ーー八雲邸
魔理沙との弾幕勝負から数日後のこと。八雲邸の庭では剣獅が竹刀を手に、流れるような素振りで汗を流していた。その動きには一切の淀みがなく、まるで呼吸をするかのように自然体だ。彼は特に用事がなければ、毎日欠かさず稽古に励んでいた。
その様子を縁側から紫と藍が呆れたような、しかしどこか微笑ましい眼差しで見つめていた。
「はぁっ!ふっ!」
竹刀を振る剣獅の気合の音が、庭に響く。
「毎日毎日……本当によく飽きないものね、あの子は」
紫が扇子で口元を隠し、ふわりと呟いた。
「はい。それでいて家事も毎回手を抜かずに手伝ってくれますし、その体力は底知れません」
藍が丁寧に言葉を紡ぐ。
「そうね、でもあの年ならもう少し遊びまわってもいいくらいなのよ」
「それは同感です」
藍もまた、剣獅の生真面目さに感心しているようだった。
「空いた時間は素振りか瞑想……私とお茶もしてくれないのよ」シクシク
紫はわざとらしく袖で目元を覆い、悲劇のヒロインを演じるかのように嘆いてみせた。
「私とは偶にしますよ?」
藍の何気ない一言に、紫は目を丸くした。
「えぇっ!?」
しれっと明かされた衝撃の事実に、紫はショックのあまり言葉を失っている。そんな彼女に藍は容赦ない言葉で追撃した。
「間が悪いんですよ、紫様は」
「……後で、私から誘ってみるわ」
紫が悔しそうに次の計画を練り始めたその時、剣獅の声が庭から聞こえてきた。
「ふぅ……今日はこのくらいにするか」
素振りを終え、大きく伸びをする剣獅。その傍に藍がそっと歩み寄り、冷たいタオルを差し出した。
「剣獅」
「藍さん、ありがとうございます」
剣獅は額から流れ落ちる汗を丁寧に拭いながら、藍に礼を言った。
「今日の午後は何か予定があるのか?」
「特に予定はないですね」
「ならば、また橙の遊び相手をしてやってくれないか?」
その提案に、剣獅は快く頷いた。
「分かりました」
剣獅はすぐに風呂で汗を洗い流し昼食を済ませると、楽しそうに駆け回る橙と共に八雲邸を出て行った。紫がお茶に誘おうと声をかけた時には、既にその姿はどこにもなかった。
「剣獅~?それじゃ一緒にお茶しましょ……て、あら?」
呆然と立ち尽くす紫に、藍が申し訳なさそうに告げる。
「剣獅なら橙と人里に行きましたよ?」
「……(゚Д゚ )」
紫はまるで石になったかのように固まってしまった。その顔には深い絶望の色が浮かんでいる。
「……申し訳ありません」
剣獅の外出を促した藍は、紫の反応を見て静かに頭を下げた。
◇◇◇◇◇
ーー人間の里
人里の賑やかな通りを、橙がぴょんぴょんと跳ねるように楽しげに歩いている。その小さな後ろ姿を、剣獅は穏やかな眼差しで見守っていた。両脇に並ぶ店々からは、香ばしい匂いや活気ある声が漏れ聞こえ、行き交う人々の表情も明るい。
「お兄さん!今日はどこ行きます?」
橙の問いに剣獅はどうしたものかと思案する。その時、視界の端に人だかりを見つけた。子供たちの甲高い声がひときわ大きく響いている。
「そうだな……ん?あれは何だ、お芝居でもやっているのか?」
橙は目を輝かせた。
「あ!アリスさんの人形劇ですね!」
「アリスさん?」
剣獅の問いに、橙は得意げに胸を張った。
「魔法の森に住んでる人形使いさんですよ、面白いのでちょっと見ていきましょう♪」
橙の言葉に剣獅も興味を引かれた。
「そうだな、見てみようか」
橙に手を引かれるまま、人形劇が催されている場所へと向かった。そこには目を輝かせた子供たちが最前列に陣取り、今か今かと劇の始まりを待ちわびていた。彼らの小さな背中からは、純粋な期待感がひしひしと伝わってくる。
「人形使いのお姉さん、早く見せて~!」
子供たちの期待がひしひしと伝わってくる。アリスという女性は、その純粋な熱意に応えるかのように優しい笑顔で対応していた。
「ええ、もうすぐ始めるわよ」
準備が整ったのか、それまでざわついていた場がすっと静まり返る。まるで魔法がかかったかのように。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。私、アリス・マーガトロイドがお送りする人形劇の時間です。退屈させませんから、最後までどうぞご覧になっていってくださいね」
アリスの澄んだ声が辺りに響く。彼女の合図で、可愛らしい人形たちがぴょこぴょこと動き出し、子供たちに愛らしく挨拶をする。数体の人形がまるでアリスの小さな分身のように、彼女の隣に整列した。
「今日はこの幻想郷にずっと昔から伝わる、少々不思議な物語をお話ししましょうか。さあ、始まり始まり……」
物語が始まると、子供役の人形たちが楽しそうに野原を駆け回ったり、真面目に畑仕事に精を出したりする様子が、精巧な動きで再現されていく。
「昔々、人里の片隅でこんな噂が密かに囁かれていました。――『この幻想郷のどこかに、人々がその存在を忘れてしまったけれど、実はとてつもない力を秘めた失われた秘宝が眠っている』、と」
秘宝。その言葉は子供たちの純粋な好奇心を強く刺激したのだろう。皆、目を輝かせながら物語の展開に引き込まれていく。
「その噂を聞いた上海と蓬莱は、その秘宝を探す旅に出るのでした――――」
◇◇◇◇◇◇◇◇
「――――木箱の蓋を開けた途端、中から優しい光があふれ出しました!そして、その光の中に映し出されたのは………」
子供たちは物語の核心に、息を飲むように見入っていた。誰もが身を乗り出し、生唾を飲み込む音が聞こえてきそうなほどだ。
「みんなが笑顔で手を取り合っている姿……人里で楽しそうにお祭りを開いている姿……そして、幻想郷の美しい四季の風景でした!」
上海人形と蓬莱人形は、顔を見合わせて微笑み合った。その表情は感情を持った人間そのもののように、温かく、そして愛おしい。
「そう、秘宝の正体は、豪華な宝物でも強力な武器でもありませんでした。それは、幻想郷に暮らす皆の『笑顔』と『美しい自然そのもの』だったのです!二人は秘宝が本当に伝えたかったことに気づきました。本当に大切なものは目に見える形ではなく、心の中に、そしてみんなとの繋がりの中にいつもあったと」
物語が進むにつれて、子供たちの顔に自然と温かい笑顔が宿っていく。彼らの瞳は輝きを増し、人形たちの物語に心から共感しているのが見て取れた。
「そして二人は人里に戻り、この冒険で学んだことを皆に伝えました。そうして人里は以前にも増して笑顔と活気に満ち溢れ、幻想郷にはさらに深く、温かい絆が生まれたのです!」
アリスと全ての人形たちが、子供たちに向かって深々と頭を下げた。
「これで、今日の物語はおしまいです。どうでした?楽しんでもらえましたか?」
「面白かったー♪」
子供たちの元気な声が、空気に溶けていく。
「この物語が皆さんの心に、ちょっぴり温かい気持ちを残せたら嬉しいです。それではまた次の機会に、素晴らしい物語をお届けします!ありがとうございました!」
「シャンハーイ♪」
「ホウラーイ♪」
アリスが深々と頭を下げると、上海人形と蓬莱人形も愛らしくぺこりと頭を下げた。そして子供たちからの大きな拍手が嵐のように沸き起こった。
子供たちが散っていくと、橙が弾むような足取りでアリスのもとへ駆け寄った。
「今日も面白かったです!アリスさん!」
「あら?橙、ありがとう♪……それと、見ない顔ね?」
アリスは橙の隣に立つ剣獅に目を向けた。その瞳には穏やかな好奇心が宿っている。
「稲羽剣獅です。最近幻想入りしまして、今は紫さんのところでお世話になってます」
剣獅はアリスに対し、礼儀正しく自己紹介をしながら頭を下げた。その立ち居振る舞いは、記憶を失っているとはいえ育ちの良さを感じさせた。
「八雲紫の家!?……ま、まぁいいわ。私はアリス・マーガトロイド。よろしくね」
剣獅が八雲家で世話になっていることに、アリスはやはり驚きを隠せないようだった。紫が誰かを家に住まわせるというのは、よほどのことなのだろう。アリスの顔には一瞬、複雑な表情が浮かんだ。
「よろしくお願いします、アリスさん」
「アリスでいいわよ。敬語も要らないから、気楽に話してちょうだい♪」
剣獅の丁寧すぎる言葉遣いにアリスは思わず微笑んだ。その微笑みは、人里の温かい陽光に溶け込むようだった。
「分かった。よろしくな、アリス」
「ええ、よろしくね」
「えっと……魔法の森に住んでるんだっけ?」
剣獅の問いにアリスは頷いた。
「そうよ、橙から聞いたの?」
「ああ。魔法の森に住んでるってことは魔理沙とも知り合いなのか?」
「ええ、腐れ縁ね。あなたは魔理沙とどこで知り合ったの?」
「先日博麗神社で霊夢に弾幕について教えてもらってたら、乱入してきて勝負を挑まれた」
「あはは……それは災難だったわね。大丈夫だった?」
その話を聞いてアリスは苦笑いを浮かべた。
「まぁ、なんとか」
剣獅の言葉に、アリスは安堵の息を漏らした。
「よかった。魔理沙は弾幕勝負が好きすぎて誰彼構わず勝負を仕掛けるし、無駄に火力も高いから心配なのよ……」
「はは……確かに」
剣獅は先日の勝負の光景を思い出し、苦笑いを浮かべた。
「ところで今日は里に何しに来たの?」
「藍さんに橙のお守りを頼まれたんだ」
「私もう子供じゃないです!」
剣獅の言葉に、橙は頬を膨らませて抗議する。
「でも危なっかしいんだと」
その言葉に橙はさらに頬を膨らませた。口元をムッと結び、不満を露わにしている。
「む~~!」
「まぁまぁ……後で何か食べに行こう?」
剣獅が宥めるように橙の頭を優しく撫でた。すると橙の表情は途端に晴れやかになり、満面の笑顔になった。
「行きます!」
「ちょろい」
思わず心の内が漏れた。
「それじゃあ、私は少し用があるから帰るわね」
アリスはそう言うと魔法の森の方向へと足を向けた。その背後には、人形劇の余韻を残した子供たちの笑い声が、まだ微かに聞こえていた。
「ああ、またな」
剣獅が手を振ると、アリスは振り返り優しく微笑んだ。
「ええ、また今度人形劇やるから里に来たら是非見てって」
「ああ、そうするよ」
アリスを見送った剣獅は、橙と手を繋いだ。橙の小さな手が、彼の大きな手にすっぽりと収まる。
「橙、行こうか。蕎麦でも食べに行くか?」
「はい♪」
橙は満面の笑みで答えた。その声は春の陽気のように朗らかだった。