ロストメモリーズ ~ 幻想郷に舞う剣の影 ~   作:姉川京

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序章・幻想郷
第1話「イナバ」


 月明かりも届かない深い闇に包まれ岩がごつごつと転がる河原で、少年は力なく足を引きずっていた。全身は無数の傷で赤黒く染まり、荒い息遣いが乾いた空気にむなしく響く。胸の奥には鉛のような重苦しい痛みが渦巻き、拭い去れない喪失感が彼を苛んでいた。

 

 突然、視界がぐにゃりと歪んだ。まるで水面に落ちた絵具のように、景色がぐちゃぐちゃに混ざり合い、上下左右の感覚が失われる。彼は本能的に目を閉じ、迫りくる闇に身を委ねた。

 

(ああ……死ぬのか)

 

これが死ぬ間際の感覚なんだと悟った。走馬灯のように、燃え盛る炎の色、力強い誰かの背中、悲痛な女性の叫びなどがぼやけた映像として脳内で浮かんでは消える。

 

(もし、あの時あいつの正体を見抜けていたら……あいつの傷を癒せていたら……)

 

その刹那、身体の内側から今まで感じたことのない妙な力が湧き上がる感覚があった。それは熱い奔流のように全身を駆け巡り、何が起こったのか理解できないまま彼は意識を失った。

 

◇◇◇◇◇◇

 

 次に気が付いた時、彼は見慣れない森の中に倒れていた。じめじめとした地面の感触、鼻を突く湿った土と草の匂い。足元には得体の知れない植物や妖しく光る菌類が群生している。

 

(ここは一体……?)

 

 だがそんなことを考える余裕はなく、力尽きその場に倒れ伏した。身体は鉛のように重く、激しい痛みが全身を蝕んでいた。それでも、この妖しい森の瘴気のようなものが、自身の身体には全く影響を与えていないことに、ぼんやりとした意識の中で奇妙な違和感を覚えた。まるで、何か見えない力に守られているかのようだ。

 

 今まさに再び意識が途切れようとしたその時、二つの人影が彼の視界に映り込んだ。一人は紫色の着物を身に纏い、どこか飄々とした雰囲気の女性。もう一人は九尾の尻尾を持つ、凛とした佇まいの女性だった。この世界の管理者、八雲紫とその式神、八雲藍である。紫は倒れている彼を興味深そうに見つめている。

 

「あら、こんなところに人が倒れているわ」

 

紫の扇子が指し示した先には、大木の根元に凭れるようにして若い男が倒れ伏していた。年齢は十五~十七といったところだろうか?上半身は肌蹴ており、鍛えられたであろう身体には幾つもの痛々しい傷跡が見られる。そして何よりも目を引いたのは、彼の背中に浮かび上がる奇妙な紋様だった。まるで稲妻が奔ったような、青白い光を帯びた紋様が、まるで生きた蛇のようにうねっていた。そして、彼が身につけている剣。日本刀は違う、どちらかといえば銅剣のような不思議で神々しい気を纏った剣。その剣が持つ不思議な力故か、その周りの空気が歪んでいた。

 

 藍もまた、警戒の色を滲ませながら彼を見つめていた。魔法の森の瘴気は、生きた人間にとっては猛毒だ。ほんの少しでも触れれば、たちまち身体は蝕まれていく。それなのに、この少年は確かに瀕死の状態ではあるものの、その原因は明らかに瘴気によるものではない。深い切り傷や打撲の痕が激しい戦闘があったことを物語っていた。

 

 紫は彼にゆっくりと近寄り、手を差し伸べようとした。その時、何か危険をいち早く察した藍が紫を制止した。

 

「あなた……大丈夫?」

 

「紫様!危険です!」

 

紫も彼の瞳の奥に潜む野生の獅子のような威圧感を感じとり、足を止めた。

 

「!!」

 

「……」

 

しかし、その威圧感はすぐに治まった。彼が意識を失ったのだ。ホッと胸をなでおろす藍。

 

「紫様、この少年……只者ではありません」

 

藍の言葉に、紫は妖艶な笑みを浮かべた。

 

「私もそう思うわ。あれほど濃い瘴気の中で全く影響を受けていないとは……面白いわ。連れて帰りましょう、藍。この子に興味が湧いたわ」

 

「はっ!」

 

そう言うと紫はゆっくりと倒れている少年に近づき、その顔を覗き込んだ。苦痛に歪んだその顔には、まだ若さが残っている。閉じられた瞼の下には、一体どんな瞳が隠されているのだろうか。

 紫の提案に藍はすぐに了承し、意識のない彼を抱き上げようとした。その時、彼の背中の紋様が、微かに脈打ったように見えた――。

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 八雲紫と藍は、意識を失った彼を八雲邸へと運び込んだ。そこは誰も場所を知らない特別な場所だった。ふかふかの布団に寝かされた彼の身体は、未だ熱を持っている。藍は手際よく傷口を清め、薬草を調合して手当てを施していく。そして時折、眠り顔を興味深そうに眺めていた。特にその鍛え上げられた肉体と、背中に浮かび上がる奇妙な電紋に目を惹かれているようだった。

 

 一方、彼の意識は深い闇の中を彷徨い続けていた。光も音もない、ただただ広がる茫漠とした空間。彼は自分が誰なのか、どこにいるのか、全く理解できなかった。断片的に浮かぶのは、激しい痛みと、何か大切なものを失ったような、胸を引き裂かれるような感覚だけだった。

 

(俺は……一体……)

 

声にならない叫びが、暗闇の中に虚しく消えていく。伸ばした手は何も掴めず、足元はどこまでも続いているように思えた。時折、脳裏に鮮烈な光景が蘇る。燃え盛る炎、力強い誰かの背中、そして女の悲痛な叫び声。しかし、それらの記憶はまるで幻のように曖昧で、掴もうとすればするほど指の間から零れ落ちていった。

 

 どれほどの時間が経ったのだろうか。永遠にも感じられるほどの彷徨いの後、妙な温かみを顔に感じた。意識の淵から微かな光が差し込んできた。ゆっくりと瞼を開けると、見慣れない天井がぼやけて視界に映る。身体にはまだ倦怠感が残っているものの、激しい痛みは幾分和らいでいた。

 

「気が付いたか」

 

静かな声が聞こえ、少年はそちらに顔を向けた。そこに座っていたのは、あの九尾の尻尾を持つ凛とした女性――八雲藍だった。

 

「ここは……?」

 

掠れた声で問いかける少年に、藍は冷静に答えた。「ここは幻想郷。お前が倒れていたのは、魔法の森の中だ」

 

「幻想…郷……?」

 

聞いたことのない名前に、彼は訝しげな表情を浮かべた。その時、障子の向こうから明るい声が聞こえてきた。

 

「あらあら、起きたのね」

 

姿を現したのは、紫色の着物を優雅に纏った八雲紫だった。傍らには、可愛らしい猫又の橙が控えている。

 

「私は八雲紫。そしてこちらは私の式神の藍に、更にその式神の橙よ」

 

「藍だ、よろしく」

 

「橙です、よろしくお願いします~♪」

 

にこやかに微笑む紫に促され、彼も自己紹介をしようとしたが、言葉に詰まってしまった。自分の名前が、どうしても思い出せないのだ。

 

「……すみません、自分の名前が思い出せないんです」

 

戸惑いを隠せない少年に、紫は気にする様子もなく言った。

 

「あらまあ。記憶喪失……というわけね。何か、覚えていることはあるかしら?」

 

少年は懸命に記憶の糸を辿ろうとした。断片的な映像や感覚は蘇るものの、自分の名前だけがどうしても思い出せない。

 

「……『イナバ』、という音だけ……かすかに覚えているような気がします」

 

「イナバ!?まさか……月の民でしょうか?」

 

「う~ん、彼女たちとはまた違う気がするのよね」

 

紫は顎に手を当てて、しばらく思案した後、「うん」と頷いた。

 

「名前がないと、何かと不便でしょ?思い出せるまでの間、別の名前を使うことにしましょう」

 

そして、少年をじっと見つめ、最初に会った時の印象を思い起こした。

 

「そうね……貴方、特徴的な剣を持っているわね。それに何となく獅子のような、妙な威圧感もあった。……そうね、『いなば』という音も覚えているようだし……」

 

紫は扇子で口元を隠し、妖艶な笑みを浮かべた。

 

「今日から貴方の名前は、『稲羽剣獅(いなばけんし)』、これでどうかしら?」

 

安直だが新しく与えられた名前に剣獅は頬を紅潮させたが、反対する理由も見当たらなかった。

 

「……ありがとうございます」

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