ロストメモリーズ ~ 幻想郷に舞う剣の影 ~   作:姉川京

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第14話「3年後に向けて・その3」

 夜の(とばり)が色濃く降りる中、火千代は八意永琳、そしてその傍らに控える鈴仙と共に、人里への道を急いでいた。まるで深淵に吸い込まれるかのように、彼女の心に長く秘められていた苦しみが、微かな震えを伴う声となってこぼれ始めた。自分が人間離れしたあまりに危険な能力を持つこと。その力が、幼い身には到底制御しきれないほどに強大であること。その異質な力のせいで、家では“妖怪の子”と罵られ、まるで忌み嫌うべき存在のように扱われた日々。些細な不幸さえすべて彼女のせいだと決めつけられ、その度に食事を抜かれ、時には身体に痛みすら刻まれたこと……。

 

 少女が紡ぎ出す言葉の断片は、永琳と鈴仙の胸に深く突き刺さり、その場には張り詰めた静寂が満ちた。二人の顔には言葉では言い表せないほどの衝撃と、拭い去れない悲哀の影が色濃く浮かんでいる。

 

「そ、そんなことが……」

 

鈴仙の細い声が夜の静寂に震えた。

 

「……酷い話ね」

 

永琳もまた、普段の冷静な表情をわずかに崩し、深い(うれ)いを眉間に刻んだ。だが、彼女はすぐに平静を取り戻すと、火千代に穏やかな声音で問いかけた。

 

「それで……なんで里の医者じゃなくてわざわざ永遠亭(私たち)を頼ったのかしら?」

 

火千代はその問いに、視線を地面に落とした。月明かりさえも届かぬかのような深い悲しみが、彼女の小さな背中から滲み出ている。

 

「……里の医者も、親と同じ考えを持ってるんだ」

 

その告白に永琳の表情が僅かに険しくなった。彼女はゆっくりと火千代の頭に手を伸ばした。その手は、まるで傷ついた雛鳥を包み込むかのように優しく、そして確かに温かかった。

 

「なるほどね……今までよく頑張ったわ」

 

その手から伝わる温もりが、火千代の固く閉ざされた心の扉を微かに揺らした。彼女の瞳から、一筋の雫が静かに頬を伝い落ちた。

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

ーー人間の里・鋼塚家

 

 

 夜の闇が人里全体を静かに包み込んだ頃、鋼塚家の古びた引き戸に、コンコンと控えめな音が響いた。

 

「はい、どちら様でしょう?」

 

いら立ちを隠しきれない声と共に、火千代の母親が戸の隙間から顔を覗かせた。永琳は月の光を背に、まるで幽玄な絵画のように佇む姿で、静かでありながらも確固たる響きを持つ声で自己紹介と来訪の理由を告げた。

 

「夜分遅くに失礼いたします。私は永遠亭の薬師、八意永琳と申します。お父様の御容態を確認に参りました」

 

「あー……火千代が呼んだのですね。わざわざ永遠亭まで?」

 

母親は、まるで面倒事を押し付けられたかのように顔を歪めた。

 

「事情がおありのようでしたので」

 

永琳は簡潔に答えた。

 

「なんでもいいですけど……主人なら既に回復しましたよ?」

 

母親の言葉には、永琳たちの存在すら(わずら)わしいとでも言いたげな響きが色濃く漂っていた。そしてその言葉は火千代の胸に衝撃を与えた。安堵と戸惑いが入り混じった、震えるような声が彼女の唇からこぼれる。

 

「え?」

 

「火千代が出ていってしばらくしてかしら……先程の苦しみが嘘のように治まりましたの、ほら」

 

母親は冷たい眼差しで半ば呆れたように言い放った。その背後の居間には、何事もなかったかのように新聞を読む父親の姿が見えた。その光景を目にした火千代の顔から一瞬で血の気が失せた。絶望と裏切りが入り混じった表情が、彼女の顔に浮かび上がる。

 

「そ、そんな……」

 

しかし、永琳はその父親の姿を万年の経験と知識で培われた、冷静かつ鋭利な眼光でじっと見据えていた。彼女の瞳は表面的な回復の裏に隠された真実を、既に見抜いているかのようだった。

 

「……」

 

「やっぱりあの子が主人を殺そうとしたんですわ……普段の腹いせかしら。これまで何度か不運なことがありましたが、全部あの子が招いたことですが」

 

母親の言葉は氷のように冷たく、そこには親の愛情の欠片もなかった。その理不尽な言葉の刃に、鈴仙の表情が激しい怒りに染まった。

 

「あなた……言って良いことと悪いことが!!」

 

「あなたには関係ありません。火千代はウチにいてはいけないんですよ」

 

母親は鈴仙に一瞥(いちべつ)もくれず、まるで不要なものを排除するかのように言い放った。

 

「!!」

 

火千代の心臓が、まるで鋭利な氷の塊に締め付けられたかのように軋んだ。この場に留まることは、もはや彼女の精神が耐えられる限界を超えていた。彼女は声もなく、ただ静かにその場を走り出し、夜の深い闇へと吸い込まれていった。その小さな背中には、誰も追いつけないほどの深い絶望がまとわりついていた。

 

「……」

 

永琳の瞳には、静かでありながらも底知れない怒りが宿っていた。その視線は冷酷な母親の心臓を貫くかのように鋭かった。鈴仙は火千代が消えたことに気づき、慌てて声を上げた。

 

「あれ、火千代ちゃん!?」

 

「人里にいられると迷惑なんですよ。あの子は妖怪の子ですからね……妖怪の山なら居場所が見つかるんじゃないかしら?妖怪に食べられるかもしれませんが……まぁ、私たちにはもう関係のないことです」

 

母親の言葉は吐き捨てるように冷酷で、鈴仙の耳に届いた瞬間、再び彼女の顔に激しい怒りが浮かび上がった。その時だ。

 

「ちょっといい加減に…!!」

 

ーーパァンッ!

 

乾いた音が夜の静寂を切り裂いた。

 

「!?」

 

母親が驚愕に目を見開く中、永琳の掌が母親の頬を強く打ちつけたのだ。その音は周囲の空気を震わせるほど鮮烈に響き渡った。

 

「何をするんですか!?」

 

驚きに固まる母親をよそに、永琳は鈴仙にだけ聞こえるような低い声で囁いた。

 

「ウドンゲ、あなたは火千代ちゃんを探しに行きなさい……」ボソッ

 

「は、はい!」

 

鈴仙は永琳の表情に宿る尋常ならざる怒気を察し、迷うことなく火千代の消えた夜闇へと駆け出していった。

 

 永琳は母親へと向き直った。その瞳は鋭く、まるで獲物を射抜く猛禽のようだ。そしてこれまで抑え込んでいた怒りの感情を、魂を揺さぶるような絶叫に変えた。

 

「……あなた、さっきから黙って聞いていれば、とても親とは思えない言葉ばかり口にするのね……! 親ならば子の苦しみに寄り添うものなのに、あなたはあの子をただ蔑み罵倒するだけ……恥を知りなさい!!」

 

しかし、永琳の魂を込めた言葉も母親の凍りついた心には届かなかった。母親はただ、侮辱されたことに対する怒りを露わにするばかりだった。

 

「何故赤の他人のあなたにそこまで言われなくちゃいけないんですか……もう用はないんです。帰ってください!!」

 

「ええ、言われなくともここへは二度と来ません。……それと、お父様の御容態はしっかりと調べることを勧めます」

 

永琳の最後の言葉には、全てを見透かすような深い警告の響きがあった。

 

「余計なお世話です!」

 

しかし母親はただそう吐き捨て、勢いよく戸を閉めて永琳の姿を闇の中に閉じ込めた。

 

「ほんと、胸糞悪いわね……」

 

永琳は固く閉ざされた戸をじっと見つめていた。その表情には深い諦めと、そして人間の愚かさに対する嫌悪が滲んでいる。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 火千代は既に人間の里の外れまで来ていた。街灯の光も届かない、漆黒の闇が彼女の小さな体を包み込む。この時間になれば人間を襲う妖怪が活発になることを、彼女は知っているはずだった。しかしその恐怖さえも霞むほど、彼女の瞳からはそれまで固く閉じ込めていた熱い涙が、(せき)を切ったように溢れ出した。

 

「あたしっ…あた…し……うぅ…うぇぇぇぇぇぇん!!!!」

 

その叫びは夜の闇に吸い込まれていく。その嗚咽が消えぬうちに、すぐ後ろから鈴仙の焦燥に満ちた声が聞こえた。

 

「火千代ちゃ~ん!?」

 

本来ならば、この温かい声に迷わず助けを求めるべきだったろう。しかし今の火千代には、その気力すら残っていなかった。もし鈴仙と共にいれば、またあの地獄のような家へ連れ戻されてしまうかもしれないという恐怖が、彼女の心を支配していたからだ。

 

「!」

 

火千代は鈴仙の追跡を振り切るかのように、再び静かに走り出した。彼女の小さな体は夜の闇へと、さらに深く消えていった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

ーー八雲邸

 

 丁度、風呂から上がったばかりの剣獅の全身を、突然言いようのない悪寒が駆け抜けた。彼の背筋を冷たい雫が伝い、皮膚が粟立(あわだ)つ。その異様な様子を見かねた紫が、優雅な仕草で彼に問いかけた。

 

「剣獅?どうしたの?」

 

「いや……何か胸騒ぎが」

 

剣獅の声には、明確な不安が滲んでいた。隣にいた藍は冷静な表情で首を傾げた。

 

「気のせいじゃないのか?」

 

しかし、剣獅の胸に湧き上がる予感は、理屈では拭い去れるものではなかった。彼は拭えない不安の原因を探ろうと、居住まいを正し静かに立ち上がった。

 

「……ちょっと出てきます」

 

「こんな時間に?」

 

「嫌な予感がするんです、行かせてください」

 

剣獅の瞳には固い決意が宿っていた。紫は一瞬、彼の瞳をじっと見つめた後、小さく息を吐いた。

 

「……分かったわ。朝までには戻ってくるのよ」

 

紫の冗談めいた言葉に、剣獅は無理に口角を上げた。

 

「流石に戻ってきますよ」

 

そして彼の姿は瞬く間に、夜闇の中に溶けるように消えた。

 

 

 

ーー人間の里

 

 

 

 永琳は人里の寺子屋の教師であり、自警団のリーダーでもある上白沢慧音に火千代の捜索への協力を仰いでいた。月明かりの下、二人の表情は真剣だった。

 

「……事情は分かった。私も探そう」

 

慧音は、火千代の置かれた状況に胸を痛めながら力強く頷いた。

 

「迷惑かけるわね」

 

永琳がそう言うと、慧音は軽く手を振った。

 

「何、気にするな。それにしても……鋼塚家、そんなことまでしていたのか」

 

「火千代ちゃんを知ってるの?」

 

「まぁ、前に少し話した程度だがな。まともな生活をさせてもらえてないようだから、話を聞こうとしたんだ。だけど、ただ苦笑いを浮かべて誤魔化されたよ」

 

慧音の言葉には、過去の無力感と後悔が滲んでいた。

 

「家には行ったの?」

 

「一度だけな。はぐらかされたがな」

 

「……そう」

 

永琳は、やはり鋼塚家の問題が根深いことを改めて認識した。

 

「とりあえず、自警団の者にも協力してもらう」

 

慧音は力強く言った。

 

「お願いね」

 

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