それを「創った」ウマ娘がいたとしたら?
そんなインスピレーション暴発短編のため、続くかどうかはわかりません。
以下、簡単な設定。
当時のウマ娘は「生国+個人名」の名乗りを原則とする。
これは苗字を持たないウマ娘と、街道の発達によってより遠くまで走るようになったウマ娘の相互扶助ネットワークによって成立した制度である。頭領と呼ばれる各国のウマ娘が手形を発行し身分を保証することで、彼女達はどこへ行っても十分な待遇を受けることができた。
当時、府中はありふれた宿場町だった。
天領として栄えた府中宿は、明治の世と共に新たな発展へと動き始めた。
東京から伸びる鉄道を皮切りに、石造りの建物が建ち、学校が作られた。近代化の波が、長い伝統をゆっくりと飲み込もうとしていた。
一八七八年。
明治の世も早十一年。開国とともにもたらされた『レース』の文化は、日本中のウマ娘を大いに沸かせていた。
そこでは重い荷を担ぐこともなく、危険な山を歩くことも、荒れ狂う川を渡ることもない。
美しく整えられた芝の上を、自らの信念と誇りだけを賭けて走る、夢のような世界。
その先にあるものは、勝者としての栄光。
望まれるものは、ただ強くあること。
神聖で華々しい、ウマ娘だけの戦いの聖地。
この日、その夢に挑もうとする一人のウマ娘が、この府中の地に最初の
*
「江戸じゃ東京じゃ言うても、ちょっと離れたら田舎じゃのお」
春の終わりの甲州街道に、穏やかな風のような独り言が流れた。
道の両脇には、まだ若い桑の葉が萌え出し、ところどころに咲き残る山桜が、白絹のような花びらを空へとかざしている。
鳥のさえずりは遠く、代掻きの終わった田からは、湿った土の匂いと、苗代の水面を走る風のさざめきが届いてくる。
その声の主は、三十路に差しかかる頃合いの、栗色の髪をしたウマ娘だった。髪を一本に括り、旅装束に
小柄ながらも締まった身のこなしと、年若い者には出せぬ柔らかな貫禄があった。
足元には、布地と革帯と蹄鉄を組み合わせた「ウマ
鉄が乾いた土を叩くたび、澄んだ音が小さく辺りに跳ねた。
「お師匠ぉ、待ってくださいよぉ」
ひときわ大きな葛籠を背にした若いウマ娘が、調子外れな蹄音を立てて追いついてきた。その胸には、藤の家紋が染め抜かれた小さな振分荷物も抱えている。
「はぁ……はぁ……お師匠、もう少し、ゆっくり歩いていただけませんか」
「なんじゃ
「も、申し訳ありません……」
「汗を拭け。書状がふやけるぞ」
そう言われた長楽はまぶしそうに空を仰ぎ、被っていた手拭いを解いて額の汗をぬぐう。歳の頃は十二、三だろうか。黒髪をかき上げると、張りのある耳がぴこんと揺れた。
「……ふう」
「まったく。お主がついて来たいというから荷を持たせておるのに、修行が足らんぞ」
「そりゃ、言い出したのは私ですけど」
「ついでに、この水筒も持っておれ。なんでも修行じゃ」
ほとんど空になった水筒を長楽の首へ掛けると、栗毛のウマ娘はケタケタと笑って歩き出した。その先には、宿場の境を示す門が聳えている。
「ちょ、お師匠!」
「早う行くぞ。もう少しじゃ」
道をゆく二人の上には、入道雲の幼いかけらが浮かび、光にきらめいている。
南には、微かに白く霞んだ富士の頂が見えた。
*
府中ほどの大宿ともなれば、木戸で手形を改められることも珍しくない。
長楽の懐にある書状を見た木戸番はウマ娘の旅人を快く迎え、二人は無事に府中宿へと入った。
人の気配の増した道沿いには、瓦葺の家々がぽつりぽつりと現れ、柿の若葉が庭先で陽を受けていた。
軒先に吊るされた簾が、風に揺れてカサコソと音を立てる。
どこかの庭で飼われている鶏が、甲高く鳴いた。
宿場の目抜通りを西へ進む。行き交う人々が、二人にちらちらと目を向ける。長楽の背負う、肩幅の倍はある進物用に飾り立てられた葛籠が、特に目を引いた。
だが、旅籠の客引きすら、二人に声をかけようとはしない。飛脚でも、荷車引きでもないウマ娘というだけで、ただの旅人とは違うという空気があった。
「ひい、ひい……」
「しゃきっとせんか長楽。お主は音に聞こえし坂東太郎は
「ふうぅ。……なにも進物だからって、こんなに大きな葛籠にしなくてもよいではないですか」
「何事も初手が大事じゃからの。ほれ、箱根峠を一跨ぎにした脚はどうした。踏ん張れ踏ん張れ」
街道から北に逸れて、人通りの減った小道を抜けると、視界がぐっと開けた。
前方には見渡すかぎりの水田が広がり、陽光を弾く鏡のような水面には、風のさざめきがわずかに波紋を描いていた。
その静けさのただなかに、まるで一枚の絵を塗り替えるように、白い漆喰の塀が静かに構えていた。
塀の向こうには、入母屋造の屋根がいくつも連なり、瓦が陽に照らされて重々しく輝いている。
その敷地も、軽く一反はありそうだ。
「うひゃあ。ずいぶんとまあ、大きな屋敷だこと」
「書状を寄越した名主の菊衛門なる者、名主株の売買だけでなく、廃藩置県の混乱に乗じてこの辺りの土地を買い漁ったと聞く。まあ素封家というやつじゃな」
「ソホウカ……?」
「要は、銭の力でこの辺まるごと呑み込んだ男よ。宿場で聞いたところによれば、その土地は一千町歩あるやなしやというらしいが、はてさてどんな男やら」
「はぁ……」
「とにかく、お主は儂が良いと言うまで、後ろに控えて居れば良い」
「承知しました」
二人は塀に沿って歩いていく。ちょうど真ん中に来た辺りで、深い松煙色に塗られた門が現れた。黒漆に金文字の表札が控えめに掛けられていて、全体がえも言われぬ威圧感を与えている。
「ここじゃな。長楽」
「はいっ。開門、かいもーん!」
長楽が声を上げると、門につけられた小さな覗き窓が開いて、老人の目がこちらを見ていた。
「これはこれはウマ娘様。何か御用で?」
老人の問いに、長楽がすっと下がった。入れ替わりに、師匠と呼ばれたウマ娘が老人に見えるように前へ出る。
「儂は尾張の
「尾張、友永……」
老人はしばし考え込んだ後、かっと目を見開いた。
「あ、あなた様が! これは、とんだ失礼を申し上げました。すぐにお通しいたします」
覗き窓がぱたんと閉じて、老人が中で声を上げた。
「門を開けよ! お客人じゃ!」
*
二人は脚絆を解き、下男が用意した桶で足を洗ってから、客間に通された。
「こちらでお待ちくだされ」
老人は茶を並べると、音も立てずに下がっていった。
縁側は開け放たれて、春の終わりを告げるやわらかな陽差しが、畳の縁を斜めに照らしている。外には簡素ながら手入れの行き届いた庭があり、小さな池に竹樋から水がちろちろと注ぎ込む音が、部屋全体へ静かに反響していた。
庭の隅には、八重桜の名残がほんの数輪だけ咲き残り、散った花びらが苔むした石に薄紅の彩りを添えていた。気を抜けば、自然とまぶたが重くなってしまいそうな空気だ。
「素封家の割に、良い趣味の庭じゃの」
友永は当然といった様子で、上座に据えられた座布団へと腰を下ろす。
「お主は話が終わるまで、そこに座っておれ」
「はい」
長楽の控える位置には、やや薄手の座布団が置かれていたが、彼女はそれをそっと傍らに避けると、葛籠とともに静かに膝をついた。井戸水のひんやりとした感触が、まだわずかに肌に残っていた。
しばらくして、廊下の奥からぱたぱたという足音が近づき、障子がすっと滑るように開いた。
現れたのは、白髪交じりの髷を結った初老の男。薄青の小袖に黒い帯をきゅっと締め、姿勢も物腰も、まるで古筆のように落ち着いている。
「これはこれは。大変お待たせをいたしました」
男は静かな所作で下座の座布団に腰を下ろし、三つ指をついて深く頭を下げた。
「本町名主、松本菊衛門にございます」
友永は一度、両の掌を袂に隠すと、ゆるりと口を開いた。
「お初にお目にかかる。儂が尾張友永、これは近侍の相模長楽じゃ。それと、この葛籠はお近づきの印にと尾張の名物を詰め込んで参ったもの。納められよ」
その言葉に、菊衛門は襖の向こうで控えていた下男を一瞥し、荷を受け取るよう目で命じた。
「お心遣い痛み入ります。しかし書状をお出したのは、わずか五日前のはず」
友永はふっと鼻を鳴らした。まるで、その言葉こそを待っていたかのように。
「ウマ娘を甘く見られては困るぞ菊衛門殿。尾張名古屋からここ府中宿まで八六里、儂らの足なら二日とかからぬ」
長楽は控える位置からそっと視線を上げた。
師匠の語調は穏やかで、むしろこの場の流れをたしかに握っているかのような落ち着きがある。長楽の膝の上に置いた手の指先が、無意識にきゅっと揃えられていた。
「噂に違わぬご健脚、お見それいたしました。ご無礼の段、平にご容赦を」
菊衛門は適度な慇懃さで平伏してみせた。これがこの男の処世術なのだろう。快くもなく、かといって不快ではない。
たかが村の名主にこれほどの駆け引きができることに、友永は内心で感嘆していた。
「構わぬ。それよりも大事な話があるからの。これ、長楽」
「はっ」
長楽は素早く懐から書状を取り出し、恭しく師匠へ手渡した。
緊張はある。ただ、それを微塵も顔に出さぬよう努めている。菊衛門はそんな若い娘の一挙手一投足に、さりげなく目を配っていた。
「この書状に書かれていることの真意について、お聞かせいただきたい」
友永は書状を畳の上へ置いた。それこそ、友永一行が遠く尾張から出向いた、その理由だ。
「はっは。まさかこんなに早く、しかも直にお話をさせていただくことになりますとはな」
そう応じると、菊衛門はそっと膝を引き寄せ、背を正した。眼差しがふと鋭くなる。話すべきことの核心に、自らを導くように。
「さて、これは少々唐突な問いになるかもしれませぬが──友永殿は、レースというものが、この国をどれほど動かすとお考えか」
その言葉の直後、縁側の庭に一羽の雀が飛び降り、小さく鳴いた。気配に気づいてもなお、友永の眉一つ動かぬ様子に、長楽はまた小さく息をのんだ。
「ほう。国を動かすとな」
「横浜の居留地にできたレース場はすこぶる盛況とのこと。が、そこで走っているのは、遠くエゲレスから呼び寄せたウマ娘という話ではありませんか。せっかく、この日本にもウマ娘がおるのです。彼女らにも、何かしら機会を与えねば不公平というものでしょう」
「しかし、菊衛門殿も使われたとおり、儂らウマ娘は今や飛脚や荷車引きが役目。ただの駆けっこにうつつを抜かしている余裕のある者など、一握りもおるまい」
友永の言葉は、どこか遊びのようでもあった。膝の上に置いた手が軽く一度、畳を叩く。まるで「その先を話せ」とでも言いたげに。
縁側の外、遠くでカラスの鳴く声がひとつ。晩春の陽は緩やかに傾き、庭石の影がじわりと障子へ伸びていた。
「仰る通り。ところで今一つ。友永殿は、陸蒸気というものを、もうご覧になりましたかな?」
「まだ見ておらぬ。逗留の隙に見物せんとは思うとるが」
「お上はその陸蒸気を国中に走らせ、人と物を運ばせるつもりにございます。そうすれば、遅かれ早かれ、ウマ娘は職を失うことになりましょう。陸蒸気は疲れも知らなければ、米も食いませんからな」
言葉を重ねるごとに、菊衛門の声音には微かな熱が混じり始めていた。それでもなお語調は丁寧で、手元に置かれた茶碗を一度も動かさぬほど、構えは整っている。
ただその目元に、一瞬かすかな焦り──否、渇望のような色がよぎったことを、長楽は見逃さなかった。
「そこで、暇になるウマ娘にレースをさせよ、と。そういうことか?」
「左様。ウマ娘はいつの時代も、その走りと美貌によって民の拠り所でありました。太平の世も終わり、開国という夜明けを迎えた今、早々に次を見据えてお動きになるべきでは……と愚考し、こうしてお呼び立てした次第でございます」
長楽の喉が、ごくりと鳴った。音を漏らすまいと努めたが、友永の視線がちらりと動いたことで、自身の緊張が図らずも露わになったような気がした。
彼女は心を落ち着かせようと目の前の湯呑みに視線が泳いだが、すぐ引き戻した。
「ふうむ。菊衛門殿は遠くを見る目をお持ちと心得た」
長楽の葛藤をよそに、友永はゆったりと構え、すぐに菊衛門の興味を取り返した。
「しかしその深慮遠謀、長い目でみればお主が得をするようには思えぬのだが、如何に?」
「これはしたり。こうも簡単に見破られるとは、この菊衛門も歳をとりましたかな。……よろしい、腹蔵なく申し上げる」
菊衛門は口元に薄く笑みを浮かべながら、湯呑みに口をつけた。表情は穏やかなままだが、まなじりには一瞬、形を結ばぬ緊張が走る。庭先の濡れ縁からは、どこかで鶯の囀りが届いた。
「この菊衛門は土地をお貸し申し上げますが、それは、必ずしも友永殿である必要はございません」
菊衛門の言葉は、ゆるやかに、しかし確かに場の主導権を取り戻そうとする気配があった。
長楽は横目に師の様子をうかがったが、友永の肩は微動だにしない。背筋の真っ直ぐなまま、まるでこの邸ごと測っているかのように静かに目を細めている。
「お上でも、新たに作られたと聞く文部省とかいう役所でも結構。そして学問所を開き、ウマ娘を集め、レースを催します」
そう語る声に、菊衛門の本心が混じり始める。節を崩さず、されど熱を帯びた声音。
彼の視線が、長楽の横顔を掠めた。
「あとは学問所がある限り、当家は子々孫々まで安楽、という次第に存じます」
「……それだけか?」
友永がにやりと視線を向ける。
菊衛門はすっとうつむき、小さく咳払いした。まるで、自らの欲を口にするための潔白を探すかのように。
「これは、参りましたな」
そのやりとりの最中も、友永は姿勢一つ崩さなかった。まるで、もはやこの邸全体をも自分の庭先のように扱っているかのような振る舞いである。
一方の菊衛門は、わずかに笑みを浮かべながらも、袖の中で組んだ指をぴたりと揃えていた。己の本心を明かすその時を、あくまで己の間合いで測っていた。
「腹蔵なく申すと言ったではないか。ご安心召されよ。もしご破産になっても、この友永は誰にも漏らさぬ」
「……では、おほん。府中は今でも街道沿いの宿場町故、それだけでも手前どもにはかなりの実入りがございます。が、もしもレースをこの府中で催せたならば、その金の流れたるや、江戸日本橋を凌ぐやもしれません」
「おもしろい。つまるところ、菊衛門殿は土地を以てお国に奉仕するという建前で学問所を開き、ウマ娘を集める。そしてレースという新たな娯楽と、儂らウマ娘の夢と希望を糧に、ほどほどに金儲けをしようというのだな」
「はっは。直裁な物言いをなさるお方だ。しかし、歯に衣着せず申し上げれば、そうなりますな」
「結構。儂らとて食わねば生きてはゆけぬ。時代とは変わるもの。いや、もう変わり始めているのかもしれぬ。すぐに返事はできぬが、良い話を聞かせてもらったということだけは、この友永の名において言い置こう」
「手前どもも、この策が一朝一夕で成るとは思うてはおりません。早くて三年、長くて十年は見込まねばなりますまい」
菊衛門は一度、庭に目をやった。春の終わりの陽が、苔むした岩に淡く光を投げていた。
「しかしやるからには、倅に家を継がせるまでには目処を立てとうございます。そのあたりをご承知いただければ」
「そこまで見通しておられるのならば、儂も先の話をしやすくなろう。今日のところはこれで失礼して、後日また話を」
「はい。手前も、こうしてお話ができてようございました。また、いつでもお運びくだされ」
*
菊衛門の屋敷を後にした二人は、宿場へと戻る道を歩いていた。日はすっかり傾いて、長く伸びた影が畦を流れていく。あぜ道の土にはまだ昼の熱が残り、空にはうっすらと霞がかかっていた。田の面を渡る風がゆるやかに吹き、若苗の葉先がさやさやと揺れている。
身軽になった長楽は、私物の葛籠を背中に回し、前には友永の荷物を抱えていた。
緊張の糸が切れたからか、その顔は昼間よりもずっと晴れ晴れとしている。
「この友永を前にあの老獪さ。あの男、只者ではないな」
「私には難しい話は分かりませんが、あれは良いお話だったのでしょうか」
「まだ決められん。真贋を見極めるには、もう何本か尻尾を集めなければならんの」
友永は、腰に提げた煙草入れから小さな火打石を取り出し、カツカツと火口に火をつけた。そっと息を吹いて、付け板に火を移す。
そうやってやっと、玉川型の煙管をぷかぷかと吹かした。
「いちいち尾張まで行くわけにもいかんし、文を出すか」
「でしたら、私めが」
「お主がおらんと儂が困る。今日のところは、まず旅籠じゃ」
「府中には良い旅籠が多いと聞きました。なんでも、蕎麦が名物だとか」
「ううむ。府中宿では、どこに菊衛門殿の耳があるかわからん。それに陸蒸気も見たいしのう……よしっ」
友永はぱんと手を打って背筋を伸ばした。髪を括り直し、脚絆の結び目を確かめる。
「内藤新宿まで走るとしよう。行くぞ長楽、ついて参れ!」
「は、はいっ!」
言葉と同時に地を蹴る音がして、草の間を風が裂いた。小道を駆け出す二つの影が、西へ向かう陽の光を受けて金色に浮かび上がる。薄紅に染まった空の下、遠くに見えたはずの街道の賑わいが、少しずつ近づいてくる。
長楽は、わずかに息を弾ませながらも、師の背をしっかりと追いかけた。その背中が、ただ速いだけでなく、何か新しいものを見つけにいくように思えた。
──この先にあるのは、果たして夢か、ただの風聞か。
春の残り香を乗せた風が、ふたりの背中を押すように吹いていた。