4ヶ月……?
人型黒蝕竜ことゴア・マガラは治安官朱鳶と同棲生活を始めた。
理由としてはまずひとつに朱鳶が自ら立候補したこと、H.A.N.D.側の専用施設が復旧中であること、そのH.A.N.D.から治安局への異動が突発であったために衣食住の手筈が全く整っていなかったこと、新たに開発された装備による無害化や市長の口添えなど。
複数の要因が重なった結果としてゴア・マガラは朱鳶宅の敷居を跨ぎ、新エリー都市民としての生活をスタートした。
そこには大仰な監視設備も外界を遮断する分厚い壁もない、朝起きれば外で鳥が鳴いていて、テレビをつければ天気を伝えるキャスターの声が聞こえてきて、1日1回のスクラッチで一喜一憂したりするような。
争い事とは無縁で、普通の生活。
ゴア・マガラが初めて朱鳶の家へ訪れた日は、夜にささやかな歓迎会が開かれた。
朱鳶に連れられてルミナモールで共にチキンやケーキを買い、家で食べたりして、ゴア・マガラは朱鳶宅の一員になった。
そしてその日ゴアはディニーの価値を再認識した。
ルミナモールでパーティの買い出しをする朱鳶を後ろから見ていたからこそ分かった。
ディニーがあれば食べ物も何も手に入る。
誰もが命のやり取り無しに、食べ物を手に入れることができるということを。
実のところゴアはディニーの価値をよく分かっていなかった。六分街で色んなものを少しずつ買ったり、ドレスを買うのに沢山使ったりした事はあれど、その万能性を正しく把握できていなかった。
故にディニーの価値を正しく認識する事ができたゴアはなおのこと、自らの研究の為に消費されたディニーや、それこそ朱鳶が自分のために使ったディニーを無視することが出来なくなっった。
過去を振り返ればゴア・マガラは他者から多くの物を貰ってきた。直接見返りを求められた事はなくても、ゴア・マガラにとって"何かを貰う"というのは野生の中で肉を貰うに等しい、命の保証に等しい行いなのだ。
故にこれまで多くを受け取ってきたゴア・マガラの中で、それに報いるという使命感が芽生えた。
だが今のゴア・マガラに返せるものは何もない。
あるのは力と、空を飛べる翼だけ。
もし"空に連れて行って"と言われれば、いくらでも叶えるつもりではあるものの、誰も彼もが悠真のように空で喜んでくれるとはあまり思えない。
人間はそれぞれ違いすぎるので、きっといちばん喜ぶ物もみんな違うはずなのだ。
ゴア・マガラは考えた。
食べ物、服、遊戯、旅行……
ルミナモールを朱鳶について行く道すがら、ずっと傍らに控える
ディニーを使えば恩返しの方法をそれぞれに合わせられるであろう事は想像にかたくなかった。
故にゴア・マガラは直接の恩を返す方法かつ、これから恩を返す相手が喜ぶ何かを手に入れる手段としての、ディニー集めをしばらくの行動指針とすることにした。
であれば、さて実際いくらディニーがあれば十分なのか、という話である。
ゴア・マガラは自分の傍らに控える機械へ、ゴア・マガラが振り撒く鱗粉を無害化する機械、その見た目から名付けたタテナガに聞いてみた。
そして防衛軍とH.A.N.D.による基礎設計と、これまでに集積された全てのゴア・マガラと黒蝕竜のデータを元に学会が内部を組み上げた知能構造体には、本当に全て。本来ならゴア・マガラに返済責任のないあらゆる請求書のデータまで入力されていた。
開発に携わった人間が
『700億ディニーです』
なるほどなるほど700億か。
単位の意味はさっぱり分からないけれど、多分すごい多いんだろうなぁと考えるゴア・マガラ。
パーティで食べたチキンが1000いくらかのディニーだったと、ゴアは会計をする朱鳶を見ていて何となく覚えていた。でも割り算も分からないので、ここでチキン何本分……と考える頭もない。
ならばとゴアは次に、自分が今いくらのディニーを持っているか、と考えた。
割り算は分からずとも足し算引き算は分かる、肉を1つ食えば肉は1つ減るのだ。自分が今いくら持っているのかが分かれば、あといくら必要かもわかる。
そこでタテナガの出番である。
『個人の残高照会はプライバシーポリシーに抵触するため、ご協力はできません』
がっくし。
ゴア・マガラは分かりやすく肩を落とした。
「自分で調べるしかないのか?」
『そうなります』
「どこに行けば調べられる?」
『銀行窓口、ATM、携帯にインストール済みの銀行提携アプリなどがあげられます。ゴア・マガラ様の銀行口座は既に開設済みのうえ関係各所から研究協力に対する報酬が振り込まれていますが、アプリとの連携にはご本人による操作が必要となります』
「……それ、この目で見えるやつか?」
『銀行窓口の対人対応以外は非推奨、ATMも携帯もエーテルサイト越しには視認が困難です。本機がカメラで画面を確認し操作を補助することは技術的に可能ですが、プライバシーポリシーに──』
「わかった、わかった、諦める」
ちぇ、融通のきかないヤツ、とゴアは眉間に浅〜くシワを作った。
ちなみに融通の意味はよく分かっていない、悠真がぶーたれる時に使っていたのを真似しているだけである。なお教育に悪かったのでその後悠真は柳にシメられた。
さて話は戻って、自分が今いくらのディニーを持っているのか、それを確かめる事は根本的に盲目のゴアには難しかった。
エーテルサイトで白黒の視界を手に入れはしても、テレビや携帯など、画面に何が映っているかまでは見る事ができないのだ。
よってタテナガの指摘の通り、ATMや携帯は役に立たない。電話一本受け取るにも、タテナガの助けがなければ応答ボタンひとつ押せないのだから。
窓口に行き、機械ではなく人を相手にすれば何とか調べる事はできるだろう。しかしゴアは肝心の銀行への道を知らない。
どころか、実は同棲初日に朱鳶から、出かける時はひとこと言ってから出かけるようにと言われている。
これは容易な事ではなかった。
外に出る事自体は簡単。
ただ、銀行に行くと言って出かけようとすれば目的を問われることは必然。
そこで適当にはぐらかせば良いのはそれとして、ゴアにはまるっきり嘘をつくほどの語彙力を持ち合わせていない。うっかりポロッと「恩を返すためにお金が必要」などと喋ってしまったなら、そんな事はしなくていいと言われてしまうのが目に見えている。
本当の目的は秘密にしたい。
……そう、そこでゴアは聞いたのだ。
テレビから流れてくるバラエティ番組での、なんて事ないやりとりを。
『プレゼントって、素敵ですよね!』
『受け取った方は喜びが100万倍!』
『秘密のサプライズはさらに100万倍!』
そんな誇張表現にも等しい人の声が、ゴアの心を動かしてしまった。
──秘密のサプライズがいちばん喜ぶ。
そんなふうに。
よって、ゴア・マガラの中でお金稼ぎは親しい相手には秘密な一大プロジェクトとなった。
その日ゴアは朱鳶に「外を見てくる」と嘘はついていない言葉を残し、出勤する朱鳶と同じ時間に家を出た。朱鳶はそれを"これまで社会と隔絶されていたゴア・マガラの社会勉強"と超ポジティブに受け取り、笑顔で見送った。
タテナガが保護者でついているから、大丈夫だろうという判断でもある。
そのうち1週間ほど休暇をとってゴア・マガラとの時間を作ろうと画策している朱鳶ではあるのだが、この時『山獅子組』という違法組織摘発を10日後に控え、準備をしている期間のため特別忙しく、自分が不在の間の子守りを誰かに頼もうにも、平日常時手の空いている友人はおらず、ヘルパーを雇うには見ず知らずの相手に不安が募り、ゴア・マガラから目を離すしかない現実を苦渋ごと飲み込んだ……という背景が実はあったりするのだが。
そんなこと全く知らないゴアは意気揚々とルミナスクエアに足を運んだ。
初めて服を買った、あの賑やかな場所に。
そして迷った。
道中はよかった。
無一文のゴアは地下鉄などを使わなかった。
使えなかったとも言う。
とにかくただ1度空に飛び上がってしまえば、あとはタテナガが示す方に飛んでいくだけでよかった。
ただ、
ルミナモールを選んだ理由としては、人が多いルミナスクエアの中でも特に人が集中しているから。人が多いところには仕事もたくさんあるに違いない。
ゴアなりに考えた上での行動だったのだが裏目に出た。繁華街たるルミナスクエアにおいて"なんでも手に入る"と言わしめるルミナモールは常に人の海、あっけなくその流れにさらわれてしまったのだ。
あれこの道さっき通ったな?
あの店もさっき通り過ぎた。
じゃあこっち?
あれ、違う。
どっちから来たんだっけ?
ぐるぐる、ぐるぐる、人混みの中で立ち往生。
来た道もとっくに分からない。
昨日朱鳶と一緒に来た場所のはずなのに、まるで見覚えない道しか通っていない気がする。
傍らの
複数階層構造ゆえに空と比べれば階層ごとの天井があまりに低いルミナモールは、ゴア・マガラにとって迷宮同然になってしまったのだ。
しかも肝心の仕事探しも全く手がかりが見当たらない。それもそのはず、そもそも昨今の求人情報はネットが主流で紙媒体で
どちらにせよ
だが、そんなところにも女神はいる。
「あら、お嬢ちゃん…迷子?」
人の流れから吐き出され角に追いやられたゴアのもとに、
▽
ジェーン・ドゥは驚愕した。
ジェーン・ドゥとは治安局の犯罪行動外部顧問、潜入捜査などの特殊ミッションを得意とするエージェントである。
必要であればコンビニ店員にもハウスメイドにも、ホロウレイダーにだって姿も名前も変えてみせる。
その彼女は今もまさしく潜入調査の途中であり、『
買い出しなど端役も端役なれど、今は信用を積み重ねる期間。求められたものを求められたように買い揃えて、そろそろ帰ろうかなぁと考えていた矢先のこと。
「……なにかしら?」
職業柄、人の動きの機微には敏感である。
その自負があるジェーンの目が、出口に向かって歩いていた時に何かを捉えた。
見た目が奇抜なことくらいが何の特徴にもなり得ない新エリー都の、特に人通り多いルミナスクエアの、ことさらに人混みの凄まじいルミナモールの中で一体何が気になったというのか。
ジェーンは後ろをついて歩く下っ端に怪しまれないよう、その方向をチラ見してみた。
そして見えた。
見えてしまった。
「おかしいわね……疲れてるのかしら……」
いま、都の最重要機密人物がいた気がする。
……いやいやいや、流石に気のせいだろう。とジェーンは目を擦り、ぱちぱち閉じ開きして、よし眼球に異常なしと確認した上で再度、
──いる。
やっぱりいる。
(えぇ〜…………?)
ジェーンは素で困惑した。
道の端っこでキョロキョロとあちらこちらを見て、明らかに迷子になっているゴア・マガラの姿があったのだ。
潜入調査のため治安官としての一線からしばらく離れていたジェーンではあれど、独自の情報網でゴア・マガラの存在は知っていた。"拉致被害者の救出劇"と整理された脱走事件のことなどが耳に入らないわけがない。
H.A.N.D.預かりの出自不明人なんてどう聞いてもトップシークレットであろうはずなのに、それと外見的特徴が綺麗に一致する人物がショッピングモールで迷子になっているのだ。
翼も尻尾も丸出し。
それどころか顔も脚も丸見えで、服装なんかは思いっきり白無地のワンピース1枚だけ。
更に、勘づいた一般人の視線が集まり始めている。
なぜ?
なぜ?
本当になんで?
なんでモールの中に要警護対象がいるんだよ。
治安局の教えはどうなってんだ教えは。
「お嬢ちゃん……迷子?」
それを流石に放っておける訳もなく、ジェーンは親切なお姉さんの顔で接触することを選んだ。
見るからに迷子なゴア・マガラが人目をひいていたのは事実だったので、後ろをついてくる山獅子組の下っ端には特に怪しまれずに、ゴア・マガラの手を引くことにも成功する。
「姐さん優しいッス……!」と必要以上のリアクションをする下っ端の事はガン無視して、そのままゴア・マガラを服飾品店まで連れていく。
当然ゴア・マガラの目立ちすぎる外見を隠すためである。男の下っ端は適当を言って追い出した。
それからXXLサイズのジャケットと帽子を陳列から拾い上げ、またゴアの手を引いて試着室へin。
「レディは秘密くらいあるほうがいいのよ」と翼を隠して行動するように吹き込み、ズボッとジャケットを着させて帽子を被せ、傍らに追従してきた知能構造体には道を教え主人を連れて店を出るよう言い含め、自分は颯爽と金のカードを会計に通して立ち去った。
捜査官としては落第の行動と言われるかもしれない。
潜入調査中の身でありながら
自分についてきているような下っ端ならいざ知らず、裏の社会ではとっくに有名人のゴア・マガラとの接触は思わぬ不都合を招きかねない。
例えばこの接触を山獅子組の幹部に知られでもしたら、なぜ攫ってこなかったのかと当然に問い詰められるだろう。ゴア・マガラの人質的価値は既に天文学的な数値なのだ。
例えばこの遭遇を治安局に報告しようにも、治安官と繋がりがある事を潜入先に知られるリスクがある。
それでも、ジェーン・ドゥは行動した。
理由など、ただ、ただ放っておけなかっただけ。
後にこの記憶があって、治安局の大盾使いに「君は良いヤツだ!」と叫ばれた時に否定できなくなるのはまた別のお話。
▽
ゴア・マガラ、ルミナモール迷宮より脱出成功。
それもこれも全て親切なお姉さんのおかげである。
すごいぞ綺麗なお姉さん。
ありがとう綺麗なお姉さん。
ただゴアには心残りがあった。
「なまえ、聞きそびれたな」
道を教えてもらった。
服を買ってもらった。
"レディには秘密があるほうがいい"。と、今現在『秘密』という単語そのものに価値を感じているゴアには魅力的にすぎる言葉を教えてもらった。
そんな相手の名前も聞けないまま別れてしまった。
「今度会ったら追いかけよう」
今度は逃がさない。
と、別に逃げられた訳でもないのにゴアは決意を新たにし、親切で
ゴアが手に入れたエーテルサイトという目は盲目に比べれば100倍も有益ではあるものの、画面や紙面は判別できず、複雑な人間の顔もよく見えないという欠点がある。特に人間の顔などは触れでもしないと分からない、そのためゴアはジェーンの顔を知らない。
だがゴア・マガラの鼻は竜としての嗅覚をそのままに引き継いでいる。元より筋骨隆々な男も華奢な女も一様に身の丈以上の大剣を振るうハンターとかいうイカれ蛮族を相手にしていたゴア・マガラにとって外見などさして重要ではなく、竜の嗅覚の前に匂い隠しの習慣も香水も役立つはずがなく。
竜が鼠を追う構図の出来上がりである。
すぐにルミナスクエアの雑踏の中ならお姉さんの匂いを嗅ぎ分けて追跡しようとして……踏み出した一歩を引き戻した。
「……今は仕事探しだ」
確かにお姉さんの名前を聞くのは大事なこと、けれどそれはそれとして未だ本来の目的の進捗はゼロなのだ、かのお姉さんの匂いは覚えたのでいつでも探し直せるのだから急ぐこともないとして。よって、またルミナスクエアをどこへともなく歩き始めた。
右へ左へ正面へ。
今度こそは人の流れをかき分けて。
肝心な、求人情報が目に見える所にはないことには気付かぬまま、ふと赤信号で足を止める。
車が通る広い道をまたぐ時は信号を見る。
信号が"立った人のマーク"の時は赤信号、渡らない。信号が"歩く人のマーク"になるまで待つ。
今は懐かしい、リンに教えてもらった事のひとつ。
ただ今日はルミナモール側の歩道にいた治安ボンプの『アンナイ』*1が目に留まる。
アンナイは横断歩道を守るボンプ。信号が赤の時は人を止めて、青になったら一緒に向こう側へ渡ってくれる。その横断歩道はルミナスクエアでいちばん大きくて、駅の出入口にも近く、人通りは多い。
そこでゴアは考えた。人の多い所には仕事があるはず、なら人の多い歩道を縄張りにしているボンプはきっと仕事に詳しいはずだと。
ディニーを手に入れる方法を知っているはず、と。
ゴアはアンナイのもとへ歩み寄り、膝を畳んで目線を合わせ、声をかけることにした。
「ンナ、ンナナナン(おはよう、教えてほしいことがある)」
「ナンナ?ンーナ!(君ボクたちの言葉が使えるの?すごい!なんでも答えるよ!)」
忘れがちだが竜はかしこいのだ。
人間語もボンプ語も、果ては
すごいと言われれば気分がいいので、ゴアはボンプ語で話し続けた。
ボンプ語で会話し続ける1人と1体に、同じく信号の切り替わりを待っていた人々の視線が集まる事は言うまでもないが、そんな事ゴア・マガラが気にするわけ無いことも同様である。
「ンナンナ、ンナワタ?(ディニーが欲しいんだ、仕事知らない?)」
「ナナンナ?ンンナンナ……(お仕事?見たところ正社員の仕事って感じじゃないよね、若いし……)」
アンナイは小さい腕を組んで頭を悩ませた。
ゴアはアンナイの事を"横断歩道を縄張りにした親切なボンプ"としか思っていないが、アンナイは治安官ボンプである。横断歩道にいるのも立派な交通整理業務の一環なのだ。
つまり定職の身、それに転職もあまり考えたことがなかったため、ゴアが期待しているほど求人に詳しくはなかったのである。
そしてアンナイはあくまでボンプなので、人ないしシリオン用の仕事はそもそも門外漢である。のだが、それでも自分を訪ねた少女のために思考領域を割いた。
カッコよく言えば、迷える市民を導くのが治安官ボンプの役目であるからして。本音を言えば、ボンプ語を訛り無く話せる可愛い子と知り合った事を仲間に自慢するために。
そうしてネット検索と記憶ストレージの確認を重ねてひとつ、見つけた。背伸びをすれば高校生だといえなくもない女の子が働けそうな場所。
そこはネットに求人の類を一切出しておらず、店舗の壁に貼り付けられた求人票をたまたま、巡回中のアンナイが目にしていた場所。
カテゴリーは喫茶店、口コミ評価はそこそこ、サメシリオンの低温接客に対するニッチな口コミも散見されたりするものの、違法性は皆無でいたって健全な店。
「ンンナ、ンナンナ、ワナンタ。(この横断歩道を渡って、大通りに沿って歩いて、7個目の交差点を曲がったところに喫茶店があるよ!)」
「ンナ、ナンナナ。(わかった、ありがとう)」
ちょうどそこまで。
赤だった信号が青へと変わり、ボンプと少女のやり取りを物珍しげに見物していた誰彼もが動き始めた。
「ナンナ!ンナ!(あぁ!仕事に戻らないと!)」
「まて」
職務に急いで戻ろうとしたアンナイを、ゴアは小さな手を引いて止めた。人の手の人差し指と親指とで、壊さないよう慎重に。
人の足が隣を通り抜けていくほんの数秒、ボンプと少女の目線は重なった。
「握手だ。このお礼はいつか、する」
「……ンナ!(わかった!)」
アンナイに教えてもらった道を歩く最中、ゴアは満足な気持ちと複雑な気持ちでいっぱいだった。
満足なのは、道を教えてくれたボンプと握手をかわせたこと、挨拶ができたこと。見よう見まねでも人のように感謝の言葉を言えたこと。
人から貰ったもの、してもらった事に報いようとしているゴアにとって、名前を聞けないどころか礼の話さえできなかったルミナモールでの一件は惜しかった。
だからこそたとえボンプが相手でも、人とさして変わりがない彼らの1人と話をして、名前をまた聞き損ねたのはあるとしても、礼の話をして握手まで出来たのは確かな前進だと感じたのだ。
人の理解に、少しでも近づけている実感。
複雑なのは、力加減が危うかったこと。
初めは掴んで引き止めようとしていたボンプの小さな手、直前になって"掴めば壊れる"と本能で解った。
だから手ではなく指2本で、少しも力を入れず、つまむように引き止めた。それだけでも職務へ駆け戻ろうとしていたボンプの体は跳ねるように引き戻された。
前にはボンプの手よりも脆い
自分の体であるのに、理由は分からない。
自分は人ではないと再認識されられる感覚。
(……そんなの、わかってる)
自分は人ではなく、竜である。
この身は竜ではなく、人である。
この身は人であり、いつかの先に竜となる。
……自分の体は自分が一番よく分かっている。竜たる部分が角/翼/尻尾にそれぞれ隔絶されてはいても、竜として力を振るう度、空を飛ぶ度、竜たる部分が血の通ったところから滲み込んで来ている。
それが成長を意味するという事は本能から理解している。いつかの先に天へ廻る竜へ成る種として本来の在り方、正しい成長過程。
──そんなものが、
力の制御が危うくなるのは成長の初期。
ゴア・マガラが竜の身であった時にはそれ自体はもうあった、ただ人の身に生まれ変わって当然にその兆しは無くなり、成長の進捗は無に帰したはずだった。
それがたった幾ばくかの力の行使で元通り、竜の身だった時にはこうなるまで何千という朝と夜とを重ねたというのに、人の寿命の縮尺に合わせればこうなるのかと、ゴア・マガラは下唇を噛んだ。
人の部分と竜の部分、そして
それらは最初の状態で完璧だった。
ゴア・マガラという人が生まれた時、その要素となった竜・エーテルのバランスは均一に、互いに不可侵とする形で
器が耐性を得た事で、材料となって一時は争った鱗粉もエーテルも体内のそこらじゅうで死骸となり、代謝にて体外へ排出された。
器が耐性を得た事で、竜たる部分はそれぞれ頭/背中/腰に連なる部位に押し込められた。
ならばエーテルは?
侵蝕源たる翼などをもつ竜たる部分と違って、外因性の侵蝕であるエーテルは、死骸が体外へ排出され、耐性により新たに侵蝕する事ができなくなって、完全に体から消えたのか?
──それは否。
確かに器が耐性を得た事で、エーテルは新たな外からの侵蝕が叶わなくなり、ゴア・マガラが竜の力を行使する度に竜の因子が血管をめぐる故に臓器にも隠れられず、死骸として満ち、代謝によって排出された。
だが代謝によっては排出されない位置に、エーテルはひとつ異なる死骸を遺していったのだ。
それが心臓の影。体のどことも繋がりを持たない異物、極小のエーテル結晶。
いつかの日に、エーテルが器の耐性を貫いた日に、まっさきにコアを生み出す鋳型として。
そして均衡が崩れ始めた。
あの日、生まれた日、停止していた侵蝕が少しづつ続きをし始めている。それがゴア・マガラには分かる。
進みは緩やかで、時間はまだあるにはある。
あとは竜となるのが先か、───
「……まぁ、夢のような時間だしな」
人の口は、胸の奥に詰まる泥を留め置くには力不足で、こぼれ出た言葉は側仕えのように後をついてまわる機械に拾われた。
『訂正。夢とは非覚醒状態にてのみ閲覧可能な、脳の情報処理/深層心理が投影された映像です。覚醒状態で夢を見ることはできません、
「…………おまえ、1回喋りだしたらすごい喋るな」
『ご不満でしたでしょうか?』
「あまり沢山言われてもよくわからん」
『かしこまりました、改善いたします。専門機関への連絡はいかがいたしましょうか?』
「いらない」
『かしこまりました。今回のサービスはいかがでしたでしょうか?』
"いかが" と聞かれても、返す言葉はなかった。
ゴア・マガラの精神構造はどこまで行っても
……ただよく見れば、タテナガが真の意味でそういう評価を求めているのではないらしいのだと、人間初心者のゴアは理解した。
これは感想が欲しいのだ。
それならできた。
「……ふむ、お前は私より賢い。私よりたくさん考えてるのは分かってる、でも私はそれをそのまま言われても分からん、分かるように言ってくれ」
タテナガはしばらく機器のインジケーターを明滅させたあと、カメラのレンズを拡縮させる。
そうして前を歩くゴアの姿を録画して、録音した言葉を解析して解釈して、蓄積させていく。
「禁断の果実テスト」をクリアできず、知能構造体として不十分なままの自己を改善するために。
そのためになるべく多くの演算を重ねて、機械初心者は人間初心者へ向かって言葉を吐いた。それは先程のやりとりを客観的に見ればそういう言い方も生まれるだろう、ことわざのひとつで
『馬の耳に念仏、ですか』
「うん?」
『言い直します、頭の病院いきますか?』
「おぉそれ分かりやすいな、いらない」
『かしこまりました』
機械初心者は、それが一般的に侮蔑の意味合いを多分に含む語句であるとは知らぬまま使い、人間初心者には全く届くこともなく。
タテナガの中にはコミュニケーション是正成功記録として、アーカイブされた。
そうしているうちに、1人と1機は目的地に到着した。
「あれだな」
『はい、アレですね』
通りをひとつ外れれば、同じルミナスクエアといえどもルミナモールがある駅前とは別世界のように喧騒がなりを潜め、人通りもまばらになる。
角を曲がれば、喫茶店がひとつ顔を出していた。
ルミナモールと比べてしまえばあまりに小さな店、周りの家と比べても劣る背丈。それでもなお、白黒の世界にあって他とは違うと分かる存在感。
ちょうど、人が入るところだった。
「タテナガ、あいつはなんで遠回りしてるんだ?」
ゴアは喫茶店からは少し距離のある、通りに面した角から折良く先を行く少女を観察していた。
1人で街を歩くのは今日が初めて、建物の中で2度も迷う事にならないよう、先を行く少女を観察して学習しようと考えたのである……が、何故かそのサメの尾をもつ少女は、道に面した一番近いガラス張りの入口ではなく、店を半ば通り過ぎて、奥の入口から入っていった。
『おそらく、従業員かと思われます』
「じゅーぎょーいん?」
『あの店で働いて、お金を貰っている人のことです』
「へー……じゃあ朱鳶は治安局のじゅーぎょーいんか」
『支払われる給料の原資が異なりますので厳密には違います、ですが目的のものである事は確かです』
「じゃあ私はあの店のじゅーぎょーいんになる」
ひと息の跳躍で、ゴアは裏口の前に立った。
遅れて山なりに飛んできたタテナガがゴアの手を、無関係者が店の裏口を開けるという非常識な行動を止めようとするには、少し遅かった。
全くの無遠慮に、勢いよく開かれる扉。
自信に満ちた顔のゴア・マガラ。
それと目が合ってしまった、不幸にもゴアの目の前で、ちょうど更衣室から出てきたばかりの先程のサメの尾をもつ少女。
「……店の入口はあっちなんだけど」
「じゅーぎょーいんになりに来た!」
困惑と驚愕でいっぱいのサメ少女と、もう従業員になれると信じて疑っていないドラゴン少女の会話は見事に噛み合わなかった。
それでもその後に会話が続いたのは、サメ少女がずっと聡いおかげだった。
「従業員になりに来たって……なに、面接希望?」
「めんせつ?それをやればいいのか?」
「えぇ…あぁ、うん……ここは基本面接、だけど」
サメ少女、もといエレン・ジョーは突然に現れた不審者らしい少女を頭のてっぺんから足の先まで何度も見返していた。
黒紫色の髪、額の機械、額の閉じきった瞼、どう見ても3周りはオーバーサイズな黒色のジャケットが足の付け根までをすっぽり呑み込んでいて、バックひとつくらいなら抱えて隠せそうなくらい。そこから足首まで白生地のワンピース。
そして何より目を引く、自分のそれと比べても太さ長さ共に劣らない分厚い鱗いっぱいの尻尾。
(尻尾だけで体の半分くらいあるな……いや、体の方がそんなに大きくないだけか。寝る時ダルそう)
エレンの脳内キャパシティは唐突に侵入してきた人物に困惑8割・驚愕2割で埋められていたものの、現れたのが自分よりも小さく幼げな少女だと認識するにつれて、警戒心だけは落ち着いていった。
上着で何かを隠しているんだろうとは分かっていても、あえて追及する事はしなかった。なぜなら自分のエージェントの部分が、やめておけと言っているから。
ぶわっと立ち上がっていたサメ肌が落ち着くにつれて、面接希望少女の半歩後ろに一対の機械がいることにエレンは気付く。
なんとなく目が合った気がした時に、その機械が少女の前、エレンとの間に進み出て、とても丁寧な口調でこう言った。
『非礼をお許しください、責任者の方はいらっしゃいますか?』
あーなんかボスみたいな話し方だな……と思いつつ、エレンは面倒の匂いを感じ取ってお求めの責任者がいる事務所へ向かった。
バイト希望なら店長に任せるのが普通で、正しい。そういう体で一切を店長に丸投げするために。
だって、新人の教育役とかめんどくて遠慮したいし。
帰りにリチャード・ティーミルクでも寄ろうかな、なんて考えながら。
━━その後、ホールでの接客から戻った先でエレンは店長に呼び止められた。
スキンヘッドで仏頂面の店長に。
傍らには少女と機械がいた。
エレンに
「エレン、明日からこの子の教育を頼みたい、手当は弾む。助力が必要なら言うように。準備は一任する」
「…………」
「言わなくてもいい、ちゃんと嫌そうな顔はできている。リチャード・ティーミルクの回数割引券をつけよう」
「……………………」
「ルミナモール新装開店完全予約制持ち帰り無しのケーキ店、既に半年待ちらしいが、オーナーが私の知り合いだ。少し口をきけば学生4人位は招いてくれるだろう」
「…別に対価をよこせなんて言ってないけど、貰えるなら貰っとく……」
傍目で窓の外を見れば、やたら上機嫌で飛び跳ねたあげくに空高く跳び消えていく先程の少女の姿があった。
「……店長、あの子何歳かな」
エレンには、件の少女は自分よりも年下にしか見えなかった。4~5歳は離れていておかしくないように思えた。
もう何年かすれば、学友が見せてくる服飾雑誌の表紙に加わっていそうな容姿とも思ったものの、それよりも見てくれの幼さが印象に残っていた。
さてそんな少女は、働いてよい歳なのだろうか?と。エレンの遠回しな問いかけに、店長の仏頂面は依然崩れることなく。
「あの子、名をゴア・マガラという、
「え、なに急に……んー、3歳とか?」
「書類上は正解、だが分からないそうだ」
「なにそれ、じゃあ今何歳なの?」
エレンは眉間にシワを作った。
エレンの知る店長という男は冗談や適当を言う男ではない、脚色を好まず、事実と少しの自考しか語彙にない男。話し言葉が教科書の文章みたいだと思ったことさえある。
その男が、要領を得ない話をするのは初めてだった。
「本人曰く、今は合わせてだいたい30歳らしい」
「えぇ〜……」
エレンには店長の言っている事が分からなかった。よくて14歳くらいにしか見えなかった少女が自分の歳に対して"だいたい"って…あと"合わせて"ってなに。と
──しかし、誰も彼もが傷と負い目と秘密を抱えて生きているのが新エリー都というものだったと、エレンは深く考えるのをやめた。
でも最後にひとつだけ。
「店長、未成年を働かせて治安局に摘発されて失職とかやめてよね、稼ぎ口減っちゃうから」
「優秀な従業員が表の仕事に時間を割いてくれるなら、人手不足が解消するがね」
「…………」
「冗談だ、業務を始めよう」
表のボスは冗談がド下手だった。
さりとて裏のボスが冗談が上手かと考えれば、冗談というより含蓄のある言い回しになって笑いより感心を引き出してしまい困惑しそうだと、白くて大きな尻尾を力なく垂らす裏ボスの姿を思い描いてエレンは笑みを零した。
「……あの子は、どんな子かな」
先を行く店長には届かない、小さな独り言。
ほんの少ししか話した事はないけれど、やたらに声が大きくてこちらの言ったことを反復する様は悪いようには見えなかった。天真爛漫というには幼すぎる印象もあって、善心なカリンちゃんと比較するなら、純心。裏のない人物だと思った。
他人の面倒を見なくちゃいけないというのは至極面倒だけど、今まで関わった事のないタイプが相手ならやってみても悪くないかもしれない。
エレンは珍しく襟を正し、胸を張って今日の接客を始めた。きっと仕事の覚えが良いであろうゴア・マガラという少女に、明日からの先輩ライフへの期待を胸に。
裏ボス
「ヘクシッ!……噂でもされているのでしょうか?」
真ボス
「あら、冷えましたか?温かいスープでも作りましょうね」