第5話
「白雄兄上、白蓮兄上、姉上、おかえりなさい」
「ただいま、白龍。ただいま戻りました母上」
その時のことは、よく覚えている。
隣の国に使者として赴いていた兄上、姉上たちが戻ってきたときのことを。
「おかえりなさい。白雄、白蓮、白瑛。無事戻られてなによりです」
あの時の母上は……あの女はどんな顔で兄上たちを出迎えていたのだろう。
「はい。和との条約、つつがなく結ぶことができそうです」
「そう、ですか……白瑛。和の国はどうでしたか?」
当時の自分にとって、海を隔てたところにある隣国は、大陸で隣り合う国とは違う印象だった。それは薄まりこそしたが、今もまだ微かに抱いているものではある。
鬼の住む国
そんな島国に使者として遣わされた兄上たちを大変心配していたものだ。
「はい、良い国でした。王子も優しくしてくださりましたし、都の民にも活気がありました」
「よい方なのですね、和の王子は」
姉上の言葉に母上はにこりと微笑を返した。しかしほのぼのと話す姉上たちにどうしても聞いておきたいことがあり、つい、口を開いた。
「姉上! 鬼に恐ろしいことはされませんでしたか?」
ほんのりと笑う姉上を心底案じる言葉をかけると、姉上、兄上はぽかんとした表情で自分を見た。兄たちの様子に首を傾げると、
「白龍?」
「はっはっは! 白龍、お前俺たちが鬼の住処にでも行ったと思ってたのか?」
「白龍。隣国の人間をそんな風にいうもんじゃないぞ」
おかしそうに笑いながら二人の兄上が頭をぐしゃぐしゃとかき乱した。訳が分からず姉上を見ると、姉上は口元を綺麗な白羽扇で隠しながら、その目元は楽しげに笑っていた。
「姉上?」
「ふふふ。そうですね。では白龍には後で、鬼の国の王子様から伺った物語を聞かせてあげます」
国事に関わる要件で行ったはずの姉上が、その時、‘王子’のことばかり言っていた事の意味を知るのはしばらく後のことだった。
「? 白瑛、その羽扇は……?」
楽しそうに笑う兄上たちを見ていた母上は、ふと何かに気づいたかのように姉上の扇をじっと見つめた。たしか姉上はあんな白羽扇は持っていなかったはずだが……
母上に問われた姉上は、少し照れたように微笑むと
「鬼の王子様に、いえ、光王子に頂きました。出会いの贈り物だと」
扇を見つめる姉上の眼差しはとても優しく、いつもは自分に向けてくれる微笑のようで、ただどこかそれとは違うような気がした。
母上への報告が終わり、友人の青舜を呼んで、姉上から土産話を聞いた。姉上が語ってくれた和の国の話、王子の話はまさしく物語だった。
何千人もの挑戦者が命を落した迷宮に、城を抜け出した王子様が挑むお話。熊や家ほどの大きさの化け物を、王子様は持っていた細身の剣で切り裂き、襲い掛かる数々の罠を機転で切り抜け、ついにはその迷宮を攻略した。
初めて聞いた時、それはシンドバッドの冒険のお話を真似たものでしょう、と返した。
その当時、迷宮攻略者として名を馳せたシンドバッドの話は男子ならだれでも憧れを抱くほどのもので、自分も聞いた時には興奮を覚えたものだから。だから、姉上もそれを聞いた島国の王子とやらが、自慢げに語ったものを真に受けたに違いない、そう思っていたのだ。
だが、
「ふふふ。そうですね。でも、この羽扇……これは、王子様がその迷宮で手に入れたものだそうですよ」
まただ。
扇を見るとき、姉上の目は、すごく優しそうになる。その目が、いつも大好きだったその目が、扇を見ているのは無性に心を粟立たせた。
「滞在中、剣の稽古をつけていただきましたが、見たこともない剣術で、私では一太刀も入れることはできませんでしたよ」
使者として訪れた煌の姫を剣の稽古に誘うなど、なんという常識知らずの王子だ。そう思って抗議したのだが、どうも剣の稽古を申し出たのは姉上らしく、なんとも言えなくなってしまった。何とも言えなくて
「では、姉上! その王子と、兄上や紅炎殿では、どちらが強いと思われますか!」
普段、あまり好きではない従兄の名まで出してしまった。従兄はその時、姉上よりも7歳年上で、武勇に優れ、国内の将軍でも武芸において彼の右に出る者はいないと言われるほどの人だった。兄上たちもその力を認めているのが癪で、あまり好きではなかった人だが、なぜだか、その王子のことを否定したくて名前を出した。
「紅炎殿、とですか……」
姉上はうーんと考え込んで小首を傾げた。
「私程度の腕前では到底どちらが上か、など測れるものではないですね」
「紅炎殿の方が上に決まってます!」
なぜだか認めたくなくていつもは敵意を向けている従兄に勝手に軍配を上げていた。
「あら、白龍。いつの間に紅炎殿と親しくなられたのですか?」
「う……そ、そのようなことは。あ、兄上なら紅炎殿にも負けません!」
長兄である白雄兄上はたしかに強い。しかし、本当は兄上が紅炎殿に打ち負かされる姿を見たことがあるから知っていた。宮中の者も、紅炎殿はいずれ最強の将軍になるだろうと噂していた。
「王子、そこは、自分なら負けない、って言わないと」
「う、うるさい、青舜!」
一緒に話を聞いていた青舜が呆れたように言うが、その時の自分が勝てる相手でないことは簡単に分かっていた。
「ふふ。王子に白龍の話をしたら、今度はあなたとも剣の稽古をしたいとおっしゃってましたよ」
「なっ! 姉上!?」
城での剣の稽古すらおっかないのに、鬼の住むような国に自分を連れて行くことを前提に話していることに驚き姉上を見た。
「白龍もあの方と同じ、王子なのですから。いつまでも剣の稽古から逃げてはいけませんよ?」
「そうですよ、王子。明日は私と一勝負しましょう!」
「うっ……」
それはまだ、あの人と実際に会う前の話。
王子の物語以外にも、王子と共に城下町を散策したときの話も聞かせてくれた。そこにもそいつの影が見えていて少し嫌だったが、大陸とは異なる島国の話を聞くのは目新しく、青舜とともにワクワクしながら聞いていた。
鬼と思っていた島国の人が、少しだけ近く感じた。
✡✡✡
「お久しぶりです、光殿」
「ふむ。白瑛殿も息災のようでなによりだ。半年は早いものだ、随分と成長されたな」
初めて自分が和の国を訪れたのは、姉上が訪れてから半年遅れのことだった。外交使節として兄の白蓮、そして姉である白瑛と共に船旅を経て和の国についた。
数日間海の上で生活するのは生まれて初めてで、そのせいか陸地についても少し揺れている感じがしたし、和の国の気候は煌に比べて随分と湿った感じがした。
兄が和の国の王たちと話をしている間、白龍は白瑛と共に件の‘鬼の王子様’と会いまみえていた。
その人は白龍からすると随分と大きく、ただ紅炎や長兄ほどは大きくなかった。といっても白龍と同じくまだ成長期の途中といった感じだ。そして白瑛や白龍と同じ黒い髪を後ろで束ねており、なんとなく紅炎に似ているように白龍は感じていた。
「ふふふ。光殿は早く感じたのですか? 私は随分と長く感じましたよ?」
「ん? そういうわけでもないが、見違えるほどに美しくなられたように思えたのでな」
白瑛のからかうような言葉に、光が特に顔色を変えることもなく切り返すと、白瑛はぱちくりと目を瞬かせて、そして楽しそうに微笑んだ。
白瑛が扇で口元を隠しながら少し面白そうに光を見つめていた。
姉上が言っていることは本当のことだった。煌に居る間、特にこの日程が決まってからの姉上は、目に見えて嬉しそうで、和の国に訪れるのが待ち遠しいといた感じだった。そしてそんな姉上を見ていると胸のもやもやが重くなる日々だった。
「そちらが……?」
白瑛が楽しそうに笑っているのを収まるのを微笑みながら待っていた光は、ふと白瑛の影に隠れて見つめていた白龍に気づいたようで、温かみのある眼差しを向けた。
「はい。弟の白龍です」
白瑛はすっと白龍の肩に手を当てて、弟を紹介した。
その人は、思っていたような異形ではなく、とてもではないが姉上が語って下さったような冒険をしてきた人には見えなかった。
「初めまして、白龍王子。和国第2王子、皇光だ」
今まで白瑛に向けていた声が自分に向けられたことで少し体が強張ったのだろう、だが、白龍がちらりと姉を見上げるといつものように微笑んでおり、それに安心したのかすっと両手を胸元に掲げ、煌式の礼を返した。
「初めまして。練、白龍です」
少しおどおどとしながら挨拶を返すと、光はなにか見えているものと違うものを見極めるかのように目を少し細めた。
「ふむ……やはり、似てる、か? 気の感じが真っ直ぐなところは白瑛殿にそっくりだな」
「?」
面差しが似ている、という風に言われたことは幾度かあったが、気が似ている、という風に言われたのは初めてで、この時はまだ、気というものを、魔力操作というもののことを知らなかったから、意味がわからず、首をかしげていた。
「見て分かるものなのですか?」
「なんとなく、だな。それこそ気の問題だから、勘みたいなもんだ」
どうやら白瑛はこの時すでに、島国における特殊な技法について知っていたらしく、少しだけ不思議そうに光と話していた。
「今度の鍛練では“操気術”というものを見せていただきたいですね」
「あー、鍛練は……ま、いいか。まあ、今日は旅や宮中でのやりとりでお疲れだろう、滞在中、いずれの日にか、半年の成果をお見せいただきたいな」
少しバツが悪そうに言葉に詰まったが、結局光は鍛練の約束を受けた。白龍は、くすくすと楽しそうに会話する白瑛を見ていて、その笑みが向けられるのは自分ではないことに、やはり、どこか鬱々とした気がしていた。
「はい、ぜひ」
その日は、和の国の菓子をお茶うけに、光の話を特に聞かせてもらっていた。
帰らずの洞窟に居た盗賊の話。血濡れの森に棲んでいた大きな吸血蝙蝠の話。友人とこっそりお祭りにでかけて、踊ったという話。
「お祭り、ですか?」
「ああ。灯桜の祭りがあってな、融という友人と出かけたんだが、いつの間にかはぐれてしまったんだ。仕方ないから、目立つところで待ってたら、なぜだか街の連中と一緒に踊る羽目になった」
白瑛も白龍も、もちろん煌でも祭りくらいあるのは知っている。ただ、その時の国内は戦争があってのんびりとお祭りをしている時期ではなかった。そして、それでなくとも王族の人間が、民とともに踊るなどというのはない。
「トウオウの祭り、というのはどのような祭りなのですか?」
白龍にとってなんとなく癪なところはあったが、それでも光の話は面白く、白瑛から聞いていて少しだけ、楽しみにしていたのもあって、いつの間にか、光へと話しかけることに戸惑いはなくなっていた。
「桜の灯りとかいて灯桜という名なんだが、夏の終わりごろの祭りでな、先祖に感謝して安らかな眠りを祈願するのが元々の目的だった、かな?」
「夏の終わりなのに、桜なのですか?」
鎮魂の儀式で踊る、というのは、まあ分からなくもない。ただ、聞いた感じだと、厳かな祭りというよりも、どんちゃんと騒いでいる印象で、とてもではないが、鎮魂とは装いが異なる気がした。ただ、それよりも名前の季節感がまるで違うことに不思議な感じがした。それは姉上も同じだったようで、質問を返した。
「俺たち、というか、もとは和の魔道士がつけたんだが、桜にはいくつか特別な意味があってな」
煌にも桜という木はある。春ごろに薄桃色の花をつけ、春の終わりとともに盛大に花を散らしていく樹花だ。だが、それに特別な意味がある、というのは初耳だった。煌の二人は、どちらも興味深げな眼差しで続きを促した。
「桜は命の象徴なんだそうだ」
「命、ですか?」
どことなく影を帯びたような、優しい瞳で桜の意味を教えてくれた。
「春というのはいろんな木とか花とかが咲き始める季節だろ? 和では桜がその象徴のようなものでな。満開の桜となると、薄桃色の吹雪のようになって、なかなかに見事なもんなんだが……」
思い描いているのは、春の盛りに咲く満開の桜だろうか。煌にある桜が咲く様を思い描くが、吹雪のような花というのは、よく分からない。
「春に草木が美しいのは冬の間に土にかえった動物や虫の命が、新たな息吹となって巡るからなんだそうだ」
「新しい息吹、ですか?」
宮中で教わるようなものと異なる考え方に、白龍は戸惑い気味に、白瑛は興味深げに問い返した。
「うむ。大陸の魔道士は命の還るべき場所して、ルフ、というものを呼称するのだそうだがその考え方に近い、と俺は考えている」
東洋では、あまり魔道士の考え方は定着していないが、それでも王侯貴族くらいになれば、教養として、そして宮中に仕える魔道士とも関わるためその知識にも触れる機会はある。
白龍も聞きかじり程度にルフという言葉に覚えがあった。
「……っと、話が少し逸れたが、鎮魂の儀式として、祭りの最後に巫女の役目を負った魔道士がそのルフを桜の花びらに似せて、満開の桜吹雪を吹かせるんだ。その花弁が、ルフの色で淡く灯るから灯桜の祭り、というらしい」
「満開の桜吹雪……いつか、見られるのでしょうか」
まだ見ぬその光景を思い浮かべたのか、白瑛は淡く微笑むと光へと眼差しを向けた。
「見られるさ。今は季節がずれてるが……ふむ。なら約束しよう」
なんでもないことのように光は微笑みを返し、約束を告げた。
「約束、ですか?」
「ああ。いつか、桜を見に行こう。満開の桜を」
仲睦まじい二人の様子に白龍は少し面白くなさそうに姉の姿を見るが、その姉の微笑みが、今までに見たことがないほど淡く華やかなものに見え、ただ、その唇が肯定の言葉を返すのを見ていた。
その約束が、遠い過去のものになるなど、この時はまだ知る由もなかった。
✡✡✡
「白龍、お前は生きて、俺たちの代わりに使命を果たせ……」
「あ、兄、上……?」
周りを囲んでいるのは燃え盛る大火だった。
いつも自分を包んでくれていた母は、近くには居らず、大好きな姉も今は海を隔てた国へと赴いている。
「意志を引き継ぐのは、お前だ。戦い抜くことを、誓え。我らの、この国の仇敵を、討て」
傍にいてくれた国の兵士は突然に牙を剥き、白蓮は既にその身を朱に染めて地に伏し、最後まで白龍を守ろうとした白雄もその全身を猛火に炙られて、精悍だった顔つきはもはや見る影もない。
だが、その眼に映る灯火は消えゆくその瞬間まで、白龍を見据えていた。
命の尽きるその間際、白雄はこの国を奪った敵について語り、思いを託した白雄はその血を以て、燃え盛る業火から白龍の命を守る役目を果たした。
泣きながら火の中を走る彼の胸の内はいかばかりなのだろうか。
信じていた者こそが、敵であると告げられ、今まで自分を庇護してくれた二人の兄は、志半ばでその意志を自分に託して果てた。
ただ一人、信じられる姉は、今は海の向こうへと赴いており、そしていずれは自分の前からいなくなるのだから…………
「白龍っ!」
大火から逃れた白龍が、その体を癒し、なんとか動けるほどにまでなったころ、訃報を受けた白瑛は、尋常ならざる速さで帰国した。しかし、それはすでに遅きに失していた。
「白瑛、白龍。あなたたちだけでも無事でよかった……」
「母上……母上も、よくぞご無事で」
ぎゅっと自分を抱きしめる白瑛の腕は振るえていた。次いで難を逃れた母の姿を見た白瑛の瞳には安堵からだろうか、涙が滲んでいた。
「ごめんなさい、白瑛。あれほど和の王子がよくしてくださったというのに、今のあなたは……」
白瑛の肩に手をあてて苦渋ににじんだ表情で告げる母の声は震えていた。
この一連の事件において、和の国と同盟を結ぶという方針はともかく、白瑛と王子との婚姻は白紙となったのだ。そのことが宮中において決定してしまったのだろう。
予想していたことなのだろう、白瑛はぎゅっと胸元の白羽扇を握り締め、瞳を閉じた。
そして思いを確かめるように手の中の感触を確かめ、目を開いた。
「大丈夫です、母上」
開かれたその目には微塵も揺らがぬ決意が宿っていた。その目を見た玉艶はわずかに意外そうな表情となったが、刹那の間にそれは消え去ってしまった。
「姉上?」
白龍にとっても、姉のその姿は意外なものであった。
たしかに普段からのほほんとしながらも芯の強さを感じさせる気品にあふれている白瑛だが、和の王子の話の時だけはそれが崩れ、年相応の少女らしさがにじむことをこの数年で知っていたから。
白龍のわずかに驚いた声と眼差しに、白瑛はそっと白龍の肩に手をおいた。
「たとえどのような立場になろうとも、私の父は煌の初代皇帝です。必ず力をつけます。国のために……平和な世のために」
目を見張って驚いた表情となった母の驚きは、幼くして国の都合で振り回される我が娘の不遇を慮ってか。いつのまにか心に宿した強い心が故か。
それが、全くの的外れだということを白龍が知るのは、この数日後、姉弟が新皇帝練紅徳の養子として迎えられ、母が妃となってから、さらに数日後のことであった。
「何かの間違い、ですよね。母上?」
信じられなかった。あの人が、この国を奪う事件を起こした張本人だなどということは。
「白龍……真実よ、と言ったらあなたはどうするのですか?」
「母、上……?」
きっと父上の陰に隠れていることを妬ましく思った叔父上の謀略に、父から国を、そして優しい母をも奪い取るための謀略に違いないと、そう、思っていた。
「白瑛に言う? できないわよね。あの子の立場は結局あやふやなまま。あなたの言葉であの子の支えは砕けるかも知れない」
叔父上に養子として迎えられ、肩書だけは以前と大差ない状態になった。だが、その内実はただ籠の鳥となっただけであることは分かっていた。
白瑛とて、なぜか婚姻の話は白紙にこそなっていないが、それでもその話は現在、国内の混乱を理由に無期限の延期となっている。いつ代わりの姫が送られるか分からないし、もしかすると和が心変わりをしてもおかしくない。
国に戻って以来、白瑛が気丈に振舞っているのを知っている。決して弱みを見せず、以前にもまして鍛練を積み、学ぼうとしている。
だが、ふとした時に -白瑛と王子の婚姻が破談になった、王子が別の姫の輿入れを受けるなどという口さがない噂を耳にしたとき― ぎゅっと白羽扇を握り締めているのを知っている。
姉に頼ることはできない。
今までに見たことのない歪んだ笑みを浮かべる母が手を握りながら言葉を続けた。
「それともこの手で私を殺しますか? この小さく、なにもできない手で」
炎に焼かれ、そして自らの体を裂いてまで白龍を守った兄の言葉が白龍の脳裏に木霊した。
仇敵を討て、と
かつては泣く度に自身あやしてくれた、この手を掴むことはできない。
「あなたは今まで通り、いい子でいればいいのよ、白龍」
思いは……
裏切られた。
ただ一人、信じられるのは、守るべきは血を分けた姉上だけだ。
この国の皇帝を、父を、そして実の息子である兄たちをも手にかけた魔女。
組織の魔女
練玉艶を討つことを、誓ったのだ。
✡✡✡
「皇子、今日の招集は……?」
「……和からの特使の出迎えだそうだ」
あの日から3年の月日が流れた。煌帝国はいよいよ中原における勢いを増していた。
結局、和との同盟は当初の予定通り結ばれた。もっとも、紅徳皇帝は新たに自分の娘を和へと嫁がせるつもりだったらしいが、どうも和からの提案により、婚姻関係も元のままで行われることとなったらしい。
ただ、やはり皇帝の養子となったとはいえ、前皇帝の実子という立場ゆえ、あまり不穏な行動をとらせたくないのだろう。白瑛は和へと赴くことはなくなり、また和の王子も煌へと来訪することは無かった。
「和から、ですか……姫様も行かれるのですか?」
「ああ……」
話を聞いて不安を覚えたのだろう。青舜が不安げな眼差しで白龍へと問いかけた。
青舜が不安に覚えるのも無理は無かろう。この3年間、一度も和の王子から白瑛に便りが届くことは無かった。何度か訪れてきた和の国と外交官との接触は、不穏な行動ととられたのか皇帝の命を受けた監視者によって阻まれた。
二人から見ても気丈に振舞っている白瑛だが、それでも和からの外交官が訪れるたびに、期待と不安とが ―光からの便りが届く期待と誰かを娶った、あるいは光になにかおこったのではないかという不安とが溢れているのを知っている。
「今までは全く和との接触を許さなかったのに、ですか?」
「……なんらかの動きがあった、ということなのだろうな」
今年で17歳となった白瑛は、昨年から武官としても国のために働き始め、古くからの友人である青舜は最近、そんな白瑛付きの従者見習いとなった。
他国の正式な特使の謁見。その場に白瑛と白龍が呼ばれることは今までにないことだった。そのための礼装を整えた白龍は、同様に身繕いを行い、そして動揺した心を鎮めているだろう白瑛を待つ傍ら、動揺が目に見える青舜と話をしていた。
「和の王子は、姫様のことを、忘れてしまわれたのでしょうか……」
「…………」
かつては悔しい思いを抱いていた和の王子。だが、白瑛を、姉をこの魔の国から連れ出せる可能性があるのはあの人だけなのだ。
誰も信じることができないこの国から……実の母の魔の手から確実に白瑛を守ってくれる可能性があるのは。
そこまで期待していた白龍には、この3年間の光の態度が許せなかった。
だが、ふと、思ってしまった。
誰も信じることができないのなら、それは……
あの男とて同じではないのか?
なぜ他国の者だから、信用できるのだ?
たしかに、和との友好関係を進めたのは兄上や父上、前皇帝の勢力だ。だが、すでにその勢力はほぼ壊滅した以上、和が現皇帝に取り入っていてもなんらおかしくは無い。
そもそも……だれがあの魔女と通じ、敵対しているのかすら分からないのだから。
その考えにぞっとした。
自分が頼ろうとしていたのは、もしかしたら……敵なのかも知れないのだから。
「お待たせしました、白龍、青舜」
そんな思考を遮ったのは、常のように凛とした姉の声だった。
「いえ。姉上……」
そんな内心を告げるべきか否か。逡巡した白龍の様子に白瑛は首を傾げた。
告げることは、できない。
兄を、父を殺したのは敗残兵などではないことを
彼らを殺したのは、実の母なのだということを
あなたが待ち望む人は、もうすでに、敵の仲間なのかもしれないということを
そんなことは言えない。
たった一人の家族を守ると誓ったのだから。戦い抜くことを誓ったのだから。
「行きましょう、姉上」
「ええ」
言えないことが、多すぎる。
なによりも守りたいからこそ、真実を告げることはできない。
知れば危険にさらしてしまうから。余計な責務を負わしてしまうから。
謁見の間には多くの人が集まっていた。
第2皇子の紅明、第3皇子紅覇を始め、異母姉妹たち、国の武官、文官。これだけそろっているのは、今回来る特使とやらが、普段にも増して重要人物ということだろうか。
だが、
「紅炎殿下が居られませんね」
「そうですね」
青舜と白瑛も気づいたのだろう。小さく会話しているが、それはまさに白龍も気にかかったことだ。
「おそらく、特使の迎えに行かれてるのでは?」
「紅炎殿自ら、ですか?」
白瑛が口にした予想に白龍が意外感を覚えて小さく声を上げた。第1皇子である紅炎は文武に優れ、前皇帝以上の戦巧者、そしてかのシンドバッドや和の王子と同様、迷宮攻略者として名を馳せていた。
それだけ力ある紅炎は、24歳にして、すでに暗愚な現皇帝の後の皇帝と目されており、特に戦がらみのことは事実上の総大将となっていた。そんな人物が外交官を出迎えるなどよほど和を威圧したいのか、それともよほどの賓客なのだろうか。
「今日来ている方々を見るに、今回の来訪はよほど重要事項なのでしょう」
真剣みの帯びた表情となった白瑛が口にした瞬間、扉が開き、件の人物、紅炎が堂々と入ってきた。
常ならば他者を威圧する威風を放つその顔は、どことなく楽しそうで、なにか愉快なことでもあったかのようにも見えた。同じ印象を抱いたのか紅覇や異母姉妹の紅玉などかわずかにささやき合っている。
まっすぐに紅炎の立ち位置、最も玉座に近い場所に歩んでいた紅炎だが、ふと白瑛、白龍の前で足を止めて、笑みを向けた。
「? 紅炎殿?」
白瑛が訝しげな眼差しとなり、周りの武官たちも少しざわめいている。
「白瑛。今回の特使殿は随分と面白い方だな。機会があれば、連れてきてくれ」
「?」
妙な言い回しだった。だが、それを問いかける前に紅炎はすたすたと歩みを進めて自分の立ち位置へとおさまった。
そして、場が静まり、来訪を告げる文官の格式ばった言葉とともに、あの人が入ってきた。
「!」
「なっ!」
隣に立つ姉が息をのんだのが白龍には分かり、同時に別の意味で白龍も驚愕していた。来訪者の顔を知っている幾人かが驚いた表情となり、それを知らない青舜などは場の空気に戸惑っているようだ。
自分たちと同じ黒い髪を後ろで結い、その佇まいは以前見た時と変わりないように見える。その歩みには微塵も臆したところがなく、ただ自分たちの前を通り過ぎた時、ちらりと、微笑みを向けたようにも見えた。
だが、その歩みに乱れはなく、気のせいかと思えるほど凛とした歩みで玉座の前までつき、煌式の礼をとった。
「此度の謁見をお許しいただけたこと感謝します。和国特使、皇光です」