ことねの危険な演技法が披露された翌日の稽古場は、異様なほどの静寂と、緊張に支配されていた。
昨日、稽古場の空気を凍りつかせた、演技の残響が、まだ壁に床に、こびりついているかのようだった。
アヤカの視線の先には、壁に向かって、一人、必死に発声練習を繰り返す、ことねの姿を見る。
その小さな背中は、あまりに無防備で危うく見えた。
(……浅はかだった)
鏡に映る自分の姿を見つめながら、アヤカは、数日前の自分の言動を、静かに反省していた。
初めて稽古場に来た、あの少女。
何も知らない、ただの雛鳥。
そんな相手に、自分は、プロとしてのプライドを剥き出しにし、あまりに、大人げない態度をとってしまった。
たとえ、彼女がどんな経緯でここにいようと、この場に足を踏み入れた以上は、後進の一人。
それに対して、道を指し示すのではなく、ただ突き放すだけだった自分。その未熟さに、アヤカは小さく唇を噛んだ。
(そして、何より……)
アヤカの視線が、稽古場の反対側で、台本を読み込む笹川へと向かう。
彼の様子もまた、いつもとは明らかに違っていた。
普段の笹川は、役者を極限まで追い込む。だが、それは、最高の演技を引き出すための、計算され尽くした演出だ。
役者が、本当に「壊れる」一線は、決して越えさせない。
壊れた道具では、最高の芸術は作れないことを、彼は、誰よりも知っているはずだから。
(なのに、なぜ……?)
昨日のことねの演技。あれは、明らかに、その一線を越えていた。
それなのに、笹川は止めなかった。
それどころか、恍惚とした、まるで神の顕現でも見るかのような、異様な目つきで、彼女を見つめていた。
(先生の様子が、おかしい…。いつもなら、役者が一線を越えそうになったら、真っ先に止めるはず。なのに、昨日の藤田さんを見て、先生は…恍惚としていた。まるで、彼女が壊れることすらも、作品の一部だと、考えているような……。まさか、そんなはずは…)
その拭いきれない疑念と、目の前の才能が壊されてしまうかもしれないという恐怖。
演出家が守らないのなら。
(……あたしが、やるしかない)
アヤカは、固く、決意した。
それは、使命感でも、善意でもない。
ただ、自分の目の前で、一つの、計り知れない才能が、無自覚なまま、異常な熱を帯びた芸術家の手によって、道を誤っていくのを、同じ表現者として、黙って見てはいられなかった。
アヤカは、笹川の元へ、静かに、しかし、確固たる意志を持って歩み寄った。
「笹川先生。少し、お時間をいただけますか」
その声は、低く、抑えられていたが、明確な非難の色を帯びていた。
笹川は、読んでいた戯曲からゆっくりと顔を上げ、楽しそうに、細い目をさらに細めた。
「やあ、アヤカくん。どうしたんだい、そんなに思い詰めた顔をして。ああ、昨日の藤田くんのことかい? 君も、見ただろう。あの子の中に眠る、荒々しい『何か』を。あれが彼女の才能だ」
「私が見たのは、才能などという、美しいものではありません。制御されていない、ただの感情の奔流です」
アヤカは、笹川の言葉を冷たく遮った。
「あれは、演技と呼べる代物ではない。彼女は役を『演じて』いるのではなく、役に『喰われて』いるのです。このままでは、彼女は舞台に上がる前に、壊れます」
「ほう。手厳しいな」
笹川は、心底、楽しそうに笑う。
「君の言うことも一理ある。だがね、わたしには、見えたのだよ。彼女の、魂の亀裂から漏れ出す光が。君の完璧な『ノア』とは、また違う、生々しい魅力だ。このダブルキャストは成功だと確信した」
「成功、ですって…?」
アヤカは信じられない、というように、言葉を失った。
「あなたは、壊れた楽器でソナタを奏でろと仰るのですか?本番の舞台で、彼女が役から戻れなくなったら、どう責任をお取りになるつもりですか?」
だが笹川は、その言葉をまるで心地よい音楽でも聴くかのように、うっとりと聞いていた。
「責任?ああ、そうだね。わたしの責任は、この『誰かのためのソナタ』という作品を、最高の形で、観客に届けることだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「君はその技術で、悲劇の『形』を、寸分の狂いもなく作り出すことができる。それは見事な職人技で、間違いなく成功と言えるだろう。だが、彼女は違う。彼女は自らの心を砕き、その破片で本物の『悲劇』そのものを、我々の前に差し出している。どちらが、より観る者の心を揺さぶるか…答えは、明らかだろう?」
「それはただの搾取です」
アヤカの声が、鋭さを増す。
「彼女の若さと、無垢さ、それに危うさに対する、芸術の名を借りた搾取にすぎません。先生、目を覚ましてください!」
その、あまりにまっすぐな言葉に、笹川は、ふ、と息を吐くと、心底楽しそうに、静かに笑った。
「搾取かね。……哲学者ニーチェは、こう言ったそうだよ。『踊る星を産むためには、自分自身の中に、まだ混沌を持っていなければならない』と」
笹川は、静かに立ち上がると、アヤカの横を通り過ぎながら、囁くように言った。
「わたしは、彼女の中にある、その尽きることのない『混沌』を、愛しているのだよ。そこから、誰も見たことのない、狂おしいほどに美しい星が、生まれ落ちる瞬間が見たい。たとえ、その星が、たった一夜で、燃え尽きてしまうとしてもね」
その、あまりに非情で、芸術家としてのエゴに満ちた言葉に、アヤカは、全身の血が、逆流するような感覚を覚えた。
この人は、ダメだ。
この演出家は、ことねを守る気など、毛頭ない。
それどころか、彼女が壊れていく様すらも、自らの作品の、一部にしようとしている。
(……あたしが、やるしかない)
アヤカは、固く、唇を噛みしめた。
彼女は笹川が去っていった扉を、氷のように冷たい目で見つめると、静かに踵を返し、稽古場に残ることねの元へと歩き出した。
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アヤカは稽古場に戻ると、ことねの様子を伺った。
自主練をするその後ろ姿。台本を読むその瞳。
そして、アヤカは気づく。ことねが役に喰われていることに。
稽古の合間、誰かと話している時、ふと、ことねの口調が、相手のトーンを無意識になぞっていることがある。
一人でいる時、虚空を見つめるその瞳は、完全に光を失い、まさに「がらんどう」そのものになっている。
それは役に入っている、というレベルではない。役と、自分との境界線が、曖昧に溶け出している。
ことねはアヤカが近くにいることにも気づかず、鏡の前でノアのセリフを呟いていた。
「……わたしは、鏡。わたしには、何もない……」
その声は、虚ろで、力がなかった。
アヤカは、その背中に、静かに、しかし、鋭く、声をかけた。
「――違うわ」
「え……あ、アヤカさん……」
ことねが、びくりと肩を震わせて振り返る。
「呼吸が上がっている。重心が浮ついている。そんな状態で、ノアの孤独など、表現できるわけがない」
アヤカは、ことねの前に立つと、彼女の肩にそっと、手を置いた。
「いいこと?あなたを役者として認めたわけじゃない。はっきり言って、今のあなたは、ただの素人よ。でも、一人の表現者が、才能に喰われて、壊れていくのを、黙って見ているのは、寝覚めが悪いの」
その言葉は、アヤカなりの、不器用な、そして、必死の宣言だった。
ことねは、その真意を測りかねて、ただ、戸惑ったように、アヤカを見つめ返す。
「あなたは、どうして、そんなに焦っているの?」
アヤカが、問いかける。
「あなたの演技は、あまりに無防備。まるで、鎧も着けずに、戦場に飛び出すようなものよ」
「……だって」
ことねの口から、初めて、弱音とも、本音ともつかない言葉が、こぼれ落ちた。
「あたしには、アヤカさんみたいな、技術がないから……。上手じゃないから……。こうするしかないんです。あたしの、痛みとか、悔しさとか、そういう、ぐちゃぐちゃなもの全部をぶつけないと、あたし、ノアに、なれない……」
その、あまりに痛々しい告白に、アヤカの胸が、チクリと痛んだ。
初めて、この少女の笑顔の仮面の下にある、脆い素顔に触れた気がした。
「……そう」
アヤカは一度、目を伏せた。そして、再び、ことねを見つめる。
「なら、教えるわ。あなたにプロの『戦い方』を。そして、自分自身を守るための『鎧』の着け方を」
「え……?」
「勘違いしないで。あなたのためじゃない。この舞台を、あなたに壊されたくないだけ。そして……」
アヤカは、少しだけ、言葉を躊躇った。
「そして、あなたのその『魂の叫び』が、ただの雑音で終わるのを、見たくないから。あなたのその才能は、正しく磨かなければ、ただの、危険なだけの刃物よ」
その日から、稽古が終わった後の稽古場で、二人の、秘密のレッスンが始まった。
アヤカは、ことねにプロとしての発声法、身体を弛緩させるためのストレッチ、そして、何よりも、役と自分を切り離すための、呼吸法と、意識の切り替えの技術を、徹底的に叩き込んだ。
それは、厳しい、しかし、驚くほどに論理的な指導だった。
ことねは、その一つ一つを、渇いたスポンジが水を吸うように、驚異的なスピードで吸収していった。
アヤカもまた、ことねの中に、自分自身が失いかけていた、表現への純粋な衝動と共感能力を、再発見していた。
二人は互いの影響を受け合い成長していく。
そうして、ことねは教えられた技術を、自分の中に落とし込み最適化していった。
それは、人のダンスや歌い方を模倣し、自分のものにするときのように。
そして、アヤカが教える心を守るための「技術」をことねは無意識のうちに、恐るべき形で昇華させていった。
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「――はい、オッケー!今日の練習、終了!」
美咲の元気な声が、張り詰めていたスタジオの空気を、ふっと緩ませた。
ことねも、稽古の疲れを見せず、いつものように明るく振る舞っていた。
「ことねちゃん、最近、また歌、上手くなったんじゃない?なんか、こう、深みが出たっていうか!女優さんって感じ!」
美咲が、スティックを片付けながら、無邪気に笑う。
「えー、そうですか?女優っぽくなりました?」
ことねも笑顔で返す。
だが、そのやり取りを、拓也は、少し離れた場所から、どこか釈然としない表情で見つめていた。
彼は、ギターをケースにしまいながらも、ずっと何かを考え込んでいるようだった。
(……おかしい)
確かに、ことねの歌は、格段に表現力を増していた。
悲しいフレーズは、胸が張り裂けそうになるほど切なく、楽しいフレーズは、以前よりもずっときらびやかに響く。
だが、その音の、あまりに深い場所に、時折、ぞっとするような「影」が見えるのだ。
それは、ナナイロの温かい光の中には、決して存在するはずのない、冷たい空虚な響き。
それは、まるで、歌っているのが、ことねではない、別の誰かであるかのような、奇妙な違和感。
「……なあ、ことね」
拓也はついに意を決して、声をかけた。
「さっきの曲のことなんだけどよ……」
「え?はい、何ですか?」
「美咲は良かったって言ってたけど、俺は、正直…怖かったぞ」
拓也の真剣な声に、美咲もことねも、きょとんとして彼を見る。
「なんて言えばいいか……。お前本当に『歌ってる』のか?なんか、どっか別の場所にいるみてえだ。俺たち、ちゃんとお前のこと、見えてんのかなって」
「うーん?悲しい曲だから…ですかね?」
きょとん、と、ことねは小首を傾げる。
「そういうんじゃねえんだよな……」
拓也は、自分の言いたいことが、うまく言葉にならないもどかしさに、頭を掻いた。
すると、それまで黙ってベースの手入れをしていた静が、ことねをじっと見つめながら、静かに、的確に呟いた。
「……音が泣いてる。でも、ことねさんは、笑おうとしてる」
その言葉に、ことねは、どきりとした。
拓也も、はっとしたように、静の顔を見る。
そうだ、それだ。その、ちぐはぐな感じが、ずっと、気になっていたのだ。
「も~、二人とも、心配しすぎですよぉ!」
ことねは、核心を突かれた動揺を隠すように、わざと、明るい声を上げた。
「役作りの影響ですよ!舞台の稽古が、すっごく、あたしの表現の幅を広げてくれてるんです!これは、ナナイロにとって、絶対にプラスになることなんですよ!」
その、あまりに完璧な笑顔に、拓也は、それ以上、何も言えなかった。
「そっかー!さすが女優!」
美咲は、ことねの言葉を、あっさりと信じきっている。
ことねのその天真爛漫な明るさが、今はひどく、ちぐはぐに響いた。
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ことねがスタジオを去り、扉が閉まった後。
残された三人の間に、重い沈黙が落ちる。
「……なあ、静」
最初に、その沈黙を破ったのは、拓也だった。
「お前も、気づいてるんだろ。あいつの、歌のこと」
静は、ベースをケースにしまいながら、こくり、と静かに頷いた。
「……うん」
「だよな。良かった、俺だけじゃなくて」
拓也は、安堵と、それ以上の不安が入り混じった、深い溜息をついた。
その、重苦しい空気に、美咲が、少しだけ、不満そうな声を上げた。
「えー、二人とも、考えすぎだって!あたしは、今のことねちゃん、すっごくかっこいいと思うけどな!女優さんの役作りって、そういうもんなんでしょ?なんか、こう、別人みたいになりきる、みたいな!」
「美咲には、悪ぃけど、あれは、もう『役作り』なんてレベルじゃねえよ」
拓也は、美咲の楽観的な言葉を、静かに、しかし、はっきりと否定した。
「なんて言うか……あいつ、時々、歌ってる最中に、どっか、遠くに行っちまってる。俺たちの音が、届かねえ場所に、一人で」
静は、ベースの手入れをしていた手を止め、拓也の言葉を引き継ぐように、まっすぐに、美咲を見つめた。
そして、彼女らしい、詩的で的確な言葉を、紡ぎ出す。
「……以前のことねさんは、光の中に、影があった」
「影?」
拓也だけでなく、美咲も、その言葉に、きょとんとする。
「うん。どんなに明るい曲を歌っていても、その根っこには、悔しさとか、痛みとか、彼女が乗り越えてきた『影』があった。だから、彼女の歌は、深かった。でも……」
静は、一度、言葉を切った。その瞳に、初めて明確な「恐れ」の色が浮かぶ。
「今の、ことねさんは、違う」
「深い、深い、闇の中に、たった一つだけ、か細い光が、ぽつんと、灯ってるように、見える」
その、あまりに詩的で、しかし、本質を射抜くような表現に、拓也は、息をのんだ。
そうだ。それだ。光と影が、逆転してしまっている。
「……闇、の中の、光…?」
美咲の、いつもの明るい声から、色が消えていた。
「……そ、そんな、大げさだよ、静ちゃん…。でも……」
彼女は、それ以上、言葉を続けることができなかった。
拓也と静の、あまりに真剣な表情が、ことねの身に、何かが起きていることを、彼女にも、嫌でも、感じさせていた。
あの、太陽のようなことねが、今は、まるで、闇に喰われそうになるのを、必死に、堪えているかのように見える。
拓也の心の奥の、言いようのない不安が、明確な「恐怖」へと、その輪郭を変えた。
バンドの、絶対的な光であるはずの彼女の中に、得体の知れない「闇」が、静かに、そして、確実に、広がっている。
その事実に、拓也たちは、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。