の掲示板にも確か資料がいくつか貼られてた。もう少し、ちゃんと見てみよう)
◆◆◆◆◆◆◆◆
パンを食べ終え、日和は食器を片付けて学校指定のカバンを背負う。
施設の玄関を出たとき、朝の光が少しだけ暖かくなっていた。
日和が住むこの町は宝崎市の大規模再開発に便乗して発展した。
宝崎市程ではないが高層マンションと自然、そして何故か大量の注意書き(もはや町の名物?にもなっている)で満たされたこの町で日和はずっと育ってきた。
宝崎市の隣にあるこの町はいわゆるベッドタウンに属する。
多くの会社員は隣の宝崎市や少し離れた神浜市に働きに出ている。
そういった働き盛りの会社員が住みやすいように、そして結婚して子供が生まれたあとも長く住み続けてもらうため進学先には公立だけでなく私立の選択肢がある。
所得が厳しい家庭の子供でも私立にいけるように学校だけでなく町からも奨学金が出る制度も用意されていた(もちろん成績など条件はあるが)。
日和の住む児童養護施設もそういった市の政策の一部として作られたものだ。
ある意味日和はこの町によって命を助けられたといってもいいかもしれない。
(…私を生んだ人もそういった魅力に引かれたのかな)
命を助けられ、そして今は十分すぎる程幸せな生活を送っている・・・はず。
なのに、日和の心はあまり晴れなかった。
毎晩見る夢だけではない、思春期とでもいうのだろうか? 昔から反芻する思考の癖があったが高学年になってからよりひどくなってきた。
そして、それだけではない。
(声…だよね? 少しノイズみたいなのが響くけど)
夜夢を見るとき以外、例えば今のように町を歩いている時に聞こえる音。
少女のような、少年のような、何処か中性的で機械的な声のような音が聞こえる。
日和はこの声が少しだけ苦手だった。
(頭…疲れているのかな…)
耳や病院に異常があるのだろうか? 思い切って病院に行くべきだろうか? と考えていると登校途中の坂道を登り切り、白く高い壁に囲まれた私立の小学校が見えてきた。
(考えなくちゃいけないこと一気に増えちゃったな…)
◆◆◆◆◆◆◆◆
「彼女は、こちらの存在に気付いているのかい?」
「断定はできない。ただ、テレパシーには僅かながら反応しているようだ。」
「実に興味深い。接触は進めているのかい?」
「他の端末がすでに何体か接触を試みたよ」
「──すべて、行方不明になっているけれどね」
「魔法少女を介した接触はどうだい?」
「不確定要素が多すぎる。何が原因で端末が消失しているのかすら分かっていない。
巴 マミのようなベテランを投入したいところだけれど、今は時期尚早だ」
「母星からの指示では、当面は観察に留めるべきだという意見だよ…おや?」
「…と接触させてみるか」
「近くに…の反応がある」
「この近くの…は環 いろはと…」
「その方法で行くべきだと母星から正式に指令も出た。そして、なぜあの人間…いや、生物が…の力をもっているのか明らかにしよう」
「契約すらしていないというのに、まったく訳が分からないよ」
◆◆◆◆◆◆◆◆
日和が通っているのは、制服があり、市立に比べて校則もやや厳しい──いわゆる「進学校」と呼ばれる私立小学校だ。
本当は市立学校に進もうと思っていた。
でも、園長先生や他の職員たちはこの学校を強く勧めてきた。
なぜそこまで勧めるのか、理由は分からなかった。
それでも、日和は「期待に応えなきゃ」と思った。
応えなければ、自分の居場所がなくなってしまうような、そんな不安が心の奥にあった。
だから、日和は勉強を頑張った。頑張る以外の選択肢を、消した。
どうにか入学できた時、園長先生たちが笑顔で喜んでくれた。
その顔を見て、日和は──嬉しい、というよりも、ほっと『安心』した。
ーー少なくとも、成績さえ良ければ大丈夫。
ーー失望させなければ、自分はここにいてもいい。
そう信じるようにして、日和は授業にも真面目に取り組み、ひたすら努力を続けた。
その結果、奨学金も受け取れるようになり、周囲から信頼を得ることもできた。
ーーけれど心のどこかでは、
ーーいつも少しだけ胸の奥が締め付けられるような感覚を抱えたままで、
ーー息苦しさを取り除けないままで、
(けど、これが普通なんだよね…)
下駄箱から上履きを取り出し、教室へ向かう。
途中、用務員さんや先生に挨拶するのも忘れない。そうしておいた方が、「安心」の度合いが少し大きくなるからだ。
この時間は、生徒の姿もまばらだった。クラブに参加している生徒は体育館や校庭にいるため、校舎の中はほとんど無人だ。
日和は、この静かな校舎が好きだった。
(……この時間だけは、一人になれる)
周りに誰もいない。
気を使わなくていい。言葉を選ばなくていい。
(……私、本当に嫌な子だな)
ーーまるで他人に寄生して生きてるみたいで。
ーー寄生虫みたいで。
教室の扉を開けると、数人のクラスメイトがすでに席に着いていた。
視線が合うと、軽く会釈する。日和も同じように、小さく頭を下げた。
「おはよう、蓮見さん」
「……おはよう」
返事は自然な声を意識して出す。
別に、嫌な人たちではない。明るくて、悪意なんて持っていない、普通のクラスメイトたち。
それでも日和は、彼らと向き合う時、いつもほんの少しだけ心を引っ込めてしまう。
(大丈夫、悪い人たちじゃない。ちゃんと、わかってる)
そう自分に言い聞かせながら、カバンから教科書を取り出す。
先生が来るまでの時間、周囲の会話は耳に入ってこないふりをする。
やがて担任の先生が教室に入り、朝のホームルームが始まった。
今日は少し真面目な話があるらしい。
「えーと、今日は進路希望の調査票を配ります。今月中に提出してください」
――進路どうしよう?
――私はこのまま中等部!!
――神浜の学校がちょっときになってるかな。
――見滝原…制服がすごくかわいい。
皆が進路について語り合う中、日和だけは配られた紙を、机の上に置いたままじっと見つめた。
たった数文字で、未来の道を決める紙。
(……私は、どこに行く『べき』なんだろう)
自分の本心はわからない。
ただ一つだけはっきりしているのは、いつだって、周囲に合わせることを優先してきたということ。
期待に応えるために頑張って、安心を得るために笑って、
誰にも迷惑をかけないように、周りの空気を読み続けて。
(……自分のこと、また後回しにしてる)
そんな自分に、うっすらとした嫌悪感が胸の奥で波打った。
でも、それでも、そうするしかなかった。そうしなければ、安全でいられないから。
静かに、静かに、息をひそめて――
今日も日和は、誰にも迷惑をかけないように一日を過ごす。
◆◆◆◆◆◆◆◆
放課後、教室を出ると、廊下の空気はどこか少し乾いていた。
クラスメイトたちは楽しそうにおしゃべりしながら下校の準備をしている。
日和はその和に入らず、一人静かに静かに靴を履き替え、ゆっくりと校門へ向かう。
(進路、か……)
選べるほどの夢があるわけじゃない。
何かを『したい』よりも、何も起こらないように『していたい』という気持ちのほうがずっと強い。
それじゃだめだと分かっていても、どの方向にも、決定的に背中を押される理由がなかった。
(それでも……このままでいいのかな)
そんな時だった。
下駄箱近くの掲示板に、ふと目が止まる。
パンフレット――他校の紹介資料が、いくつか掲示されていた。
無造作に貼られたパンフレットに、ふと、鮮やかな色彩の一枚が目に入った。
『神浜市の未来を育てる、新たな学び舎』
見出しの下に、いくつかの学校の写真が並んでいる。制服を着た生徒たちが笑っているその様子は、どこか現実味がなく、まるでテレビの中の世界のようだった。
(神浜……確か、クラスの子がつぶやいていたっけ)
パンフレットを見つめながら、日和は思う。
今度、園長先生にこれを見せて、どんな反応をするか確かめてみようか。
でもその考えが浮かんだ瞬間、また――他人の顔色を窺おうとしている自分に気づいて、日和は小さくため息をついた。
(本当は自分がどうしたいかなんてずっと分からないままなのに、他人のことだけは気になって…)
――私は私の事が大嫌いだ
考えすぎて動けなくなる前にパンフレットから目を逸らした。
けれど、その色彩だけは、なぜか目の奥に焼きついて離れなかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
帰り道。
校門を出た瞬間、空はすっかり夕暮れ色に染まっていた。
風が髪を揺らし、制服の裾をふわりとめくる。
春の気配を帯びた涼しさ――日和は、この風が好きだった。
けれど、その優しい風でさえ、胸の内のざわめきを吹き飛ばすことはできなかった。
(……ノイズ、またひどくなってきてる)
学校にいる間は何も聞こえなかったのに。
校舎を一歩出た途端、まるで待ち構えていたかのように頭の奥に響き始める。
進路のこと、夢のこと、それだけでも手いっぱいなのに。
このままじゃ、悩みが増える一方だ――
本気で病院に行くべきなのかもしれない。
ふと、鞄の中にしまった神浜のパンフレットが脳裏に浮かんだ。
(……神浜って、どんな場所なんだろう)
その名前は何度も耳にしてきたはずなのに、今日はなぜか強く心に引っかかる。
進路、夢、ノイズ……この街に行けば、何かが変わるのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていた――そのときだった。
――「ᚲᛟᚲᚲ…ᛞᚨᛁᛟ…」
耳の奥を、ノイズ混じりの音が走った。
これまで耳にしていたノイズとは違う。
無機質な雑音ではない。そこには、明確な“意志”のようなものが宿っていた。
空耳かと思った。
けれどその声は、まるで霧のように、静かに、ゆっくりと日和の意識に染み込んでくる。
「……誰?」
振り向いたが、誰もいなかった。
気づけば、人通りのない路地裏に立っている。
(……いつの間に、こんな場所に?)
周囲を見回しても、人の気配はない。
なのに、声のようで声でない“何か”が、言葉の形をしたまま心の奥に滑り込んでくる。
――「ᛟᛗᚨᛖ…ᚺᚨ…ᛁᚾᛏᚨᛁ…」
――「ᚹᚨᛋᚺᛁ…ᛏᛟ…ᛗᛁᛚᛖ…」
――「ᛟᛗᚨᛖ……ᛋᚢᛁ……ᚾᛖᛉᛏ……ᚲᚺᚨᛁᚾ……」
電子音とも、人語の崩れた残響ともつかない、得体の知れない音。
まるでそれは、感情をなぞる“ふり”だけをした、壊れかけたオルゴールのようだった。
そのとき、不意に視界の端に動く影を捉える。
建物の隙間に、薄く、白い何かが立っていた。
人のようでいて、人ではない。微動だにしないその何かは、ただじっとこちらを見つめていた。
目を逸らした刹那、足元に霧が立ちこめる。
いつの間にか、景色が歪んでいた。
街灯の光は滲み、アスファルトの地面がぐにゃりと波打つ。
壁には意味を持たぬ模様が浮かび、空間そのものの遠近感が狂い始める。
(……なに、これ……?)
一歩下がろうとした足が、空を踏んだ。
背後には、もう道がないとこの瞬間初めて気が付いた。
視界の端で、蠢く影。
ぬるりと這うような足音が、遠くから確実に近づいてくる。
(どこなの、ここ!?)
そして、日和が踏み込んでしまったその場所が――
“魔女の結界”と呼ばれる異界だと知るのは、もう少し先のことになる。
◆◆◆◆◆◆◆◆
得体の知れない存在が近づくにつれ、耳を蝕んでいたノイズは嘘のように消えていった。
だが、その静けさの代わりに、左手の奥がじわじわと疼き出す。
熱を帯びた脈動。皮膚の奥、骨の芯で何かが蠢いている。
まるで体内に別の生き物が入り込み、神経と筋肉を乗っ取ろうとしているかのようだった。
その感覚はやがて頭の奥にまで広がり、鈍い痛みと共に視界を歪めていく。
色が滲み、現実の輪郭が一つ一つ崩れていった。
「……っ、来ないで……!」
背を向けた、その瞬間。
闇の奥から、ひとつの影がにじみ出た。
小さな怪物――人とも獣ともつかない、異様な形をした何か。
まるで空間の裂け目から染み出すように、日和のすぐそばに現れた。
腕が振り上げられた。何か鋭利なものが空気を裂く気配を感じた日和は反射的に立っていた場所から横へと跳ぶ。
その一瞬後、立っていた場所に深々と鋭利な刃物が突き刺さっていた。
(逃げなくちゃ!!)
生存本能のおかげか、思考は止まることはなかった。
立ち上がりながら感覚の狂った足元を蹴り、よろめきながら逃げ出した。
走りながら周囲を見渡すと小さな怪物は一匹だけではなかった。
柱や建物、物陰。
そこらじゅうからまるで水面に落ちた墨汁のように滲み出てきた。
(どこか安全な場所…)
ここは何処なのか?
先ほどいた場所なのか?
疑問が頭を支配しようとしたが、今は兎に角逃げなくてはいけない。
そう思って足を動かし続けた。
だが、逃げ込んだ先は行き止まりだった。
袋小路のような空間。
空気は重く、壁の模様が意味不明の文字列のように蠢いている。
そして――そこに『現れた』。
天井から黒い塊が落ちてくる。
そのあまりの大きさに日和は思わず足を止めてしまっていると、塊は徐々に輪郭を作っていった。
縫い合わされた皮膚の塊。人や獣の形をわずかに模しているようでいて、その実、どこにも属さない存在。
目のような器官が無数に埋め込まれ、そのすべてが日和を見ていた。
その異様な姿に、思考が凍りつく。
それが命取りだった。
背後から迫る別の怪物の存在に、日和はまったく気づけなかった。
お腹の奥に、鋭く熱い感触が突き刺さる。
芯を焼くような痛みが、じわじわと内側に染みていった。
(……あ)
視線を落とすと、腹部から何かが突き出していた。
血液が服の内側を伝い、染めていく。
現実感が削られ、思考が霞む。
そして、意識は深く沈み込んでいく。
日和を背後から突き刺した小さな怪物は、まるで獲物を親に献上するかのように巨大な怪物へ日和を突き刺したまま差し出した。
小さな怪物の動作のたびに熱が腹部から脳へと駆け上がる。
日和は気づかなかったが、無意識に叫び声も上げていた。
巨大な怪物は目の前へと日和が到達した時、また形状を変え始めた。
横に線が走ったかと思うと、巨大な怪物が上下へと分かれた。
少し距離をおいて見れば『口を開けた』とも表現できただろう。
日和を食すために。
小さな怪物達が不快な声を上げ始める。
バースデーソングでも歌っているつもりなのだろうか?
痛みが神経を支配する。
不条理が目の前に迫っている。
そんな状態の中で、日和は何故か夢のことを思い出していた。
走馬灯、というものだろうか?
(見るんだったら、もっとまともな)
巨大な口が日和を飲み込まんと近づいてくる。
(夢だったら…)
そう、夢であれば。
(私の左腕が…)
刃物が引き抜かれ、影に日和が飲み込まれる。
日和の人生は、その瞬間に終わった。
『・・・・・・・・・・・!?』
(…誰?)
筈だった。
左手に異様な感覚が広がった。
骨が軋み、肉が内側から裏返るように膨張し、細胞の形状そのものが別のものへと変わっていく。
皮膚が裂け、筋肉がねじれ、神経が異質な構造に繋ぎ変えられていく。
すべてが、一瞬のうちに。
そこにあったのは、もはやただの『腕』ではなかった。
喰らうために形作られた器官。
人の形を否定し、破壊と吸収だけを目的とした異形。
まさに夢で見たあの腕が日和の腕から『変態』していた。
轟音と共に怪物の内側から日和が飛び出してくる。
体格差や質量差、そんな概念を悉く無視して、異形の腕が怪物を内側から突き破ったのだ。
痛みがあるのだろう、叫び声を上げ続ける目の前の怪物が、その腕に捕らえられる。
意志も理性もない。ただ反射のように、それは動いた。
力でも慈悲でもなく、ただ純粋な本能に従って。
怪物の輪郭が崩れ、形が溶ける。
存在の痕跡は、すべて腕の中へと吸い込まれていった。
それだけでは終わらなかった。
腕は止まらない。
怪物を地面に何度も叩きつけ、壁へと押し潰していく。
周囲に飛び散ったものが冷たい空気を帯びて、じわじわと肌を撫でた。
逃げようとした小さな怪物たちも巻き込まれる。
腕が空間ごと押し潰し、動きを止めさせる。
痕跡はただ静かに地面に染み、やがて消えた。
(……なに、これ)
自分の腕のはずなのに、自分ではないもののようだった。
(もう……やめて)
必死で止めようとしたが異形の腕は止まってはくれなかった。
腕が、最後の一を叩き潰す。
数多くいた小さな怪物たちはほんの数秒で地面のシミになっていた。
同時に腕が締め付けを強め、掴んでいた怪物の形を無理やり変形させていく。
まるで世界のすべてを呪うかのような断末魔が空間に響き渡る。
骨と肉が無理やりつぶされる音が日和の耳に聞こえた時には、怪物は完全に動かなくなっていた。
それでも腕は怪物を離さず、消しカスでも握るかのように怪物を何度も何度も握りつぶしていた。
ーーまるで獣が肉を咀嚼するように。
握りつぶす度に、肉片や液体が日和の体に垂れてくる。
そして口の中に、夢で味わうあの味が広がりはじめた。
鉄と土と砂糖を混ぜ合わせたような、何とも言えないあの味。
(この味……)
地面は赤黒く濡れていた。
日和を中心として肉片が堆積し、血が泉を作っていた。
(私が…やったの…?)
あの怪物を殺し、そして
(食べ…たの?)
思考が止まりかけた瞬間、周囲の風景が元に戻りはじめた。
街灯が揺れる、放課後の通学路。
歪んでいたはずの世界が、何事もなかったかのように静けさを取り戻している。
先ほどまれ血まみれだった地面も何事もなかったかのようにアスファルトへと戻っていた。
けれど、左手の異形だけは消えてはいなかった。
人の形を失った「何か」が、まだ日和の体の一部となっていた。
幸いにも腕が掴んいた怪物の亡骸は消えていた。
まるで全て食べ終えたかのように。
用が済んだとばかりに異形の腕が元の腕に戻り始めたその時だった。
風が止まる。
目の前に、ひとりの少女が立っていた。
見たことのない服を着た、不思議な透明感を持つ少女。
桜色の髪色がとても綺麗だと日和は思った。
どこか日和に似た面影を宿しながら、唇だけを動かす。
「……運命を変えたいなら、神浜市に来て」
声は空気を震わせず、まるで頭の中に直接語り掛けているようだった。
けれどもその言葉は、静かに――確実に、日和の心に刻まれてた。
「この町で、魔法少女は救われるから」
少女は、霧が晴れるように消えた。
残されたのは、夕暮れの風景と――
口に残るあの味と、疼く左手の感覚だけだった。
(神…浜? 魔法少女?)
消えかける少女を、呼び止めようと手を伸ばした――その瞬間。
腹の奥で何かが軋んだ。ひどく嫌な熱が、内側からじわじわと広がっていく。
(……あれ?)
視線を落とす。服の腹部がゆっくりと濃い色に染まっていた。
裂けた布の隙間から、肌がのぞいている。そこに突き立つ異物――鈍く光を反射する異様な形。
(そうだ…わたし……刺されてたんだ……?)
思考が冷え、感覚が鈍る。
痛みは遅れてやってきた。冷たいものが内臓に触れたような不快さと、熱を伴った圧迫感が交互に押し寄せる。
体の芯が震え、足元が不安定になる。
視界の輪郭がぼやけはじめる。
周囲の光が遠ざかり、音がこもる。
重たくなる頭。呼吸の仕方がわからなくなる。指先から力が抜けていく。
(……眠い……? ちがう……)
何かを思い出しかけた。けれど、その輪郭も、もうつかめなかった。
足がふらつき、膝が折れる。地面が近づいてくる。
けれど、そこにぶつかる感覚すらなく、ただ世界の重さが消えていく。
身体の境界が薄れていく。
(だれか……)
その願いも、声になることはなかった。
世界は静かに、閉じていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「観測は成功したのかい?」
「テレパシーを利用して彼女を魔女と接触、そして彼女の正体を調べてみたわけだけど」
「間違いない、けれどもあり得ない」
「興味深いね、何とかして彼女と接触を図りたいけれど」
「なぜ彼女に近づくことができないのか?」
「母星へデータを送り、指示を仰ごう」
「契約にない魔法少女…いや…か。実に興味深い」
「けれども、警戒もしなくてはいけないよ。何せ・・・・」
「彼女は第二のイザボーになる恐れもあるからね」