「おい聞いたか? 今日転校生がくるらしいぞ」
「またかよー」
(またテコ入れか……)
朝日の差す教室の中、生徒たちは始業を待つ間に雑談を交わしている。その中で、ある男子生徒は辟易したような声を漏らした。
そう、またである。
少し前には明智が、その前には相卜、才虎に窪谷須。
このクラスには転校生が多すぎやしないだろうか?
無頓着に一クラスだけに生徒を増やし続ければ、いずれ教室のキャパは崩壊し鮨詰め地獄と化すだろう。
運動会で一クラスだけ人数が多くて噛み合わなくなるだろう。
だが、それは言ってはいけないお約束なのである。
そもそも鳥束のように別クラスにも転校生は一応いる。
「転校生、美少女らしいぞ」
「何だって!?」
「清楚か!? ギャルか!?!」
「うわ、男子うざ……」
とある一声で男子生徒は皆狂喜乱舞し、対照的に女子の目線は冷たくなる。いつものことだ。
転校生が女子だと聞いた男衆は何故か皆一様に髪型をピシリと整え、朝礼を待っていた。何とも健気である。
ようやくチャイムがなり、担任が扉から入ってくる。席に座り姿勢を正している生徒たちを訝しみながらも、朝礼を始めた。
「今日は転校生を紹介します。さぁ、入って」
「は、はい……!」
まるで鈴を鳴らしたかのような美しい声が扉の奥から聞こえた。男子陣の顔が1層輝く。
(やれやれ、これは面倒なことになりそうだぞ)
楠雄は内心ため息をつきやがらも表面上は真顔を貫き通した。
教室へと入ってきたのは──美少女、いや、美幼女だった。
腰まで伸びた銀髪は光り輝いているかのように艶やか。左右で色の違う瞳はさながら元を同じくするルビーとサファイヤのような煌めきだった。
その顔立ちも端正で、この学園たっての美少女、照橋心美に負けずとも劣らずといった具合だ。
だが、その体躯も顔つきも高校生とは思えぬほどの幼さだ。小学生と言われても納得がいく。
当然、美しい転校生に男共は湧き上がる。
だが、幼女が顔を真っ赤にしながら唇を震わせているのを見て、努めて紳士的に彼女の言葉を待った。
「
か細い声だったが、教室は静まり返っていたため、誰もその言葉を聞き逃さない。
そう、楠雄以外は。
彼は一人、テレパシーによって他人の心の声を聞かせられ続けていたからだ。やかましすぎてほとんど聞こえなかった。
『うわ、超美少女!!』
『……勝った!』
『ロリ最高! ロリ最高!』
『あの髪色……まさか、ダークリユニオンの寵児か……!?』
何人かは楠雄の友人(本人は認めていない)が混じっていたが、それらはさしたる問題ではない。
『おい、俺の頭の中覗いてるだろ!? 聞いてんだろ!! 返事しろよ!!』
誰かが独り言を喋っている。否、叫んでいるといっていい勢いだ。
楠雄はテレパシーを有するが故に、この類の人間が時折いることを知っている。
脳内で恥ずかしいことを考えていた者が、『もしも心の中を読まれていたら』と想像して照れ隠しに内心呟く。
あるいは少し様子のおかしな人が『俺は頭を覗かれている! 思考盗聴されている!』と頭にアルミホイルを巻きながら心のうちで叫ぶ。
後者は病院に行くことを強く勧めたい。
その言葉を最初聞いた時は楠雄も警戒したが、なんてことはない。
楠雄が超能力者であり、人の心を読んでいることなど誰も知り得ないのだ。ただし一部の人間を除く。
だが、教室で聞こえる声は──
『聞こえてんだろ! 斉木楠雄!』
(……ッ!?)
楠雄の名を呼んでいた。
驚愕して椅子から転げ落ちそうになる楠雄。
「どうした相棒?」
(いや、別に動揺などしていない。ただちょっとジャーキング*1が起きただけだが?)
「ジャーキー? 何言ってんだ?」
首を文字通り180°に捻る燃堂を、楠雄は身振り手振りで何とかごまかした。
息を整え、楠雄は黒板の前にいる幼女を睨みつける。
そう、この声の第一候補は板子しかいない。
彼女は楠雄の視線など意にも介さず、担任へと声をかける。
「あの……私まだ学校に慣れてないので、案内をして欲しいんです」
「そうね……誰か放課後暇な人?」
クラスのほとんどの男が手を挙げた。
あまりにも真っ直ぐに上がりすぎて、天井を突き刺すつもりかと言わんばかりのものもいた。
女子も何人か、幼くも可憐な板子に母性を刺激されたのか手を挙げている。
だが、板子は首を振ると、1歩、また1歩と教室を歩いていく。楠雄は悪寒が止まらなかった。彼女は楠雄の真ん前で立ち止まり、彼を指さして言った。
「この人にお願いしてもいいですか?」
(嫌だ)
「斉木ィ……!」
「照橋さんだけに飽き足らず俺たちの幼女まで……!!」
いつの間にお前たちのものになったのか。甚だ疑問である。
嫉妬の視線に突き刺されながらも、楠雄は辞退しようとした。
だが、その瞬間に伝わるテレパシー。
『コーヒーゼリーの美味しい喫茶店を知ってるぞ』
(学校の何が知りたい? オススメの食堂のメニューとか?)
斉木楠雄、破れたり。好物をチラつかされ、彼はあっさりと買収されたのであった。
放課後、楠雄は学内を案内した。そこまで見どころのある学校でもない。時間はそう掛からなかった。
案内中に女に目がない馬鹿生臭坊主に絡まれたり、完璧美少女に後をつけられたりと一悶着あったものの、概ねスムーズにことは進んだ。
(これで満足か?)
楠雄が視線で問いかけると、板子は眉を寄せて首を振る。そして彼女は空き教室を見つけると、腕を引っ張り楠雄を中へ連れ込んだ。
(おいおいなんだ急に……!)
「話がある!」
板子は教室で見せたか弱い少女のような振る舞いではなく、心の声のような乱暴な口振りで楠雄へ迫った。
「頼む、俺を元の世界に返してくれ!!」
(…………は?)
──憑依という現象を知っているだろうか。
一般的には霊魂や神の御霊が人間へ取り憑き身体を操ることを言う。鳥束零太の霊能力もこれに近しい。だが、それはあくまで霊的現象の定義だ。
漫画や小説ではまた異なる場合もある。創作物に登場するキャラクターに憑依してしまったという二次創作は多々見られる。
ハーメルンという小説サイトでは必須タグのひとつにもなっており、一大ジャンルを築いているのは言うまでもない。
自分はまさしくそうなのだ、と板子は半泣きになりながら語った。
「気付いたら俺はこのロリの身体に入り込んでたんだよ! 中学生になるまで何の世界か分かんなかったが、PK学園の名前を聞いてピンと来たんだ! この世界は『斉木楠雄のΨ難』だって!!」
普通に考えれば板子は黄色い救急車に乗るべきだ。
だが、彼女の頭の中の映像が流れ込んでくると、楠雄は彼女の話を鼻で笑うわけにもいかなくなる。
(なんだ……! 『斉木楠雄のΨ難』、全26巻好評発売中……!? 超能力者と愉快な仲間たちによるギャグ漫画、アニメも放送されていただと……! )
その中身はあまりにも楠雄とその周囲の人間関係と酷似していた。
彼女が漫画の中に入り込んだと思い込むのも無理はない。
板子は涙を拭い、鼻をかむ。真っ赤になった目元を光らせながら、楠雄に縋り付いた。
「俺は元は男子大学生だった。人生これからだったんだ。両親に親孝行もできてない。お前なら何とかできるだろ、助けてくれよ……!」
(男だったのか……)
余談だが例のハーメルンではTS(性転換)が何故か王者として君臨している。
さて、楠雄は話を聞いているうちに彼女──彼と呼ぶべきだろうか──の要求に応える方法を幾つも思い付いた。
まあ、それを実行に移すかはまた別である。
真顔のままの楠雄に焦りを覚えたのか、板子は苦虫を噛み潰したような顔をした後、覚悟を決めたように楠雄の袖を引っ張った。
「お願い……楠雄お兄ちゃん⋯⋯」
己の低身長を利用した上目遣いで板子は甘えるように楠雄を見上げる。
なんという儚さ、なんという可愛らしさ。鳥束にこれをすれば全財産を毟り取れるだろう。
しかし楠雄には通用しない。何秒か注視すれば美しい皮1枚を超えて筋肉、血管、骨すら透視できる楠雄は美醜など興味がなかった。
白けた目を向ける楠雄に、板子は「畜生!」と悔しそうに叫ぶ。
「こんなに可愛いのに! やっぱ駄目か……!」
楠雄が顔に靡く人間であればもうとっくに照橋と付き合っているだろう。読みが甘いと言わざるを得ない。
「かくなる上は……」
(なんだ、実力行使か? 僕は地球相手に相撲しても勝てる自信があるぞ)
「助けてくれたらこれをやる!」
そう言って板子が懐から取り出したのは一冊の本。手作り感溢れる装丁だった。
表紙に書かれているのは──『全国津々浦々☆コーヒーゼリーレビュー☆』。
(……!!)
思わず楠雄も息を呑む。
「俺が何ヶ月もかけて作り上げたレビュー本だ。甘さ、苦さ、硬さ、他にも様々なパラメーターを5段階で評価した。名高い名店から知る人ぞ知る隠れ家まで様々な店を網羅しているぞ……!」
本を取ろうとする楠雄の手を避け、板子は本を隠すように胸に抱きかかえた。
「どうする!?」
(くっ……卑怯な……!)
まあ結果として、そういうことになった。
楠雄が考えていた方法のうち、1番単純でわかりやすいものを採用することにした。
まずは板子に自身の戻りたい場所を想像してもらう。それを楠雄がテレパシーで読み取り、瞬間移動でそこまで移動する。
その後は抜け殻になっているであろう彼の肉体に、幽体離脱させた板子の魂をぶち込む、という流れだ。
「……よし、いくぞ!」
板子は気合いを入れて、唸り声を上げながら自身の家を必死に思い出す。
──暖かな我が家。
大学の授業終わり、丁度仕事帰りの父と帰り道で会ったのでアイスを買ってもらった。家に着けば母は晩御飯を作って待ってくれていた。
3人でテレビを見ながら食事をして、リビングで寛いだ。
あの日のテレビはくだらないバラエティーだったが、今にして思うと……いや、やっぱりくだらなかったな。
『……俺、まだやりたいことがいっぱいあるんだ』
友達とくだらない話で盛り上がる。サークル仲間と酒盛りする。彼女もあわよくば作りたい。いい加減就活始めないとヤバいかな。
様々な考えが板子の脳裏に浮かぶが、やはり1番大きな憂慮は両親のことだった。
一人っ子だった板子を時に優しく、時に厳しく育て上げてくれた母と父。彼らに何の恩返しもせずにいるなど、板子には耐えられなかった。
『斉木楠雄がいる世界で良かったよ……』
(……そうか)
瞬間移動の条件は整った。あとは楠雄が板子を連れて転移して魂を移すだけだ。
(移動するぞ)
「おう!」
ほんの一瞬。瞬きをした間に2人の姿はこの世界から消え去った。
降り立ったのは何の変哲もない住宅地の裏路地だ。
当然板子は見覚えがあるようで辺りを見渡し、歓声を上げた。
「間違いない、俺ん家の近くだ!」
(転移は成功だ。良かったな)
「ありがとな、楠雄。こっからなら……こっちの道だ」
(待て)
楠雄はそのまま表通りへ出ようとする板子の肩をガシリと掴んで制止する。
「何だよ?」
(そのままだと少し目立ちすぎる)
楠雄は黒いカツラとカラーコンタクトを取り出した。
彼がマインドコントロールを及ぼした世界ならともかく、ここは別次元の日本。
元の色彩だとコスプレ集団だと思われて人目を集めてしまうだろう。板子は面構えが良いのだから尚更だ。
「あ、確かに。憑依してからずっとこれだから見慣れてたわ」
(そんな簡単に見慣れるか?)
黒、もしくは茶色が一般的な世界にいたはずの彼女に疑念が募る楠雄だったが、そこはあまり深堀しないでおく。
「これでいいだろ」
丁寧に手入れされているわけでもないウィッグは毛量が多く、野暮ったい印象を受ける。ただでさえ目立つ板子の美貌を隠す効果もあった。
楠雄自身も変身能力で己の色を地味なものに変え、制御装置も見えなくさせた。
どこからどう見ても普通の高校生と小学生である。
「じゃあ行くか」
(道案内は任せた)
板子の足取りは軽く、すいすいと街道を進んでいく。
そしてあるところで板子は足を止める。
カーブミラーの下には立て看板が置かれていて、事故の目撃情報を探している旨が書かれていた。
だが、板子はそれに関心があるわけではないらしい。その下の地面に目線を向けた。
「ブレイブボードってやったことあるか? あれ俺が子どものときめちゃくちゃ流行っててさ、親にクリプレで買ってもらったんだけど、乗ってすぐコケて物置の肥やしになったんだよな」
(子どもらしいアホさだな)
「だろ? で、コケたとこがここ。まだ直ってねえのな」
彼女の指差した地面はやや陥没していて、ここにタイヤが引っかかって転んだのだろう。
「元に戻ったら久々に引っ張り出してやろうかなー。今ならコケねえだろ」
(どうだろうな。しばらく動いてない身体ならまたコケるんじゃないか?)
「ひでー! あ、ここだ、ここ。俺ん家」
曲がり角の先、すぐ。辺りに立ち並ぶ家屋とそう変わらない家の前で板子が立ち止まった。
「俺とお前は元の俺の友人ってことで。じゃあ、インターホン押すぞ?」
(好きにしろ)
「⋯⋯お、押すぞ?」
(早くしろ)
インターホンの呼び出しボタンからあと数センチというところで板子は指を止め、楠雄の方をチラチラと伺う。
やはり緊張しているらしい。
が、楠雄はそれに構う義理もないので勝手にボタンを押した。
「あ゛ーっ! 何すんだ──」
『もしもし?』
板子が背伸びをして楠雄の胸ぐらを掴もうとしたその時、インターホン越しに女性の声が放たれた。
硬直する板子の肩を叩き、楠雄は「お前の役目だろ」と言葉を促す。
「あの、わ、私⋯⋯
先程までの威勢の良さは何だったのか。板子は絞り出すように小さな声で応えた。
機械から息を呑むような声がして、しばらく沈黙が続く。やがて「すぐ出ます」と返答があった。
玄関の方に足音が近付き、扉が開く。
「あの、息子の友人ですか⋯⋯?」
出迎えてくれたのは母親らしき女性だった。やや痩せ気味で、体調も思わしくないのか顔色が悪く、目元には隈が刻み込まれている。
「そ、そうです! アイツはどこにいますか!」
「⋯⋯あがってちょうだい」
「え、あ⋯⋯」
彼女はぶっきらぼうに告げる。促されて中へ入ると、普通の玄関が広がっていた。ただ、なんというか⋯⋯雰囲気が重苦しい。
それもそうだろう。板子の言葉が正しければ息子が意識不明のはずなのだから。
「階段を上がった先の部屋に入ってください。私はお茶をご用意しますので」
「あ、あの」
(分かりました)
何か言いたげな板子を楠雄は無理矢理引っ張り、階段を上がる。
「母さん、あんなんじゃなかったのに」
(こっちではどれぐらいの時間が流れてるか分からないが、息子の容態が怪しいなら仕方ないだろう)
「あ、そうか。俺⋯⋯」
階段を上りきり、すぐの扉に板子が手を掛ける。
「ここ、俺の部屋なんだよ」
そういいながら中を見た板子は──絶句した。
楠雄もまた部屋の様子に顔を顰める。
室内は非常に殺風景だ。ベッドも、クローゼットも、机もない。人が暮らすのに必要な家具もなく、誰かが生活していたであろう痕跡は一切残されていなかった。
だが、一つだけ。入って正面の壁には物が置かれていた。
木材でできたそれの中央には小さな写真立てが飾られている。そこに写るのは一人の青年。
「なんで、俺、ちが、え⋯⋯」
そこにあったのは──仏壇だった。
つまるところ、板子鈴音、もとい閑野典征の身に起きた現象は憑依ではなく転生だったのだ。
死んだことに気付かなかった、いや、気付きたくなかったのだろう。
幼少期の記憶を無意識に消し、己は憑依しただけで、死んでいない。そういう風に記憶をねじ曲げた。
だが、楠雄がいたから彼は元の世界に戻れるのではないかと希望を抱き、そして──楠雄がいたからこそ非情な現実を叩きつけられた。
彼自身が望んだことだが、これはあまりにも⋯⋯惨すぎる。
「事故だったんです」
いつの間にか母親と父親も上がってきており、楠雄と板子に麦茶を差し出した。
青ざめた板子はそれに手をつけず、母の話に固唾を飲んで耳を傾けるのみ。
「朝、あの子が家を出て⋯⋯すぐにクラクションの音と何かがぶつかるような音が聞こえました。私、もしかしたら何て思いながら家を出たら⋯⋯血を、流し、⋯⋯」
(もう、大丈夫です)
「母さん、少し休もう」
楠雄は板子と同じように顔を真っ青にした母親の言葉を止める。
瞳からボロボロと涙を零す母親は、「取り乱してすみません」と言いながら下がっていく。父親は頼りない足取りの彼女に肩を貸していた。
二人がいなくなり、再び静寂を取り戻した室内。
(⋯⋯板子)
「ごめん、楠雄。わざわざ来てもらって、悪かったな」
(⋯⋯おい)
「俺、全然気にしてねえし、いや、ほんと。分かってたよ、なんとなく。だって俺の知ってるキャラに憑依したわけでもねえしさ、なんで俺勘違いしたんだろ」
(板子!)
言葉を紡ぎ続ける板子の顔色は酷いものだったし、目からはずっと涙が溢れ続けていた。
引き攣った笑いを浮かべる姿はとても見ていられるようなものではない。
「⋯⋯楠雄」
板子は縋るように楠雄にしがみつく。楠雄はそれを見咎めるほど狭量でも人でなしでもない。
「おれ、しにたくなかったよぉ⋯⋯」
胸元でしゃくりあげる板子。楠雄は苦い顔をしながらそれを受け入れる他なかった。
小一時間ほど板子はひたすら泣き続け、ようやく顔を上げる。青ざめていた顔色は真っ赤になり、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。これではせっかくの美形も形無しである。
彼女はすん、と鼻を啜り、制服の袖で雑に顔を拭った。
「ごめん。てか、お前の制服もひでえことに……」
(気にするな)
楠雄のシャツは板子の汁によって大きな染みができている。申し訳なさそうにする板子に、楠雄は首を振る。
楠雄がシャツに手をやれば、何事もなかったかのように綺麗なシャツに元通りだ。
「あー、復元能力!」
(その通りだ。……さて、どうする?)
「うん?」
(……両親に何か言わなくていいのか)
「……でも、俺は今こんなだし……」
(伝聞のていで話せばいいだろう)
「ああ、そうか」
板子は階段を降りて、両親の元へ向かっていく。
楠雄は先に家を出て外で待つことにした。邪魔をするのも忍びない。
「あの、お、私……典征からお二人のこと、聞いてて! 本当に、大好きで、尊敬してるって……! こんな俺を、育ててくれてありがとう、って……」
その後、家からは三つの泣き声が聞こえたような気がしたが、きっと気のせいだろう。楠雄は何も聞こえないふりをした。
やがて晴れ晴れとした顔の板子が出てきた。両親に別れを告げ、楠雄の方へ歩いてくる。
「すまん、遅くなったな」
(別に大した時間じゃない。さあ、元の世界に帰るぞ)
「……おう」
元の世界、と言われて少し顔を曇らせた板子だったが、邪念を落とすように頭を振る。
「帰ろうぜ、楠雄」
(ああ)
瞬間移動で二人は無事に元いた場所、高校の空き教室へ戻ってきた。
すっかり日も沈み、下校時間はまもなくだ。早くここを出なければ教師に小言を言われてしまうだろう。
学校を出る準備を進める楠雄の袖を、板子が軽く引いた。
「なあ楠雄、今日は本当にありがとな」
(別に大したことではない)
「いや、大したことだろ……」
これだから生粋の勝ち組は、と瞼を落として睨むような仕草をした板子。
だが、すぐにその表情は真剣なものへと変わる。
「お前のおかげで、最後に母さんと父さんに会えたんだ。どれだけ感謝しても足りないぐらいだぜ」
そう言って微笑む板子の顔は晴れやかで、憑き物が落ちたようだった。
楠雄も釣られたように口角を上げる。
『あれ、楠雄ってこんなにかっこよかったっけ──』
だが、不穏な心の声に楠雄の顔が一気に歪んだ。ついでにもっと歪ませておく。
「おいなんでいきなり変顔すんだよ!?」
(自己防衛の一種だ。気にするな)
「気になるわ!」
(まあまあ。それよりも、ほら)
楠雄は板子に向かって手を差し出す。何かを要求するように動く掌に、板子が思い出したように鞄から冊子を取り出した。
「ほら、報酬のレビュー本だ」
(助かる)
「でもさ、その中にはなあ……アレがあるんだよなあ~」
(アレ?)
「ま、見たらわかるよ。なんかあったらいつでも声かけてくれよな! はい、俺の連絡先!」
(絶対に嫌だ)
板子に声を掛けると周囲の視線がどう考えても痛くなる。楠雄が呆れたような視線を向けると、何か含みのあるような笑顔を受かべた。
「じゃ、また明日な!」
そう言うと板子は一足先に帰っていった。楠雄もまた、瞬間移動で家に帰ることにした。
自室で楠雄がレビュー本をほくほく顔で眺めていると、ある店のレビューに行きつく。
(……なるほどな)
そこに載っていたのは、カップル限定のメニューだった。
手書きのメモには恐らく板子の字で『照橋さんか相卜でも誘っちまえよ!』と書かれている。
照橋、相卜、そして板子。誰を誘ったとしても平穏とはいいがたいだろう。
だが、楠雄にこのメニューを頼まないという選択肢はない。
(やられた……)
楠雄は悔しさを覚えながらも、今日連絡先を交換した相手へメールを送るのであった。
(続きは)ないです