【原作6巻までの内容を含みますのでご留意ください】
暗く狭い部屋の中で、スマホの光だけが自分という存在を現実に引き留める。
日付が変わった。
三月十三日。
否応なしに訪れる明日に寂しさを思いながら、後藤ひとりは一年前のあの日のことを思い起こす。
そう、あの日のことを――。
降りしきる夜に
三月十二日。
木曜日のその日は、結束バンドの作曲担当、山田リョウの滞っている作業を手助けに行くため、リョウの家に向かうことになっていた。
アー写を撮影したときと同じように、待ち合わせは下北沢駅東口。
学校帰りに寄るため、同じクラスでバンドメンバーの喜多郁代と一緒に、バンドリーダーである伊地知虹夏を待っている。
そんなリョウも、虹夏も、三月の頭に高校は卒業していて、リョウはニート生活を、虹夏は大学の準備で忙しいと前のバイトで言っていた。
正直に言って、もう高校に行かなくていいのは羨ましいと思う。
そういう風に思いながら、改札横の柱に寄りかかる。学校を思ったよりも早く抜けられため、約束の時間よりも早く着いたが、まだ虹夏は来ていない。
「ちょっと早く着き過ぎちゃったかしら? ……ひとりちゃん大丈夫? そこ濡れない?」
そう言って、自分がいた場所から少し横にずれてひとりの場所を開けてくれた。
「あっ大丈夫です」
そうしたやり取りをしながら、会話の隙間を埋めるように辺りを見回すと、冷たい雨が降り、肌寒い天気だったが、さすがは下北というべきか、活気に溢れる様子が目に入る。
人々は話に花を咲かせながら、傘を差し、歩き、すれ違う。
その光景を感慨もなく見ていたら、緩やかな坂の下から工事用のフェンスを透かして、黄色の髪の毛と首元の大きな赤いリボンが印象的な、フード付きパーカーを着た人物が見えた。
角を曲がって、こちらに気づいた虹夏は、はにかむように笑いながら大きく手を振り、ひとりのもとへ駆け寄ってくる。
「ぼっちちゃーん! 喜多ちゃーん!」
今日もトレードマークのサイドテールを揺らしながら、虹夏は声を掛けてきた。
雑多な駅前でも、太陽のように眩しいその声はよく通る。
「こ、こんにちは虹夏ちゃん」
「伊地知先輩、こんにちはー!」
「お? なんかやる気満々だねー二人とも」
ひとりと郁代の顔を見て虹夏がそう言った。
それも当然で、これから作る曲は去年のリベンジ。未確認ライオットのライブ審査へ向けての曲。
書類審査も、デモ審査も、ネット投票も、まだ受かるか分からない状況だけど、受かると思わなかったら始まらない。
今度こそ最高のライブにしないといけない。
なぜなら、未確認ライオットは、二十歳以上のメンバーを含むバンドは出場できないのだ。
そして、虹夏とリョウは今年で十九歳――この夏が最後の夏。
グランプリを獲って、そのままメジャーデビューへの道を駆け上がることだけが目標ではない。みんなの夢を叶えるために、グランプリを獲って、メジャーデビューする必要がある。
自分の音楽を貫くのも、スターリーをもっと大きくすることも、自分を変えたいと思っていることも、ギタリストとして、みんなの大切な結束バンドを最高のバンドにすることも、そのすべてがメジャーに出れば叶うことではないけれど、大きく近づくことには変わりない。
だからこそ――だからこそ、だ。
「……じゃあ、もう行こっか!」
「あっはい」
「はい!」
リョウの家に向かって歩いていると、突然、三人のスマホからロインの通知音が鳴る。画面を確認してみると、普段からあまり稼働することのない、バンドのグループからだった。リョウだ。
そのトーク画面には、「まだ?」とシンプルな一文が送られてきていた。
「あいつ……」
「まだです……っと!」
目を輝かせながら返信する郁代とは対照的に、ハイライトを失ったような目で虹夏は呆れている。
「あのね、喜多ちゃん。リョウなんかにわざわざ返信しなくてもいいんだよ」
「ダメですよ、先輩! もし将来、リョウ先輩と今以上の関係になったときに『郁代、なんであのとき返してくれなかったの?』って、問い詰められるかも知れないじゃないですか!」
「……え?」
怒涛の勢いに、ツッコミを忘れて目をぱちくりさせるしかない虹夏。人という生き物は、呆気にとられ過ぎるとこうなってしまうのだろうか。
「それに……今日は、先輩のご両親にご挨拶する日ですよね?」
「……って、いやいやいや、それは違うって喜多ちゃん」
すんでのところで復活する虹夏。いよいよ暴走しかけていた郁代を止める。
「……今日はリョウが作曲に行き詰ってるから手伝いに行くだけだよ……」
「なら似たようなものですね!」
「これだから、リョウ狂いは……」
そう虹夏が言ったと思えば、「あー疲れた、後はぼっちちゃん、よろしく……」と、だんまりを決め込むようになってしまった。
「え、え!?」
急に難題を押しつけられたひとりは、何かいい話題はないか、と必死に探すも見つからない。
空を見上げても、生憎の空で、地面に目を落としても、所々で波紋が広がる水たまりだけ。雨音だけが聞こえる会話の隙間にどんどん焦っていく。
やっとのことで一つだけ見つけられた。
「……そ、それにしても……リョウさんが自分から家に呼ぶなんて珍しいです、よね?」
ひとりは少し前を歩く郁代に向かって話す。
「そうよねー。前は、未確認ライオットの審査に向けて曲を作っていたときだったもの。また、スランプになってないか心配だわ」
「――ですね」
そのときは、リョウのバンドへの気持ちから来るプレッシャーでスランプになったのだが、今回は状況が状況だけに、輪を掛けて気負っていてもおかしくない。
熱い思いがあのときと変わらずに胸の中で燃えているから、まだ、みんなとバンドを組めている――。
そう思うと、またリョウが一人で背負って自信を無くしていないか、ひとりも心配になる。
リョウはあまのじゃくなところがあるから、あのロインも強がってるだけ、なのかも知れない。
「あっ!」
虹夏が思い出したように声を上げる。
「ど、ど、どうしましたか虹夏ちゃん」
ひとりの声は、虹夏の声に驚いていつもより震えていた。
「ご、ご、ごめんねぼっちちゃん。大きい音出して」
「……それで――」
「えーっと……そうそう、今日は二人ともシフト入ってるでしょ?」
「あっはい」
「はい……それが、どうかしましたか?」
郁代は怪訝そうな表情を浮かべながら、虹夏に訊く。
「今日、もしかしたら長くなるかもって、お姉ちゃんに言ったら、喜多ちゃんとぼっちちゃんのシフト変えてもらえたよって話」
変わりは大山さんと日向さんになったから、と虹夏はつけ足す。
大山猫々と日向恵恋奈。
猫々は、ひとりと郁代と同じ秀華高で、一つ下の学年。
恵恋奈は、前に参加した闇鍋のようなブッキングライブで出会った人だ。こちらもひとりたちより一つ下。
どちらもクセが強い後輩だ。
「やっぱり、みんなで曲作りたいでしょ?」
「そうですね!」
「はい」
続く二人の会話を後ろから聞きながら、ひとりは近況を振り返る――。
高校では、まだまだ一人で過ごすことが多いが、結束バンドに入ってからは、中学生の自分に言っても信じてもらえないほど、充実した毎日を送れている、と思う。
日陰に生きる自分には、いまだに学校行事が辛い。でも、みんなとなら文化祭は楽しめた。
これからも嫌なことはたくさんあるだろうけど、これからもみんなと楽しく過ごせたら――。
そんな風に考えていると、リョウの家が近づいてきたらしく、また郁代がざわざわし始めた。
「あーリョウ先輩のお家楽しみ過ぎて――!」
「……って喜多ちゃん一回行ったことあるでしょ」
「先輩の家は何度行ってもいいんです!」
「はぁ……」
調子を取り戻した虹夏は、呆れたように反応する。
そんな体温のある心地よさすら感じる情景に、ひとりは自然と口角が上がった。
「いらっしゃい」
ほどよい明るさの玄関に、落ち着いたリョウの声が響く。
外観からすでに、海外セレブのような豪華絢爛な家ではないことが分かっていたが、洗練されたインテリアに、この家はいわゆる「お金持ち」なんだと感じさせられた。
「お邪魔します!」
「お、お邪魔します!」
郁代に続けて、ひとりもたどたどしく挨拶をする。もう来たことがあるというのに、まだ慣れない。
そんな中、虹夏は――。
「ほらほら、早く上がって上がってー」
「……なんでそんなに、伊地知先輩はフラットなんですか?」
羨ましそうに話す郁代。それに虹夏は、手を分からないみたいなポーズにして、少しおどけて答える。
「もう何十回って来てるし、もう自分ち、みたいな?」
「悔しいっ! 私もこれから毎週来ます!」
「……虹夏だけでも暑苦しいから大丈夫」
リョウの言い方からは、本当にそう思っているように感じた。
「あ?」
「――ぼっち、今日は歌詞持って来た?」
虹夏の反応には目もくれず、リョウはひとりに話しかける。
「あっはい。バックに入ってます」
そうひとりは答えて、肩に掛けているトートバッグの口を少し開いて中のノートをチラッと見せた。
「じゃあみんな、私の部屋に来て」
「……そういえば、先輩のご両親は、今日はいらっしゃらないのかしら?」
リョウの後ろについて階段を上っている途中で、思い出しように郁代は呟く。
「家にはいるけど、邪魔しないように言っておいた。だから、邪魔はしてこないと思う。知らんけど」
リョウは投げやりに答える。
その様子からは、両親が自分の言った通りにしてくれるとは期待していないことが窺えた。
リョウや郁代の背中を見つめているうちに部屋に着く。とりあえず邪魔にならない場所にギターケースと手提げを下ろすが、どこに腰を落ち着かせればいいかは分からない。
その間を埋めるために、ひとりは部屋をぐるりと見渡すしかなかった。
それで気づいたのは、この間に来たときと部屋の雰囲気が変わっていないとはいえ、何本か見たことのないギターが追加されており、浪費家のリョウらしい生活が見えること。そのギター達も空間を構成する要素の一部となって、ドアの向こうから地続きに広がる清潔感とすっきりとした高級感と調和し、正しく〝リョウ〟の部屋を作り出している。
「……じゃあリョウ、この間みたいにセッションでもする?」
「いや、先にぼっちと歌詞の話がしたい」
「オッケー」
「ぼっち」
リョウは淡々とひとりの名を呼ぶ。
「あっはい」
「ここの歌詞なんだけど、どういう気持ちで書いたの?」
リョウはいつもと変わらぬ表情で、単刀直入に訊いてきた。
正直、迷う。
リョウが下手なこと言わないのは分かってる。
――でも、分かっていることと、できること。それは全くの別物だ。
今回の歌詞はちょっとイタイ。それを自分でも感じるのだから、他人から見たら鼻で笑われるかも知れない。
だからこその葛藤。
だけど――伝えたいことは口に出さないと、伝わらない。そう、今までの道程から学んできたのだ。
ひとりは、小さく息を吸い込む。
「……え、ええと、結束バンドがこれからも続いたらいいなって気持ちを込め……ました」
「なるほど……」
口に出すと、自分の顔が熱くなって、心の中を覆う不安もより一層大きくなった。
「変……ですか?」
「……いや、全然。確かに私も思う――このまま虹夏や郁代、ぼっちとバンド続けていきたい」
どこか遠くのほうを見つめながら、リョウは自身の思いを静かに吐き出す。
紡ぎ出された言葉は、どこか感傷的な雰囲気を醸して、体の真ん中がじわっと温かくなった。
「リョウ……さん」
リョウの思いを噛みしめるように、今にも消えそうな小さい声でひとりは、目の前にいる青髪の少女の名前を口にする。
「――で、次のとこなんだけど」
照れ隠しか何かは分からないが、すぐいつも通りに戻るリョウ。
余情に浸れる空気は立ち消えてしまうが、それがひどくリョウらしくて、愛おしさすら覚える。
「ええと、ここは――」
いつの間にか葛藤は消え去り、ひとりは歌詞に込めた思いを語り始めた。
みんなで音出しをしながら、没にしたり、採用したり、手を加えたりしていく。
作曲というのは面白いもので、まったく思い浮かばないときは地獄そのものだが、ふと、アイデアを思いついた瞬間にその苦しみから解放されて、一気に天国へ上り詰めたような感覚にさえなる。
それは作詞にも言えること。
いくら元が実体験だったとしても、自分の中で言葉の意味を咀嚼して、吟味して、並び立てることは大変なことだ。それでいて、歌詞としても厚みのあるものを書かなければならないと考えると、背負う重圧もひとしお。
もしかしたら、どんなものでも創り出すということは、悦と懊の螺旋にあるものなのかも知れない。
そんな風に途中考えながら――四時間後。
曲の粗方が完成した。
リョウが始めから案をそれなりに出していた状態だったが、思ったよりも時間がかかってしまった。
それほどまでに、この曲に賭けるみんなの情熱が大きいことを感じて、ひとりのギターを握る手にも力が入る。
「よくないですか……!?」
「うん」
「うん、いいね」
「……はい」
それは、短い言葉を言うだけで、後は染み入る余韻を味わっているみんなにも言えることだった。
「……じゃあ、そろそろ帰ろうか」
スマホの時計を見ながら、床から立ち上がる虹夏。
もうそんな時間なのかと、ひとりもチラッとポケットの中のスマホを見る。
雨で一日中外の様子が変わらないからか、気づかないうちにもう夜になりかけていた。
「セッション楽しかったわ! 次の曲もきっといい曲になるわね!」
「うんうん。これ絶対いい曲になる! リョウ、仕上げは頼んだよ!」
郁代と虹夏は、確かな手応えと達成感に笑みがこぼれている。
「が、頑張ってください」
「任せて」
それに親指を立てながら、ドヤ顔で答えるリョウ。
今日は後輩にスターリーのバイトを交代してもらったため、ここでお開きだ。
「リョウ先輩お邪魔しました。曲、楽しみにしてますね」
「じゃあねリョウ」
「ま、また明日です……リョウさん」
続くリョウの作業の邪魔にならないように、部屋の入口あたりで三人は少しの寂しさを感じつつ、帰りの挨拶をする。
「あっ、ぼっち。ちょっと待って、まだ相談したいことがあるから残って」
どうかしたのだろうか、歌詞の意味は説明し終わったはず。
「じゃあ、ぼっちちゃんもバイバイだね。明日のスタ練でまた会おう!」
虹夏は明るくひとりにも別れを告げ、郁代もそれに続ける。
「ひとりちゃんバイバイ。また明日」
「バ、バイバイ」
ひとりは、小さく手を振って虹夏と郁代を見送った。
「――で、ど、どこなんですか相談したいところというのは……」
二人の声が遠ざかっていくのを聞きながら、ひとりは疑念を素直にリョウにぶつける。
「最後の部分なんだけど、メジャーコードで終わるのアリだなって思って。ぼっちはどう思う?」
そう言って、リョウは楽譜を差し出してきた。
それを確認してみて最初に感じた印象は、本当にこんな風に曲を締めていいのかということだった。
このコードで終わる曲をひとりはあまり知らない。
でも――。
短くて長い熟考を経て、ひとりは結論を出した。
「そ、そうですね……今回は普段より歌詞が明るめになっちゃいましたし、ちょっと明るくして終わるのもいいと思います」
そういう少しひねくれているところがリョウらしいと、頭の中でつけ足す。
「分かった。その方向でいこう」
曲をどうするか決まった途端、リョウは一心不乱に楽譜の書き直しを始めた。
「ほ、他には何かありますか?」
「……とりあえず、今のところはない」
紙に向き合いながら、片手間に答えるリョウ。
「じゃ、じゃあ私はこの辺で……」
「うん」
そう言うと、リョウは席を立って、ドアの近くにいるひとりのもとへ向かってくる。どうやら、今しがた始めた作業を中断して見送ってくれるらしい。
下手に話して微妙な空気にしても気まずいだけなので、ひとりとリョウは一言も話さずに玄関までやってきた。
数時間ぶりに目に入る自分の靴が、この家と全く合っていないと改めて感じながら、ひとりは靴を履く。
鍵を回して開けたドアの隙間から雨音と、外の冷気が室内に家の中に入り込む。
その程よい冷たさが、さっきまでいろいろ考えて火照ってしまっていたひとりの脳を冷やしてくれた。
「今日は助かった」
いつも通り起伏のない言い方だったが、リョウの感謝の念が空気を通って感じる。
「い、いえ……曲作りと編曲、頑張ってください」
「うん」
「……」
「……」
「……お、お邪魔しました!」
沈黙に堪えられず逃げるように別れの挨拶をひとりは告げたが、リョウは小さく手を振ってそれに答えてくれた。
「バイバイ、ぼっち」
その様子を見ながら家の外へ出る。
後ろで扉が閉まる気配と、はらりと何かが落ちた気がした。
駅までの道を、傘を差しながら一人歩く。
リョウの用事自体はすぐに終わるものだったため、今から走れば郁代と虹夏に追いつけそうなものだが、今はこの雨を楽しみたい気分だ。
晴れの日よりも空気が落ち着いていて、なんというか雰囲気が自分に合っている。濡れることがなければ、もっといい――でもそれは無理な相談なので我慢しておく。
それにしても、家に来て欲しいと言われたときは、また、あのときと同じぐらい苦しそうにしているんじゃないかと、心配になったが杞憂に終わってホッとした。というか、今日のリョウは生き生きしていた。
一人で過ごすのが好きだと本人は言っていたが、やっぱり、みんなと何かをすることは楽しいのだろうか。
少しだけフレーズを弾いてみる。思いついたコード進行を試す。
理論に裏づけされているものでも、最後はフィーリングだから何度もギターをかき鳴らすしかない。
そうやって、セッションの中の一瞬一瞬が、音になり、小節になり、曲になっていく。
今からでき上ってくる曲が楽しみだ。
そんなことを思いながら、スマホで電車の時間を確認しようとすると、視界の端にホーム画面に表示されている天気予報が目に入った。
これから雨がますます強くなると、青い雨傘のマークが教えてくれている。
しとしと降る雨が傘の上で、集まり、流れ、雫となるのを見ながら、ひとりは水滴でいくつにも分裂した空を傘越しに見上げた。
体の芯まで冷える天気に指先をこわばらせながら、定刻通りにやって来た電車に乗る。
帰宅ラッシュのこの時間は人が多く、特に学生が目についた。
周りのことは気にも留めずに話す女子高生や、惚気た空気を身に纏うカップルに、若干、青春コンプレックスを刺激されるも、家に帰ったら何しようかと考えて乗り切る。
つり革を掴んでいない手を何気なくジャージ上のポケットに入れて、外を見つめるひとり。
雨が窓を斜めに走っている。
高校の物理の問題でこんな問題あったなと、取り留めもない記憶が浮かんでは消えていく。結局テストに出ても答えられなかった思い出しかないから、さっさと消えてくれて正解だった。
ふと我に返ったときに、ポケットに入れておいたはずのピックが無くなっていることに気づいた。
セッションの後にでも落としたのだろうか。
明日、バイトのときにでもリョウに聞いてみればいいか。
そう考えながら、電車を乗り継ぎ、一日の終わりへと向かっていった。
翌朝。
勢いよく開けられた襖の音とふたりの声で目が覚める。
「……えちゃん! おねえちゃん! おきて! おきて!」
普段よりも激しく身体を揺さぶられ、その刹那、今日がまだ休日ではなく、金曜日であることを思い出して飛び起きた。
「うわぁっ!」
ひとりの家から高校までは片道二時間。少しでも寝坊をすれば、乗る予定だったはずの電車に乗れず、まるでバタフライエフェクトのように、その遅れが見事に繋がって遅刻は免れないだろう。
だが、目覚まし時計代わりのスマホを見れば、まだ猶予のある時間だった。
普段この時間に起きれば、二度寝を決め込む時間だ。そう頭が理解すると、一気に眠気がやってくる。
「ふたり、まだ時間じゃない……でしょ……お姉ちゃんもうちょっと寝る……から」
再び布団に潜ろうとするひとりをふたりは、手を強く引っ張る。
「はやく! テレビ!」
「分かった、分かった。今……起きるから……」
ひとりはその乱暴な起こしかたに堪忍して、寝床から這い出る。そのままふたりに思い切り背中を押され、ひとりは一階のリビングに向かった。
「……おはよう……ふわぁ」
目をこすりながら欠伸をする。
リビングにいた両親は、そんな寝呆けて緊張感のないひとりとは裏腹に、表情は凍りついていた。
「ひとり……」
「ひとりちゃん……」
その声は、狼狽という言葉が適当かどうか迷うぐらいに震えている。
「何、見てるの……」
ただならぬ空気にひとりは、まだ眠気が覚めない中、テレビの見える位置に移動すると、流れていたのは、家でいつも流している番組だった。
何の変哲もない朝の情報番組。
いつもと違うところを無理矢理に挙げるとすれば、女性キャスターの表情が幾分硬いところだろうか。
何か大きい事件でも起こったのかと、靄のかかった頭で考える。
ニュースの内容が目に入った。
瞬間、脳内に電流が走ったかのように、目が覚める。
そして、絶句した。
テレビでやっていたニュース。
それは――。
『繰り返します――昨日夜、東京世田谷区の一軒家に何者かが押し入り、一家全員を殺害したのち、現金や腕時計など奪って逃走しました。警察は強盗殺人事件として犯人の行方を捜査しています。
今日未明、近くの住人から警察に通報があり、警察官が駆けつけると部屋の中が荒らされており、腹から血を流して倒れているこの家に住む山田さん一家三人を発見しました。三人はすぐに病院に運ばれましたが、死亡が確認されました。警察によりますと、亡くなったのはこの家に住む医師の山田恭一さん四十九歳と、妻の京香さん四十六歳と、長女のリョウさん十八歳です。現場では、昨夜、激しい雨と変電所に落ちた雷の影響で停電が起きており……』
ひとりには、そのニュースキャスターが何を言っているかまったく理解ができなかった。
聞こえていないわけではない。テレビの音量はいつもと同じで、キャスターもはっきりとした口調でニュースを読み上げている。
「は?」
それでもひとりには、理解ができなかった。
テレビに現場の様子と称して一軒家が映し出される。
リョウの家だ。昨日行ったリョウの家だ。
そう頭が理解すると、次第にすべてが遠のいていって、砂嵐のような雑音だけが耳に残される。
視界も崩れ去って、何がなんだか分からない。
心と体が拒絶している。
「ひとりちゃん? ひとりちゃん!」
両肩を掴む母の手と声に少しだけ現実に戻された。
「ひとりちゃん。リョウちゃんって……バンドの子……よね?」
驚きと悲しみに満ちた声が鼓膜を震わし、機械的な電気信号として脳へ伝えられる。
「うん」
空虚に響く音。
自分ではない誰かが答えていた。
「何かの間違え……よね?」
信じたくない。そう母の声色から伝わってくる。
「そ、そうだよ! ひとり! なんかの間違えに違いないよ!」
父は父で、ひとりにどう接したらいいか分からないのか、空元気のような調子になってしまっている。
「うん」
意識がふわふわして、二人の声すらも現実感が希薄だ。
まるで狐につままれているかのように、ポカンと無意識に開いた口が塞がらない。
その感覚が拭えないまま、おぼつかない足取りで廊下に出る。
現実の理解のできなさに眩暈を覚えるが、必死に気を保つ。
「ど、どこに行くの? ひとりちゃん」
母親は心配と疑問が混じった声で、ひとりに声を掛ける。
「……スターリー。確かめに行く……」
ひとりは生ける屍のようにふらつきながら、誰もいない空間に向かって話す。
「今日はお家に一緒にいましょ? 学校とかもいいから、ね?」
「――っ! 行かせて!」
母は手を掴んでひとりを止めようとするが、ひとりはその手を振り払って鋭い眼光で切りつけた。
別人かと疑うほどの大声と語気の強さ。
娘の行動にただただ驚くしかない三人は、雷に撃たれたかのようにショックを受けて呆然としている。
そんな家族と凍りついた空気を置いて玄関から外に飛び出す。
誰も追いかけてはこなかった。
いつものシーサイドラインの高架下。
いつもの道を駅に向かって歩く。
違うのは心の中だけで、雲の一つもない青空も、日の光も、磯の香りも、そのすべてがウザったかった。
頭の中がごちゃごちゃしてイライラする。
頭を掻きむしりながら、リョウにロインをしてみる。
既読はつかない。
電話も掛ける。
応答はない。
液晶パネルに冷たく映るリョウとのトーク画面が、事実が現実だと伝えているように思えた。
「どうして……っ!」
――着信音。
藁にも縋る思いのひとりは、ほとんど脊髄反射で画面を確認した。
リョウではなかった。
また一段と気持ちが落ちていく。
どうせ家族からだろうと考えながらスマホを改めて確認すると、その画面には「喜多ちゃん」の文字列が表示されていた。
郁代からだった。
画面をスワイプし、耳元に持っていく。
「……もしもし、ひとりちゃん。………………聞いた?」
思いのほか落ち着いた声で、郁代はひとりに話しかけてきた。
「……はい」
今朝のニュースを思い出しながら答えるひとり。
沈んだ気持ちに変わりつつあったが、どこに向けるわけでもない怒りが再沸してきた。
「リョウ先輩が……そんなことって……! 嘘だよね? 嘘、だよね……?」
ひとりの声を聞いた途端に、それまで抑えていた感情が溢れ出して、郁代はもう泣き出してしまいそうだった。
自らの胸中とは対照的に、郁代の中には悲しみが満ち溢れていた。
「…………喜多ちゃん。これからスターリーに行きませんか……もしかしたら……もしかしたら、ニュースが間違ってて……、フラっとリョウさんが来るかも知れませんし……」
口が勝手に動き出して、言葉を紡ぐ。
自分は何を言っているのだろうか。だって、リョウはもう――。
「……そ、そうね。今から行くわ……向こうで会いましょう」
そう言って、プツリとくぐもった郁代の声は波音に溶けていった。
人が往来し、車が忙しなく行き交う中、金沢八景駅へ向かう。
歩みを進めるたびに煮立っていた頭も冷却されていき、現実を認識しようとする。
だけど、歩みは止まらない。
後ろから迫る現実から逃げるように、歩くスピードを上げていく。
全力で、自分の体に追いつこうとする冷たさから走って逃げる。
人にぶつかっても、転んでも、走る。
一縷の望みに賭けたい。
そんな気持ちだけが、ボロボロの体を動かしている。
駅前の交差点。
目と鼻の先に駅がある――あるのに、永遠に変わらないのではないかと思える信号のせいでたどり着けない。
それを怒りとも、焦りとも言えない感情で待つ。
歩行者用の信号が青に変わった瞬間、一番に走り出した。
人が乗り、思うように動けない駅のエスカレーターは待っていられなくて、階段を転びそうになりながら、ひとりは駆け上がる。
勢いよく通り過ぎて改札のフラップドアに止められそうになっても、気にしない。
周りの目だって、気にも留めない。
自分で走ったほうが早く着くんじゃないか――。
そんな気持ちになるほど、たった一、二分の電車の待ち時間が長く感じた。
陽光
下北沢駅で郁代と合流しスターリーに向かう。
話すことなどない――。
掛ける言葉もない――。
目を背けるようにただ無言で歩く。そうしていなければ、感情に溺れて深い水底へ沈んで行ってしまって、もう帰ってこられない。
そんな予感が二人の体を支配していた。
途中のスーパーの喧騒も、道行く人々の話声も今は遠い。非現実的なものとして、体が拒む。
いつも通りなら、この時間は開いているはずのライブハウスの重い扉は、理想と現実を隔てているように固く閉ざされ、びくともしなかった。
「……虹夏ちゃんちのほう、行ってみましょう」
「うん」
階段を上がり、建物の入口へ回る。
虹夏の家には何度か行ったことがあるので、部屋番号は分かっていた。
その頭の中にある番号をエントランスのインターホンに入力し、呼び出しボタンを押す。
ピンポーン。
二人だけのこの空間に虚しく響き渡るその音が、ちょうど空気と混じり合った頃。星歌の声が聞こえた。
「とりあえず、うちに入って……」
平坦なその声からは、感情は読めない。
だが、嫌な予感を感じさせるには十二分と言っても過言ではなかった。
その予感の確証を早く確かめろと言わんばかりに、自動ドアが静かに開き、重いものに体を締めつけられながら、エレベーターで虹夏の部屋がある階まで上がる。
部屋の外にあるインターホンを押すと、すぐに星歌が扉を開けてくれたが、ドアが開くまでのほんの数秒が無限にも引き延ばされているように感じた。
「…………いらっしゃい……虹夏は、自分の部屋だ……。声掛けてやってくれ。私じゃ――」
消え入るような「どうにもできない」は悔しさと悲しみを含んで、心の深いところまで刺さる。
虹夏の家のにおいも、肌に触れる風の流れも、もう感覚が鈍って何も感じなかった。
「はい……」
「……――」
「……虹夏ちゃん……」
「伊地知……先輩……」
凍てついた雰囲気を纏う部屋のドアを開け、ひとりと郁代は虹夏に声を掛ける。
「……二人とも……来たんだ……」
どこか儚げにしゃべる虹夏は、リョウの私物で囲まれた自分のベッドで静かに座っている。
部屋の空気は淀んで、まるで時が進んでいない。
「……死んじゃったね、リョウ……」
窓から差し込む陽の光を背に、穏やかな表情を浮かべながら話す虹夏。
その様子を見て分かってしまった。
体が頭に追いついてしまった。
そう思った瞬間、手に温かい雫が落ちる。口に入る味は塩辛い。
自分の顔を触って、確かめて、それが涙だと分かったときにはもう止まらなくなっていた。
頬を涙の川が濡らしていく。
今までに感じたことのない強い感情の奔流が体を押し流して、どうすればいいかまったく分からない。
「ううっ……!」
「……っう……っ……リョウ……先輩っ……うう……なん……っで……!」
虹夏は、私も同じ気持ちだよと言わんばかりに二人の肩を抱き寄せる。
近くで感じる虹夏の匂いはひとりを安心させて、涙の歯止めが効かくなってしまう。
昨日は元気だったのに……。
これからもバンドを続けて行きたいって言っていたのに……!
やりたかったことが、やれなかったことに変わっていく――。
口に出せばすぐに終わってしまう、儚い「さよなら」の響きさえ、もう告げることは叶わない。
喪失感なんて言葉で表すことが愚かにも思えるほど、全身に蔓延る悲しみと苦しみ。
一体どうして、こんなに辛いのか。
「……ううっ……うぁぁぁ……!」
「先輩っ……! ああああああ……!」
最初は押し殺すように泣いていたひとりも郁代も、悲鳴に似た泣き声に変わり、空をも割るようだった。
「…………ハンカチあるよ……」
優しい声で話しかけながら、虹夏はハンカチを差し出す。
「すん……ありが……ううっ……とうございます……」
「……うっ……すん……っ……すん……すみません……」
涙が止まりつつあるとはいえ、まだまだ上擦る声を抑えながら話す二人。
「ううん。泣きたいときは泣いてもいいんだよ……リョウをこれからも想っていけるのは、生きている私たちなんだから、自分の気持ち……大事にしないと」
そう虹夏は慰めるように、諭すように静かに語った。
「……虹夏ちゃんも……いいんですよ。泣いても……」
ひとりは、嵐が来る前の静けさにも似た、不自然なほど何もない虹夏を慮る。
「ううん。大丈夫。さっきまでメチャクチャ泣いてたから……恥ずかしいけど。だから、少しだけ気持ちの整理がついたというか……」
少し笑いながら、虹夏はそう返した。
だけど、その涙の跡さえない目元を見れば嘘だということは一目瞭然だった。
私たちを心配させないように、嘘をついて、自分を騙して、強がっている。
こんなときは自分たちがどんなことを言っても、虹夏は聞く耳を持たないのだろう。だから、そっとしておくしかない。
「でも……ううん。なんでもないわ」
同じことを思ったのだろうか、何かを言いかけてやめる郁代。
「……ひとりちゃん。もう、帰りましょう……私たちにできることは、気持ちの整理をつけることだけだから……」
郁代は無力感に苛まれているような顔と苦しそうな声で、そう、ひとりに話しかけた。
「そう、ですね……」
ひとりはそう答える。
「じゃあ……虹夏ちゃん、私たち帰りますね……」
「うん……」
この部屋に入ったときと同じように、虹夏はどこか心あらずといった様子だった。いつもなら「送っていくよ」の一言がありそうなものだったが、それもない。
虹夏の部屋のドアを閉めて、星歌がいるリビングへ踵を返そうとする。
だが、足が動かない。
ただ黙って床に視線を落とすだけ。
「……」
「……」
本当は目を背けたいし、こんなものは悪い夢だと言ってさっさと目を醒ましたい。
でも、そんなのは幻想だって知っている。
震える手が、上手く吸えなくなりそうな呼吸が、涙が絡む声が、こんなものでも現実だと教えている。
「……虹夏、どうだった?」
ひとりと郁代の様子を見に来た星歌が話しかけてきた。顔には虹夏を想う気持ちが滲み出て張りついている。
「……分かりません。気持ちの整理がついたって言ってましたけど、私には全然……」
郁代も悲しみと心配が混じった声色で目を伏せながら答えた。
「…………て、店長さん……もう、帰りますね」
「ああ……ありがとう」
「い、いえ」
「先輩のことよろしくお願いします……」
「ああ……」
そう星歌はどこか虚ろな雰囲気を漂わせる言葉で返事をして、二人を見送る。
その手は、力なさげに空中で揺れていた。
スターリーから駅までの道のりは平日にも関わらず、暖かくこともあってか人が多い。
そんな中をかき分けて進むたびにひとりの気分は落ちていった。
世間は自らに関係のない人間が死んでも何も思わない。気にも留めない。
そんな自分も持っていたはずの普遍的な考え方がどうしようもなく気持ち悪く感じる。
そう考えたら、何度も吐きそうになった。
怒り。諦め。呆れ。悔しさ。悲しみ。自己嫌悪。
そんなものが頭の中をグルグル回り眩暈がする。
いつしか、腰が抜けて立てなくなってしまった。
「だ、大丈夫!? ひとりちゃん!」
郁代はひとりの手を掴んで体を支える。
「は、はい……ちょっと……休んでもいいですか?」
「うん……」
ひとりの声は、荒れ狂う感情の波をそのまま外に出したように震えていて、郁代の返事はどこか空っぽ。
体の動きに感情がついてこれていない。
そんな郁代に支えられながら、おぼつかない足取りで、ヴィレッジヴァンガード横の段差に二人して腰を掛ける。
「…………」
「…………」
お互いに黙ったまま、空を見上げる。
朝とは変わって、春らしい少し霞がかった青になっていた。
その蒼は、町行くヒトと無機質なコンクリートでできた砂漠の唯一のオアシス。
蜃気楼に阻まれることなく、その輝く水を手で掬うことができる。
ずっと空を見ていると、周りの喧騒は段々と遠くにいって、空に吸い込まれそうな感覚になって、何も考えられない。
――でも、そういう時間が必要だった。
狭い空の端っこにあった雲が、風に流されてどこかに行ってしまった頃。
「……そろそろ行きましょうか」
「そう……ね」
ひとりと郁代は静かに立ち上がって、歩き出し、駅前で郁代と別れた。
その後――どう帰ったか分からないが、家の前にひとりは立っていた。
辺りはすでに夜に染まって、家々の窓からは温もりの光が溢れ出ている。
足には筋肉痛のような痛み。まさか、歩いて帰って来たのだろうか。
だが、その乳酸たちのおかげで、今見ているものが夢でも幻でもないことを改めて分からされた。
自分のこの体に走る痛みだけが生をもたらしてくれているようで、ひどく皮肉的に思える。
どこか嘲るような乾いた笑いを心の奥に隠して、確かな感覚を手に触れる夜の空気に覚えながら、ひとりは玄関の扉を静かに開けた。
ドアの隙間から見える廊下は暗く、リビングから漏れた光が掴みどころのない線になっている。
その様子を見ながらたまゆら佇んでいると、廊下に母が出てきた。
「ひ、ひとりちゃん……? ひとりちゃん!」
そこへひとりがいると思わずやって来た母の驚きの声に、反射的に顔を母のほうへ向けるが、その先の言葉は出てこない。
リョウのことがあって、感情がぐちゃぐちゃになって、朝、あんなことをしてしまった。
気持ちの整理なんかついていない。
それどころか、さらに酷くなっている。
今、口を開けば、また傷つけてしまうかもしれない。
それが怖くて、ひとりは何も言えずに突っ立っていた。
「……」
「おかえり」
いつも通りの笑顔と優しい声がひとりを包む。
「……っ!」
こんなに現実は辛くて、苦しくて、虚しいのに、ここはこんなにも温かい。
それに気づいた瞬間、いろいろな思いが心を大きく揺さぶって、全身を貫く。
もう限界だった。
せき止めていた何かが壊れたかのように、涙が止めどなく溢れ出る。
「うっ……ううっ……」
そんなひとりを母は抱きしめた。肌から伝わる体温が、鼓動が温かい。
「……うんうん……」
「うっ……すん……うう……」
「――だから……誰かに助けてって言ってもいいのよ」
「……うっ……リョウ、さんが……リョウ……さんがっ! う……うわあああああ!」
幼子のように泣きじゃくる。
体の水分が、ほとんど出てしまったのではないかと思うほど泣いても、泣き続ける。
自分がなんでこんなに泣いているのか分からない。それほどまでに、いろいろな感情が渦巻いていたから。
でも、そんなことはどうでもよかった。
この体で、この心で、感じる温かさ。それさえあれば十分だった。
「……ひっく……うっ……う……すん……」
「よしよし……いい子いい子。……もう大丈夫そう?」
「すん……すん……うん……」
頭を撫でながら、いつもと同じように接してくる母に、ひとりは心地よさを感じるのと同時に、どんなに経っても敵わないと思う。
もう高校生で、成長したと思っていた。それでも、まだ届かない。
――でも、こんな半人前の自分にもできることはある。
「……ただいま」
泣き笑いの顔で、ひとりはそう返した。
それからの毎日は、普段通りに過ごすことにした。
朝起きて、顔を洗って、髪を整えて、ご飯を食べて、歯を磨いて、いつものジャージに着替えて、学校へ行って、真面目に授業を受けて、家に帰る。
日常で誤魔化して、見ないふりをしているわけではない。
むしろその逆だ。
もう戻ってこない自分たちの平穏は、日常の中にこそ咲くものだった。
日々を感じることで、リョウを傍に感じられる。
忘れず想い続けるということは、こういうことなのではないだろうか。
ただ、周りからの心配する視線や、好奇心に満ちた視線が体を焦がすことだけが、日常とは違う。
星歌の配慮もあり、スターリーのバイトもない。
そして、大切なメンバーを失った結束バンドも事実上活動停止。
ぽかりと開いてしまった一日のスケージュールの穴。
やっぱり、苦しい。
やっぱり、痛い。
やっぱり、悲しい。
あの日から二週間経った二十六日。
春休みに入り、学校に行かなくてもいいということ以外変化はない。
以前なら狂喜していたところだが、そんな感情は一切湧いてこなかった。
ひたすらギターを爪弾く毎日。
もう弾かなくても誰も迷惑しないのに、手が求めている。
そもそも、どうして自分はギターを始めたんだっけ。
自分の根源すらあやふやになってきそうだった。
それに加えて、数日前、虹夏からロインで、
「リョウのお葬式は、警察の捜査とかメディアの取材とかいろいろあるから、私たちは行けないみたい……」
なんてことを言われてしまった。
しかも、リョウの事件もいまだに進展がなく、穏やかな気持ちではいられない。
温かさは、胸に手を当てれば簡単に確かめられるのに、ここにあるのに。
世界を形作っているのは、血の通った人間だというのに。
世の中はこんなにも功利的で、機械的で冷たい。
感情と理性の狭間で、乖離していく現実に悶えながら、ひとりはそれでも毎日を過ごす。
そんなときだった。
リビングで家族と一緒にテレビを見ていたひとりのスマホから、着信音が鳴り響いたのは。
画面を見ると「店長さん」と表示されている。星歌からだった。
口では言い表せない嫌な感覚が体を取り巻き、背後からは寒気がにじり寄る。
「ちょっと、電話」
そう家族に言って廊下に移動したひとりは、決心して電話に出る。
悪い予感は当たってしまった。
「虹夏が……亡くなった」
輝く夜空に憧れた
言葉を失って、手からスマホがリビングの床に滑り落ちる。
ピシッ。
画面にヒビが入ってしまった。
「……ほっちちゃん? ぼっちちゃん! 大丈夫か!?」
切迫した声で星歌はひとりに呼び掛ける。
「だ、大丈夫です。スマホを落としちゃっただけ……です」
「……そうか」
掛ける言葉がなく、沈黙が場を支配する。
「……」
「……」
「……」
「……ごめん。ぼっちちゃん……」
星歌は今にも消えそうなか細い声でひとりに言う。
その声を聞いて、事の真実味が増していく。
「そんな……店長さんが謝る必要なんか……」
自然とその言葉がひとりから出た。そう、星歌は何も悪くない。
「……虹夏がこんなになるまで苦しんでたのに、きちんと向き合えなかった私のせいだ」
星歌は苦しそうに心中を吐露する。言葉の間に挟まる息からは、電話越しでも伝わる自責の念が滲んでいた。
「……」
「……」
「……」
「……ごめん。また後で連絡する……」
「……はい」
そう星歌はひとりに言うと、電話が切れた。
ただただ広がる静寂。
冷酷な現実だけが横たわる。
その現実に頭を強打され、視界の色が消えていく。
何も考えられない。考えられるわけがない。
頭の中は真っ白で、視界は灰色。
もうすべてが分からなくなって、笑えてくる。
「ふふ……ふふふ……ふふふふふ」
不気味に笑う声が聞こえたようで、リビングにいた家族は慌てて廊下へ来た。
暗い中一人で肩を震わせて笑っているひとり。
「どうした、ひとり?」
「ひとりちゃん?」
「お、おねえちゃんだいじょうぶ?」
心配して声を掛ける家族に構わず、ひとりは笑い続ける。
その声は夜に溶けまいと刺々しく廊下に響く。
「ふふふふふ……笑っちゃうよね……虹夏ちゃんに限ってそんなことって……ねぇ誰かそう言ってよ……」
状況はよく分からず、飲み込めはしないが、ひとりの普通ではない雰囲気が物語っていた。
さっきの電話は何かよくない知らせだったのだと。
例えば――訃報。
家族はひとりに言葉も掛けられず、神妙な面持ちでいるしかなかった。
「なんで、誰も、何も言ってくれないの……なんで……なんで……」
小さく掠れた声を絞り出すひとりは、力が抜けて膝から崩れ落ちる。
床に膝がぶつかり鈍い音がした。
「なんで……なんで……」
壊れかけの心を守るように自分の体を抱きしめる。
体に痕が残るぐらい強く。
だが――いくらそうしていても張り裂けるような悲しみは尽きない。
いくら泣き叫んでも体を蝕む艱苦は消えない。
「落ち着いた?」
そう言いながら、母は温かい液体が入ったマグカップを手渡してきた。
「うん……」
コップに満たされた茶色の飲み物を口に含む。
カカオの香りが鼻を抜け、舌の上を滑らかな甘みが踊っている。
「……」
「……」
気分は一旦落ち着いた。
「……ひとりちゃん……今日はもう寝ましょうか」
「うん……」
「……そうだ! 今日は一緒に寝ましょう?」
名案だとばかりに、突拍子もないことを口走る母。
「……い、いいよ。お母さん。私もう、高校生なんだよ……」
「高校生になっても、大人になっても――ひとりちゃんはずっとお母さんたちの子供なのよ」
ふたりちゃんもねと、笑いながら頭を撫でてきた。
「だからね、たまには……甘えてもいいんだよ?」
母と一緒に寝るのなら、自分も一緒に寝たいとせがんだ妹と母に囲まれて布団に入る。
一体何年ぶりなんだろうか、こうして一緒に寝るのは。
そう思いながらも、自分には謬悠とした出来事としか思えないことが体を犯して止まない。
それはまるで、煌々と燃え盛っている焚火に水をかけて、明るさも、温かさも、全部消し飛ばして辺りが真っ暗になってしまったかのようだった。
いつになっても落ちない瞼。
それは昨日と明日を繋いで、今日にする。
悲しみも苦しみも全部昨日に押しつけられない。明日の風に任せられない。
そんな今日の重みと濡羽色の夜は心を押し潰す。
一時間ほど経ったかと思えば、十分しか経っていなかったり。
十分ぐらい時間が過ぎたかと感じれば、一時間過ぎていたり。
不安定な時の進みの中、また太陽は昇る。
結局、一睡もできなかった。
灰色に思える生活でも、朝日の眩しさは変わらない。
それがとてもおかしくて嗤ってしまう。
普段の休日はこんなに早い時間に目を覚ますことはないが、もう眠れそうもないので起きることにした。
しぱしぱと不快感のする目をこすって、肺に空気を取り込む。まだまだ朝の空気は寒く少しむせた。
衣服の隙間から入る空気を肌で感じながら、廊下を歩いて階段を下る。
玄関からの光が差し込む廊下を通ってリビングに入ると父と母がいた。
「……おはよう。ひとりちゃん」
「おはよう。ひとり」
母も、父も、どうひとりに話しかければいいか逡巡したのち、いつもと同じように挨拶をする。
「おはよう……」
朝ごはんを食べる気分には到底なれそうもなく、テレビの前のソファーに座って、漫然と流れるニュースに耳を傾ける。
『――続いてのニュースです。昨日夕方、東京世田谷区下北沢の学校の敷地内で、若い女性が地面に倒れているのが見つかり、その後、死亡しました。学校の屋上からは、その女性が履いていたとみられる靴が見つかっていて、警察が詳しい状況を調べています。昨日午後五時ごろ、東京世田谷区下北沢にある学校の職員から「女性が学校の裏手で倒れている」と通報がありました。救急隊が到着しましたが、全身を強く打っていて、その場で死亡が確認されました。警察によりますと、女性は十代ぐらいと見られ、制服のようなものを着ていて、建物の屋上からは女性が履いていたとみられる靴とスマートフォンが見つかったということです。警察は身元の確認を進めるとともに詳しい状況を調べています』
途中、何かを察知した両親が、気を使ってチャンネルを変えようとしたが、淡々と次のニュースに移るまでひとりはその画面を凝視した。
「……そっか」
やっぱり、自殺だったんだ――。
薄氷はすぐに砕け散る。
「……」
「……」
心はもう動かなかった。
「時間だから……お父さん仕事行ってくるよ……」
そう言いながら、せかせかと準備をして席を立つ父。
その背中は、自分はひとりに何もしてやれないという無念さでしょぼくれ、肩を落としながら母とリビングを出ていく。
玄関から、いつの間にか起きてきたふたりと母の声で「いってらっしゃい」と小さく聞こえてきた。
「……ひとりちゃん。ふたりちゃんも起きてきたし、朝ごはん食べよ?」
そそくさとリビングに戻って来た母はそう言う。
「……うん」
ひとりはそう答えることしかできなかった。
トーストを口に運んで、スープを口に含む。
味もあまり感じなければ、匂いも希薄。
飲み込もうとするたびに戻しそうになる。それでも、なんとか胃袋に収めた。
「……ごちそうさま……」
このままここにいても家族に心配されるだけで面倒くさい。
そもそも、心配を掛けたくない。
これは自分の内側の問題だから。
そんなことを思いながら、ひとりは椅子から立ち、足早にリビングを出て自分の部屋に帰る。
襖を開けると、部屋が綺麗になっていた。
どうやら、朝食を取っている間に布団を片づけてくれたようだ。
スマホにも、ギターにも触る気が起きずにただ座る。
昼に母がご飯に呼びに来た以外、外が暗くなるまでずっとそうしていたような気がした。
明くる日も、ずっと静かに座るだけ。
そして、そんな生活を続けて数日経ったある日。
虹夏と会えることになった。
久しぶりに外に出て、季節の移り変わりを肌で感じる。
いつの間にか春はおろか、夏になりかけているような気候で、動くとじわっと汗が滲んだ。
その事実に、しまっておいたはずの嘲笑がこぼれるも、それを隠すようにして家族と一緒に虹夏の家に向かう。
虹夏に最後の挨拶を告げたいのだそうだ。
場所は虹夏と生前最後に言葉を交わした部屋ではなく、下のライブハウス。
来る者を拒むような陰鬱とした空気を纏っているそこは、活気溢れる音楽と古着の街、下北沢から今日だけは浮いていた。
中に入り、ドラマでしか見たことがないやり取りを経て、辺りを見ると、自分ら家族と同じように虹夏を偲びに来た人が目に入る。
スターリーのPAはもちろん、レーベルのマネージャーたち、シクハック、シデロスの面々まで来ていて、これまで結束バンドが歩んで来た跡そのものだった。
その中に真っ赤な髪の人物を見つける。
「……ひとりちゃん…………」
「……お、おはようございます」
郁代は両親とひとりよりも先に来ていたようで、備えつけのパイプ椅子に腰掛けていた。
その目の周りは赤く腫れぼったくしていて、泣いていたことは明らかだった。それにまだ、鼻もぐずぐず言っている。
「……」
「……」
「……ヒ……後藤先輩、喜多先輩……」
静かな空間にハッキリとした声が響く。声がした方を向くと、猫々と恵恋奈の二人がいた。
どちらとも今来たばかりで、階段を降りてすぐのところにいる。
いつもは体育会系のノリで接してくる猫々も、いつもはうるさい恵恋奈も、弱々しく身体を縮こませて、目を伏せるだけ。
特に、結束バンドとリョウを推していた恵恋奈は、度重なるメンバーの死と崩壊していくバンドに心がやられて、前に見たときに比べてやつれているように見えた。輝くような綺麗な黒髪も、今は喪服のように鈍く濁っている。
この場にいる全員が、重く苦しい空気の中で口を開くことなどできずにいた。
それは、虚ろな告別式の次第が一通り済んだ後も同じだった。
ひとりは式が終わった後も、席に体が貼りついてしまったかのように立ち上がれずにいると、星歌が話しかけてきた。
「……ぼっちちゃん。それに……喜多ちゃんも」
ひとりと隣に座っている郁代のことを柔らかい声で呼ぶ。
「……見てやってくれないか。虹夏の……最期の手紙」
星歌に連れられて、この上にある虹夏の家に向かう。
スターリーから出る階段でも、部屋に向かうエレベーターでも、三人の間には会話はない。
「ま、入ってくれ」
そう部屋に入る前に言われた言葉だけが、唯一の音だった。
赤いソファーに白と黒の市松模様の床。打ちっ放しのコンクリートの壁。
前に来たときより部屋が散らかっていて、少しだけ見えるキッチンのシンクには、重ねられたカップラーメンの空容器が溜まっている。
先に虹夏の部屋に行っててくれと言う星歌に促されるまま、部屋の前まで来たものの、ひとりは扉を開けられそうにもないほど手が震えていた。
あの日、自分たちで閉ざした扉。
もしもあのとき、もっと虹夏と会話していたら、虹夏の思いを引き出せていたら……。
ドアノブに手を掛けて震えを抑えようとしても止まらない。
「私も一緒に開けるわ……」
そう言って郁代が手を重ねてくれる。
だが、その手はあまりに冷たく、まるで氷のようで、郁代の心中も穏やかではないことを伝えていた。
やっとのことで開けた虹夏の部屋。
入った瞬間に懐かしい香りが鼻をくすぐって、記憶を巡らせる。
中は最後に言葉を交わした日と何ら変わっておらず、博物館の展示品のように触ってはいけない情調でいた。
もうこれ以上進むことのない時間に息が詰まりそうになる。
その苦しさにしばらく耐えていると、星歌がノートパソコンを抱えながらやって来た。
「これなんだが……」
そう言って星歌は、一緒に持って来たUSBメモリを取り出し、パソコンに差して操作した後、画面をこちらに向けてきた。
程なくして動画が再生される。
画面いっぱいに映ったのは、この部屋と虹夏だった。
『……ちゃんと撮れてるかな……? うん、大丈夫そう……。 これを見ているということは、恐らく私はもうこの世にいないでしょう。……って、ちょっと固かったかなー。こほん、改めまして……お姉ちゃん、お父さん、ぼっちちゃん、喜多ちゃん、それにライブハウスのみんな。おはよう? こんにちは? それとも、こんばんはかな? 虹夏です。…………今これを見ているみんなは、もしかして……ううん、怒ってる……よね? でも、それは当然だと思う。あんな身勝手なことされたら、私だって怒るだろうから。なんで相談してくれなかったんだ! ってね。でも、相談しなかったんじゃなくて、できなかったんだよ。もっと言うと、相談する資格がなかったんだけど……あはは…………正直に言うとね、私は……リョウが死んでから、一滴も涙が出なかったんだ。それは……リョウの死を受け入れられないだけだったのかも知れない。でも……そんな涙の一つも出ないなんて、自分がどれだけ冷たい人なんだって疑ったし、蔑んだりもした。…………大事な人の死ですら泣けない人は、相談する資格なんかない、よね……だから、私は一人で背負おうとしたんだよ。でも、結局ムリだったなー。こんなことになっちゃったし。……リョウが死んでからの二週間で分かっちゃったんだよ。この世は冷たいことで溢れてるってことが。まぁ、それは同時に世界には温かいこともあるってことの証明だけど……そんなこと考えてる余裕なんてなかったなー。…………リョウの死を乗り越える、結束バンドを引っ張っていく、お姉ちゃんの夢を一緒に叶える。そんなみんなが望む強い虹夏になる前に、気づいたんだよ。リョウがいない世界がこんなにも寂しくて、悲しくて、苦しいことに…………あー懐かしいなぁ、お金がなくて草食べたり、ぼっちちゃんに借りたり、ジェットコースターで腰が抜けたりさ。リョウがバンドのことちゃんと思っていてくれたって分かったときは、すごく嬉しかったなぁ。あーあとは、意外とビビりだったり、照れ隠ししたり、学校だと私に頼りっぱなしだし。まぁあれはネクタイ直したり宿題見せちゃう私も悪いんだけど……リョウとの毎日は、怒ることもいっぱいあったけど、楽しかったなぁ……でも……そんなリョウはもう……いないんだよ……そんな風に考えると、私って今、生きてる意味ある? そう思えてきたんだよね。確かに、私にも道を照らすほどに輝く叶えたい夢はある。でも、夢っていうのは、今を積み重ねた先で叶えるものでしょ。今を生きる糧がない私は、夢を理由に生きていてもいいのかな。……悔しいなぁ。みんなと一緒に武道館に立ちたかった。床をスターリーと同じ柄にして、それが見えなくなるくらいお客さんを入れるの……そんなことを夢見てた。スターリーだって今よりもずっとずーっと有名になった姿が見たかった…………。夢はどんな辛いときでも道を照らしてくれる光になる……そうお母さんは言ってたんだよね、お姉ちゃん。でも、リョウが亡くなった今、結束バンドのメンバーが欠けた今、遠くで輝いていた光は私には見えなくなっちゃったんだよ……。………ごめん。………私にはこんな言葉しか言えない。…………何回言っても足りないし、お前が何言ってるんだって思うよね………でも、ごめん。……………お姉ちゃん……ごめん。一緒にスターリーを見守っていけなくて、私のためにお姉ちゃんはバンドを辞めて、スターリーを建ててくれたのに……恩返しの一つもできなくて、ごめん。………お父さん………いつもお仕事頑張ってるのに、こんな娘が頑張れない子でごめんね………お母さんが亡くなったときだって、辛かったはずなのに、またこんな思いをさせてごめんね。………ライブハウスのみんな。こんなお姉ちゃんだけど、これからも支えてあげてください……特にPAさん……私が死んだら、お姉ちゃんはすごく悲しむと思う……そのときは、支えてくれると嬉しい……です…………ごめんなさい……こんなお願い厚かましいですよね。……ぼっちちゃん、喜多ちゃん。リーダーであるはずの私が、こんなに無責任でごめんね。バンドのこと思ってくれてたことは、知ってる。血の滲むような努力をしてきたのも、知ってる。そんな思いを踏み躙っちゃって……ごめん。ううん。ごめんなんかじゃ足りない。それだけ、私がバカなことしたのは分かってる。分かってるけど……耐えられなかったんだ。もし……もしだよ。生まれ変わったら……またバンド組んでくれる? もちろん、リョウも入れて。……だって私たち、カルマで結ばれてるんでしょ。ぼっちちゃん言ってたよね。……なら、きっとまた会えるよね。……もっとみんなとお話したかった、もっとみんなとライブしたかった、もっとみんなとくだらないことで笑い合いたかった……でも…………もう行かなくちゃ……いつかどこかで、また会えることを楽しみにしてるよ! みんなバイバイ!』
画面から、笑顔で別れを告げた虹夏が消えた。
所々声が掠れていた。けれど、少しも涙を見せなかった。
それどころか、笑って見せた。
強くないなんて嘘だと思うほどに、虹夏は最期まで頑張っていた――。
「うっ……う、うわああああああああ!!!」
動画の終わりまで耐えていた郁代も、ついには耐えられず哀哭が部屋を満たす。
だが、ひとりは涙はおろか、虹夏を想う声すら出なかった。
急に重い鉄球が胸や腹に押し掛かったような感覚が襲って、異常に息が浅くなる。
自分でも分かるほど瞳孔が開いて、その奥の水晶体に暗い現実を映し出す。
あの脳裏に焼きついた笑顔がただ眩しくて、痛かった。
嗚咽交じりに泣いていた郁代が、少し落ち着いた頃。
部屋の壁に飾られている数々の写真――『虹夏ヒストリー』を一枚一枚指で差しながら、古いアルバムをめくるような昔を懐かしむ声で、星歌が話し始めた。
「――これとか、その写真は、虹夏が幼稚園か小学校低学年のときのやつだ……。懐かしい」
どこか遠くを見つめながら、思い出を語り出す。
「……全部虹夏の顔がムッとしてるだろ、この頃の私は、段々とライブの箱が大きくなっていったり、レーベルから声が掛かるかも知れなかったりして、家族のことより、バンドのことしか頭になかった。バンドをやっていればそれだけで十分だと思えた。夢があれば私の世界は満たされていた――無敵だった。だから、虹夏にかまってやれなくて、よくいたずらされたな。アンプの音をデカくするやつが、一番キツかったっけ」
誰かに話しかけているようで、話しかけていない。
誰にも話しかけていないようで、虹夏との思い出を聞いて欲しい。
そんな星歌の言葉に相槌すら打てない。
ただ、ただ、出会ってない頃の虹夏に思いを馳せる。
「……この写真は、スターリーをオープンさせたときのだ…………母さんが亡くなって、塞ぎ込んでしまった虹夏を、初めてライブに連れて行ったときのあの顔が忘れられない。あの顔をもう一度見たくて、私はバンドを辞めて、ライブハウスを開いたんだ」
星歌の視線が遠いところから自分の手元に移り、苦しそうな悔しそうな表情に変わる。
「世界一仲のいい姉妹になる――そう母さんと約束したけど…………このざまだ。全部……私のせいだ……私がもっと向き合っていれば……私はもう後悔したくない、しないって決めたのに。こんなんじゃ母さんが報われない。顔向けできない。……私は……姉ちゃん失格だ……何が、世界一仲のいい姉妹だ。……何が、これからは助け合って生きていこうだ。……そんな約束も守れないクソみてぇな私の命なんかくれてやる。……だから、だからっ! 虹夏を……返してくれ……神でも仏
でもいいから誰か……虹夏を救ってくれ……っ!」
宛先のないその悲痛な叫びと慟哭は、部屋の中を虚しく響き渡った。
いつの間にかこの部屋に来ていたPAが、星歌の背中をさすりながら肩を震わせ泣いている。
ひとりと郁代は、触れてしまったら壊れてしまいそうな星歌に言葉を掛けることはできず、悲愴な思いが体を貫くばかりだった。
「虹夏ちゃん。また、来ますね」
ひとりは、今にも落ちて来そうな鈍色の空の下、一人帰り道で呟いた。
ガラスの矮星
実を言えば、虹夏の家に行った当日は、鬱々としていた気分が幾分かマシだった。
ご飯もいつもよりは食べられる気がしたし、人混みに紛れても耐えられた。
だが、そんな状態も長くは続かない。
昼は常に眠く、夜は眠れないなんて日常茶飯事。
月日を重ねれば重なるほど、意識は深海に沈んで行ってしまう。
息の続かない毎日。
漠然とスマホで、SNSとどうでもいいニュースをスクロールするだけ。他に何もする気が起きない。
入り浸れば入り浸るほど、段々とおすすめ欄が憂鬱げな投稿で溢れ始めてきた。
まるで自分が傷の舐め合いをしたいと、機械に認知されているみたいだった。
「助けて欲しいのは、こっちなんだけどな……」
この現状を嘆いて、というわけではないが試しに口に出してみる。
だが、心の中にさざ波すら起きない。
乾いた言葉の羅列が偶然、意味を成しているように見えただけ、そんな感じだった。
家出だの、うつ病だの、画面の向こうで不確かな情報に踊らされる可哀そうな人たち。
そんな嫌気が差しそうな人に自分がなってしまう前に、ひとりはアプリを切り替えた。
だが、その先で待っていたのは、事件の話。
リョウのことや、虹夏のことが記事になっている。
世間を賑わさせている事件と、それに関連する自殺だ。どこのニュースサイトもこぞって扱っていた。
事実のみを伝えるサイトもあれば、どこかの大学の教授だという大人が勝手に事件について語っているものもあり、リョウと虹夏の何を知っているのだと、そう思った。
そして、息を吸うように暴言が飛び交うネット空間と、人々の繋がりが一人の人間が背負える許容範囲を超え、皮肉にも化学反応が起きなくなったこの冷たい世の中だ。もちろん誹謗中傷もあった。
『強殺されるとか、セキュリティーガバ過ぎ』
『自殺って、本人に問題あったんだろ』
『殺されたやつの家、金持ちだったらしいぞ。これはあれだな、他のメンバーが殺ったんだろ。バンドマン金ないもんなー』
リョウのこと、虹夏のこと、それから――ひとりと郁代二人のこと。
根も葉もないただの妄想と、攻撃的な言葉が書き連ねられていた。
本気で自分が正義側だと思っているのか、他人の気持ちを踏み躙ることで憂さ晴らしをしているのか分からないが、安全圏から悪意は降り注いで、足元に影を落とし、顔は一段と陰りを帯びる。
そんなコメント自体の総数は少なくても、たった一つでもあれば周りは追従するし、その一言が、水に落とした一滴の墨汁のように心の中を染め上げる。
――本当に自分が悪かったのではないか。
そんな気すら起きるほどの黒。
言葉の刃で、槌で、もうボロボロだった心はさらに惨めになって、自分を守るため、気づけば他人の心の声を受けつけなくなってしまっていた。
もう、誰の話も見たくないし、聞きたくなかった。スマホだって部屋のどこかに放ってしまった。
だが、家族と同じ屋根の下で暮らす以上、顔を見合わせて会話をしなければならない。
それを避けるために、嘘を並び立て、取り繕う。
罪悪感という絶対的な壁が、自分とたった一つの家族とを隔てていた。
太陽が何度死を迎えたか分からなくなって幾日。
「ひとりちゃんおはよう」
鬱陶しい朝に嫌気が差しながら階段を下りたところで、洗面台のほうから出てきた母に話しかけられた。その手には、洗濯物で満杯のかごを抱えている。
「……おはよう」
ひとりは条件反射で言葉を返した。
「朝ごはん食べる?」
「……うん」
そう言ったものの出されたご飯が喉を通らない。
努力をしてもはっきり言って半分近く残してしまった。
「もう、ひとりちゃんこんなにご飯残して、ちゃんと食べなきゃだめよ」
困り笑いのような声で母は言う。
だが、その目元は憂いに満ちていて、ひとりを心配していることが明白だった。
「おねえちゃん。ちゃんとごはんたべないと、おおきくなれないっておかあさんいってたよ」
ふたりは、いつもと同じようにひとりに言う。
「……今日はちょっと……お腹いっぱいで」
「……仕方ないわね――」
その母の吐息には確かな意志が灯っていた。
母も、父も、ふたりも出掛けているその日の昼。
人間の性なのか、見たくないと思っていても、知りたくないと思っていても知りたくなってしまう。
ついには、膝を抱え怯えながらリビングのテレビでワイドショーを見てしまった。
初めは目に映るものすべてが過剰な刺激となってひとりを襲ったが、慣れてくれば大したことはなかった。
久しく情報を遮断していたので、普段ならどうでもいいと感じるコメントにも新鮮味を感じて、目的もなく見入ってしまう。
ふと、画面左上の時間を知らせるテロップに目を向ければ、『六月十三日』、そう表示されていた。
あの日から実に三ヵ月経過していた。
だがそのことにあまり驚きはなく、ただ、時の無常さが心の奥底まで染み渡った。
このまま動画サイトから持って来た映像について議論するかと思った矢先、スタジオが一気に騒がしくなる。
キャスターの男性は、スタッフから受け取った原稿に素早く目を通し、速報のテロップとともにハッキリとした声で話し始めた。
『――えー速報です。三月に発生した一家三人を殺害し、金品を強奪した強盗殺人事件ですが、犯人が逮捕されたようです……』
そのニュースに心臓が止まるかと思った。
そして一拍おいて、純粋な安堵が胸に去来する。
これでリョウが報われる。そう思った。
ここ一ヵ月で一番大きいと言えるこのニュースに、番組は予定を変更して報道を続ける。
段々と明らかになっていく事件背景に、急遽用意したホワイトボードは黒いペンで塗りたくられ、瞬く間に刑事ドラマで見たことがあるような図に変わっていく。
続く不景気に生活費のため借金を繰り返すも首が回らず、お金欲しさにSNSで募集していた高額賃金を謳う仕事に手を出した。そんな情報がボードの上で踊る。
新しく伝えるものがないからと、耳にタコができるほど繰り返される同じ内容に段々と冷静になって、状況を咀嚼できるようになってきた。
すると次に胸の内に沸き立ってきたのは、憤りだった。
リョウとリョウの家族は、こんな奴らに殺されたのかと。
空っぽなはずの心で、熱を帯びた感情が反響して消えない。
さらに新しい情報が入ってくる。
それにまた一段と忙しくなるスタジオ。
今度は犯人の侵入経路のことだと、キャスターが言っていた。
番組では、ひとりの気づかぬ間に作られていたリョウの家の模型と指示棒を使って説明している。
それによれば、犯人らは開いていた玄関から堂々と侵入したという。
――では、なぜ開いていたか。
日常生活ではまずほとんど使われず、特定の楽器を演奏する者らしか使わず、親指と人差し指の間にちょうど収まるぐらいのプラスチック片。
そう、玄関ドアのロックを阻んでいたのは――一枚のピックだったのだ。
とんだ法螺話だと思うが、そうテレビの中の人物が言っているのをはっきり聞いた。
――あの日の記憶がすべてフラッシュバックする。
どこかで無くした一枚の赤いおにぎり型のピック。
そのピックを最後に使った場所は、リョウの家。みんなとセッションしたとき。
リョウも郁代もギターネックにピックを挟んでいて、あのとき、ポケットに入れて落とす可能性があったのは――自分ただ一人。
その考えに行きついたとき、熱したガラスを冷たい水に落としたかのように、ひとりの一切が砕け散った。
そうか――自分が、リョウを殺し、虹夏を殺し、結束バンドを殺したんだ。
だが、悲劇ともいえるこの真実だけが、取るに足らない自分を翻弄しているわけではなかった。
今度は、不景気から父が会社をリストラされてしまったのだ。
元来父は、自分にダンボールでマンゴー仮面のコスチュームを作れるぐらい会社では暇をしている、いわゆる窓際族だった。会社の運営が悪くなったとき、初めに首が飛ぶのは父だと思っていたが、まさかこのタイミングだとは、しかもよりによって、あの忌々しい犯人たちと同じものに、自分たちも苦しめられるなんて――。
どうして自分ばっかり、なんて言葉は何度脳内で繰り返したか分からない。
その文字列が、その感情が、レコードやテープのように擦り切れて、もう声にも出ないような乾いた笑いが出る。
それに加えて、この家を売り払いどこか別の場所に引っ越すとも両親は言っていた。
物心ついたときから住んでいるこの家を、数少ない友人たちの思い出があるこの場所を――捨てる。
帰るべき場所がここではなくなるのだ。
きっと両親もものすごく悩んだんだろう。
でも、これからの生活を天秤に掛けたとき、それは何より重くて、何をも超えるものだった。
ただ、それだけなのだ。
引っ越し当日の二十日。
家財道具は引っ越し業者を頼らず、父の昔のバンド仲間に運んでもらうことになり、そのトラックがつい先ほどここを発ったところ。
ふたりは保育園の友達たちに、母はママ友らに見送られていて、湿り気のある空気が辺りに広がっている。
久しぶりの外を苦痛に思いながら、ひとりはそれを後目に車に乗り込んだ。
「じゃあ行くぞー」
そう父が言うと、車の外の景色は動き出した。
サイドミラーにちらっと映っていた家は、遠く遠く小さくなって、いつしか完全に見えなくなる。
隣で泣くふたりを助手席からなだめる母。
窓から見えるスクロールは、時折、速度を変化させながら、陽の光に照らされて眩い喧騒と昼下がりの独特な閑静を目に届ける。
気づけば知らない場所――新しい家の前に到着していた。
ほとんどの時間をぼんやりしていたので実際の所要時間は分からないが、そう長い時間はかかっていない気がすると勘が言っている。
車を降りて辺りを見回すと、下のほうには他の住宅街や団地、遠くには駅が眺め、ここが少し小高い丘になっていることが見て取れた。
一方で、これからひとり達家族の住居となる建物は、前の家より狭く、外壁はくすんで年期を感じさせる佇まいでいる。だが、さほど酷いというわけではないようだ。
「ひとり……行くよ」
そう父に言われ、家族の後ろをついて家に入る。
そして、ギイと音を立てて開いた小さな門扉を通り抜け、ノスタルジックさを感じさせるこげ茶色の扉を開く、すると、知らない人の家のにおいとカビの臭いがツンと鼻を刺した。
家に上がると一通り部屋を見て回った。その途中で、違和感というより懐かしさのようなものをほんの微かに感じていることに気づく。
それもそのはずで、父の説明によれば、わざと部屋の配置が前の家とあまり変わらない家を選んだらしい。
なので、自然とひとりは二階の六畳一間を自分の部屋にすることになった。
襖を開けて中に入ってみると、前より古臭くて少し狭い部屋が目に入る。だが、それはもうどうでもよかった。
窮屈で、鬱屈としていて、何もない部屋。
自分の荷物だけ下ろし、仰向けに寝転がる。
なぜだが、階下から聞こえる物音と人の声がどこか浮世離れしているように感じて、浮遊感とともに意識は遠のいていった。
遠くで聞こえる聞き馴染みのない襖の掠れた音。
それはすぐに聞き覚えのあるものに変わった。
「……ひとりちゃん……起きて……もうご飯だから下に来なさい」
ゆさゆさと優しく体を揺さぶられ、ひとりは目を開ける。
部屋が薄暗かったため、廊下からの光が母のシルエットを浮かび上がらせていた。
「……お母さん……今日は、一人で食べたい……」
ひとりは、唇をか細く開けて答える。
「……分かった。晩ご飯こっちに持ってくるから」
自分のことを心配して、いろいろ考えてくれているのは理解しているし、何しろ肌で感じる。
けど、会話をしたくない。何も考えたくない。ご飯だって、そんなに食べたいわけじゃない。
何もかもが面倒で、する気がしない。
しばらくして、母の足音が部屋の外まで来た。
「ひとりちゃん。ご飯部屋の外に置いておくから、食べ終わったらキッチンまで持ってきてね」
「……うん」
母の気配が一階へ消えた後にひとりは、襖を開けてご飯を取る。
食べる気は全くしないが、一応口に運び、咀嚼し、飲み込む。
しょっぱい、甘い、酸っぱい、苦い、脂っぽい。
五味は微かに感じられるだけで、さながら食事ではなく摂取だった。
美味しいか、不味いかよく分からない。
途中、食べることを体が拒みそうになるが無理に口に押し込んで完食する。
キッチンまで持ってきて、と母に言われたことが頭をよぎるが、まったく動く気がしなかった。
食器はそのままにして床に寝転がり、部屋に広がる夕闇と対峙する。
初めは、暗いオレンジが天井に広がっていたがすぐに侵食されて、夜の色に視界が塗りつぶされる。
吸い込まれるような闇を見つめていると、不思議とこの暗闇の先にもう一人の自分がいてお互いのことを見つめ合っているような気がした。
その幻を掴みたくて手を伸ばす。
もちろんその手は空を切って床に落ちる。
まるで縋れるものも、助けてくれるものもないとひとりに教えているようだった。
笑える。
「ふっ……だって、私のせいなんだから」
正直に言えば、自分があのとき思ったリョウや虹夏を殺したなんていう世迷言は信じていない。
いや、信じていたら今この瞬間に自分はここにいないと思う、と言ったほうが正しいかも知れない。
自分が人を殺して正気でいられるはずがない、しかもその相手は大事な友達だ。
その後にどんな選択をするかは、言わずもがなというやつだろう。
それでもそう思うのは――そのほうが楽だからだ。
自分の存在意義。自分がしたかったこと。
そのすべてが今やバラバラに崩れ落ちて、ひとりを支えるものは、もはや存在しない。
アイデンティティーにしろ、バンドにしろ、何にしろ、だ。
――けれど、それが罰だとしたら。
持っていたもののすべてを奪われて生きなければならない罰だとすれば。
虹夏の最期の言葉を聞いた時から、いや、もっと前からこの首には冷たい絞縄が嵌められていたんだ。
こんな荒唐無稽なことでも信じていたほうが楽だと、ひとりは言霊で自らを呪う。
カーテンも何もつけていない窓から、朝日が顔に差し込んで目が覚める。
少し体を起こすと何かが体からずり落ちた。
柔らかい布で、掛かっていた部分がほんのりと温かい。
ひとりが寝ている間に、母だかが毛布を掛けてくれたようだ。それに、周りを見れば昨日の夕食の食器も片づけられている。
眠気で霧散している自己を拾い集めるように目のピントを遠くに合わせれば、薄い光に照らされた荷物も片づけていない煩雑な部屋があった。
それが霞む視界の端から端までを覆いつくして、荷物に一切手をつけずに寝てしまったことを思い出させる。
戻って来た感覚の中で、粘りつく咥内とカサつく喉が、水を欲していると体に訴えてくる。
そんな当たり前の生理的な欲求を前にして、自分の意志とは関係なしに体は先へ先へと進めたがっているように思えて嗤えてしまう。
相反する心と体。現実と今。
もう長いこと感覚に鈍くなって、おかしくなっている状態が続いているせいかも知れないが、何もかもがぐちゃぐちゃで、時の流れにすら疎外されているように思わずにいられない。
鳴りやまない思考を止めるためにも、ひとりは仕方なく水を飲みにいくことにした。
襖を静かに開けて、まだひんやりとした朝の空気が充満する廊下をギシギシと床を軋ませながら進む。
角を曲がり、薄暗く少し急な階段を下りても、一階には人の気配はなかった。かなり早い時間らしい。
水を飲み、用を済ませ、ついでにシャワーを浴びる。
刺すように降り注ぎ、体の曲線にそって流れる冷水だけが、自分に現実感をもたらしてくれた。
体を拭き、髪を乾かして服を着る。
帰り際、洗面台の鏡に映る自分の顔が目に入った。
目の下のクマが酷く、頬も毎日学校に行っていたときよりゲッソリしていた。
なんて顔をしているんだろう自分は。
これじゃもう両親はもちろん、ふたりにもバレてるんだろうな。
気丈に振舞えているつもりだったのに。
もう一度、鏡の中の自分を見る。
「ふ、ふふ……っふふふ……」
なんだか笑えてきた。
何もおかしいことなんてない。でも、それがおかしい。
なんで、自分は今もここにいて、息を吸っているのか。
なんで、ここには誰もいなくて、風呂場から聞こえる水滴の音しかないのか。
来た道を戻って自室に帰ると、また、あの荷物が散らばる部屋の光景が広がっている。
だが、それには目もくれずに、ダンボールを積み重ねた山の隣をすり抜けて窓に向かう。
そこから見える景色は、前の家よりも開けていて、少しだけ開けた窓からすうと冷たい風が顔に当たった。
その流れに乗り、外の音も部屋に入り込んで、木の葉のかすれ合う音や、窓の隙間に風が吹いて笛の要領で鳴る音が、空っぽの空間を満たしていく。
眼界の隅から隅まで薄く青く明るかった未明の空も、やがて東からオレンジ色に染まってまた新しい一日が産声を上げる。
――誰かの日常が今日も始まる。
朝日が昇った直後は、この世に自分以外の人間が存在するのだろうかと思えるほど、静寂を保っていたが、程なくして、生活音が響き渡り始めた。
どこか遠くに感じるその旋律を聞きながら、遥か彼方の奔放と空を翔ける鳥を虚ろに見る。
刻刻と時は過ぎていき、家の前の道を出勤する大人や学校に向かう学生が歩く時間になるまで、どこか現とは感じられない他人の日常をただ眺めていた。
しなければいけないこと。しなくてはならないこと。
そのすべてを投げ出してしまいたくなる。
日増しに強くなる過去の残響にすべてを捧げてしまいたくなる。
――誰かの始まりは、自分にとっての終わりだ。
傷は時間が癒してくれると、いつか誰かが言っていた。
だが、そんなのはまやかしに過ぎない――時間は傷を押し広げるだけで、慰めてくれるわけではない。
それは、家族にしたって同じだ。
血の繋がりはあるとしても、所詮は他人なのだ。
完璧にお互いのことを理解し合えるわけでもない。バンドも事実上崩壊してしまったし、家族を超えて理解し合える人はもういない。
結局、最初の朝から、最期の夜まで誰にも理解されない。
分かち合える人もいなければ、許しを乞える人もいない。
つまり、孤独だ。
最初は、その孤独を糧にいろんなことを努力できた。
ちやほやされるために始めたギターも、今では、自分の拠り所にまで昇華した。
自分を変えたくて、本気でバンドに打ち込んで、本気で悔しい思いもした。
だけど、全部見ているのは自分の演奏で、中身を見ているのではない。
独りを武器にここまで戦って来たつもりが、本当はみんながいないとただの鈍らなんだと、現実に気づかされた。
あの日、虹夏が自分をバンドに誘っていなかったら――。
あの日、リョウが大事な言葉を自分にくれなかったら――。
あの日、郁代が自分を遊びに連れ出していなかったら――。
すべて他人頼りだ。自分で動いて成し遂げたことなんて、片手で数えられるほどしかない。
つまるところ、巡り合わせがよかっただけの自惚れたバカだったんだ。
「でも、もういいや――」
憑き物が取れた表情でひとりは笑った。
落ちて、砕かれ、何もなくなった空洞の心。虚しい夜を超えて朝へと向かう風が吹き抜ける。
こうして、夜に描いた絵空事は眩い朝に消えた。
赤と夜
頭の中に自らの終わりを考え始めて数日。
自由になれると分かっていても、気分は変わらない。
この冷たい世界が嫌いで、そんな自分も嫌いで。
だったら、どこへと向かえばいいのか。
それすらもよく分からない。
でも、儚く消える白露のように、暴力的な朝の光を前に蒸発してしまったら、きっと心地がいいのだろう。
感情は死んで、視界の色も死んで、感覚というもの自体が死につつある今。
まるで虫の走光性がごとく、その蠱惑的な結末が喉から手が出るほど欲しくてたまらない。
その他すべてのことはもう、どうでもよかった。
死に場所を選ぶことすら、どうでもよかった。
死ねればどこでもいい。
虹夏みたいに学校の屋上からか、それとも、近くのどこかからか。
踏切に飛び込んでみるのも最期の体験としては面白いのかも知れない。
どこにせよ、なんにせよ、死ねればそれで満足だ。
そんなことを考えながら時間が過ぎるのを待って、ついに夜のとばりが降ろされる。
いつもはナイーブになる夜も、今日だけは味方だ。
家族全員が寝静まったことを気配で感じながら、月光で青白く薄明るい廊下を通って玄関へ向かう。
靴を履こうとかがんで、足をその中に入れようとしたとき、ひとりは、誰もいないと思っていた背後に何かの気配を感じた。
「ひとりちゃん。こんな夜更けにどこに行くの?」
「っ!」
その声に驚いて体がビクッと跳ねた。
声の主が誰だか一瞬で分かってしまった。
でも、今振り返ってしまったら、もう戻れない。せっかく決意したことも無駄になる。
この世の辛酸をすべて味わい尽くしたような日々。あの苦しみも無駄になる。
意味が無くなる。
こんな、何も持っていない自分から生きていた意味を奪わないで欲しい。
土足でテリトリーを踏み荒らさないで欲しい。
でも――ひとりはその声の主を確かめようとゆっくり振り返った。
微かな光で浮かび上がる輪郭は、頭の中に思い浮かんでいた人物を同じだった。
「……喜多ちゃん……どうしてここに……」
久方ぶりにしゃべったこともあり、声は掠れて聞けたものではなかったが、ひとりは突然現れた郁代に冷静に話す。
「全然驚かないのね。久しぶり、ひとりちゃん」
郁代は甘い声でひとりの名を呼びながら、一歩前に進み、冷光でその体の境界線をよりはっきりとさせる。
「……どうして……」
ひとりは自然と声が出てしまう。
「……」
郁代は何も答えない。
「……」
「ねぇ……ひとりちゃん……」
「……」
「一年生のときの文化祭でダイブしたこと覚えてる?」
どこか遠くを見つめながら、郁代は急に思い出話をし始めた。
「あのときは本当にびっくりしたんだから……でも、リョウ先輩はすごく笑ってたわね……」
「……」
「それから、未確認ライオット……あのときは本当に悔しくて、みんなで大号泣したわね……懐かしい……」
郁代の話は止まらない。
「あと、私の大学受験をどうするか、お母さんとちょっとケンカになってたときも――」
「……」
ひとりは何か言おうとしたが、口から言葉が出てこない。
「思い出が星みたいにキラキラしてる……」
微かな意志を混ぜ込んだ郁代の小さく息を呑む音が玄関に響く。
「だから……これからどこに行くつもりだったの? ひとりちゃん」
何が「だから」なのかは分からない。
でも、郁代が悲しげに笑う姿を見て、何を言おうとしているか理解できてしまった。
郁代はもう知っている。
自分がこれから何をしようとしているか知っている。
「……」
「……なんか言ってよ……」
「……」
ここにきて、郁代の声を聞いて、ひとりの口からはどんな言葉も出てこない。
自分は今になって怖くなったのだろうか。
「……」
仮に、そうだとしても言わなければならない。
映画に銃が出てくるならば、その銃の引き金は必ず引かれなければならないように、罪があるなら、贖わなければならないのだから。
郁代のほうをはっきりと向いて、消しカスみたいな独りよがりの勇気を振り絞り、ひとりは口を開く。
「……私は……私は、現実に向き合ってたんです。あの日からずっと。……それで、分かっちゃったんですよ。バンドがなければ、自分にはもうなんにもないってことが、この先ずっと真の意味で、孤独じゃなくなることなんてないってことが。鉄を弾けないこの手じゃ、もう、何も変わらない。変えられない。だから――」
「……だから、自分だけ楽になろうとしてるの?」
冷静な郁代。
その声にひとりの心の中にある種の安堵感が生まれた。
「……やっぱり……もう分かってたんですね……」
「……でも、そんなの間違ってる」
「……分かってます」
「……おかしいわ」
「……分かってます」
「……」
「もう、決めたんです」
「ダメよ……」
静かに呟く郁代。
その様子はまるで積乱雲のようなピリピリとした苛烈さを内に秘めている。
「……」
「……伊地知先輩が言ってたじゃない。亡くなった人を想えるのは、生きてる私たちだけだって……」
「そんな強い生き方……私には――」
郁代が強く手を掴んできた。
「それでも、ダメよ。自分で自分を殺すなんて……」
ひとりには響かない。
ここに至るまでにどれほど懊悩したか郁代は分かっていない。
自死を決めたのは、自分にとって、そう決めるしか他に選択肢がなかったから。
その他にどんな理由があるのだろうか。
人はお遊びでは死なない。
大なり小なり各々理由があって、その命の花は凋零するのだ。
だが、それを理解してもらえないのなら、もう二度と自分の手が届かないようなところまで突き放すしかない。
ひとりはその思いを悪意に変えて包み、郁代に言葉のナイフを突きつける。
「……そういう喜多ちゃんは、いいですよね……私と違って友達多いし、生活が充実してて、リョウさんのこととか、虹夏ちゃんのことなんてすぐに忘れて、気持ちを切り替えられて……本当に羨ましいです。それに、亡くなった人を想えるのは、生きている人だけだってって言った人はもう、この世にいないじゃないですか……そんな言葉に意味なんて……ないですよ」
ひとりの顔には卑しい薄ら笑いが浮かんでいる。
「……っ!」
郁代はショックを受けている様子で固まってしまった。
「……ほ、ほ、ほら、こんな風に人を傷つける最低な奴なんか、放っておいてください……それじゃ、またどこかで」
そう言って、手を振りほどく。
けれども、郁代へ酷いことを言ってしまった小さな痛みが、鍵を回しドアノブに掛ける手を震わせて、その動きを鈍らせる。
「――行かせないわ!」
躊躇いの刹那を突かれ、郁代に行かせまいとまた手を掴まれた。
振りほどく――でも、また掴まれる。
「……っ! じゃあ、じゃあ! 一体どうすればいいんですか!? リョウさんが死んで、虹夏ちゃんも死んで、バンドだって無くなって、もう何も残ってない! どうして……っ! どうして素直に逝かせてくれないんですか! 喜多ちゃんも分かりましたよね? 生きててもいいことなんてないって! ただ辛い、苦しい、痛いだけだって! 生きてて楽しいって思えたものは全部、辛いだけの記憶に変わっちゃったんですよ! 楽しかったこと、やりたかったこと、みんなの笑顔だって……っ! もう……こんな人生捨ててもいいじゃないですか……だから、だから……逝かせてください。お願いします……」
ひとりはなりふり構わず、惨めにへりくだる。
その様子に自分でもみっともないと思っていたら、突如、頬に痛みが走った――思わず頬に自分の手を当てて呆然としてしまう。
「……か……バカ……ひとりちゃんのバカ!」
真っ直ぐこちらを見てくる郁代の目の淵はもう決壊しそうだった。
「そんなの……そんなの分かってるわよ!」
郁代のありったけの思いが暗い廊下に響き渡る。
「リョウ先輩が亡くなって、伊地知先輩も亡くなって、毎日おかしくなりそうだったわ! 自分だけ生きてていいのか分からなくなって、何度も! 何度も! 何度も! 自分のことを傷つけようとしたか分からないわよ!」
悲しみも痛みも全部吐き出すように怒涛の勢いで話す郁代。
握りこぶしを胸に当てて、顔は苦しそうに歪んでいた。
「だったらっ!」
「人生はこんなにも辛くて不公平なんだって、幸せそうに笑う人を見て恨んだりもしたわ!」
「じゃあ……!」
「でも! そんなことできなかった……っ!」
「……」
「生きてるだけで素晴らしいとか、私はそんな綺麗事なんて言えない――でも! ひとりちゃんを死なせることなんてできないわ!」
郁代の思いが包み隠されることなく直接ひとりになだれ込む。
「……なんで! なんで……」
いろんな感情が被さってきて、ひとりは力が抜けたように膝から崩れてしまった。
「どうして……っ!」
「……」
「……どうしてなんですか……」
逮捕を目前にした犯人のように、諦観し抗う気を失ったひとりに郁代は声を掛ける。
「それは――」
言葉に詰まる郁代。
「それは……ひとりちゃん。あなたがいたからよ……」
「……え?」
想像の斜め上から来た返答に、驚き思わず顔を上げる。
「あ……」
優しく微笑む郁代の頬には、一筋の光るものが流れていた。
それを拭うこともせず、そのまま郁代は続ける。
「ひとりちゃんがいたから、私は今ここにいるのよ」
「……」
「……」
「……どうして、私……なんですか。どうして、私なんかが――私みたいなミジンコ以下が、なんですか……」
ひとりは、郁代が自分に固執する理由が一ミリも見つからず、ただただ困惑するしかなかった。
「……本当言うとね。私、ずっとひとりちゃんに憧れてたのよ。いつもは、面白い行動ばかりしてるけど……いざステージに立つと、私たちをリードしてくれてる。そんなひとりちゃんは、本当にかっこよくて――本物のヒーローだった。そんなひとりちゃんを、私はずっと見てきた……」
どこか懐かしむような優しい雰囲気を纏いながら郁代は答える。
「でも、あの日から全部変わってしまった……ひとりちゃんも分かるでしょ」
忘れられない。忘れるわけがない。
そのときの傷は今も全身を侵して、灼けるように痛むのだから。
「本当にまいっちゃって……さっきも言ったけど、私だけ生きててもいいのかなって、そもそも、私って今本当に生きてるって言えるのかなって、そう思ったら止まらなくて……手首を切ったらどうなるんだろうって考えてたわ。カッターを手に持って、刃を肌に当てるところまでいったこともあるのよ。こんなにも素晴らしくない景色を、こんなにも素晴らしくないちっぽけな自分を、許すことなんてできない…………だから、自分のこと傷つけようと思ったんだけど、なぁ……」
様々な記憶がフラッシュバックしたのだろうか、言葉の終わりになるにつれて、郁代の声は少し鼻にかかっていた。
「でも……カッターで切ろうとするたびに、あなたの顔が浮かぶの。それで大事なことに気づかされたのよ。ああ……誰かのために生きるってこういうことなのかなって。生きるってこういうことなのかなって」
どこか迷いが吹き飛んだような晴れやかな表情を浮かべる郁代。
「だから……だから……私は、ひとりちゃんのために生きたい。生きていたい」
いろいろな感情が混ざって収集がつかないはずなのに、最後は、涙を拭ってキリっとした顔で伝えた。
ひとりは分からなかった。
どうしてそんな顔で、そんなことを言えるのか、全くといっていいほど分からなかった。
でも、郁代の真っ直ぐな気持ちに自然と魅せられてしまう。
自分の中の小さな歯車がまた周り始めたような気がした。
その動きは体の中でうねって、渦を巻いて、一つの大きな流れになっていく。
いつしか、溢れ出した奔流はこぼれ落ち、玄関の床を濡らしていた。
「……あれ?」
目から滴る透明な液体を必死に拭って止めようとする。
ひとりは理由はハッキリしないが、そうしなければいけない気がしていた。
「もう……いいの。いいのよ……――」
そう郁代は言って、ひとりを壊れてしまわないように優しく抱き留める。
「こんな私が、本当に生きていてもいいんですか……?」
ひとりは郁代の抱擁に抗うように、ヒリつく思いを吐露する。
「……もちろんよ」
「……ああ……」
――涙。
目頭からも、目じりからも、流れる涙。
死ねなかったからじゃない。悲しいからじゃない。温かい涙でもない。
ただ、生きたいと願っている証左。
あんなに長い時間苦しみながら考えた結論だったはずが、たった一人の一言で簡単に壊されてしまった。
郁代の笑顔が、孤独を暴いて、生きていてもいいんだと許してくれる。
それだけでも救われた気持ちになれた。
「………………喜多ちゃん」
「……ん?」
「ありがとう……」
「……」
「……」
「……」
「……喜多ちゃん」
「……何?」
「今日は……もう少し一緒にいさせてください……」
その言葉の気恥ずかしさに言った後気づいたが、そんなことはどうでもよかった。
「ええ……」
リビングのソファーで一緒に座りながらゆったりとした時間を過ごす。
いろいろなことを聞きたかったし、いろいろなことを話したかったが、特段、二人の間に会話はなかった。
必要なことは、隣に座る郁代と触れている部分から伝わる体温が全部教えてくれていたから。
「……」
「……」
「……」
「――さっきは、叩いたりしてごめんなさい」
それでも、郁代が静寂を破って話し出す。その声は反省の色を含んでいた。
きちんと謝るという郁代の性分だろう。
「……い、いえ……」
叩かれたところは、触ると今もまだ少しヒリヒリする。
「……」
「……」
「……あっ、そういえば、どうして喜多ちゃんがうちにいたんですか。しかも夜に……」
少しの気まずさを打ち払うように、どうしてこの家にいたのか――邂逅したときの違和感をひとりは口にする。
どうしてもそれを郁代に訊きたかったのだ。
静けさの中少し間が開いた後、郁代の小さく空気を吸い込む音が聞こえた。
「……ええっとね。実を言うと、ひとりちゃんのお母さんからちょっと前に連絡があってね。私になら、ひとりちゃんの自分の気持ちを話してくれるかもってことで、都合があった今日のお昼あたりから家にいたのよ」
ひとりちゃんは気づかなかったみたいだけどね、と郁代は言う。
「……そうなんですか。め、迷惑かけてすみません……」
「ううん。全然大丈夫……むしろ、今日、あっもう昨日かしら」
そう言われてひとりは部屋の掛け時計を見ると、すでに頂点で長針と短針が重なり合った後だった。
「それで……むしろ昨日来れてよかったわ。じゃなきゃ、ひとりちゃん――ね……」
郁代はホッとした表情を浮かべる。ひとりとソファーに座っている今だからこそできる表情だった。
「だ、だからって、トイレまでついてこなくもよかったと思うんですけど……」
先ほどトイレへ向かおうと立ち上がったときに、「ひとりちゃん、お手洗い? じゃあ私も行くわ」と言いひとりの後ろをついて来たのだ。
さすがにドアの外でまでだったが。
「だ、だって、ひとりちゃんのことが心配で……一応もう大丈夫だとは思ってるけど、トイレに行くには廊下を通らないといけないじゃない? だから……」
そう早口に言う郁代は、本気でひとりのことを心配していたようだ。
「でも、元を辿れば、ひとりちゃんが悪いのよ」
「…………えっ?」
「だって、ひとりちゃんたらなんにも言わずに引っ越ししちゃうし、連絡だってつかないんだもの。何かあったんじゃないかって、本当に心配してたのよ」
「……す、すみません………………もう誰の声も聴きたくなくなってしまって、スマホはどこかにやっちゃってました」
これまでの記憶に心を逆撫でされて、危うくまた黒い海に沈むところだった。
「……分かってるわ。だから、謝らなくていいのよ。私だっていろんなこと言われてたの見てたのよ」
「……はい」
郁代の苦しみが手に取るように分かり、辛い。
「……あのときが一番精神的にキツかったんだけど……リスカしようとしてるところをお母さんに見つかってね、大変だったのよ。スマホもテレビも全部禁止にされたし、病院にだって行かされたわ」
ちょっとやりすぎだと思わないかしら、と笑う郁代。
「今日だってお母さんたちに無理言って来てたの。本当に、ひとりちゃんのお母さんと連絡先交換しててよかったわ」
いつの間に交換したのだろうか。でも、そのおかげで今生きているのだから、運命にもまだ慈悲があるということだろう。
「……」
「……」
お互いの呼吸音が聞こえそうなくらい静かな空間。
二人だけの時間に満たされたような気分になって、特に脈絡はないがひとりは心中を吐き出す。
「――私は……死んで、すべてを諦めて、逃げたかっただけ、なんだと思います」
郁代は隣で静かに聞いてくれている。
「リョウさんからも、虹夏ちゃんからも……逃げたかった。もうあの頃みたいにできないし、自分はひとりぼっちなんだってさえ思えれば、私にとって十分な理由になれたんです。でも……今考えれば、私は別に独りってわけじゃない――って信じていいんですよね? 喜多ちゃんはこんなに私のことを気にかけてくれた……から」
ひとりは、隣にいる郁代のことを感じてしみじみと思い入る。
ふと目を向ければ、赤い髪に端正な顔立ちのたった一人の友達は、ひとりにニコッと微笑み返してくれた。
その充足した心地は、部屋の中がカーテンの隙間から漏れ出る光で薄く明るくなるまで、ひとりを包み込んでいた。
結局、徹夜だったので常に眠気が襲ってきているが、早い時間帯のテレビ番組やオーチューブを一緒に見たのは新鮮で、三ヵ月ぶりぐらいに純粋に楽しいと思えた。
「――二人とも、おはよう」
母の声が静かな朝のリビングに響く。
恐らく、というか確実に郁代とひとりの怒号とも形容できる声が聞こえていたはずなのに、それ以上は何も言わない。
「おはようございます」
郁代は礼儀正しくはきはきと挨拶した。
「……ほら、ひとりちゃんも」
郁代は小声でひとりに促してくる。
気まずいという言葉で表しきれないほど居心地が悪い。
自ら命の蝋燭の火を消そうとした。
もし自分が本当に死んでいたら、両親はどう思ったのだろう。
そう考えると気軽に口を開くことなどひとりにはできなかった。
「……」
母は黙ってひとりを見守っている。
「…………お、おはよう……ございます」
目を伏せながら、消え入るような声でやっと言えた。
母のことを直視なんてできない。いや、できるわけがなかった。
母は怒っているだろうか。叱られるだろうか。
どんなことを言われてもいいように気構えしていると、言われたのは普通の言葉だった。
「うん。おはよう」
ひとりのこじれた考えとは反対に、いつも通りのにこやかな声だった。そして、とても嬉しそうだった。
そのまま母はキッチンへ向かっていく。
ただの挨拶。ただの言葉。
されども、その言葉に最後まで張っていた緊張の糸は解けて、へなへなとひとりはその場に座り込んでしまう。
「大丈夫!? ひとりちゃん!」
「だ、大丈夫……です」
自然に涙がぽろぽろと落ちる。
郁代は何も言わずにひとりの隣にいて背中をさすってくれている。
「…………全然、私は……ひとりぼっちじゃなかった……っ」
その瞬間、世界はまた鮮やかな色を取り戻した。
「………………ありがとう――――」
それから、父とふたりが起きて来たので朝食の時間になった。
郁代も相伴するご飯は新鮮で楽しい。
色彩豊かに感じる世界。
空っぽになった心だった部分は、こんな些細なことで満たされた――。
全身を巣くう悲しみと痛みはこの先も癒えることはないだろう。でも、それすら自分の一部にできる。
そう思えた。
朝食が終わって少し経った頃。
郁代はリビングに置いてあった自分の荷物をまとめて帰る準備をしていた。
「あら、もう帰っちゃうの? もう少しいてもいいのに」
母は少し残念そうに話す。
「いえ、これ以上いてもお邪魔でしょうし。それに……私よりもお母さんが傍にいた方が、ひとりちゃん、安心すると思うんです。私がこんなこと言うのは、おこがましいでしょうけど……」
「ううん。ありがとう。ひとりを気づかってくれてるだけでも嬉しいわ」
「全然全然、感謝だなんて。こっちもひとりちゃんに助けられたんですから――。……では、昨日からお世話になりました。ごはん、ごちそうさまでした」
きちんとしたやり取りではあったが、郁代の言葉に混じる吐息からは、後ろ髪が引かれる思いが感じ取れた。
「ひとりー喜多ちゃん帰るってー」
ちょうどひとりの死角で郁代と話していた母は、ソファーに座っているひとりにも見送らせようと名前を呼ぶ。
「うん」
結局、途中で父とふたりもついてきたので、家族総出でもお見送りになった。
「きたちゃんバイバイ!」
「またねーふたりちゃん」
郁代はにこにことしながらふたりに挨拶を返す。
「気をつけてね」と母と父。
「ひとりちゃん、またね。なるべく早いうちにまた来るから……」
「あ、はい」
「じゃあねー」
郁代がドアノブに手を掛けて外に出ていこうとする。
その光景にひとりは心の中がざわざわする。
寂しいとはいささか違うような感情。
どちらかといえば、郁代を手放したくない。そんな言葉が似合う気持ちだった。
思わず、送っていくことを口実に呼び止めてしまう。
「き、喜多ちゃん。送ってってもいいですか……?」
「いいけど……無理はしないでね、ひとりちゃん」
「は、はい」
家族は心配というより、困った顔をしていた。
それも当然だ、引っ越ししてから一歩も外に出ていないのだから。
自分でも分かっている。
だとしても、この気持ちの正体に一歩でも近づきたかった。それに――郁代に尋ねたいこともあった。
送っていくと言ったものの、道が分からないので、郁代に先導してもらいながら二人歩く。
朝日が眩しい。
いつも部屋の中から見ていたはずの太陽も、外では違った表情に見えるのだからなんとも言えない気持ちになる。
家が見えなくなるぐらいまで歩いたところで、ひとりは足を止めた。
「ひとりちゃん?」
どうして立ち止まったのかが分からないという声色と顔の郁代。
「……喜多ちゃん」
静けさを今度はひとりの声が打ち破った。
「……どうしたの、ひとりちゃん?」
「……」
「……」
「……あ、あのときの言葉――私のために生きたいって、どういう意味だったんですか?」
「またストレートな質問ね……」
郁代は戸惑ったような様子で、少し気が引ける。
それでも、ひとりはその言葉の真意を郁代の口から聞きたかった。
「……え……うぅ……うーん」
返す言葉に悩んでいる様子もすぐにいたずらっ子のような表情に変わった。
「……ひ・み・つ」
「……そ、そうですよねー」
真正面からはぐらかされて、ひとりは面食らう。
「……でも、ひとりちゃんもいつか分かるわ」
「……」
「……その相手が私じゃなくても。誰であっても」
「……はあ」
踏みしめている大地、心地いい風、輝く太陽――自分を取り巻く自然の真理と同じといっていいほど、今のひとりには全く分からなかった。
再び歩き出して、見覚えのないどこかの駅に着く。
途中、人とすれ違う度にひとりは肩を震わせてその場に立ち止まってしまったが、郁代の存在を隣に感じることでここまでこれた。
初めて見る駅前の通りにはかなり人通りも建物も多く、前の最寄り駅の金沢八景よりも発展しているように感じる。
駅の看板には、『本郷台』と書かれていた。
「ここら辺でいいわ。送ってくれてありがとう」
「い、いえ」
「じゃあね、ひとりちゃん」
「は、はい。さようなら……き、今日は、ありがとう……」
そのひとりの言葉に郁代は、小さく手を振って答えた。
駅の人込みに消えていく郁代の後ろ姿に心残りを感じながら、元来た道を辿って家路につく。
結局、感情の正体も郁代の言葉の意味も分からなかった。
でも、明るい声といじらしい顔とは裏腹に、言葉と目の淵から切なさを滲ませていた郁代だけは今も脳裏に焼きついている。
星雨にせせらぎ、かささぎ橋
七月二十六日。
あの一件から時は流れ、瞬く間に夏本番。
殺人的な暑さは、冷房が効いた部屋の中にいても壁を触れば感じられるほどで、ひとりに厳しい外の現実を教えているようだった。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした!」
ひとりとふたりの声が安全地帯の中で響く。
「洗い物は流しに出しておいてね」
ひとりとふたりにそう言い、袖をまくりながらキッチンに父は向かったが、日常的に家事を分担していることもあり、見事な手際であっという間に片づけ終わらせていた。
何もないという最高の幸福を全身で体現しながらソファーに座る。
「おねえちゃん、もっとそっちいって」
「はいはい」
なんてゆるいやり取りをしながら、家族でテレビを見るのが最近気に入っていることだ。
今日のジャンルはサメ映画。
展開がよく分からないが、ツッコミを入れながら見るのが楽しい。
その映画のさわりになりかけたところで、ピンポーンと家のチャイムが鳴る。
「ひとりー開けてあげてー」
映画の途中で飽きてしまったふたりと遊ぶことで手がいっぱいの母は、ひとりに来客者を迎えるように頼む。
「分かったー」
そう答えながら廊下に出れば、エアコンの効いているリビングよりは蒸し暑いがまだまだひんやりとしている空気に触れた。だが、その少し生温い風も、十分に冷やされた服も体も、玄関に向かうために一歩ずつ歩みを進めるたび、外界の熱気にさらされ、つま先から這い上がってくる気持ちの悪いものに変わっていく。
そんな中、ようやくたどり着いたひとりは、年期の入った扉を開けた――。
「こんにちはー!」
そこに立っていたのは、予想通り郁代だった。
以前は、週に一回家に来るだけだったが、夏休みに入った途端そのスパンをさらに短くしている。
現に、昨日も一昨日も来ている。今のところは皆勤賞だ。
私が二度とあんなことをしないように、寂しくないように、と気を使わせているのかと思ったこともあったが、なんだかそれも違うような気がする。
だが、それもまぁ、嬉しいことには変わりないのだが。こう、気を使わなくていい友達はもう、一人しかいないから。
「い、いらっしゃい、喜多ちゃん」
「今日は何する!? ひとりちゃん!」
夏の強い日差しを浴びた郁代は、この暑い中駅から歩いて来たとは思えないほど、ハイテンションで体から「キターン」と音が聞こえてきそうなオーラを発しているようだった。
「と、と、とりあえず上がってください」
「うん!」
ひとりは郁代を連れながら廊下を進む。だが、その足は階段へは行かず、リビングへその爪先を向けた。
「あら? 今日はひとりちゃんの部屋じゃないのね」
「ちょ、ちょっと話があるので」
そう言いながらひとりはリビングに繋がっているドアを開ける。
「喜多ちゃんいらっしゃーい」
「こんにちはー」
郁代がリビングに入ると見慣れ始めた光景がパッと華やいだ。
その場にいるのはよく見知った家族と郁代なのに、ひとりは少し気後れしてしまう。
「よし! 喜多ちゃんも来たことだし、あの計画の続きを進めちゃおう!」
「おー!」
父は勢いよくソファーから立ち上がって宣言した。それにふたりも続く。
「その、け・い・か・く? ってなんですか?」
郁代はなんだかよく分からない様子で部屋の入口に立っていた。
「ひ、ひとまず座りませんか?」
「え、ええ」
「こっほん」
わざとらしい咳払いで父は場を整える。
「えー計画というのは、せっかくのこの夏休みどこに行くか、についてです!」
最近、父と母がスマホを見ながら、何かについて話していることが多かったが、このことだったのかと、ひとりは合点がいった。
だが、出掛けるとなるとどこになるのだろうか、体はまだ本調子ではないし、なるべく人混みは避けて欲しい。
そんなことを考えながらひとりは、次の言葉を待つ。
「お母さんとよーく考えたところ、キャンプはどうかな、という話になりました!」
「キャンプ!」
ふたりは目を輝かせて、決まった話ではないものの、今からワクワクが止まらないといった様子だった。
「どうかな?」
父のその目はひとりを一瞥した後、なぜか郁代に移っていく。
「えっ? 私ですか!?」
郁代は右手の人差し指を自分に向けながら、単純に驚いている様子だった。
「うーん、夏休みの予定自体は開いてるんですけど、こればっかりは両親に聞いてみないことには分かりません」
キャンプ自体はとても楽しそうですけどね、と郁代はつけ足す。
「ひとりちゃんはどう? キャンプ大丈夫そう? 気分転換にお父さんと相談してどうかなって思ったんだけど……」
母は優しい声でひとりに聞いてくる。その声色は、ひとりが断ってもいいと言っていた。
キャンプか――。
日差しが強いし、人が多そうだし、何より外だ。
普段なら絶対に学校行事以外では行きたくない。
でも、行ってみるのも面白そう、と思っている自分がいるのも嘘ではない。
それは純粋に家族や郁代とのキャンプなら楽しめそうという目算もあるのだが、それ以上に頭によぎるのは、虹夏とリョウのことだ。
享楽と言えるまで人生を楽しめるとは到底思えない。
だが、二人の分まで自分なりに楽しいと思える人生を送ることはできる。弔いとかそういった大層なことではないが、何かをしてあげたいそんな気持ちだった。
ひとりは小さく息を吸い込む。
そして、顔を上げ家族と郁代の目を見て口を開く。
「い、行く……行きたい」
けたたましい蝉の鳴き声が雨のように降りかかり、群青色の空にある太陽はカンカンと地面を照らしている。
それでも、人々はこの日のために溜めて来たであろうエネルギーを消費しながら遊んでいる。
もちろん、ひとりにはそんなものはなく、異常な熱気と湿気にやられて木陰で空を仰いでいた。
「あっつい……」
「ひとりちゃん、いつもジャージなんか着てるからよ」
郁代の声が段々と近づいて来る。
ふたりと川辺で遊んでいた郁代がひとりのことを心配して見に来たようだ。
その眩しすぎる明るさと甘い声は、ひとりを正気に戻すのに一役買った。
「で、でも……これ以外の服はあんまり好きじゃないし……」
「ひとりちゃんはかわいいんだから、なんでも似合うわよー」
隣に郁代が座ってきた。制汗剤のいい匂いがする。
「あっそうだ。ひとりちゃん、ちゃんと水分取ってる?」
「い、一応? 摂ってます」
ひとりは三百五十ミリペットボトルを郁代に見せる。
「……もう、ひとりちゃんが熱中症になったら、私もひとりちゃんの家族も困るんだから、ちゃんと気をつけてね。そういう、ジュースじゃないのを飲むのよ?」
郁代がひとりを注意する様子はまるで子供に叱るようで、少し倒錯的な感じがした。
そんな郁代の小言を聞きながら、ひとりは頬を風が撫でるのを楽しむ。
夏の熱気を孕んだものといえど、ここは川の近くなの若干涼しい。
二人でこんな風に風を楽しむのも案外悪くないかも知れないと、ひとりは思った。
八月二十五日。
そこそこ前から準備がなされていたとはいえ、いざ日程合わせとなると時間がかかり、あの会議から一ヵ月ほどたった今日、やっとひとりたちはキャンプに来ることができた。
場所は自宅から片道三時間ぐらいの山間で、車に乗っているだけでも疲れる距離だった。
あの場では難色を示していた郁代も、次の日には、キャンプでどんなことをしたいか、母やふたりと楽しそうに話していたのだから、疑問を感じずにはいられなかった。
まったく、どんな交渉術を使ったらすぐに承諾してくれるのだろうか。ましてや、あんなことがあった後だ。
一筋縄ではいかなかったことは想像に難くない。
郁代の両親に、変な風に思われていないことを祈るしかないなと、ひとりは感じた。
「じゃあ、またふたりちゃんのところに戻るわね」
「は、はい」
お尻を少し払いながら、郁代が立ち上がる。
ふたりのいる川辺に向かって行く郁代を見て、ひとりは、ふと、前にもこんなことあったなとその記憶に思いを馳せた――。
リョウの別荘にみんなで泊まったことだ。
あの時は、海に行ったり、バーベキューなのに闇鍋みたいなことしたり、肝試ししたり、本当に楽しかった。
だが、その光景を鮮明に思い出すたびに、心の奥底がキュッとなる。
胸が軋んで、心が痛む。
それでも、その大切な気持ちと前に進んでいかないといけない。
もう逃げ出さないと、あの夜に決めたことだから。
それは自分と、郁代と、家族と、そして――あの二人との約束。
ひとりは心地いい木の下を出て、郁代たちがいる川のほとりに向かって歩き出した。
背後に濃い影と軌跡を残して。
足元をさらさらと清らかな水が流れ、郁代とふたりの笑顔が輝く。
本当に楽しそうで、こっちまで自然に笑顔になりそうだ。
そんな中、ひとりは日向の暑さと人の多さにひとりはうだっていた。
来る前から分かってたことではあるが、アウトドアな行事はインドアな自分には厳しいところが多い。
だが、全くもって気分転換になってないかと言われれば、そうではないような気がする。
ひとりはジャージのズボンを膝までまくり、川につま先だけ足を入れてみた。
「ひゃっ!」
川の水が想像していた以上に冷たくて驚く。
「ほら、ひとりちゃん! 冷たくて気持ちいいでしょ!」
満面の笑みで郁代はそう言いながら、ひとりの手を引っ張って川の少し深いところまで行く。
川底の石に少しぬめりがあって、サンダルを履いていても何度か転びそうになった。
「あ、おねえちゃん。おひさまでてるところにでてこれたんだね」
ふたりの辛辣なコメントが正面から強烈なボディブローをかましてきた。
無垢ゆえの残酷さが心に沁みる。
「お、お、お姉ちゃんも、す、す、少しぐらい遊ぼうかなーって……」
「ふーん」
ふたりはニマニマしながら、ひとりおどおどとした言葉を聞いていた。
その表情の意味は深く考えず、ひとりはふたりに言った手前、何をして遊ぶかと悩んでいたら、
「えいっ!」
楽しそうなふたりの声が聞こえたのと同時にバシャッと水をかけられた。
「うわっ!」
ひとりは驚いて体勢を崩しそうになる。
慌てて傍にいた郁代が、手を掴んで体を支えようとしてくれたが、支えきれずに二人は尻餅をついてしまった。
「あら、二人ともずぶ濡れじゃない」
テントに戻ったひとりと郁代を待ち受けていたものは、母に困ったような声だった。
だが、責めるようなものではなく、しょうがないわね、と言ったニュアンス。
「替えの服はあっちのテントの中にあるから、着替えて来なさいねー風邪引くわよー」
母は何か作業をしながら、半身で二人に言う。
「ごめんなさい……」
バツが悪そうに立つふたりは、すっかりしゅんとしてしまって反省しているようだった。
「別に、お姉ちゃんたちケガとかしてないから全然大丈夫だよ」
「そうよ、ふたりちゃん。また遊びましょうね」
「いいの?」
ふたりはとても不安と少しの希望が混じった声で郁代に聞く。
「ええ!」
「じゃあつぎなにする?!」
この様子を見ていると郁代のほうが自分よりも上手に妹を扱えている気がしてならなかった。
言われた通りにテントの中を探すと、分かりやすく着替えと記されたパックを見つけられた。
当然のように母は郁代の分まで用意していたようで、パックは二つある。
その中から服を取り出す。
ひとりの着替えはもちろんピンクのジャージだ。
母は郁代の着替えにどんなものを用意したのだろうか。
そんなことを考えながら着替え終わる。
そして、振り向くとそこには同じピンクのジャージを着た郁代が立っていた。
「これが――ひとりちゃんの……」
郁代はひとりに見られていることも知らずに、その生地の感触を楽しんでいる。
「あ、あの……」
「あっ! こ、こ、これはね! 別に深い意味とかなくて! ひとりちゃんのお母さんがせっかく用意してくれたから、着てるだけで……」
ひとりが見ていることに気がついた郁代は、まくしたてるように言い訳じみたことを話す。
「お、おそろい……です、ね」
言ったあとに気持ち悪いかもと思ったが、
「一度着てみたかったから、なんだか嬉しいわ」
郁代はそんなことを思わず、この状況を楽しんでいるようだった。
その郁代の様子にひとりはかつてのくだらないこと言い合った日々を感じてしまう。
「……」
「どうしたの?」
少しの間ひとりは感傷に浸っていたらしく、呆然と郁代を見つめるひとりのことが心配になって、郁代はひとりの顔を覗き込んできた。
「い、いえ。なんでも」
「そう、なら早くみんなのところに戻りましょ!」
ひとりの返事を待たずに郁代はひとりの手を取り、またあの灼熱地獄に戻っていく。
割と嫌ではなかった。
「は、はい!」
それから、全員でまた川辺で遊び、気がつくと空は夜の様相は示し始めて一番星が輝く頃になる。
夕飯はいい意味でなんの捻りもなく、キャンプ飯の王道中の王道――カレーだ。
お昼にバーベキューをしたので、夜はほぼ自動的にこのメニューになった。
「まだまだおかわりあるから、ひとりも、ふたりも、どんどん食べてくれな。ほら、喜多ちゃんも」
「ありがとうございます! とってもおいしいです!」
郁代はこのキャンプを心から楽しんでいるようで、キラキラの笑顔でひとりの父にお礼を言っていた。
たまには、こんな風に賑やかに食べるのも悪くない。
「んんん!」
ひとりは口いっぱいにカレーを入れたせいでその熱さに悶絶し、一気にコップの水を飲み干す。
「……んく……んく……ぷはぁ……」
水の恩恵を今年一番感じた瞬間だった。
「もう、ひとりちゃん気をつけてね」
「カレーは逃げないんだから、ゆっくり食べなさいよー」
「おねえちゃん、くいしんぼうだね!」
郁代には子供扱いされ、母には釘を刺され、ふたりには茶化される。
父は黙っていたが、心配しているのは視線で分かった。少し呆れているように感じるのは、たぶん夏の暑さのせいだろう。
ひとりはがっついて食べたので、家族や郁代より一足早く夕食を終えて、腹ごなしにとテントから見える小さな川まで来た。
ちょろちょろと流れる清水の音が、涼やかで耳に心地いい。
そんな中を歩いていると、食事を終えた郁代がひとりの隣にやって来た。
「ひとりちゃん、なんだか楽しいわね」
そう言いながら、郁代はこのキャンプ場を眺めるように視線を動かす。
郁代に倣ってひとりも辺りを見渡した。
たくさんの人がいる。
自分たちと同じように夕食を取っている人。花火をしている人。焚火をしている人。
それぞれが好きなように今を楽しんでいる姿がそこにはあった。
ふと、郁代が何を見ているのか気になって、ひとりは顔を郁代のほうに向ける。
郁代は遠くを見つめながら懐古的な空気が漂わせていて、ひとりはそんな郁代の目に釘づけになる。
その瞳の中には炎や閃光が煌めいて揺らめいていて、ただ息を飲むほど美しい。
だが、そう感じさせるのと同時に、触れてしまったら壊れてしまうのではないかという儚さもあった。
それでも、郁代の存在を自らで確かめたいと手を伸ばしてハッとする。
指先を紙で切ったときのように、気づかなければ痛まなかったもの。
ずっと前から分かっていたはずだった――自分と郁代は全くと言っていいほど違うということを。
郁代は本来、陽の当たるところで生きる人間だ。その光の中でもさらに輝いて周りの人々を魅了する。特別で、決して自分なんかの手が届くことはない。
それに対して自分は、陰で生きる人間だ。夜の淵で闇に紛れて彷徨うほうが似合っている。
こんなに郁代が優しく接してくれてるのは、運がよかったとしか言いようがない。
虹夏とリョウと出会って、郁代をバンドに誘った。それからは紆余曲折、様々なことはあったけど、それだけのこと。
だからこそ、バンドという大元の繋がりがなくなった今、自分と郁代の差や、郁代が自分にしてくれたことと、自分が郁代にしてあげられたことが、どう考えても釣り合っていないことは隠しようがなく、引け目を感じてしまう。
それに、今まで楽しいことも苦しいことも、唯一無二の体験を一緒にしてきて、自分だけが郁代の仲間であり、友達だと思っていたが、それはただの自己陶酔だ。
自分は郁代の数多い友達の一人に過ぎないのだから。
郁代との「唯一無二」の思い出なんて、友達全員が持っているのだろう。
だから――無理だ。
そんな考えが瞬間的に体を駆け巡り、ひとりは伸ばしていた手を下ろす。
「ん? どうかしたの、ひとりちゃん」
ひとりの動きに気づいた郁代は振り返ってひとりに話しかける。
「い、いえ……なんでもないです」
俯くひとりの視界の端に映る郁代の顔。
その表情までは読み取れなかったが、ひとりの心の中はもしかしたらお見通しかも知れない。
それから二人はテントに戻り、他のみんなが夕食を食べ終わったタイミングで片づけの手伝いをする。
箸やスプーンを洗う手から腕のほうに泡や水が流れて、袖口をぐっしょりと濡らそうとも、気づくのに郁代や母に言われないといけなかった。
そうなってしまうほど、ずっとしこりのように残っていたことと改めて正面から向き合ったことの余波が、ひとりの中心から体全体に広がって波風を立てている。
そんな気分は、キャンプ場に備えつけられているシャワーを浴びていても同じだった。
「ひとりちゃん、なんか元気ないわねー疲れちゃった?」
母は先にシャワーを浴び終えていたふたりの髪の毛を梳かしながら、テントに帰って来たひとりに声を掛ける。
「う、うん……」
下を見ながら加減に答えるひとり。
「キャンプ、楽しくなかった?」
母はそんなひとりの様子が気になって、思わず聞いてしまう。
「う、ううん! 疲れちゃっただけ…………もう、寝るね。おやすみ」
ひとりはそう告げて、自分のテントに向かった。
「……おやすみ」
「おねえちゃん、おやすみ」
母とふたりの声が背後から響いた。
キャンプだからと言ってもハイになることはなく、テントに入って横になるが眠気はこない。
そのまま時間が経ち、外から聞こえてくる家族と郁代の弾けるような歓談は止んで、遠くで郁代の「おやすみなさい」と言う声が聞こえてきた。
靴底と地面のこすれ合う音が段々とこちらに近づいてくる。
その足音はひとりが寝ているテントの前で止まった。
静かに入口のチャックが開けられていく。
郁代がそろりとひとりを起こさないように入って来た。
そして、ゆっくりと自分の枕元に置いてあるバックまで進み、必要なものだけを取り出し、寝る準備をしている音がする。
自分の家族構成を考えると、郁代が来ると分かってから、自ずと同じテントで寝泊まりすることは予想ができていたが、いざとなるとやはり変な感じだ。
加えて、学校行事でも味わったことのないこの密閉空間。
食事の後に郁代と風に当たっていたときから心の中がざわついているひとりは、家族以外といるこの状況にさらに眠れなくなっていく。
しばらくして、郁代が隣で落ち着く気配がした。
テントに入って横になってからほとんど動いていないこともあり、体勢を変えるためにひとりは寝返りをうつ。ちょうど郁代へ顔を向ける形になった。
狸寝入りを決め込んでいたひとりだったが、郁代の様子が少し気になって薄目で見ると、その眼前にはひとりをじっと見る郁代の顔があった。
「あっ……」
そこまで大きいテントではなかったので、物理的に距離が近づくことを理解していたはずだったのに、ひとりは至近距離で見る郁代の顔に驚いて声が漏れ出てしまった。
「…………ひとりちゃん……起きてるの?」
「……」
とても気まずい。この状況を乗り切るために自然な寝息を立てて、再び寝たふりをする。
「……起きてるのは分かってるわよ」
目で見なくてもジト目をしている光景が浮かぶ声で郁代はひとりに言う。
ひとりは堪忍して目を開け、郁代と顔を合わせた。もちろん目は合わせられないままであった。
「……」
「私てっきり、先に寝てるんだと思ってたわ」
「……」
「……どうしたのひとりちゃん? 体調悪いの? 大丈夫?」
ひとりの凋んだ雰囲気に郁代はそう声を掛ける。
「……大丈夫です」
「それ、大丈夫じゃない人が言うセリフでしょ」
笑うような明るい声で郁代はひとりの言葉にツッコむ。だが、どこか心配というより怒っているような気配がした。
隠そうとするひとりを怒っているというよりは、もっと別のものに向けた感情、な気がする。
「……」
「……何か嫌なことでもあった?」
「嫌……なことってわけじゃない……ですけど……」
ひとりは心の中をさらけ出すことにまだ躊躇いがあって、言い淀んでしまう。
「今日はすごく楽しかったんですけど…………――」
「…………」
郁代はひとりの言葉の続きを静かに待ってくれている。
「……やっぱり私なんかが、喜多ちゃんの時間を奪ってもいいのかなって。…………ほら、私と喜多ちゃんはどこまでいっても全然違うじゃないですか……」
声のトーンが昼間よりも数段低くなっているひとりの声は、ポリエステルの布の中で小さく響く。
「……なーんだそんなことだったのね」
郁代はひとりの胸の内とは裏腹に、ほっとした様子ようでいつもの明るい声に戻った。
「……うう」
ひとりはタオルケットに顔を少しうずめ、不満そうな吐息を漏らす。
それに「ふふっ」と笑いながら郁代が話を続ける。
「全然違ったって、一緒にいることが、楽しいから、好きだからだけじゃダメかしら?」
「……それは、そう、ですけど……」
「だから、別に気にしなくてもいいのよ。私はしたいことをしてるだけなんだから」
こう言われても、釣り合わないとか、そういう暗く染みついた感情はすぐに拭えない。
「……まぁひとりちゃんが、そういう考えをこじらせるのは知ってるから……」
「……本当に――本当に、喜多ちゃんには敵いませんね」
郁代の言葉で心が少し楽になったひとりは、ほんの少し口角を上げた。
それから、今日のこと、最近のこと、学校のこと。そして――ここにはいない二人のことを話した。
郁代と他愛のない話をするのは、やはり心地がいい。自分を偽らなくていいから。
だが、楽しい時間が過ぎるのは早く、あっという間に夜が深まっていく。
「……あっそうだ!」
郁代はたった今思いついたらしく突然声を上げた。
今までの声よりも少し大きいその声にひとりは体をビクつかせる。
「ど、ど、どうしたんですか!?」
「せっかくこんなところまで来たんだから、星、見に行きましょう?」
「……で、でももう遅いですよ」
「いいじゃない、それくらい。特別な日があってもいいでしょ?」
「わ、分かりました」
ひとりは郁代の輝く瞳の押しに負け、上着を羽織り、スマホをポケットに突っ込み、外に出る準備をしてテントから出る。
さすがに真夏とはいえ、山奥のかなり遅い時間ともなると、アスファルトもコンクリートもほとんどない地面は熱を持っておらず、吹く風が少し寒いと感じるほどだった。
「どこで見ますか?」
ひとりは、寝静まっている周りの迷惑にならないように小声で話す。
それに郁代も小声で返してきた。
「うーん、ここより落ち着いたところがいいかしら」
そう言われて辺りを見回すと、確かに自分たちのテントも含めてごちゃごちゃしていて、気が散る気がする。
「じゃ、じゃあ動きましょうか」
「そうね」
二人はキャンプ場の道なりに歩いていく。
月はもう沈んでいってしまったらしく、時々ある電灯以外は星明りだけが道を照らしていた。
夜の暗さ、宙の黒さが辺りを覆う。
そんな夜に流れる空気は、ひとりをまた感傷的にさせて郁代の歩くテンポからもたつかせる。
「もう……しょうがないわね……」
郁代はそんなひとりの手を握り、自身もまたゆっくりとしたスピードで歩き始めた。
「あ……」
初めこそ驚いたひとりだったが、手がなじむにつれて落ち着いていく。
ぴったりと重なり、じわっと汗ばむ手のひらは暑さとは違う熱さを感じた。
長い夜を味わうような速さでしばらく歩いた後、木々が開けて星が見えやすそうな場所に着く。そして、ちょうどよくあったベンチにひとりと郁代はそこに腰掛けることにした。
「……綺麗ねー」
郁代は空を見上げ、感嘆の声を上げながら、スマホのカメラを向けて写真を撮っている。
「写るんですか?」
「……ほら、結構撮れるわよ」
そう言って郁代はひとりにスマホの画面を見せてきた。
肉眼にはさすがに劣るが、確かに星々が綺麗に映っている。
「……それにしても……本当に綺麗ね」
郁代のその言葉は自然と出てきたようだった。
それほど、隣にいる郁代は星空に魅せられてうっとりとしている。
ひとりも空を見る。
満天の星。白濁する大河。
散りばめられた星たちは、どれも自分の色に輝いている。
どんなに小さい星でも、どんなに遠くの星でも、誰にも気づかれなくても、自分はここにいるのだと言うように毎分毎秒命を燃やして煌めいている。
そんな情景は、星に孤独をぶちまけて、星座に繋がりを求めた、あのときの記憶を思い出させ、ひとりの体を優しく包み込む。
思い出ゆえなのか、この美しい景色に感動したのか、はたまた、広大な宇宙に圧倒されたのか、もしくはそのすべてのせいなのか ――頬に小さな川が流れた。
こんこんと溢れるせせらぎを止めずにひとりは言葉をこぼす。
「……本当に……綺麗ですね……」
「ええ」
しばらく目を奪われた後、郁代の息を吸い込む音が聞こえた。そして、郁代は山並みに隠れる星たちを探すような遠い目で儚げに歌を口ずさみ始める。
紡ぎ出すフレーズは、海馬の奥深くにまで染みついているそれだった。
バンドと星座の不思議な関係。ロマンチシズムとメンバーへの友愛、そしてほんの少しの野心を忍ばせたあの曲。
いつしか曲は終わり、郁代の透き通るような歌声は闇夜に溶けていった。が、ひとりの耳には歌い終わってもその音たちが響き渡っている。
「最近は、何も歌う気が起きなかったんだけど、この星空を見たら歌いたくなって」
郁代は空を仰ぎ見ながら、はにかみつつも笑顔で言った。
ひとりも再び宙を見る。
天球の半分が牛乳をこぼした跡で分かたれている光景を見ると、圧倒とはまた違う神秘的な気持ちにさせられた。
あの星海に浮かぶ星々が自分の体を形作り、流れる血潮になっている。
恒星も、惑星も、銀河も、クエーサーも、ブラックホールに至るまで、自分の体と同じように海を漂う物質でできている。
――百三十八億年の積み重ねの先に自分らがいる。
その事実に胸が震えるのと同時に、畏怖を感じて言葉が出ない。
「……」
「……」
郁代も黙っていて、二人の間にはさらさらと風に揺れる木の葉の音しかしなかった。
そのとき、夜空を切り裂くような一筋の光が走る。
「……あ! 流れ星よ! ひとりちゃん!」
刹那の煌めきを残して消えてしまった星屑。
その残り香を郁代は指で差しながら、ひとりのほうを振り返って幸運と興奮を目と言葉で伝えてきた。
「ですね」
郁代につられて自然と笑顔になってしまう。
そんな朗らかな気持ちで、大気圏で甲高く存在証明した残火に思いを飛ばす。
宇宙に漂う雄大な歴史の破片と、ちっぽけで臆病な自分。
どちらも普段は注目されることもなく、自ら輝くこともない。
そんなものでも最期は、彗星の芥は流れる星となって一条を残し人々の心を惹きつける。
自分はそんな存在になれなかったが、誰かと一緒でなければ輝けないところに、どうしようもなくシンパシーを感じた。
そうやって時代を超えてみんなから好かれてきたのだろうか。
「……喜多ちゃん……私たちは、あの流れ星みたいにはなれなかったですね」
「……どうして、楽しそうに言うのよ。言ってることは悲しいのに」
お互い濃紺のキャンバスを見つめながら、なんの気なしに話す。
「ひ、秘密です……」
「うっ……あのときの当てつけかしら」
こんなやり取りでもなんだか楽しくてニヤニヤしてしまう。隣同士、空を見上げていたのが幸いしてこの顔を見られることはない。もし見られてしまったら、少し引かれてしまっただろう。
そのくらい、今は気持ち悪い顔をしているに違いないから。
「……ひとりちゃん…………――」
星を待つのに夢中になっていたひとりは、郁代がこちらを見ていることに気づかなかった。
一瞬で表情筋が硬直して物も言えない。
「……」
「――というか、ひとりちゃん、さっきから何か変よ」
ひとりはその郁代の言葉に答えるため、一呼吸おいてなんとか口を動かす。
「……喜多ちゃんも楽しそうに顔が笑ってるじゃないですか」
そう言われて郁代は自分の頬に手を当てて揉んで、笑っているかいないかを確かめている。その光景も微笑ましい。
誰かに自分の想いを話して、聞いてもらって、受け入れてもらう。
言葉にすればひどく簡単に見えるが、実際は難しい。
それに気づいたとき、隣に郁代がいたことが嬉しかったのだと思う。
だから、同じ星を目指す仲間がいなくなって、もう世の中に注目されることはないと知っても、少しは笑って話せるようになったのかも知れない。
「ほら、またニヤニヤしてる」
郁代が楽しそうに話す。
「……喜多ちゃんも、ですよ」
溢れ出る楽しいに笑みも止まない。
「あっそうだ、流れ星にお願いごとしてみない? もう一度流れるまで待って」
郁代は「一度やってみたかったの」とひとりに提案してきた。
「――……何かお願いしたいことがあるんですか?」
「内緒」
郁代はさっきのお返しとばかりに、いたずらっ子のような声で答える。
「…………」
ひとりはその少し面倒くさい返しに思わず目が据わってしまった。
「嘘よ、嘘、嘘! ただ、もう全部が元通りにはならないけど、もっといい明日になったらいいなって」
そんなひとりの反応に郁代はすぐに訂正して、本当の願いを話す。
「……」
「いろいろありすぎて、生きていること自体が嫌になったこともあったけど、まだ諦めたくないから……って、ちょっとイタいわね。忘れて!」
郁代は自分の発言に恥ずかしくなって、最後に取り繕った。
「……でも、その気持ち分かります」
「――――――」
「……待ちましょうか、流れ星」
「うん……」
それなりの時間待ってみたが、もうペルセウス座流星群の時期を過ぎたこともあり、流星群はもう一度現れることはなく、夜の底になってしまった。
これ以上この場に残っていても体調を崩しそうだったのでテントに戻ることになる。
それも仕方ない。
夜の空気がより一層冷たくなったような気がした。
「結局、出ませんでしたね……」
「でも、いいじゃない」
少し残念そうに話すひとりとは対照的に、郁代は明るい声で返す。
「……」
「楽しかったんだから。ね? ひとりちゃん」
夜風に吹かれて少しくすぐったそうに笑う郁代は、なんだか清々しそうだった。
そんな郁代から目が離せないでいたら、返事がワンテンポ遅れてしまう。
「……は、はい! 私も、楽しかった……です」
「しー、もう夜遅いから、あんまり大きな声出さないの」
郁代は小首をかしげながら、人差し指を立てて口元に持ってきて、「静かにしてね」とジェスチャーをする。
その行動に、ひとりに動揺が走り、体中を電流が流れたような感じがした。
「す、す、す、すみません」
「ふふ……ひとりちゃんってやっぱり面白いわね」
ひとりをからかって満足そうにクスッと笑う郁代。
「でも、残念。こんな楽しいキャンプも今日で終わりなのよね」
「そうですね」
ふたりがまだ小さいので、体力面を考慮して今回は一泊二日の日程になっている。
高校生のひとりと郁代には、少々物足りない感があるがしょうがない。
この夏の思い出を糧にこれからを生きていこう。
「あっ、今思い出したんだけど、ひとりちゃん学校どうするの?」
郁代は単純に気になったようでひとりに訊いてきた。
確かに一学期丸々休んだことで、出席日数的にかなり危ういところにいる。もし二、三学期すべて出席して、日数が足りたとしても、学力面でのハードルはあまりにも高く、このままいけば高校中退は免れない。
高校中退が一つの夢ではあったが、売れて中退するのが本望だし、こんな形になってしまうのはどう考えてもベストな状況からかけ離れている。
だが、世間や人々の歪さに気づいた今、推し量ることのできない心の闇に脅えて、人並みの生活を送れるかどうか分からない。
今回キャンプに来れたのは、家族と郁代と一緒だったからであって、いまだに一人ではなかなか外には出る決心がつかないままだ。
でも、あの日――郁代を駅まで送ってから家まで帰ってこられたのは「郁代のため」だったからなのだろうか。
頭の中で様々なことを考えた末にひとりは郁代に答える。
「夏休みのうちに考えます。たぶん」
「もう……早く考えたほうがいいわよ」
はっきりしないひとりに、少し呆れたようにしゃべる郁代。
「私は……大学に行きたいから、このまま高校に行くわ」
郁代は前を向きながら話した。
その進路のことで以前、郁代は郁代の母と揉めたことがある。そして、そのときに決めたことが「大学に行く」ということだった。
「みんなの分まで大学を楽しむためですよね」
確か郁代は、自分にしか感じられないことがあるから進学すると言っていた。加えて、大学に行かないリョウやひとり、母の叶わずじまいの夢の分まで謳歌するとも。
だからひとりは、似た答えが返ってくると思っていた。
「あーうん。それもあるけど……」
珍しく郁代の歯切れが悪い。
「……笑わないで聞いて欲しいんだけど、ね。……私、看護師さんになりたくて。ひとりちゃんは、こうしてここにいるけど、伊地知先輩とはもう会えない。亡くなる前に話をしたのに、私は何もできなかった……。そのことが頭から離れなくて……こういうのを罪滅ぼしって言うのかしらね。とにかく、誰かを救える人になりたい、ならなくちゃいけないなって強く思ったのよ。でも私、お医者さんになれるほど頭はよくないから、逃げるみたいな選択だけど看護師になりたいなって……。でも、呆れちゃうでしょ、この期に及んで自分の未来すら自分で決められないなんて」
自分を嘲る郁代。その言葉の端には暗いネガティブな感情が浮き出てきていた。
「そんなことないです! 絶対ないです! だって、喜多ちゃんは――ううん……」
そこでひとりは続きを言うのを止める。
この思いは、この身のうちから出る思いは、言葉だけで伝えられる自信がないから、いつの間にか離れていた手を今度はひとりから握った。
「……っ!」
ひとりの手が郁代の指先に触れた瞬間、驚いたように郁代の手がビクッと跳ねたが、すぐに元に戻る。
手のひらを通して伝わる熱を持った感情は、時間が経つにつれて二人の間で均一になり、郁代の自嘲も、憧れも、願いも、ひとりの気持ちと混ざり合う。
溶け合った感情は心を軽くしてくれて、吐き出す溜息も、吸い込む誰かの悪意もすべて浄化してくれた。
息がしやすくなった、その心地よさに身を任せて大きく手を揺らせば、楽しさが倍々になっていく。
時々、ふり幅が大きすぎてお互いの手が離れそうになっても、繋いだ線を解かぬよう、またきつく結び合えば問題はない。
元来た道を戻っていく。
その頭上では、牽牛と織女が高く歌っていた――。
夏の日の出は早く、おかげで起こされてしまった。
夏至の日に比べたら遅くはなったのだとは思うが、早い。
穏やかな寝息を立てている郁代を残してテントの外に出る。
陽の光が目に染みて、瞳孔が急激に細くなる痛みに思わず顔を顰めた。
しばらくして、ようやく明るさに目が慣れたひとりは息を呑む。
木々の葉は光で緑色に透け、重なり合って瞬きごとに表情を変える。少し遠くの川の水面はキラキラと輝いて、空気が澄み切っていた。
どうしようもなく凍えた世界なのに。どうしようもなく暗い自分なのに。
どうしてか未来と希望を感じてしまう。
そのくらい、綺麗だった。
頬を優しく撫でるように吹く風は、まだひんやりとしていて気持ちがよく、完全に目が覚めてしまった。
仕方がないので、顔を洗ったり、近くを散歩したりして時間をつぶす。
昨日の夜に歩いた道も、何もかもも、景色が違って見えて新鮮だ。
そんな風に楽しんでいたら、いつの間にか全員起き始めていているのが見えた。心配を掛けてもアレなので、テントに帰ることにする。
すると、ちょうどテントから郁代が出てきたところだった。
「お、おはようございます」
「おはよー」
さすがは郁代というところで、もう服装から髪型までバッチリ決めていたが、眠気までは隠せずに小さく欠伸をする。
「ふわぁ……早いわね、ひとりちゃん」
「は、はい。なんか早く起きちゃって……ちょっと近くを歩いてました」
「ひとりちゃんはちゃんと寝れた……? 昨日? 今日? 寝るのが遅かったから私はまだ眠いわ」
眠たそうな声で郁代が言う。
「私も全然寝れてないと思うんですけど、なんか喜多ちゃんと星を見て、テンション上がったみたいで今は全く眠くないです!」
ハイテンションなのが自分でも実感する
これがいわゆる深夜テンションなのか。
「ふ~ん」
満足げとも、裏があるとも取れる相槌を打つ郁代。
「わ、わ、私……喜多ちゃんに何かしました!?」
そのどっちつかずに思える郁代の反応にひとりはたじろぐ。
「ううん、なんでもない。さ、もう朝ごはんみたいだから行きましょ?」
郁代はひとりの言動を軽く受け流し、楽しそうに朝食の準備が始まっているテーブルへ向かった。
「え? ちょ、ちょっと喜多ちゃん!?」
ひとりは郁代の後を追いかける。
流れ星に願いごとをしたかったなとか、今回のキャンプはどうだったとか、そういうくだらない日常の話に花を咲かせながら隣に並び歩いた。
キャンプが終わり、夏が終わり、残暑が厳しい秋を迎え、命の気配がしない冬がやって来た。
目まぐるしく時間は流れ、季節も変わりゆく。
そして巡り巡って、春。
――――またあの日が来た。
花一華
暗く狭い部屋の中で、スマホの光だけが自分という存在を現実に引き留める。
日付が変わった。
三月十三日。
「……」
ひとりは自分の布団の上に座り、画面に映る無機質な数字が変化するのを見届ける。そして、スマホに充電器のコードを差し、自らの体温ですでに温まった夜具に体をすっぽりと入れて目を閉じた。
昨日、リョウの一周忌の法要を終え、思うことがたくさんある。
過ごした日々、人から聞いた知らないリョウの話が、虹夏との記憶とも絡み合って、海底から上がってくる気泡のように、頭の中に浮かんでは消えてゆく。
その泡が弾けるたびに心がキュッと締めつけられる。
失意の底に落ちた春からまた次の春へ。止まってくれない時間はある側面では残酷だ。
ただ、この一年すべてが悪いことだったというわけではない。
いい意味にも、悪い意味にも心の赴くままに過ごして、何か大切なことに気づけた気がする。
薄れゆく意識の中で、ひとりはそう回顧した。
翌朝。
ひとりは意識の遠くから聞こえる音に呼び覚まされた。
アラームを止めようと布団から手を伸ばす。
「……ん」
まだ眠く、ほとんど微睡んでいる状態だったが、今日の予定を思い出して慌てて体を起こす。
今日は、郁代と出掛ける用事があったのだ。
念のためスマホで時間を見る。
「よかった……」
まだまだ余裕があることを確かめると、乱れた息を整えてから一階に降りていく。
リビングに入る前に洗面台で顔を洗い、視界がきっぱりとさせて完全に目を醒ましてから、リビングに入る。
「ひとりちゃん、おはよう」
「おはよう、ひとり」
「おはよー」
母と父の挨拶に挨拶を返して、ひとりはダイニングにつく。
部屋には朝の光が差し込んで、全体的に視界を白けさせていた。
キッチンから母の声が飛んで来る。
「今日は、喜多ちゃんと出掛けるのよね?」
「うん」
「楽しんできてなー っあっつ!」
父はコーヒーを啜りながらしゃべったせいか、多めに口に入ったコーヒーの熱さに悶絶していた。
そそっかしいというか、なんというか。
「もう、落ち着いて飲んでくださいね」
「はは……」
母が呆れたように父に注意する。
さすがのひとりも、父のその滑稽な姿に苦笑せざるを得なかった。
「あ……舌、火傷した」
「おはよー」
眠そうな声を発しながら、ふたりが起きてきた。
そのままふたりが席に座り、家族全員が揃ったところで朝食になる。
今日は何するだとか、二人とも休みでいいなだとか、緩慢とした空気の中での話は食卓の上を弾んでいた。
そのうち父は仕事に行き、ひとりも準備をしに自分の部屋に戻る。
リビングを出て、階段を上がっていくひとりの背中を見守る母とふたりの視線が痛い。
それを感じるたびに、この後のことが憂鬱になっていく。
「ああ……どうしてこうなったんだ……」
そう小声で独り言を言いながら、ひとりは自分の箪笥の前に立つ。
「はぁ……」
溜息をつきながら、ひとりは母に用意してもらった――いや、半強制的に押しつけられた服を手に取る。
逃げるように視線がいつものジャージを探すがここにはない。
ひとりがいつものピンクのジャージに着替えないようにと、母はあらかじめ全部をどこかに片づけられてしまっていたからだ。
そこまでされた逃れることのできない母の謀略に、ひとりは観念してその袖に腕を通す。
大きく広がるレースの襟に、紺と白のストライプのリボンがついた白色のブラウス、明るい紺色でハイウエストのフレアスカート。
そして、白のタイツに、足元には通学用よりオシャレなこげ茶のローファーを履く予定で、ローファーは、足首をくじいたりしては困るだろうと、ヒールが低いものになっているらしい。
鏡を見て服装を確認すると、全体的に大人目に仕上がっているものの、レースや足元からはガーリー的な雰囲気を感じられるコーデに仕上がっていた。
虹夏や郁代の前で着て見せたあのセーラー服テイストの甘い雰囲気のものよりは、だいぶ大人っぽくなっている。
少し勉強して、母にこっぴどく注文をつけておいたおかげだ。
だが、母が娘たちに着せたい服とは、若干離れていると思う。
そうだとしても、ひとりはこれで勘弁して欲しいと切実に願うばかり。
これ以上はたぶん、耐えられない。
気恥ずかしさに殺されることになるだろうから。
それに今も、鏡を見れば頬を真っ赤に染めながらも、おでこを蒼白にしているよく知る人物が立っている。
「あー、無理かも……私なんかにこんな服は早かった…………」
こう口に出してみるものの、ジャージとは違う真新しさから少しだけ気分が高揚しているのは事実で。
それがなんだか悔しい。
着替えを済ませて、髪型を整えるために階下へ向かう。
階段を下り終わったところで、母と邂逅した。
「あら! かわいいじゃない! いつもジャージなんか着てないで、こういうの着ればいいのにー」
母は声をワントーン明るくして、余所行きの恰好をしているひとりに言う。
「は、は、恥ずかしいから……」
恥ずかしいから――本当は誰とも顔を合わせたくなかった。それがひとりの本音だった。
「残念ねー」
「じ、じゃあ、髪の毛梳かすから」
そう言って、ひとりはこの場から逃れようとする。
「ひとりちゃん、お母さんがやってあげようか?」
母は楽しそうだ。
「い、いいよ」
「――ほら、ほら、洗面台に行きましょう」
どうしてかこの場においては、母のほうがひとりよりも胸を膨らませているように見えた。
母に背中を押されるがままひとりは洗面所で髪を梳かされる。
最初は、この歳になっても髪を梳かされていることに恥ずかしさを覚えていたが、あれやこれやと言葉を交わすたびに、その感情は楽しいものに置き換わっていった。ここ最近で一番しゃべったと言っても過言ではない。
最後に母がひとりにある種のおまじないをかけて終わると、丁度よく家を出る時間になっていた。
小物が入るくらいの小さめのカバンを持って、靴を履く。
「じゃあ、行ってきます」
「おねえちゃん、いってらっしゃい!」
「お土産、楽しみにしてるわね」
母もふたりも満面の笑みで見送ってくれた。まるで、自分たちが遊びに行くかのようにワクワクしている。
「う、うん」
家から出ると厚い雲がひとりを見下ろしていた。
あまり天気はいいと言えない日であることは明らかで、自分の運の悪さを呪いたい。それでも、駅までの道は郁代との約束のことで頭がいっぱいで、柄にもなくこれから起こることに心をほんの少し躍らせている。
「……オシャレって、大変なんだなぁ」
そうどこか他人事のように思うほど、少し手がかじかむこの服装のことなんて気にならなかった。
長い道を行って、坂を下って、駅にたどり着く。
休日の朝といっても、駅には結構な人がいた。
あの夏から郁代と何度も人混みに行く練習をしていなければ、きっと駅になんてこれなかっただろう。今日が平日じゃなくてよかったとつくづく思う。たぶん、通勤、通学ラッシュの人の多さはちょっと体が受けつけない。
駅を利用する人々の巨大な塊に恐怖を覚えながらも、なんとか流れに乗って、改札を抜ける。
練習の成果をしっかりと発揮できてよかった。
ひとりの中に一抹の安心感が広がる。だが、関門はこれだけではない。
郁代との集合場所は、鎌倉駅。
ここから鎌倉に向かうには、一駅先まで出て乗り換えるのがいいと、昨日スマホの路線案内が言っていた。そのスクショを確認しながら、ホームを間違えないように慎重に人混みの中を進む。
時間通りやって来た列車に乗り込むと、そのままドアの近くに立って静かに次の駅を待つひとり。
その視線は、群衆に慣れてきたことで余裕ができ、車内を見回していた。
休日にも関わらず、スーツを着ている人や、制服に身を包む人。
ただでさえほぼ消化試合のような授業のはずなのに、土曜にわざわざ学校に行くのは大変そうだ。
これから遊びに行く自分たちと世間とのズレを感じる。
背徳感、優越感。
そんな感覚がひとりの体を満たしていく。危うく笑みがこぼれそうになってしまった。
それを隠すように目を車窓に向ける。
見えて来たものは、アスファルトと建物の灰色と空の灰色だけ。ただ、輪郭の掴みがたい一様なものが広がっていて、なんの面白味もない景色。
ひとりの心の内に比べて色の薄い現実に「まあ、私には青い空なんか似合わないしな」と思っているうちに列車は停車した。
ドア脇にいるひとりは、降りる乗客に押されるようにしてホームへ出る。次第に人の川は、自分と同じように観光客と思しき人々とそれ以外とに分かれていく。
想像していたよりも多い観光客の数は、鎌倉が人気観光地である証明と同時に、ひとりをまた込み合う車内に押し込めたのだった。
鎌倉に無事着いたひとりは、ホームがある階から下に降りて、左手にも改札、右手にも改札がある通路に出る。
郁代との待ち合わせ場所はこのあたりだったと、ひとりは人の邪魔にならないように少し動きながら探す。
だが、そんなことをする必要がなかったと思わざるを得ないほど、赤い髪でキラキラとしたオーラを纏っている郁代は、群衆の中でもひとりには瞬きよりも早く見つけられた。
その姿を見た瞬間、ドクンと心が跳ねあがる。それは、外で友達と待ち合わせをする機会があまりないから、というには少し無理がある跳ね方だった。
ひとりは、そんな乱れた拍動のまま郁代のもとへ向かう。
「お、お、おはようございます」
「おはよーって! ひとりちゃん! その恰好……」
基本的に礼儀正しい郁代だが、今日ばかりはひとりへの返しをほどほどにして、今日のひとりの服装に目を丸くしている。
「……え、え、だ、だ、ダメでしたか?」
郁代の反応とテンションに、ひとりは挙動不審になる。
「ううん! 全っっっ然! すごくかわいいわよ! そうだ、写真撮りましょ!」
郁代のペースで会話が進み、ひとりが反応する前に写真を撮られる。もちろん連写だった。
郁代は、慣れた手つきで今しがた撮れた画像を確認する。
すると、笑いながらひとりにスマホの画面を向けてきた。
「見て見て! ひとりちゃん半目になってるわよ!」
郁代はわざわざ数ある一枚の中で、ひとりが面白く写っているのを見せてくる。
「……なんかすみません!」
ひとりはとりあえず、写りの悪い写真が撮れてしまったことを謝っておいた。
「何謝ってるのよ もう終わったから顔上げて」
そう言われてひとりは顔を上げると、眼前には加工済みの画像が郁代のスマホに写されている。
自分らの顔が、いわゆる、「女子高生」に変貌を遂げていた。
「……」
今まで写真など学校の掲示物か、バス停の時刻表しか撮ってこなかったひとりには未知の世界で、まじまじと見てしまう。
「どう? かわいくなったでしょ」
そう言われてもひとりはピンとこなかった。
自分はともかく、郁代はそのままでも十分だと思う。
「あっそうですね」
適当な返しをしておく。
「まあ、ひとりちゃんにはよく分からないわよね!」
満足げに郁代はスマホをカバンにしまう。
「そ、そ、そうだ。喜多ちゃんの今日の服……とってもかわいいですね」
ひとりは世辞ではない本心を言う。
下は、黒に近い濃い黄色のプリーツスカートで、丈はひとりのより少し長いくらい。スッキリとした白のクルー丈ソックスに、黒の厚底スニーカー。上は、袖口がゆったりとしている白の五分丈プリントシャツ。頭には、クリーム色でカーブのついたベースボールキャップを被っている。
そんな今日の郁代の服装は一言で言えば、シンプル。だけども、そこはかとなく大人感がある。そんなハイブリッド感を醸し出していた。
「……そういうのは、一番初めに言うものじゃないかしら?」
郁代がちょっぴりムッとした様子でひとりに言う。
「……え、ええ、それは……喜多ちゃんが、先に写真を……」
「ぷっ……はいはい、分かってるから」
ひとりの言葉の続きを制して、郁代はちょっとした意地悪が成功して喜んでいる子供みたいに笑いながら話す。
「褒めてくれてありがとう……そうだ、もう一回写真撮りましょ?」
「え」
ひとりが郁代の押しに勝てるはずもなく、集合したのが午前九時前だったはずが、いつしか長針が九十度近く回ってしまっていた。
「もう……そろそろ行きませんか……?」
駅の時計をチラ見しながら言う。
そんなひとりはどっと疲れて、どうしてか息も絶え絶えになりつつある。ただ写真を撮っただけなのに、こうなってしまうとは自分が情けない。
「……そうね」
郁代はスマホの画面をスクロールして、何かを確認した後に、ひとりの言葉に相槌を打つ。
「じゃあ、どこ行きます?」
「あっち行きましょ!」
郁代に手を引かれながら、二人は駅の東口を出てロータリーを回り、そのまま食べ歩きで有名な小道へ足を踏み入れる。
飲食店や小物屋、カフェなどが軒を連ねるその道は、いつもなら人で溢れているのだが、朝早い時間帯なこともあり店がほとんど開いていなかった。
それでも観光地たる風格はあるもので、店前を掃く箒の音にも気品を感じるのだから興味深い。
音の中を通り抜け、脇道にそれると大通りに突き当たる。
その大通りの終わりにある大きな鳥居を超えれば、神社特有の厳かにも感じられる空間が広がっていた。
そこで郁代の歩くスピードが少し落ちる。
どうやらここが目的地のようだ。
遠くに見える朱色の社へと向かう参道にはひとり達を同じように参拝に向かう人や、早くから開いている屋台がまばらにあり、独特な雰囲気を醸し出している。
「見て見て、ひとりちゃん。チョコバナナだってー」
道端に立ち並ぶ屋台を面白そうに見る郁代。
ざっざと石同士がこすれ合う音を鳴らしながら進むと、割とすぐに神楽殿を過ぎて本殿へと向かう階段に差し掛かる。
昔から建っている建物の慣例に違わず、階段が急になっていて足腰にだいぶ来そうだ。
「あ、ひとりちゃん。ひとりちゃんは普段今みたいな恰好しないから言っとくけど……」
「はい」
郁代が珍しく何かタメになることを言ってくれそうな雰囲気があったので、ここは素直に聞いておく。
「……スカート、気をつけてね」
小声で周りに聞こえないよう配慮しながら、郁代はひとりに言ってきた。
「喜多ちゃん――」
いつもジャージを着ているひとりはとはいえ、それはさすがに知っている。
「そ、そうよねー」
郁代は微妙な笑顔でなあなあに済ませる。
「喜多ちゃんって、ネットリテラシーは……アレなのに、そういうのはちゃんとしてるんですね」
ひとりの口から素直な感想が漏れる。
「ん? 何か言った?」
「い、いえ、何も言ってません……」
「――――」
郁代のワザとらしい聞いていないふりに、これ以上触れたら危険な予感を感じて、ひとりはとりあえず逃げておく。
そんな会話が途切れたちょうどいいタイミングで、階段を上り終わった。
「やっと着いた……」
階段がキツかったこともあり、ひとりは音を上げる。
「もうちょっと運動したほうがいいんじゃないかしら?」
郁代の言葉が真正面からひとりを突き刺してきた。とても耳が痛い。
「さあ、なんてお願いしようかなー」
そう言い、ダウンしかけていたひとりを置いて、賽銭を静かに投げ入れて鈴を鳴らす郁代。
ひとりも少し遅れて看板に倣い、同じようにニ拝二拍手一拝をしてから真剣にお願いをする。
二人の参拝が終わって人の列から外れたところで、
「……どんなお願いしたんですか?」
不意に、ひとりは訊いてみる。
「うーん、いろいろかな……ひとりちゃんは? 結構、一生懸命お願いしてたけど」
元々、郁代が何を願ったかを知りたかったわけではないので、具体的なことを教えてくれなかったことについては、どうでもいい。
だが、カウンターが飛んで来ることを予想できていなかった。数秒前の自分を殴ってやりたい。
別に普通のお願いなら言ってもいいが、この煩悩まみれの願いは言ってしまったら――とひとりは躊躇う。
前回、みんなで江の島に行ったときよりも歪んでるものだと断言してもいい。
だってこの願いは、普通、世間に受けつけてもらえないものだから。
「……ひ、秘密です」
「そっか、秘密かー」
笑いながらひとりの言葉をオウム返しする郁代。
流石に人づき合いの多い郁代は引き際を分かっているようで、それ以上はツッコんで聞いてこなかった。
「そ、そうだ、おみくじ引きませんか?」
ひとりは、本殿から振り返って右手にある建物を指で差して言う。
「それいいわね!」
「ひとりちゃんは何出た? 私は――大吉だったわ!」
喜ぶ郁代とは対照的に、ひとりの顔には影が差す。
「私はこれでした」
ひとりはおみくじの結果を、郁代にも見えるように広げる。
「だ、大凶……そ、そうよ、そういう日もあるわよ!」
郁代が必死にフォローする。
「私にはこれが一番お似合いなんですよ……そうだよ、こんな私がちょっとオシャレしたくらいじゃ……」
ひとりは呪詛のように、ブツブツと怨嗟の言葉を並び立てる。
「あー、久しぶりのひとり節が…………って、ほら! これ見てひとりちゃん!」
そう言って郁代はひとりにスマホの画面を見せてくる。
「ここのおみくじって凶が多いらしいわよ!」
「でも、大凶は他の神社と同じくらいって書いてありますけど――」
ひとりは本当かどうか分からないが、サイトに書いてある見なければよかった情報を見つけてしまった。
「ま、まあ! と、とにかく! おみくじ結びましょう……!?」
「はい……」
ひとりは一人でおみくじを結び所に結ぶ。
「じゃあ、駅に戻りましょうか」
「はい」
返事をした後、郁代の顔を覗き見ると、何か思い出したような表情していた。
「ど、どうかしましたか……?」
「あっいや、少しね、寄りたいところがあるんだけど……いいかしら? 家族のみんなにお土産買いたくて。あっ、ひとりちゃんはどうする? ここら辺で待ってる? でも……――」
「わ、私も! 一緒にいいですか……?」
次の言葉を待たずに食い気味に答えた声は、意図せず大きな声になってしまい自分で驚く。
「ええ、一緒に買いに行きましょう!」
いつの間にか、平常運転に戻った郁代のオーラがひとりを襲う――。
「は、はい」
ひとりは腑抜けた声しか出せなかった。
駅までの大通りの途中で二人はそれぞれ、クルミのお菓子と、鳩の形をしたサブレーを買って戻る。
途中、興味本位で道端の商店で売っていた置物を見ていただけなのに、郁代に全力で止められたのはここだけの話。
そんなに、お土産選びのセンスがないと思われているのだろうか。
ともあれ、さすがに十時近くなってくると人通りも多くなってきて、こんな天気でもそれなりの人数が歩道を歩いていた。
「喜多ちゃん、次はどこに行くんですか?」
ひとりは疑問に思ったことを口に出す。
「それはね――ついてからのお楽しみよ!」
郁代はウィンクをキメながら満足げに笑っていた。一瞬、ドキッとする笑顔だった。
それにひとりは、くすぐったそうな笑い方で返す。
「……じゃあ、楽しみにしてます」
十何分か後。
鎌倉駅でコインロッカーにお土産を預け、江ノ電に乗ったひとりと郁代は、レールの接合点で揺れる列車に身を任せていた。
緑とクリーム色で塗られた列車には平日にもかかわらず、かなりの数の観光客が乗車し、座席はすべて埋まっていた。
近くのパイプに掴まっている二人の頭上には多種多様な言語が飛び交っている。それはまるで、日本にいるはずなのに異国の地に迷い込んでしまったようで不思議な感覚だった。
そんな中、郁代はドアのガラスから、スマホで外の動画を撮っている。
「見てよひとりちゃん、こんなに家が近いわよ」
自らの驚きをひとりにも伝えようと、ひとりの肩を叩く。
「すごいですね」
家々の隙間を縫って走る電車に感嘆するひとり。その近さと言ったら、線路脇の民家の植木が、列車のガラスを掠めるのではないかと本気で思うほどで、見ていてヒヤヒヤする。
普段、住んでいるところでは、決して見ることのできないこの光景に目を奪われていたら、
「ほら、ひとりちゃん降りるわよ」
と、郁代に呼び掛けられた。
全く目的地を聞かされていなかったので、危うくそのまま列車に乗ってきそうだった。
長谷駅に降りたひとりと郁代は改札を通り抜けて、雑踏の流れに身を任せ踏切を渡る。
「このトゲで足つぼしたら、すごそう……」
と、踏切脇に敷かれている線路への侵入を妨げる大きめのトゲを見て、ひとりは独り言を漏らした。
少しだけ前を歩いていた郁代は交差点で右に曲がる。
「き、喜多ちゃん? し、し、知ってるならいいんですけど、大仏なら真っ直ぐ……です」
ひとりは、観光客のほとんどが進んで行く方向や、案内看板を見て、郁代に指で指し示す。
「さすがに私もそこまで無知じゃないわよ」
遠い昔に聞いたことあるようなフレーズを郁代は話す。
「これから行くところはね、イソスタで見たんだけど……」
そう言って郁代は、ひとりの知らない人が投稿した画像を見せてくる。
その画像には、洋風の建物と綺麗に咲き揃うバラをバックに、まるで自分が雑誌のモデルにでもなったかのようにポーズを決めている人が映っていた。
確かにこれは、ひとりにでも分かる「映え」だった。
だけど、もしそんなに風光明媚な場所だったら、さっきの交差点でこっちの方向に曲がる人が少なかったのかが気になる。
「ね? 綺麗でしょ?」
でも、そう言って笑う郁代を見ていたら、そんな考えはすぐに吹き飛んでしまった。
「き、喜多ちゃん? 大規模改修のため休館中って書いてありますけど……」
郁代に連れられて来てみたはいいものの、まさかの事実に立ちすくんでしまう。
見事なフラグ回収としかいいようがない。
「……結構、いろいろ考えてたのに……」
「喜多ちゃん…………。ま、まあ、こんなこともありますよ! ね? ね?」
ひとりが慣れないフォローで頑張って郁代を励まそうとするが、まったく心に響きそうもない言葉しか出せなかった。
「そ、そうよね!? 私もなんか人が全然いなくておかしいなって思ってたのよ! あはは……」
「……あはは」
ひとりと郁代の乾いた笑みが空虚に響く。
「……よ、よおーし! 気を取り直して旅の再開よ!」
「お、おー」
郁代が勢いよく立ち、拳を突きあげて宣言したので、ひとりもそれに倣って弱々しく拳を挙げた。
それからは、館からの足で大仏や、駅の近くの寺にある展望デッキから由比ヶ浜と鎌倉を一望し、楽しいひとときを過ごした。もちろんその間、郁代はさっきの館で撮れなかった分を取り戻すかのように写真を撮っている。
そして、勢いそのままに再び江ノ電に乗り江の島へ。
駅から江の島への道を歩く頃には、時刻は十一時半を回り、天気も今日いっぱい曇りの予報が外れて晴れに変わってきている。気温も心地よくて爽やかだ。
「ちょっと早いけど、お昼にする?」
隣を歩く郁代がそう提案してきた。
「いいですね。何食べますか?」
「ここに来て食べるものと言ったら、一択しかないわよね?」
郁代の質問を聞いた途端に、黄色い髪のあの人の言葉がパッと一瞬で思い出される。
「……しらす丼!」
二人の答えは同じだった。
少し遠くに緑と灯台が印象的な島が見える海岸線の道路まで出て、地下通路を使って道路をくぐる。
明るいところから、暗いところへ入ったために余計に暗く感じた。
「で、喜多ちゃん。どこのお店に行くとか決まってるんですか?」
「それはこれから決めるわ。本当は、別のところにしようかなって思ってたんだけど、いざ着いたら伊地知先輩のことを思い出して、急に食べたくなったのよねー」
郁代のひとりへの質問の答えには、懐かしさで溢れていた。
「虹夏ちゃん、いっつもしらす丼食べたがってましたよね。でも、結局食べられたことありましたっけ?」
「さあ、どうだったかしら……食べたことなかった、ような?」
郁代は分からないと小首をかしげながらひとりに返す。
「ですよね……虹夏ちゃん――」
そんな話をしているうちに、再び地上へ出る。太陽がまぶしい。
海風を感じながら龍の灯篭や、アクセサリーの露店を過ぎて、その足は弁天橋にかかる。
今は干潮時ではないらしく、橋の下は海水で満ちていた。
金沢八景のほうが磯のにおいがしたなだとか、江の島は外国の人が多いだとか思っていると、郁代が話しかけてきた。
「あれ見て、ひとりちゃん」
なんのことだろうと、郁代が指さす方向に顔を向ける。
すると、そこにはおびただしいぐらいのカモメが防波堤に止まっていた。
「どこから来たのかしら?」
「さあ? どこから来たんですかね」
とてつもなく中身のない会話。でも、なんとなく楽しい。
どうでもいい話をしながら、なんやかんやで江の島に上陸する。
「さすがに、人が多いわねー」
郁代の言葉の通り人通りが多く、島の入口に近い店から順に列ができていた。もちろん辺津宮へ向かう参道には、食べ歩きの人々が闊歩している。
「どうする?」
郁代がどこの店に入るかという意味で訊いてくる。
「……とりあえず歩きませんか?」
ひとりは行列に並びたくない一心でそう郁代に提案した。その声は少し怖気づいているのを自分でも感じる。
あのときから感じている第三者としての人々の冷酷さは、いまだに完全に払拭し切れていない。
家を出てからここまで踏ん張ってきたが、ここに来て足が震えそうになる。
だったら、こんな観光客で溢れている場所を選ばないほうがいいという話だが――。
「いいわね」
郁代はひとりのことを察したのか、はたまたそういう気分だったのか、意気揚々と道路に沿って歩みを進めた。
しばらく歩いた後、ちょうど反対側の駐車場が終わるタイミングで、ずらりと並んでいた飲食店の店舗も終わる。
ハワイアンなカフェから、和食まで様々な種類があり、きっと食べたいものがはっきりしていなかったら、迷っていたことだろう。
「ひとりちゃんは、どれがよさそうだった?」
郁代がそう訊いてくる。
ただ、そう言われても事前情報も何もないひとりには、どこに入っても大差がないように見え返答に困る。
「じゃあ、あそこの店で……」
ひとりは一番端に立っていた店を指さした。
単純に待たないで店に入れそうだというのもあるが、店先で一生懸命に呼び込みをするおじさんに心打たれたのが理由だ。
いや、心を打たれたというより、店に入りもしないのに近くを通るときに、勝手に自分だけ気まずくなっただけなのが真の理由かも知れない。
「おー」
「わぁー」
ひとりと郁代は、運ばれて来たしらす丼定食に驚きの声を上げた。
時期が時期のため生しらすではなかったのが残念ではあるが、どんぶりの中で存在感を放つ釜揚げしらすと、絶え間なく滞留する味噌汁から香る匂いが食欲を刺激する。
「いただ――痛だだだ……」
我慢しきれなくなったひとりは、食べ始めようとするが、全力で郁代に止められた。
「ちょっと待って! ひとりちゃん! 写真撮るから!」
「は、はい!」
ひとりはその意気に驚いて体を跳ねさせる。すっかり郁代の食事前ルーティーンが頭から抜けていた。
「――はい! 食べてもいいわよ」
郁代の食事前の儀式が終わったようで、ひとりに食べてもいいと許可を出す。まるで郁代の飼い犬になった気分だ。
「じゃあ……いただきます!」
「いただきまーす」
景色が綺麗だと通された二階の窓際席からの景色は、停泊するヨットや、遠くに見える漁港が見え、輝く太陽に照らされて光る海面の青が目に染みた。
それら光景は、観光地で食事をしている非現実感が加速させて、以前は毎日のように見ていた海も別物に感じる。
「……ふぐっ!」
そんな眺めを楽しんでいたら、ご飯を喉に詰まらせそうになった。
「ちょっと、ひとりちゃん!」
ぽんぽんと郁代が背中を叩いてくれる。
「……大丈夫?」
「は……はい」
ひとりは咳を収めた後、水を飲みながら言った。
「もう、しっかりしてよねー」
「す、す、すみません」
気を取り直してひとりは、味噌汁を啜る。
その熱さに舌を怯えさせつつも、鼻から抜ける出汁の香りを味わう。
「……そういえば、喜多ちゃん」
ひとりは味噌汁が喉を通るのを待って、郁代に話しかけた。
「ん?」
「喜多ちゃんは、結局――春から大学に行くんですか?」
ひとりは、あの星空の下で聞いた郁代の話を思い出しながら話す。
「あーその話ね……」
そう言う郁代の顔は、瞬きの合間だけやるせなさそうな表情に変わった。
また、郁代の母と何か揉めたのだろうか――。
「あ、あの、喜多ちゃん……言いたくないなら、言わなくていいですよ……」
ひとりは郁代を慮って言う。
「う、ううん。大丈夫だから! ――まぁ、簡単に言うとね、私、大学落ちたのよ」
埒外からの驚きの情報にひとりは驚く。
「……」
「そ、そんな顔しなくていいから」
ひとりは郁代に言われてハッとする。
いつの間にか、辛気臭い顔になってしまったようだ。
「えーっと、前に進路でお母さんとケンカになったの覚えてる? あれから、受験に向けてちょっとずつ勉強し始めたんだけど――」
それからの郁代の話はこうだった。
あのことがあって、看護師になろうと決意したものの、看護学科がある大学は、二年生のときに考えていた進学先よりも難しく落ちてしまったと。
「――だから、私は立派な浪人生よ!」
「……そ、そ、そんな誇ることじゃないと思うんですけど……」
ひとりは郁代の言葉に、ずずっとお冷を飲んだ後に言う。
「まあ、そんなことがあってモヤモヤしてたのよ……あーなんか、ひとりちゃんに話せてスッキリしたわ」
「お、お役に立てたなら、よかったです」
「あっ、そうだ。予備校の先生が言ってたんだけどね、まだ本格的な勉強が始まっていない今のうちに遊んでおいたほうがいいぞって」
「はあ……」
ひとりは相槌の息を漏らすが、自分には関係のない遠い話過ぎて、予備校生の生活という具体的なイメージが頭に浮かんでこなかった。
「だ、だから……ひとりちゃんは、どこか行きたいところとかあるかしら?」
「う、あ……え? わ、私ですか?」
突然、自分の名前を呼ばれひとりは困惑が一瞬頭の中を支配したが、真剣に考えてみる。
郁代も満足できて、自分もある程度は楽しめる場所――。
「うーん…………すみません、何も思いつきませんでした」
「やっぱり、そうなるわよね。まぁ、何か思いついたら言ってね」
「あっはい」
「じゃあ……しらす丼食べちゃいましょ!」
郁代の明るい声が響いた。
どんぶりの中身が半分を切って、食事も終わりになりつつある。
食べることに集中して下を向いていたひとりが、顔を上げて郁代のほうを見ると郁代もひとりのことを見ていた。その視線はひとりに何かを訊きたそうにしている。
「――ど、どうかしましたか」
ご飯を食べる手を止めて、ひとりは恐る恐る郁代に話しかけた。
「別に大したことないんだけど……ひとりちゃんは、これからどうするんだろうなって」
「どうする、って?」
「何かやりたいこと見つけた? ほら、夏に話したでしょ――」
確かにキャンプしたときにそんな話をした気がする。
「…………えーっと、とりあえずギターは続けるつもり、です」
これはあのときと変わらない。
「うん」
「あ、あとは、お母さんが高校卒業資格ぐらい取っておいたほうがいいよって言ってたので、取ろうかなぁって思ってます……」
これは正直、よく分からない。ただ先生に書けと言われて書いた感想文と同じようなもの。
未来のことなんて考えてもいなかったし、考える気も起きなかった。
学生でなければ、社会人でもない。
しっかり前を向いて生きているわけでもないし、後ろを向いて死にに行こうとしているわけでもない。
そんなおぼろげな今が霞となって、ひとりの周りを覆っている。
「……そうね――そっちのほうがいいかもね」
それ以上言葉が続かないひとりに、郁代は必要最低限のことしか言わずに、静かに頷いてくれた。それがとても楽だった。
会計を済ませて店を出た頃には、食べ終わった後に少し休んでいたこともあり、正午から三十分以上過ぎて、もう午後一時近くになっていた。
この通りのあらゆる店に人の列ができ、時間の流れと自分たちの作戦が功を奏したことを感じさせる。
「次はどこに行く予定なんですか?」
今日の行程を知らないひとりは、郁代に訊く。
「次は、あそこよ!」
郁代が指さした先は、前にみんなで来たときに上ったことのある展望台つきの灯台。シーキャンドルだった。
「もちろん、今回はエスカーなしよ!」
燦々とした郁代のオーラとは裏腹に、自分が塵と化していくのを実感するひとりだった。
人の流れに揉まれ、胃の中で暴れる昼食。
エスカーに乗るための入口を脇目に上る急な階段に、精神力と体力を奪われる。
ひとりのコンディションは最悪になりつつあった。
辺津宮を通り過ぎて少ししたところに、眺めのいいデッキとベンチを見つけたので、ひとりは一休みする。
その場所は太陽の影になるところにあって少し寒いが、眼下に広がる青い海が心を癒してくれた。
「――ほら、もう行くわよ」
幾許かの間ゆったりとしていたら、郁代はそう言ってずかずか行ってしまう。
「ちょ、待ってください!」
まだ、まったくベンチがお尻になじんでいないのにと、名残惜しさを感じつつも郁代を追いかける。
ひとりが必死に郁代を追いかける姿に、なんだか郁代は満足そうだった。
そんなこんなで、階段をすべて上り切った二人。
ひとりはともかく、郁代もそれなりに疲れたようで、ほんの少し間だけ息を整えていた。
「……ふう、もう足がパンパンになっちゃったわ」
「……み、水」
掠れた声で呻くひとり。
もう景色とか、すれ違うカップルだとか、そんなことはどうでもよかった。
この小さな島にエスカレーターが設置されている理由を自らの体で体験したひとりには、そんなことを考えるほど余裕がなかった。
植木の周りの座れるところでひとりがダウンしていると、郁代が「はい」とペットボトルを手渡してくれた。近くの自販機で水を買ってきてくれたらしい。
「……んく……んく……」
そのペットボトルの中身を一気に半分飲み干す。
「ふぱっ……い、生き返ったー」
冷たい水が体の中を通って染みわったていくのを感じた。
「ぷはっ」
郁代もひとりと同じように水を飲んでいたようだが、その飲み方は、まるで清涼飲料水のCMのようで、本当に同じものを飲んでいるのか疑いたくなる。
パッケージが同じなので、中身は一緒のはず……。
ひとりは飲み残した分をカバンにしまって、手を後ろにやって体を支え、足を伸ばす。
一息つくと、冷たすぎもせず、強すぎるわけでもなく、ただ爽やかな風が吹いているのに気づいた。
そんなことを感じていると、いつかのように段々と晴れやかに気分になってきた。
「き、き、き、喜多ちゃん……えへ、えへへ……し、写真撮ります?」
「え……」
醜態を公然とさらすひとりに、郁代は割と本気で引いている。
「はぁ……そんな様子なら、もう大丈夫そうね」
ひとりの隣に座っていた郁代は、立ち上がりながらそう言う。そして、そのまま郁代はひとりの両手を取って、立ち上がらせた。
「ほら、行きましょ!」
シーキャンドルからの佳景を写真に収めている郁代をじっくり眺めた後、その下の苑も堪能した。
季節の花が咲くそこは、文学館に行けなかった郁代にはちょうどよかったようで、たくさん写真を一緒に撮らされ大変だった。
それが終わったら、次は来た道を戻って水族館に向かうことになり、また階段と格闘する時間がやってくる。
下りとはいえ、なかなか急だったため、そこでまた体力を使う。上りのときと比べて、そこまで疲れなかったのが唯一の救いだった。
そうして、江の島を離れようとも人の多さはどこに行っても同じで、郁代の後ろをとぼとぼついて行くしかないのが少し情けない。
「はあーやっと中まで入れましたね……」
水族館の入口から少ししたところで、ひとりは膝に手をついて一息つく。
「結構待ったものねー」
暗がりの中でも、水槽の明かりでほんのり郁代が見える。
その薄く見える郁代は、泳ぐ魚たちに見惚れ、綺麗な写真を撮るのに夢中になっていた。
そんな郁代をひとりはじっと見る。
「私は魚じゃないわよ」
はにかみながらそう言う郁代にまた釘づけになりそうで、慌てて違う方向を向く。
視線の先にいる魚に、
「あの魚は、食べれるのかな……」
なんて思いながら、ゆったりと展示されている魚たちを見るのに専念した。
暗い場所は普段なら落ち着くところではあるが、さすがに人が多すぎて落ち着かない。
かと言って、スマホをばかりを見ながら過ごすのは味気ないし、何より郁代に悪い。
ということで、ひとりも郁代に倣って写真を撮ってみたりした。
たまには、柄ではないことしてみると世界が広がって見えるのが面白いのかも知れない。
経路から広い場所に出れば、大水槽に穏やかに泳ぐエイや、その時々で形が滑らかに変わるイワシの魚群らに目を奪われる。
人だかり越しでも感動できる光景がそこにはあった。
魚たちに別れを告げて、人の流れに乗って進んでいくと、この水族館の目玉が目に入り始める。
そう、クラゲだ。
「ひとりちゃん! こっちすごいわよ!」
少し先を見てきた郁代が驚きと興奮を顔に浮かべながら、ひとりに話しかけてきた。
手を引かれそのスペースに飛び込んでみると――。
「わぁ……」
円形で、全体的に青色を基調にしているその部屋には、大きかったり、小さかったり、足が長かったり、短かったり、様々なクラゲが優雅に水槽の中を漂っていた。
その中でも、際立って目を引くのは、真ん中に鎮座する球体状の水槽だ。
小さいクラゲが無数に漂って、かわいらしい。
そんなクラゲたちに思わず、ひとりは感嘆の声を漏らす。
「ひとりちゃん、ほら!」
そう郁代に言われて、本日何度目かの自撮りを撮らされる。もう数えるのを止めてしまったから正確な数字は分からない。
写真はいつまで経っても慣れないものだが、こうも楽しい気分だと、少しだけ撮りたくなる気持ちが理解できる気がした。
「喜多ちゃんは、どのクラゲが好きですか?」
少し郁代に話題を振ってみる。
「私は……これかな?」
郁代はミズクラゲを選ぶ。
「私もそれが一番好きです。クラゲ全部に言えることですけど、ぷかぷか浮かぶ感じが、なんか自分に合ってる気がするんですよね……」
この気持ちを人に伝えるために言語化するには、どうしたって自分の力量が足りずに難しい。だけど、
何も持たずに海をぷかぷか漂う、そんな地に足がついていない浮遊感に共感しているのだと思う。
「……そうね」
郁代はひとりの言葉を精一杯理解しようとしてくれているようで、短い呟きにも多様な思いと感情を含んでいた。
「あっ、ひとりちゃん、この後に行きたいところがあるんだけどいいかしら?」
唐突に郁代が、ひとりに提案する。
「いいですけど……」
「けど……?」
ひとりは、その次に続ける言葉を言い淀む。
「も、もうすぐイルカショーの時間なので、い、い、一緒に観に行きませんか!」
「……ええ、ええ! もちろんよ!」
郁代の呆気にとられる様子を見れて、勇気を振り絞って言った甲斐があったと思った。
いつもは郁代のペースだから――。
結局、イルカショーが終わったあとに、閉館までの残り時間で、まだ見切れていなかったペンギンや、ウミガメ、深海を探索する調査船の展示エリアまで回っていたら、ほぼ閉館時間と同じ時間、だいたい午後五時に水族館を出ることになった。
「ひとりちゃん、こっちこっち」
そのまま、郁代に手を引かれ、江ノ電の江の島駅へ向かう。
さすがに一日遊び回って、疲れたのか二人の間には会話はなかった。電車に乗った後も会話はない。
そのとき郁代は何をしていたかというと、窓の外に見える海を眺めていた。
疲れで中和された郁代のオーラは、憂いを帯びていて、いつもとはまた違った表情を見せている。
そんな郁代を見つめていると、不思議と周りの音が聞こえない気がした。
時折、郁代と同じように車窓から外に目を向けてみると、この時間帯特有の海が夕日を乱反射して輝いているのが見えた。
空の青と、海のオレンジが混ざり合った絵画のような色彩。
その繊細な景色、列車の心地いい揺れ、一日遊び歩いた疲労、その三拍子が揃ったことで、立っているのにも関わらず瞼が閉じそうになる。
必死に現を抜かすまいと耐えていると、聞き慣れた声と同時にポンポンと優しく肩を叩かれた。
「ひとりちゃん」
「……ふあっ!?」
我に返ると、どうやら目的地の駅に到着したようで、郁代はひとりを起こしてくれている。
「すみません。半分寝てました……あはは」
「まぁね、さすがに私も疲れたわ……」
そう言って、郁代は小さく伸びをする。
どこに着いたのだろうと、ひとりは駅名が書かれた看板を探すと『七里ヶ浜』とあった。
短いホームを歩き、街中で見かける車止めのような改札機を抜けて、駅を出る。
近くのラーメン屋を過ぎたあたりで、海から吹き抜けてくる風とともに、強烈な潮の香りが襲ってきた。
その匂いが、学校がある日も、バイトがある日も、バンドの活動がある日も、ギターケースを背負って歩いた、金沢八景のあの海沿いの道を思い出させる。
小さな橋を渡って、少し遠くに見えるコンビニのほうへ曲がって、横断歩道を渡る。
その間もずっと、ひとりは頭の中でこれまでのことを反芻していた。
波は白い花を咲かせて砂浜を彩り、波音が耳の中で反響する。
踏む砂がザクザクと音を出し、夕暮れが二つの影を残す。
郁代がここに来たがっていた理由は、砂浜に降りなくても分かった。
ここから望むのは、夕日に照らされる江の島と、遥かに望む富士山。今日の天気が、奇跡的に晴れに変わったことで見られた光景だ。
「ほんと、綺麗でしょ? イソスタとか、マップの写真で知って、機会があったら行ってみたかったのよ……」
風でなびく毛先をいなしながら話す郁代は、見たかった景色を見ることができて表情を綻ばせていた。
そのくすぐったそうな笑みを見れただけでも、眠気を振り切ってここに来た意味があったなと、こちらまで嬉しくなる。
「……はい」
あの夜からずっと、心に引っかかって取れなかった言葉がある。
――私は、ひとりちゃんのために生きたい。
今まで私は、誰かのために生きるとか、なんのために生きるとか、考えたこともなかった。
そもそも、毎日学校へ行って、バイトに行って、バンド活動していたらそんな余裕はない。あっという間に時間は過ぎ去って、今は過去になって、未来は今になってしまう。
だけど、この九ヵ月間。過去が今で、過去が未来になってしまったこの間、寄せては返す波のように、ひとりの中をさらう言葉の意味を考えて分かったことがある――。
ゆっくりと歩みを進めるなか、不意にひとりは郁代の手を握ってみた。あの星空の下とは違って、今回はひとりがただ郁代の手を握りたかっただけ。
そんな、利己的なひとりを郁代は拒まない。
「喜多ちゃん、向こうのほうまでこのまま歩きませんか……」
ひとりは鎌倉高校前駅あたりの砂浜を指さして言う。
そのあたりは人もまばらで、ひとりと郁代、二人だけの世界になるだろう。
それでも、郁代は拒まなかった。
「うん」
――それは、今の自分があるのは郁代のおかげだということだ。これだけはハッキリと言える。
あの夜に無くなってしまった心を満たしてくれたのは郁代だ。
あの夏に自分はこのままでもいいと言ってくれたのも郁代だ。
郁代がいなければ、今どうなっていたか想像もつかない。いや、郁代のいない世界なんて想像もしたくない。
出会った日から今日まで積み上げて来たものが無くなるなんて――リョウと虹夏のことを想えばことさらにそうだ。
流木を避けて、風で乱れる髪に笑い、砂を踏みしめていくうちに、どちらが始めたのか分からないが、いつの間にか互いの指を絡めあっていた。
「ひとりちゃん……海、綺麗ね」
宙舞う埃にキラキラ輝く海は、何にもなれなかった透明な二人を照らしている。
少し寂しくなるぐらい綺麗なその景色に、ひとりは言葉が出ない。
「また……来ようね」
「――うん」
今日を重ねるたびに自分の中で郁代の存在が大きくなって、想う度にチクチクと胸を刺す痛みに、最初はわけが分からなかった。
郁代の笑顔が、泣き顔が、言葉が、そのすべてが頭から離れない。
それが恋だと受け入れても、さらにその鈍痛は酷くなるばかり。
それは、恋より深くて、黒より黒い。あらゆることを塗りつぶせる激しい渦のようで、足掻けば足掻くほど深く沈んでいく。
郁代に溺れて、ボコボコ泡を吐き出して、体の中の酸素も使い果たして息が続かない。
それでも、止まりそうな脳みそでも、感情は胸を焦がして、おかしいぐらいに鼓動を高鳴らせる。
時々、手を繋ぎ直しながらも、一歩一歩、時間を使って進んでいく。
今日という日が終わることを嘆くかのように、砂浜に引っついて動くまいとする足を引きはがしながら進む。
隣に目を向ければ郁代の顔と、真新しい明日を迎えるために、海に浸かって波に体を洗ってもらっている太陽。
逆光に顔を少し顰める。
「ん?」
ひとりの視線に気づいた郁代が「どうしたの?」と目で言っている。
郁代の大きな目が、整った横顔が今は自分のためだけにあると思ったら、無意識のうちに笑顔になってしまう。
「なんでもないです」
擦れるお互いの指がこそばゆい。
ここまで生きてきたのは、これからも生きていくということは、どんどん終わりに近づくことでもある。
そして、終わるということは忘れられるということ。
自分の存在した証が時の流れに削られて、いつかは塵芥となり果てる。
それがいくら恐れるものであっても、誰も彼もが逃れられない。この世でたった一つの平等。
光の中へ生まれてきた命は、必ずや終演を迎えなければならない。アンコールなど、ただの一回も存在しないのだから。
でも、それでも――このうるさく脈打ち、身を揺らす心臓の音を郁代に聴いてもらうためなら、生きていたいと思える。
命をすり減らしてでも、私が放つこの音を伝えたい。
「…………」
「…………」
千風は過去を優しく包み込み、波は複雑怪奇なこの思いを洗い流して一つの結論へと導いてくれる。
それはもうすぐ落陽を迎える太陽に変わって、心の中で永遠を超えて輝き続けるもの。
純粋な一へと昇華したその想いは、初期衝動のような凶暴さに変わりひとりを盲目にさせる。
郁代のことが好きだと叫びたい。走り出したい。
そんな周りに憚られることなく思いの丈をぶちまけるベタな青春映画の一幕のような気持ちが、自分の体を支配する日が来るとは思わなかった。だって、愛の花は陽の当たる場所にしか咲かないと思っていたから。
いや、それは少し違う。
私だけの太陽が私を照らし、光の方へ手招きしてくれているだけだ。
世間一般からみたら、私はいまだに暗い場所で生きている人間なのだろう。でも、それでいい。
あ、そっか――これだったんだ。この気持ちだったんだ。
やっと、隣で静かに佇む大切で、自分のすべてを捧げても惜しくはない人の思いに辿り着けた気がする。
なら――。
「ねぇ、喜多ちゃん……」
「何?」
郁代がこちらを真っ直ぐ見てくる。きっと、あの厳しそうな郁代の母に、人と話すときはその人の目を見ましょう、と言われて育ってきたのだろう。だが、その視線がひとりを恥ずかしくさせて目を伏せたくなる。
それでも、伝えないといけない。
そのためにある――命。
「……」
ひとりは無言のまま、郁代と繋がっていない手で郁代を抱きしめる。
「っ! ひとりちゃん、急にどうしたのよ!?」
突然のハグに、数々の奇行を見てきた郁代も驚くほかなかった。
「……わ、わ、私は喜多ちゃんといるために、ここにいるんです……」
暗闇を照らす満月並みに輝けなくても。
オリオン座みたいに有名じゃなくても。
流れ星みたいにみんなに注目されなくたって。
――郁代がいる。ただ、それだけでいい。
私は郁代と出会うためだけに生まれてきたとは言わないし、そんな風には逆立ちしても思えない。
だって、一生に一人いるかいないかの人間に、私がなれるわけがない。私はそんなに価値のある人間じゃない。
だけど、郁代と生きるために私は今、ここにいる――そう断言することぐらいはできる。
「うん」
「やっと、あの言葉の意味が分かりました……」
「……私がひとりちゃんと生きていきたいってやつ?」
郁代が耳元で囁く。
「うん………………わ、私は――」
世の中から見たら私は、一体どんな風に見えるのだろう。
疵口を舐め合っている滑稽な人? 哀れな被害者? それとも、無関心だろうか。
だが、他人との距離が近くて遠い今、大小問わずどんな思いも波風を立てて、水面を乱し、その波紋を無限遠まで轟かせる。
でも、そんなことは、もう気にしない。
水の上に中指を立てて、手を振って、深海に潜っていけば関係ない。
水底で見える月に寂しい思いをするかも知れないけど、夜の寒さに凍えるかも知れないけれど、この瞳に光がある限りは大丈夫――郁代の言葉を抱きしめて、郁代のことを想えば温かいから。
純粋も、不純も、それらすべてが郁代を想う気持ちには変わらない。
孤独の夜は二度と来ることはない。
ずっと郁代の傍にいたい。郁代とバカみたいなことも楽しみたい。郁代といろんなところに行ってみたい。いろんな服の郁代を見てみたい。郁代と朝まで話してみたい。郁代の笑顔も、泣き顔も、怒った顔も、拗ねてる顔も、全部独り占めしたい。郁代とこれからも手を繋ぎたい。郁代とこれからもっとハグしてみたい。郁代とキスしてみたい。郁代と体を交わしたい。その舌で舐められたい、愛してあげたい。郁代とただれた生活を送ってみたい。他人が見たら胃もたれするような甘い生活を送りたい。もし郁代が誰かに奪われたなら、奪った相手を殺してやりたい。
こんな気持ちの悪い願望でも、こんな、床に頭を自ら強打して記憶を捨ててしまいたくなる欲望でも、全部ひっくるめて後藤ひとりという存在なんだ。
暗くて、いつもいじけてて、どうしようもない人間だけど、たった一人の心を渇望している。
これが愛じゃないなら、一体何が愛だっていうのだろう。もし、これが愛じゃないというのなら、一生かかっても理解できないし、謳うことなんてできない。
人にありのままを見せるのは、怖い。ましてや、相手は郁代だ。
拒絶はされないと分かっていても、身を震わす恐怖はそのまま。でも――もう吹っ切れた。
「――――――喜多ちゃん……愛してます………」
理由はまったく分からないが、その言葉を言った瞬間に涙が溢れてきて、ひとりは砂浜にぺたんと座り込んでしまった。
「ちょ、ちょっと、ひとりちゃん! そこは言われた私が泣くところじゃないの?!」
郁代はそう言いながら、ひとりと同じように砂浜に座って涙を指で拭ってくれる。
「でも――ありがとう……嬉しいわ」
俯くひとりの頭の上に郁代は話しかける。
「私も、ひとりちゃんのこと好きよ。愛してる。世界で一番……」
「本当、ですか……?」
ひとりは恐る恐る顔を上げて郁代に問う。
それに郁代はひとりを真っ直ぐ見つめ返して短い一言を告げる。
「大好き」
郁代の瞳の中にいる自分が赤くなっていくのが見えるようだ。顔が熱い。
「あれ? ひとりちゃん、赤くなってる?」
郁代がナチュラルに茶化してきた。それに返す言葉に、何千、何万、何億回と使われてきた――夕日のせいだ、なんてクサい台詞を選ぶのも癪なので直球勝負でいく。
「そうですよ。全部喜多ちゃんが悪いんですからね」
そう言って、お尻についた砂を軽く払いながら二人で立ち上がる。幸い、湿っていた場所ではなかったのでそんなに砂はつかなかった。
「今思ったんだけど――ひとりちゃんがこのお洋服着て来たのって、このためだったってこと?」
「あっはい。お母さんに喜多ちゃんと出掛けるって言ったら、一緒に買いに行くことになって、それで」
もしかしたら、いや、もしかしなくても母はひとりの気持ちに気づいていたのかも知れない。
大体の人が頭で分かっていても、心では分かってくれていない恋愛。
まさか自分の娘が、と最初はすごく困惑したと思うのに、最終的には応援してくれた――。
「あとそれから、ひとりちゃん、今日メイクして来たでしょ」
鎌倉で会ったときから気づいてたわよ、と郁代は言う。
「そ、それもお母さんがやってくれました」
母がやってくれたことが多すぎて少し話すのが恥ずかしい。
次にデートするときは、挑戦してみようか。
自分のためにオシャレはできないけど、郁代のためならできる。
「……あっ、でも、場所は私が決めましたよ」
せっかくの告白。いつもとは違う景色の中でしてみたかったのだ。
それに、あのときは江の島だけだったが、ここら辺には結束バンドのみんなで来たことがある。それが何かよかった。
「ルートは私が決めたけどね」
「そ、そ、そうですね……」
「――さ、行きましょ?」
郁代が手のひらをこちらへ出してくる。
それに、うん、と返事して重ねた。
二人はまた海岸線を歩き出す。
とてもいい感じだったのに、
「ひとりちゃんを着せ替えして、メイクまで……いいなあ。私もひとりちゃんのお母さんになろうかしら」
とわりかし本気なトーンの声が薄く聞こえてきたのは気のせいなんだろう。
そんな郁代の言葉が聞こえるほど近くにいられる喜びを噛みしめていたら、唐突にアイデアが浮かんできた。
「あ、あの喜多ちゃん、春休み……お花見しませんか? 喜多ちゃんも勉強始まる前に遊びたいって、お昼のとき言ってましたよね……どう、ですか?」
ひとりの言葉に郁代は素に戻って答える。
「いいわね!」
郁代は提案に乗り気なようで、頬を上気させていた。
「あっ――それなら……」
「なんですか?」
「ひとりちゃん……私のお弁当、食べたい?」
「……い、い、いいんですか!?」
郁代の手料理が食べられるかも知れないなんて願ってもないチャンス。だけど――。
「い、いや、待ってください!」
「え?」
予想だにしなかったひとりの返答に郁代は驚きの言葉を漏らす。
一瞬空気が凍った。
「い、い、一緒に作りませんか! お弁当! わ、私は、おにぎりとかしか作れませんけど……」
「え、でも……お弁当作るなら朝早く……そっか、そういうことね」
ひとりの言いたいことが郁代に伝わったようで、すぐに氷解して胸を撫で下ろす。
「だったら、最初から言えばいいじゃない……お泊り会しましょうって」
「で、でも――」
「分かってるから」
しょうがないな、という感じで言いつつも、その声色は郁代の顔が朱色に染まっていそうだった。
同じ部屋、互いの寝息が聞こえそうな距離で、共に夜を過ごすからと言って、甘い空気が二人の間を埋めるとは限らない。。
でも、もしそうなったら、きっと嬉しいだけと思う。
「……じゃ、じゃあ、いつぐらいがいいですか?」
「う、うーん、まだ桜は咲いていないものねー」
二人の間に流れる絶妙な塩梅のロマンチックさを孕んだ雰囲気のまま、郁代は少し空を見上げながら思案する。
恐らく、どの日なら都合がいいかとか、観に行くならどこがいいとかを考えているのだろう。
その間にひとりはスマホで検索をかける。すると、すぐに答えが得られた。
「……ら、来週あたりが見ごろになりそうですよ」
その画面を郁代に見せる。
「じゃあそうしましょっか!」
「はい!」
もうすぐ時計は六時。
ふたりぼっち夜の世界、見上げれば星のヒカリ。
アネモネみたいな未来が咲く。
完
読んでくださりありがとうございました。
pixivと使用が違うので四苦八苦してます……。
次作は今作と同じぼざろの長編になります。