煌きは白く   作:バルボロッサ

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追憶の雨

 あれはいつのことだっただろう……

 

「トオル。はやくこいよ」

「ひかる。まずいよ。」

 

 小さな声で急かしながら先を行くあの方を追っていた。

 

「だいじょうぶ。まかせろ」

「まかせろって……ここどこだよ……?」

 

 父上によって引き合わされた皇光という同い年の、この時はまだ小さな少年と自分はよく一緒に遊んでいた。

 たしかこの時は、中庭あたりで遊んでいたはずが、いつの間にか気がついたら建物の中をこそこそと動き回っていた。

 

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

「どこに行くんだよ……?」

 

 自信満々に言う光の様子に、嫌な予感が募るのだが、放ってはおけず、言われるがままに光の後を追っていた。

 

「剣のしゅぎょうをみたいって言ってただろ、トオル」

「言ったけど……おれたちにはまだはやいって言われただろ」

 

 当時の自分たちはただ強くなりたいという男子の憧れのような思いを漠然と抱いていた。

 しかしまだ小さく、幼かったがゆえに剣の修行を受けたいという申し出は二人そろって却下され、その前に体を鍛えておきなさいとやんわり言われたころだった。

 

 遊んでいるうちに、その時の愚痴をこぼしてしまい、それなら剣の修行を見に行こうという話になったのだった。

 そしてどうせなら強い師匠が教えているところを見に行こうと、兵舎の鍛錬場ではなく、閃王子の練習を見に行こうと光に連れられてしまい……

 

「よし。たしかここだ」

「ここ?」

「たんれん場だよ」

 

 二人そろってこそこそと閃王子が鍛錬をつけてもらっている道場を覗き見ていた。

 

「よいしょ。よし。やってる」

「えぃ、っしょ。うわぁ……」

 

 鍛錬をつけている師範は、壮年の域に達したくらいの人で、しかし弟子たちを叱り飛ばす声や覇気は幼心にすごく感じた。

 

「あの人が、和国きってのけんごうなんだって」

「あのおししょうさん?」

 

 今しがた立ち合いをしているのは、光の兄である閃王子と師匠を思しき人だ。

 閃王子の息はすでに大きく乱れており、それでも凛と伸ばした背筋揺るぐことなく、その剣先は相手に向いていた。

 

 

「……うーん、やっぱり。なんだろ? 兄上の剣、なんかぼんやりとしてないか?」

「どれ?」

「剣だよ。あっちの人の剣はすっとしてるのに、兄上の剣はなんかかげろうがゆらいでるみたいだ」

「?」

 

 その時の自分たちはまだ、気のことや操気術ことは知らず、自分の目にはただの木刀にしか見えなかったのだが、光の目には薄ぼんやりと気の揺らめきが感じ取れていたのだろう。

 だが、ついつい見ることに集中してしまい、二人そろって身を乗り出した瞬間

 

「むっ! 誰だ!!」

 

「あっ。やっべ」

 

 怒鳴り声が届いてからの光の対応は素早かった。

 ちょうど、閃王子をたたき伏せた師匠さんが残身の姿勢から臨戦の構えに移行し、二人の方をにらみつけて怒鳴り声を上げたのだ。

 

「え? ぐぇっ」

 

 身を翻した光はすぐさま融の襟首を引っ掴んで、駆け出していた。

 

「こっちだ」

「えっ。ひかる」

 

 背後からどたどたと駆けてくる足音が聞こえるのに混じって、「また殿下だ!」「今日こそ逃がすな!!」などと聞こえるのは、普段から色々やっていたことのせいだったということに、融はこの数年後身に染みて体験することとなった。

 剣の修行も始められない小さな子供と修行中の剣士見習い。どちらの脚力が優れているかと聞かれれば圧倒的に後者で、逃げ切れるはずもないのだが

 

「ここだ。かくれるぞ」

「えっ!? ここ……?」

「いいから」

 

 どこをどう駆けてきたのか、曲がり角を折れた直後、とある部屋の扉の前にたどり着いており、ここがどこなのか確認する前に融は光に部屋の中に押し込まれた。

 廊下からはどたどたと数人の駆けてくる足音が聞こえたが、不思議と部屋の中を気にかけた様子はなく通り過ぎた。

 

「気づかなかった……?」

 

 曲がり角から先は隠れるところはこの部屋くらいだったはずだ。詰められつつあった速力の差を考えれば、不意に消えたことに、どこかに隠れた、もっとピンポイントにこの部屋に隠れたと訝しんでもおかしくはない気がして首を傾げ光を見た。その視線に不思議そうな色を見つけたのか光は面白そうな話を教えるような顔になった。

 

「ふなのりに聞いたんだ。とうだいの下が一番暗いって」

「?」

 

 和国には船乗りが多い。それがどこに行く船だったのかは当時まだ知らなかったし、光にその話をしたのが、漁師だったのか貿易船の船長だったのかは知らない。

 ただよくわからない説明に再び首をかしげていると光は得意そうに付け加えた。

 

「一番身近なところにかくれるのが、まさかっ!? て思ってこうかてきなんだよ」

「身近なところ?」

 

 言われてあたりを見回してみると、部屋の中は、生活感のある、しかし綺麗に整えられた部屋で、誰かが寝起きしている私室のように見えた。

 

「ここ……なんの部屋なんだ?」

 

 この建物内にこういった寝所がないとは言わないが、数は少ない。礼儀としてそいういった部屋に無断で入るのいけないと思うし、それ以上に猛烈に嫌な予感がよぎっていた。

 

「兄上の寝床だ」

「!!?」

 

 今しがたその閃王子の鍛錬場から逃れてきたところだからたしかにそれは盲点かも。とかお兄さんの部屋なんだからまあ、まだいいよね。とかそういうことはまったく思い浮かばず、ただただまずい気配が漂っていた。

 

「あまり長居すると、ここもあぶないな。早目ににげるぞ」

「ひ、ひかる……」

「次はどこに隠れるんだい、光?」

 

 廊下ではなく窓から外に脱出しようというのか、外をキョロキョロと伺っている光。その光にこわごわ声をかけた融の背後から、穏やかそうに聞こえる声がかけられた。

 ぎょっとして振り向くとそこにはこの部屋の主、閃王子が笑顔で屹立しており、流石の光も虚をつかれたようで驚いた表情をしている。

 

「……どうして分かったんだ?」

「さあ? 気のおかげじゃないか?」

 

 驚いた顔をしていた光も、兄のにこやかな笑顔とともに放たれる強烈な圧力に憮然とした表情となっている。

 

「気のせい?」

「さて。とりあえず……」

 

 微妙におかしな言い回しを感じて光が首を傾げるが、それをさらっと流した閃王子は、にこやかな笑顔のまま腕を振りかぶり、

 

ボカリ

 

 という音が室内に2度響き渡った。

 

 

 

 

    ✡✡✡

 

 

 

 

 あれは……まだ殿下が居られたころだ。

 

「ダメです」

「……なあ。一応、俺ってお前の主君でいいんだよな?」

 

 武官に席を置いていた自分は、殿下制御装置としていつのまにやら殿下の秘書のような立場に対外的にはなってしまっていた。大方、兄王あたりが手を回したのだろう。真面目そうに見えて(実際すごく真面目な方なのだが)、しっかりと殿下の兄君として似たような性質を時折覗かせることがあるから。

 

「そうです。ですからお供します」

「俺とお前、二人揃って煌に行ったら国内の軍務が滞るだろ!」

 

 ただそれでも公的には一軍の副将としての立場もちゃんと残されていた。ちなみに同部隊の将は目の前で呆れた顔をしているこの人だ。

 

「あなた一人行かせてなにか有った時の方がよほど恐ろしいことになります」

「なにかってなんだ!?」

 

 隣国、煌帝国の内部の混乱が一応おさまり、前皇帝の弟、練紅徳が皇帝の座についたという報告がもたらされてから一月ほど。

 和の国内においても姻戚関係を予定していたり、同盟目前だったりとしたためそこそこの騒ぎにはなったが、それもようやく収まりだしたころだ。

 

 慌ただしく動かれていた殿下もまた少し落ち着きを取り戻されて、珍しく殿下の私室で飲み交わしていた時、殿下から今後の予定を語られたのだ。

 

「たとえばあちらの皇子と意気投合して迷宮攻略に二人で挑む、とかです」

「なるほど。つまり、お前の俺に対する信頼はほぼない、ということだな?」

 

 その予定とは、1,2年の内に調べものに一区切りついたら煌帝国へと行くということ。

 数週間程度赴くのではなく、帰国日程不明の長期滞在のご予定だそうだ。特使として派遣されるそれに、副将として、殿下を支える者として当然の如く着いて行くだろうと思っていた私に対して、殿下は「あっ。多分、俺一人だと思うぞ」と、極あっさりとした雰囲気を装って告げてきたのだ。

 

 もちろん本当に一人で隣国に行くというわけではないが、将官クラスの人間は連れて行かないという意味だ。

 そんな恐ろしいこと(和的にも外交的にも)諫言せずにはいられまい。

 

「あるとお思いですか?」

「…………」

 

 指を立てて言わずもがなの確認をとる殿下に、氷点下の眼差しを差し上げながら返すと沈黙が返ってきた。

 今は部屋の一角に架けられている殿下の愛刀。そこに刻まれた八芒星が雄弁に殿下への信頼度を物語っていると言ってもいいだろう。

 

「せめて訳をおっしゃられて下さい。近々外交貿易で出る外交船にも、私の乗船を許可されませんでしたよね?」

 

 本来、殿下の統率される一軍は外交船に乗艦する一団だ。

 和国の国益は海洋貿易を主軸にしている。そのため通常の商船だけでなく、国の一団も赴くのだ。とりわけ軍務に秀で、政務にも精通し、位も文句なく高い王族の殿下に不足がある訳はなく、今までも幾度かは乗船していた。

 

 だが、次回の、もう出航まで一月をきった航海の予定に副将である私は含まれていなかったのだ。最終決定権があるのは国王とは言え、そこにいくまでの間になんらかの思惑が阻んだとしか思えない。そう、目の前にいる直属の上司とか。

 

「……何も言わずに外したのは悪かった。お前にはちょっと頼みたいことがあって同行してほしくないんだよ」

「…………なんですか」

 

 同行してほしくない。

 その言葉に衝撃を受けなかったと言えば嘘になる。だが、今更諫言が気に食わずに遠ざけたなどという間柄ではないと思っているし、そんなことをする方ではない。

 

「…………もし」

 

 じっと殿下の言葉を待つと、しばらくの沈黙の後、ようやく殿下は口を開いた。

 

「もし俺が、今の俺でなくなったら。お前どうする?」

 

 とても奇妙な。考えたくもない言葉を

 

「……意味がわかりません」

「今、ちょっとばっかし厄介なものを調べててな。場合によってはやばいことになるかもしれん。そうなったとき、お前が一緒だと、お前、真っ先に死ににいきそうだからな」

 

 殿下が何に首を突っ込もうとしているのか、明言されてはいないが分かっている。

 煌帝国に起きた異変の解明。

 融にとっては隣国の事変でしかないそれは、殿下にとって大きな出来事だったのだろう。その渦中にあるのは殿下の許嫁となっていた練白瑛。そして皇族たる彼女の肉親たちなのだ。

 だが、だからといって融にとってむざむざと主を、一人危地に赴かせていい道理にはならない。

 

「それが、俺の仕事です。何を置いてもあなたを守る。そのための剣です」

「お前はそういうやつだよな……」

 

 決めたのだ。

幼いころからともにあったこの方のために、自分の剣を振ろうと。

 

 自分の返しに淡く苦笑を漏らした殿下は、一度視線をそらした。再び視線を交わしたその時に、その瞳を見て、圧されるような感覚を覚えた。

 

「だから、頼みがあるんだ」

 

 今までにも独断で危ういことに首を突っ込んだことはあった。

 死への入り口と言われた迷宮攻略などその最たるものだろう。だが、その時でも殿下は自分に何かを託すようなことは言わなかった。

 

 自分が死んでもその代りはいるからと、いつかこの方は言ったが、融にとって、国にとって、殿下は欠けてはいけない、重要な存在なのだ。

 

「…………」

「もし―――――――」

 

 紡がれた言葉は、あの方が予想されたできごとは、自分の中でもっとも起こってほしくない未来を予見していて、それがたまらなく嫌だった。

 

「…………」

「頼む」

 

 言葉を失い、責めるように殿下を見つめる。 

 だが、その視線に対して殿下は、自分が認めた、支えていきたいと願ったそのままの姿で願いを口にした。

 

「……聞けません」

「融」

 

 それでも……その願いを聞きたくはなかった。

 

「そんなにあの姫が気に入ったのですか、殿下?」

 

 口をついて出てきたのは嫉妬の混じった、いや、憎悪の混じったものだったのかも知れない。

 

 たしかに容姿に優れた方だった。

 最初に垣間見たときは、まだ幼い少女だった姫は、年に数度、和国を訪れるたびに愛らしい容姿を変えていった。

 凛として強く。咲き誇るように美しく。

 皇族としての責務を、立場を忘れることなく、民のために、国のために、世界のために、心を痛めることができる方だった。

 

「さて、な……」

 

 なにかが掛け違えていれば、自分が歩くはずだった殿下の隣。それに相応しい方だと、たしかに思った。

 

それでも……

 

「そんな頼みは聞けません。俺は……」

「分かってるよ、お前の性格は……そんなお前だからこそ、頼みたいんだ」

 

 できるのならば……そんな時が歩み寄ろうとしてしまうのならば

 

 自分の持てる全霊をもってそんな未来を阻みたかった。

 たとえ、殿下の意に沿わぬことだとしても

 

 ただ、それはできない。

 

「そんな頼みは、聞けません……命じて、下さい。あなたの命があるならそれを守ります」

 

 自分はこの方に仕えることを決めたのだから。

 この方が、あの姫を守ると決めたように、この方に仕えることを決めたのは自分なのだから。

 

 だから

 

「――――――――――――――――」

 

 願いではなく、命として

 聞きたくもないその言葉を、受けよう。

 

 

 

    ✡✡✡

 

 

 

「……朝?」

 

 眼を開けるとそこはいつもの私室だった。夢を見ていたせいかいつもに比べて頭がぼうっとする。あたりを見回し、溜息を一つついた。

 

「まったく、厄介な頼みごとをしやがって……」

 

 ぽつりと出てきた呟きは昔を回顧していたためにか、普段よりもぞんざいな口調だった。

その呟きを聞きとがめる者はいない。

その呟きを聞かせたい相手はこの部屋にはいない。

 

 聞きたくもない頼みごとを残した挙句、宣言通り自分を置いてけぼりにしてしまった。

 頭をがしがしと掻きながら体を起こし、寝台から身を下ろした。手早く身支度を済ませ、出仕の準備を整える。

 

 今日の仕事は部下の鍛練。治水工事の進捗確認。そしていくつかの書類仕事…… 

 

「……と、書類は昨日仕上げたんだったな」

 

 仕事の確認をした融は、予定よりも今日の仕事量が少ないことを確認し、することを見繕おうとした。

 書類は閃皇子に提出すれば終了だ。それだけならばかなり時間が空く。

 

「……殿下の部屋でも掃除するか」

 

 早急に片付ける仕事も、たまっている仕事もないため、結局選んだのは、実質融の仕事になってしまった雑務だった。

 

 第2王子の私室は現在、理由あって人の出入りが厳しく制限されている。

 当人である第2王子が不在である、というのが一応の理由であるが、それだけならば別に融の仕事になる理由にはならない。

 理由とは、別の理由。

 

 現在部屋にあるものを知る人間を増やすわけにいかないという理由からだ。

 その存在を知っているのは、国王と兄王、そして融と父である達臣の4人だけだ。それが外部に漏れれば、国内に大きな混乱を招きかねない。

 

「バカ殿下め……」

 

 特使として赴いたあいつはしっかりできているのだろうか。

 闇の中枢に飛び込むかのような暴挙。あいつの力を信じないわけではないが、煌帝国には光と同じ金属器使いがいる。

 大陸きっての英傑。炎帝、練紅炎。光の従えるジン、ガミジンと同じジンを従える存在。

 

 融がヤツに望むのは、せめてその願いを貫き通すことだけだ。

 せめて光が望んだ、大切なものを守るという誓いを守り続けること。それだけが、融が主君と仰いだ光が唯一融に命じ、残したモノなのだから。

 

 

 

 

    ✡✡✡

 

 

 

 あれは、雨の日だった。

 

「立花副長! 宝物庫に賊が!」

「聞いている。現在の状況は?」

 

 その日の都の空は、朝から曇天で、昼ごろからは耐えきれなくなったように徐々に徐々に雨足が強くなり始めていた。

 夕方になるころには雨足は一層強くなり、都の人々は外に出ることを諦め家へと逃げ込むように大路から姿を消した。

 

 都の警備を任されている融は、強い雨に打たれながらも警邏を終え、びしょ濡れになって家路へとついた。

 濡れ鼠となって冷え切った体を拭い、温めようかとしていた矢先に融は再び城へと呼び戻された。

 

 

 宝物庫に襲撃者が侵入した

 

 

 現在、都には融の主である光はいない。和国の貿易船の責任者として国外へと赴いており、その留守を守るように託されているのだ。

 ゆえに届けられた報せに融は荒れ狂う感情を押し殺して登城した。

 

 

「すでに警護の兵が30人ほど……」

「っ」

 

 城に詰めていた兵は、名のある剣客クラスとまではいかなくとも、兵の中では指折りの者が詰めているはずだ。王が住まう城の警護兵、それは言いかえれば近衛兵であるのだから。

 報せが融のもとに届けられるまでに時間がかかっていたとしても、そして融が再登城するまでにいくばくかの時間がかかったとはいえ、それほどの兵が犠牲になったことに融は歯軋りして、腰に帯びた刀を確認した。

 

 

「賊が……あの方というのは?」

「信じがたいことですが」

 

 襲撃者の正体はすでに融にも伝えられていた。

 信じがたいという思いは、多数の兵がわずかな時間で切り殺されたということ以上に、あの剣客が賊となったことに対するものが大きい。

 

 “あの男”はたしかに和国でもきっての剣客。

 すでに老齢に差し掛かる年のはずだがそれでもなお、主である光や閃皇子ならばともかく、融が勝てるかと問われれば、すぐには頷くことができない相手だ。

 険しい顔のまま足早に進んでいた融は、不意に濃密になった血の匂いに気づいた。

 

「! ちっ!」

「副長!?」

 

 舌打ちと共にダッ! と駆けだした融に隣を歩いていた兵が驚いた声を上げた。

 駆け出した融が血の匂い、そして死の気配漂うその場に着いた時、すでに立っていたのはただ一人だけだった。

 

「…………」

「立花ふ……なっ! これは……」

 

 遅れてきた兵たちが見たのは、浴びた血を洗い流すかのように雨の中に立つ狂気の剣客だった。

 融は隙なく警戒しつつ、その男の姿を睨んだ。

 

「ほぅ。思ったよりも早かったな、立花。今は副長の位だったか?」

「なんのつもりですか……師匠」

 

 血に濡れた剣を持つ男こそ、融の、そして光の師でもある剣客。かつては和国きっての武人として知られた男だった。

 

「なぁに。少し世の無情さを考えていたのだよ」

「どういうことですか?」

 

 にぃ、という禍々しさを感じさせる笑みを象るその男の言葉に、融の気が鋭さを増した。

 男の気に当てられたのか、随行してきた兵たちがカタカタと震えるように剣を構えようとしているのに気づいて融は、兵を制した。

 

「この世とは無情だと思わぬか? これだけの力を持ちながら! 数多の剣士たちを斬り捨てるだけの力を有しながら、なぜ儂は王ではない!?  貴様の飼い主のごとき小童が王の器などというものに選ばれながら、なぜ儂は王ではない!? 儂こそ、剣士の中の王であったのだ!」

 

 一足飛びに切りかかって来られてもいいように警戒していた融だが、予想に反して男は饒舌に己が秘めたる野望を語り始めた。

 満たされぬ思い。果たされぬ野心。認められぬ虚栄心。

 

 吹き出る気は、かつて融や光が師事した師のものではなく、凶々しい黒を帯びていた。

 

「儂はなぁ。口惜しいのだよ。なにもなすことなく老いていずれ消えゆく我が身が。このような小さな世界に閉じこもることを是とするこの国が! 腹立たしいのだよ! 世界の広きを望まぬ矮小な王族どもが崇められる今が!!」

 

「つまり。殿下の敵になられた、ということですね」

 

 男の言葉に、しかし融は小揺るぎもせず、冷たい瞳のままで刀を抜いた。

 

「ふん。そのようなことは些事だが、まあそうだ」

 

 自らが小童と、矮小だと断じたものをこそ信じるものの筆頭であるかのようなその佇まいに男は失望したように鼻で笑った。

 

「あんたにとって些事でも、俺にとってはそれで十分だ。あんたを斬る理由にはな」

「くだらぬ王族の狗め」

 

 何と呼ばれようと構いはしない。

 己が信じるもののために剣を捧げる。それこそが融にとっての誇りの形なのだから

 

 すでに目の前のこの剣士は光や融の師匠ではなく、和国の剣士の尊敬を集める剣豪でもない。ただ、主に害為す賊。斬り捨てるのになんの逡巡も湧くことはない。

 

 

 肩を引くように剣を水平に構える刺突の構え。

 赤がしたたり落ちる剣を無行の位で構える男。

 

 降りしきる雨を切り裂く剣が、互いの気を纏って激突した。

 

 

 

 


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