ーー数か月後
八雲邸の広間には紫の上機嫌な、鈴が転がるような高い声が弾んでいた。その呼び声に剣獅はすぐに返事を返す。
「剣獅~、一緒にお茶しましょ~♪」
「はーい、今行きまーす」
(……やれやれ)
その様子を横目で見ていた藍は深いため息を一つ、諦めにも似た表情で紫に問いかけた。
「紫様。剣獅のこと、監視の役目を忘れて普通に可愛がっていらっしゃいませんか?」
紫はふわりと扇子で口元を隠し、悪戯っぽい笑みを浮かべた。その眼差しは子を慈しむ親のような温かさを帯びている。
「そうね。あの子はもう私の家族同然……でも、気に入っているのは貴女もでしょ?」
「そ、それは……はい」
藍は図星を突かれ、頬の端まで赤く染めた。そこへ足音も軽く剣獅が姿を見せる。
「あ、藍さんもご一緒ですか?」
「あぁ……」
三人は上質な茶をゆっくりと啜った。窓の外では広々とした庭を橙が無邪気に蝶を追いかけている。その姿を彼らは穏やかな眼差しで見守った。茶葉の芳醇な香りが、縁側に漂う
穏やかな
「じゃあ、人里行ってきます」
「ええ、気をつけていってらっしゃい」
剣獅を見送った紫は、昼寝をしようと寝室へ向かおうと身を翻した。しかし、その背中に藍の声が届く。
「……紫様、よろしいのでしょうか?」
紫は振り返らず、問い返す。
「何のことかしら?」
「剣獅の沓ですよ」
紫の背中で、微かに肩が揺れた。
「ああ……あれは驚いたわね。まさか、『境界を無視する沓』だなんて」
剣獅が普段から履いている下駄のような沓には、想像を絶する力が宿っている。それは地面と空、家屋と外界といった物理的な境目だけでなく、紫の生み出す「スキマ」の奥深くまで、あるいは厳重な結界の内外をも自由に行き来できる、まさに「境界」という概念を無効化する能力を秘めているのだ。
「悪用されたら大変なことになりますよ」
藍の言葉には確かな懸念がにじんでいた。その声は、一歩間違えれば幻想郷の秩序を揺るがしかねない力への切実な不安を物語る。
「剣獅なら悪用はしないと思うわ」
紫の瞳には揺るぎない確信が宿っていた。彼女はもはや剣獅を「監視対象」としてではなく、「息子」として、その選択を信じている。その信頼の光が揺らぐことはない。
「それはそうでしょうけど……」
「心配?」
藍はわずかに視線を伏せた。
「……剣獅のことは信用してます。でも、故意ではないにしても、うっかりということも……」
「その時はその時で、対処するわ。それも含めての監視だもの」
紫の言葉は有無を言わせぬ響きを持っていた。それは彼女が全てを掌握しているかのような、絶対的な自信に満ちている。
「……分かりました」
藍は完全に納得しきれない部分も残しつつ、その場は引き下がった。残された部屋には紫の淡い気配がゆったりと漂い、静かに時間が流れていく。
◇◇◇◇◇
ーー人里
人里の活気あふれる通りを、剣獅はゆっくりと歩いていた。道の両脇には様々な店が
「調子はどうかな?
店の中にいた火千代は剣獅の声に振り返ると、その表情に微かな明るさが宿った。顔の輪郭がわずかに和らぐ。
「あ、剣獅。まぁまぁかな……家では居心地悪いからな。ここで鍛冶の本を読んで勉強させてもらってる」
火千代の言葉に促され、剣獅は店の中を見渡した。壁一面に広がる本棚には、隙間なくびっしりと本が詰まっている。その背表紙は歴史書のような重厚なものから挿絵が描かれた物語まで、実に多種多様だった。本の醸し出す独特の香りが店内に満ちている。
「へぇ……いろんな本があるんだな」
その多様さに感心の声を漏らした瞬間、背後から澄んだ声が聞こえてきた。
「はい、種類の多さには自信があります」
声のした方に目を向けると、飴色の髪が肩で揺れる愛らしい少女が立っていた。彼女の目元は好奇心に輝いている。
「君は?」
少女はにこやかに微笑んだ。
「私は
どうやらこの店の看板娘のようだ。
「俺は稲羽剣獅だよ。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします!」
小鈴は丁寧に頭を下げた。その動きは若さの中に品の良さを感じさせる。
「ここは貸本屋なのか?」
剣獅が尋ねると、小鈴は胸を張って答えた。その声には自身の店への誇りが込められている。
「はい、色んなジャンルがあるので見ていってください!」
「そうさせてもらうよ」
剣獅は本棚の間をゆっくりと歩き始めた。指先で背表紙をなぞっていくと、一冊の古びた本のタイトルが彼の視線を引き留めた。その言葉には、どこか抗えない引力のようなものがあった。
「……『幻想郷縁起』?」
隣にいた小鈴が、ぱっと目を輝かせた。その表情は、まるで宝物を見つけた子供のようだ。
「あ!それ、一度は読むべきですよ!この幻想郷のすべてが詰まっているんですから!」
「へぇ、何が書いてあるんだ?」
「この幻想郷に住む妖怪について書いてあります。あとは……妖怪たちが起こした異変についてとか」
「じゃあ、霊夢や魔理沙のことも書いてあるのか」
「はい、もちろん!彼女たちの活躍も詳しく記されていますよ。なので、何か有事が起きた際の相談先を紹介する目的もあるんです」
「なるほど」
剣獅は本を開き、少しだけ中を読み進めてみた。古びた紙の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。そこに記された歴史の重みが、指先を通して伝わってくるようだった。
「紅霧異変、春雪異変、永夜異変……ほんとに色々解決してきたんだな」
「はい。皆さん、本当に頼りになる方々です」
小鈴の言葉には心からの尊敬が込められていた。その声は、幻想郷の英雄たちへの純粋な称賛に満ちている。
「これ、借りてもいいか?」
「はい、どうぞ!」
小鈴は快く頷いた。
「お代は?」
「お返しにいらしてくださった時で大丈夫ですよ」
小鈴の屈託のない笑顔に、剣獅も自然と笑みがこぼれる。その場の空気がふわりと和んだ。
「分かった、それじゃあ」
「またな、剣獅」
火千代の言葉に剣獅は振り返る。彼女の目にはまだ宿題を抱えているような影が見える。
「ああ、また……あ、そうだ。火千代、鍛冶のこと……ご両親にはもう話したのか?」
火千代の表情に、一瞬だけ
「まだ話していない……今度勇気を出して話してみるつもりだ」
「分かった。俺に出来ることがあったら何でも言ってくれ」
「ああ、ありがとう」
火千代は胸の奥に秘めた苦しみを隠すように、ぎこちない苦笑いを浮かべた。その笑みは、悲しみを閉じ込めたガラス細工のように脆い。剣獅はその表情の奥に隠された不安を感じ取ったが、無理に深入りせず、そっと頷いた。彼女の家族が、彼女の能力に対してどのような反応を示すのか、剣獅の胸にもわずかな懸念がよぎった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
ーー博麗神社
剣獅は鈴奈庵を後にし、人里の外れへと続く獣道を辿っていた。足元には踏み固められた土の道が続き、両脇の草木がざわめく。
(……久しぶりに、顔を見に行くかな)
心に浮かんだのは博麗神社の巫女の顔だった。獣道を抜けると、一際目を引く赤い鳥居が青空に向かって力強く伸びていた。鳥居をくぐり境内へ足を踏み入れると、ちょうどその少女はほうきを手に境内を掃き清めているところだった。舞い上がる土埃が午後の光の中でキラキラと輝く。霊夢は剣獅が声をかけるより早く、その気配に気づき静かに振り返った。その眼差しは、既に剣獅の存在を捉えている。
「よう、霊夢」
「いらっしゃい、剣獅。どうしたの?」
霊夢はそっけない挨拶を返しながらも、ほうきを止めて剣獅の方を見た。その態度は慣れ親しんだ友人に対するもののようだ。
「ここ最近行ってなかったから、久しぶりに会いたくなっただけだよ」
「そう。じゃあ、上がりなさい。魔理沙もいるから」
「分かった、ありがとう」
霊夢の言葉に剣獅は迷いなく母屋の方へと歩き出した。
「賽銭は忘れないでね?」
背後から飛んできた霊夢の言葉に剣獅は苦笑いを浮かべ、額に手をやった。その言葉には冗談めかした響きがある。
「……(汗)」
「……冗談よ」
霊夢の口元には微かな笑みが浮かんでいた。いつもの仏頂面とは少し異なるものだ。
母屋に入ると縁側には魔理沙、そして神社の狛犬である
「おお、剣獅!お前も来たか!」
魔理沙が朗らかな声で呼びかけた。その声には隠しきれない喜びがにじんでいる。
「剣獅さん、こんにちは♪」
あうんも嬉しそうに尻尾を振った。
「久しぶり。魔理沙、あうん」
剣獅も笑顔で挨拶を返す。
「なんだ?私と弾幕勝負しに来たのか?」
魔理沙の言葉に剣獅は呆れたように首を振る。
「そんなわけないだろ……」
「魔理沙さん、そればっかりですね……」
あうんも呆れた顔で魔理沙を見つめた。
「剣獅……あんた、もしかして毎日鍛錬してるの?」
霊夢が剣獅の引き締まった体を見て問いかけた。
「まぁな。汗を流すのは良いもんだよ」
剣獅の言葉に、霊夢は少しだけ顔をしかめた。
「……妖夢や
「誰?」
「今度紹介するわ、両方人外だけど」
魔理沙が別の話題を口にした。彼女の表情に、それまでの軽快なものから少しだけ真剣な響きを帯びる。
「そういえば鍛冶の方はどうなったんだ?」
その言葉に剣獅の表情が僅かに曇った。彼の視線は遠くを見つめるように彷徨う。
「それが……」
剣獅は数カ月前の人里での出来事を話し始めた。剣獅が人里の鍛冶屋で働くお願いに行ったところ、自身と同じように鍛冶師を志す少女、火千代と出会ったこと、その火千代が頭を下げてお願いしたが最後、店主が火千代に暴力を振るったこと、ここで働くのは無理だと判断し、自身で鍛冶屋を立ち上げることにした経緯を全て正直に話した。一連の流れを聞いた魔理沙たちはみるみるうちに顔を不快そうに歪ませた。その表情には怒りと嫌悪が入り混じっている。
「ひでぇな……あの鍛冶屋のオヤジそこまでやんのかよ」
魔理沙が吐き捨てるように言った。
「その子なら人里で会ったことあるわよ。慧音みたいな喋り方の子よね?」
霊夢の言葉に、剣獅はハッとしたように頷いた。
「慧音……ああ、寺子屋の先生か。そうだな同じ喋り方だ」
「それでどうすんだ?やっぱり自分の店を出すのか?」
魔理沙が問いかける。その視線は剣獅の覚悟を問うている。
「そうだな。一旦、紫さんの支援を受けさせてもらうよ」
剣獅は少しだけ重い口調で答えた。
「それがいいな」
魔理沙は納得したように深く頷いた。彼女の表情は剣獅の決断を尊重していることを物語る。