バイト戦士ことね   作:夜琥

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36. 鏡の前の対峙

ことねの危険な演技法が披露された翌日の稽古場は、異様なほどの静寂と、緊張に支配されていた。

 

昨日、稽古場の空気を凍りつかせた、演技の残響が、まだ壁に床に、こびりついているかのようだった。

 

アヤカの視線の先には、壁に向かって、一人、必死に発声練習を繰り返す、ことねの姿を見る。

 

その小さな背中は、あまりに無防備で危うく見えた。

 

(……浅はかだった)

 

鏡に映る自分の姿を見つめながら、アヤカは、数日前の自分の言動を、静かに反省していた。

 

初めて稽古場に来た、あの少女。

 

何も知らない、ただの雛鳥。

 

そんな相手に、自分は、プロとしてのプライドを剥き出しにし、あまりに、大人げない態度をとってしまった。

 

たとえ、彼女がどんな経緯でここにいようと、この場に足を踏み入れた以上は、後進の一人。

 

それに対して、道を指し示すのではなく、ただ突き放すだけだった自分。その未熟さに、アヤカは小さく唇を噛んだ。

 

(そして、何より……)

 

アヤカの視線が、稽古場の反対側で、台本を読み込む笹川へと向かう。

 

彼の様子もまた、いつもとは明らかに違っていた。

 

普段の笹川は、役者を極限まで追い込む。だが、それは、最高の演技を引き出すための、計算され尽くした演出だ。

 

役者が、本当に「壊れる」一線は、決して越えさせない。

壊れた道具では、最高の芸術は作れないことを、彼は、誰よりも知っているはずだから。

 

(なのに、なぜ……?)

 

昨日のことねの演技。あれは、明らかに、その一線を越えていた。

 

それなのに、笹川は止めなかった。

 

それどころか、恍惚とした、まるで神の顕現でも見るかのような、異様な目つきで、彼女を見つめていた。

 

(先生の様子が、おかしい…。いつもなら、役者が一線を越えそうになったら、真っ先に止めるはず。なのに、昨日の藤田さんを見て、先生は…恍惚としていた。まるで、彼女が壊れることすらも、作品の一部だと、考えているような……。まさか、そんなはずは…)

 

その拭いきれない疑念と、目の前の才能が壊されてしまうかもしれないという恐怖。

 

演出家が守らないのなら。

 

(……あたしが、やるしかない)

 

アヤカは、固く、決意した。

 

それは、使命感でも、善意でもない。

 

ただ、自分の目の前で、一つの、計り知れない才能が、無自覚なまま、異常な熱を帯びた芸術家の手によって、道を誤っていくのを、同じ表現者として、黙って見てはいられなかった。

 

アヤカは、笹川の元へ、静かに、しかし、確固たる意志を持って歩み寄った。

 

「笹川先生。少し、お時間をいただけますか」

 

その声は、低く、抑えられていたが、明確な非難の色を帯びていた。

 

笹川は、読んでいた戯曲からゆっくりと顔を上げ、楽しそうに、細い目をさらに細めた。

 

「やあ、アヤカくん。どうしたんだい、そんなに思い詰めた顔をして。ああ、昨日の藤田くんのことかい? 君も、見ただろう。あの子の中に眠る、荒々しい『何か』を。あれが彼女の才能だ」

 

「私が見たのは、才能などという、美しいものではありません。制御されていない、ただの感情の奔流です」

 

アヤカは、笹川の言葉を冷たく遮った。

 

「あれは、演技と呼べる代物ではない。彼女は役を『演じて』いるのではなく、役に『喰われて』いるのです。このままでは、彼女は舞台に上がる前に、壊れます」

 

「ほう。手厳しいな」

 

笹川は、心底、楽しそうに笑う。

 

「君の言うことも一理ある。だがね、わたしには、見えたのだよ。彼女の、魂の亀裂から漏れ出す光が。君の完璧な『ノア』とは、また違う、生々しい魅力だ。このダブルキャストは成功だと確信した」

 

「成功、ですって…?」

 

アヤカは信じられない、というように、言葉を失った。

 

「あなたは、壊れた楽器でソナタを奏でろと仰るのですか?本番の舞台で、彼女が役から戻れなくなったら、どう責任をお取りになるつもりですか?」

 

だが笹川は、その言葉をまるで心地よい音楽でも聴くかのように、うっとりと聞いていた。

 

「責任?ああ、そうだね。わたしの責任は、この『誰かのためのソナタ』という作品を、最高の形で、観客に届けることだ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

「君はその技術で、悲劇の『形』を、寸分の狂いもなく作り出すことができる。それは見事な職人技で、間違いなく成功と言えるだろう。だが、彼女は違う。彼女は自らの心を砕き、その破片で本物の『悲劇』そのものを、我々の前に差し出している。どちらが、より観る者の心を揺さぶるか…答えは、明らかだろう?」

 

「それはただの搾取です」

 

アヤカの声が、鋭さを増す。

 

「彼女の若さと、無垢さ、それに危うさに対する、芸術の名を借りた搾取にすぎません。先生、目を覚ましてください!」

 

その、あまりにまっすぐな言葉に、笹川は、ふ、と息を吐くと、心底楽しそうに、静かに笑った。

 

「搾取かね。……哲学者ニーチェは、こう言ったそうだよ。『踊る星を産むためには、自分自身の中に、まだ混沌を持っていなければならない』と」

 

笹川は、静かに立ち上がると、アヤカの横を通り過ぎながら、囁くように言った。

 

「わたしは、彼女の中にある、その尽きることのない『混沌』を、愛しているのだよ。そこから、誰も見たことのない、狂おしいほどに美しい星が、生まれ落ちる瞬間が見たい。たとえ、その星が、たった一夜で、燃え尽きてしまうとしてもね」

 

その、あまりに非情で、芸術家としてのエゴに満ちた言葉に、アヤカは、全身の血が、逆流するような感覚を覚えた。

 

この人は、ダメだ。

 

この演出家は、ことねを守る気など、毛頭ない。

 

それどころか、彼女が壊れていく様すらも、自らの作品の、一部にしようとしている。

 

(……あたしが、やるしかない)

 

アヤカは、固く、唇を噛みしめた。

 

彼女は笹川が去っていった扉を、氷のように冷たい目で見つめると、静かに踵を返し、稽古場に残ることねの元へと歩き出した。

 

---

 

アヤカは稽古場に戻ると、ことねの様子を伺った。

 

自主練をするその後ろ姿。台本を読むその瞳。

そして、アヤカは気づく。ことねが役に喰われていることに。

 

稽古の合間、誰かと話している時、ふと、ことねの口調が、相手のトーンを無意識になぞっていることがある。

 

一人でいる時、虚空を見つめるその瞳は、完全に光を失い、まさに「がらんどう」そのものになっている。

 

それは役に入っている、というレベルではない。役と、自分との境界線が、曖昧に溶け出している。

 

ことねはアヤカが近くにいることにも気づかず、鏡の前でノアのセリフを呟いていた。

 

「……わたしは、鏡。わたしには、何もない……」

 

その声は、虚ろで、力がなかった。

 

アヤカは、その背中に、静かに、しかし、鋭く、声をかけた。

 

「――違うわ」

 

「え……あ、アヤカさん……」

 

ことねが、びくりと肩を震わせて振り返る。

 

「呼吸が上がっている。重心が浮ついている。そんな状態で、ノアの孤独など、表現できるわけがない」

 

アヤカは、ことねの前に立つと、彼女の肩にそっと、手を置いた。

 

「いいこと?あなたを役者として認めたわけじゃない。はっきり言って、今のあなたは、ただの素人よ。でも、一人の表現者が、才能に喰われて、壊れていくのを、黙って見ているのは、寝覚めが悪いの」

 

その言葉は、アヤカなりの、不器用な、そして、必死の宣言だった。

 

ことねは、その真意を測りかねて、ただ、戸惑ったように、アヤカを見つめ返す。

 

「あなたは、どうして、そんなに焦っているの?」

 

アヤカが、問いかける。

 

「あなたの演技は、あまりに無防備。まるで、鎧も着けずに、戦場に飛び出すようなものよ」

 

「……だって」

 

ことねの口から、初めて、弱音とも、本音ともつかない言葉が、こぼれ落ちた。

 

「あたしには、アヤカさんみたいな、技術がないから……。上手じゃないから……。こうするしかないんです。あたしの、痛みとか、悔しさとか、そういう、ぐちゃぐちゃなもの全部をぶつけないと、あたし、ノアに、なれない……」

 

その、あまりに痛々しい告白に、アヤカの胸が、チクリと痛んだ。

 

初めて、この少女の笑顔の仮面の下にある、脆い素顔に触れた気がした。

 

「……そう」

 

アヤカは一度、目を伏せた。そして、再び、ことねを見つめる。

 

「なら、教えるわ。あなたにプロの『戦い方』を。そして、自分自身を守るための『鎧』の着け方を」

 

「え……?」

 

「勘違いしないで。あなたのためじゃない。この舞台を、あなたに壊されたくないだけ。そして……」

 

アヤカは、少しだけ、言葉を躊躇った。

 

「そして、あなたのその『魂の叫び』が、ただの雑音で終わるのを、見たくないから。あなたのその才能は、正しく磨かなければ、ただの、危険なだけの刃物よ」

 

その日から、稽古が終わった後の稽古場で、二人の、秘密のレッスンが始まった。

 

アヤカは、ことねにプロとしての発声法、身体を弛緩させるためのストレッチ、そして、何よりも、役と自分を切り離すための、呼吸法と、意識の切り替えの技術を、徹底的に叩き込んだ。

 

それは、厳しい、しかし、驚くほどに論理的な指導だった。

 

ことねは、その一つ一つを、渇いたスポンジが水を吸うように、驚異的なスピードで吸収していった。

 

アヤカもまた、ことねの中に、自分自身が失いかけていた、表現への純粋な衝動と共感能力を、再発見していた。

 

二人は互いの影響を受け合い成長していく。

 

そうして、ことねは教えられた技術を、自分の中に落とし込み最適化していった。

それは、人のダンスや歌い方を模倣し、自分のものにするときのように。

 

そして、アヤカが教える心を守るための「技術」をことねは無意識のうちに、恐るべき形で昇華させていった。

 

---

 

「――はい、オッケー!今日の練習、終了!」

 

美咲の元気な声が、張り詰めていたスタジオの空気を、ふっと緩ませた。

 

ことねも、稽古の疲れを見せず、いつものように明るく振る舞っていた。

 

「ことねちゃん、最近、また歌、上手くなったんじゃない?なんか、こう、深みが出たっていうか!女優さんって感じ!」

 

美咲が、スティックを片付けながら、無邪気に笑う。

 

「えー、そうですか?女優っぽくなりました?」

 

ことねも笑顔で返す。

 

だが、そのやり取りを、拓也は、少し離れた場所から、どこか釈然としない表情で見つめていた。

 

彼は、ギターをケースにしまいながらも、ずっと何かを考え込んでいるようだった。

 

(……おかしい)

 

確かに、ことねの歌は、格段に表現力を増していた。

 

悲しいフレーズは、胸が張り裂けそうになるほど切なく、楽しいフレーズは、以前よりもずっときらびやかに響く。

 

だが、その音の、あまりに深い場所に、時折、ぞっとするような「影」が見えるのだ。

 

それは、ナナイロの温かい光の中には、決して存在するはずのない、冷たい空虚な響き。

 

それは、まるで、歌っているのが、ことねではない、別の誰かであるかのような、奇妙な違和感。

 

「……なあ、ことね」

 

拓也はついに意を決して、声をかけた。

 

「さっきの曲のことなんだけどよ……」

 

「え?はい、何ですか?」

 

「美咲は良かったって言ってたけど、俺は、正直…怖かったぞ」

 

拓也の真剣な声に、美咲もことねも、きょとんとして彼を見る。

 

「なんて言えばいいか……。お前本当に『歌ってる』のか?なんか、どっか別の場所にいるみてえだ。俺たち、ちゃんとお前のこと、見えてんのかなって」

 

「うーん?悲しい曲だから…ですかね?」

 

きょとん、と、ことねは小首を傾げる。

 

「そういうんじゃねえんだよな……」

 

拓也は、自分の言いたいことが、うまく言葉にならないもどかしさに、頭を掻いた。

 

すると、それまで黙ってベースの手入れをしていた静が、ことねをじっと見つめながら、静かに、的確に呟いた。

 

「……音が泣いてる。でも、ことねさんは、笑おうとしてる」

 

その言葉に、ことねは、どきりとした。

 

拓也も、はっとしたように、静の顔を見る。

 

そうだ、それだ。その、ちぐはぐな感じが、ずっと、気になっていたのだ。

 

「も~、二人とも、心配しすぎですよぉ!」

 

ことねは、核心を突かれた動揺を隠すように、わざと、明るい声を上げた。

 

「役作りの影響ですよ!舞台の稽古が、すっごく、あたしの表現の幅を広げてくれてるんです!これは、ナナイロにとって、絶対にプラスになることなんですよ!」

 

その、あまりに完璧な笑顔に、拓也は、それ以上、何も言えなかった。

 

「そっかー!さすが女優!」

 

美咲は、ことねの言葉を、あっさりと信じきっている。

 

ことねのその天真爛漫な明るさが、今はひどく、ちぐはぐに響いた。

 

---

 

ことねがスタジオを去り、扉が閉まった後。

 

残された三人の間に、重い沈黙が落ちる。

 

「……なあ、静」

 

最初に、その沈黙を破ったのは、拓也だった。

 

「お前も、気づいてるんだろ。あいつの、歌のこと」

 

静は、ベースをケースにしまいながら、こくり、と静かに頷いた。

 

「……うん」

 

「だよな。良かった、俺だけじゃなくて」

 

拓也は、安堵と、それ以上の不安が入り混じった、深い溜息をついた。

 

その、重苦しい空気に、美咲が、少しだけ、不満そうな声を上げた。

 

「えー、二人とも、考えすぎだって!あたしは、今のことねちゃん、すっごくかっこいいと思うけどな!女優さんの役作りって、そういうもんなんでしょ?なんか、こう、別人みたいになりきる、みたいな!」

 

「美咲には、悪ぃけど、あれは、もう『役作り』なんてレベルじゃねえよ」

 

拓也は、美咲の楽観的な言葉を、静かに、しかし、はっきりと否定した。

 

「なんて言うか……あいつ、時々、歌ってる最中に、どっか、遠くに行っちまってる。俺たちの音が、届かねえ場所に、一人で」

 

静は、ベースの手入れをしていた手を止め、拓也の言葉を引き継ぐように、まっすぐに、美咲を見つめた。

 

そして、彼女らしい、詩的で的確な言葉を、紡ぎ出す。

 

「……以前のことねさんは、光の中に、影があった」

 

「影?」

 

拓也だけでなく、美咲も、その言葉に、きょとんとする。

 

「うん。どんなに明るい曲を歌っていても、その根っこには、悔しさとか、痛みとか、彼女が乗り越えてきた『影』があった。だから、彼女の歌は、深かった。でも……」

 

静は、一度、言葉を切った。その瞳に、初めて明確な「恐れ」の色が浮かぶ。

 

「今の、ことねさんは、違う」

 

「深い、深い、闇の中に、たった一つだけ、か細い光が、ぽつんと、灯ってるように、見える」

 

その、あまりに詩的で、しかし、本質を射抜くような表現に、拓也は、息をのんだ。

 

そうだ。それだ。光と影が、逆転してしまっている。

 

「……闇、の中の、光…?」

 

美咲の、いつもの明るい声から、色が消えていた。

 

「……そ、そんな、大げさだよ、静ちゃん…。でも……」

 

彼女は、それ以上、言葉を続けることができなかった。

 

拓也と静の、あまりに真剣な表情が、ことねの身に、何かが起きていることを、彼女にも、嫌でも、感じさせていた。

 

あの、太陽のようなことねが、今は、まるで、闇に喰われそうになるのを、必死に、堪えているかのように見える。

 

拓也の心の奥の、言いようのない不安が、明確な「恐怖」へと、その輪郭を変えた。

 

バンドの、絶対的な光であるはずの彼女の中に、得体の知れない「闇」が、静かに、そして、確実に、広がっている。

 

その事実に、拓也たちは、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。

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