ロストメモリーズ ~ 幻想郷に舞う剣の影 ~   作:姉川京

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第20話「最初の一歩」

 看板を掲げてから数日。人間の里の目抜き通りから少し外れた場所に位置する『稲羽鍛冶屋』を訪れる者は、まだ一人もいなかった。

 

 里には古くから「松江鍛冶屋」という老舗がある。店主の松江源次(まつえ げんじ)は、かつて火千代を殴りつけて門前払いした男だ。口が悪く気性も荒いが、その腕前だけは確かであり、里の人々は「鍛冶仕事ならあそこしかない」と信じ込んでいる。まだ新しく、実績も名声もない若造が始めた店に、大切な家財道具を預けようという奇特な人間は、そう簡単には現れなかった。

 

「……今日も、風が通るだけだね」

 

火千代が手持ち無沙汰にふいごの点検をしながら、小さく苦笑した。三年前の彼女なら、客が来ないことに絶望していたかもしれない。だが、今の彼女は違う。剣獅の隣で静かに牙を研ぐような、落ち着いた強さがある。

 

「ごめんね、剣獅。私がもっと宣伝すればよかったかな」

 

火千代が申し訳なさそうに視線を落とす。彼女は、かつての自分の不吉な噂が店に影を落としているのではないかと、心のどこかで危惧していた。

 

「まぁそう焦るなよ。まずはこの静けさを楽しもうよ。本格的に忙しくなったら、今の時間が恋しくなるはずだ」

 

剣獅は作業台で槌を磨きながら、余裕の笑みを返した。その時、店の入り口に垂らした暖簾が大きく揺れた。

 

「……あら、今日は休業日かしら?」

 

現れたのは、紅白の巫女装束を纏った博麗霊夢だった。彼女は面倒そうに後頭部を掻きながら、包みに包まれた細長い何かを作業台の上に置いた。

 

「霊夢じゃないか。どうしたんだ? 賽銭箱の鍵でも壊れたか?」

 

「縁起でもないこと言わないでよ。……ほら、これ。ウチで使ってる料理包丁。最近、刃がなくなったみたいに全然切れないのよ。魔理沙に変な魔法薬を勧められる前に、誰かさんに押し付けようと思って」

 

ぶっきらぼうな言い草だったが、剣獅はその包みを手にした瞬間、彼女なりの「祝儀」であることを察した。わざわざ山を降りて、実績のない自分の店に最初の仕事を運んできてくれたのだ。

 

「分かった、最高の切れ味にするよ。……火千代、水を用意してくれ」

 

「はい!」

 

剣獅は鍛冶の仕事では、あえて「再生の能力」を使わなかった。能力や神力に頼らず、職人としての純粋な技術だけで応えることが、霊夢の気遣いに対する礼儀だと思ったからだ。

 

――シャリ……シャリ…

 

一定のリズムで砥石と刃が擦れる音が響く。剣獅の指先は、刃のわずかな歪みや欠けを、まるで見えているかのように正確に捉えていた。

 

――――シュッ…シュッ……

 

数十分後、差し出された包丁は、窓から差し込む陽光を鏡のように反射していた。

 

「……わっ、綺麗ね。新品みたい」

 

霊夢が指の腹で軽く刃に触れようとするのを、剣獅は慌てて止めた。

 

「待って!!……危ないぞ。今のそれは、触れただけで切れるから」

 

試しに用意した吊るした紙に刃を当てると、重みだけでスッと吸い込まれるように切れた。

 

「……ふぅん、やるじゃない。これなら、今夜の晩御飯の準備が少しは楽になりそうね」

 

霊夢は満足げに包丁を受け取ると、数枚の硬貨を机に置き、軽やかな足取りで店を去っていった。それが、稲羽鍛冶屋にとっての「初売り上げ」だった。

 

◇◇◇◇◇◇

 

 霊夢の訪問から数日、店を訪れるのは剣獅を知る身内や友人たちばかりだった。

 

「剣獅、頑張っているな」

 

と、藍が八雲家の御用達として包丁の予備を預けに来たり、薬を売りに里へ来た鈴仙・優曇華院・イナバが、「永遠亭の包丁やメスも研いでほしいってお師匠様からです」と、重い荷物を抱えてやってきた。

 

友人たちの助けはありがたかった。だが、肝心の「里の一般客」は遠巻きに店を眺めるだけで、決して敷居を跨ごうとはしない。職人にとって、「実績」という壁は想像以上に高かった。

 

向かいの通りでは、松江鍛冶屋の騒がしい槌音と、店主の怒鳴り声のような活気が聞こえてくる。

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

「……火千代。そろそろ、こっちから動くか」

 

 数日が過ぎた昼下がり、剣獅は腰を上げた。

 

「動くって、どうするの?」

 

「営業だよ。俺たちがいくら腕を持っていても、それを使ってもらわなきゃ宝の持ち腐れだ」

 

剣獅は火千代を連れて、里の片隅にある行きつけの蕎麦屋へと向かった。

 

「いらっしゃい……あぁ、剣獅かい」

 

暖簾をくぐると、人の良さそうな店主と、その妻が少し疲れた表情で迎えてくれた。剣獅はここの蕎麦が気に入り、人里に来るたびに立ち寄っていた。

 

「親父さん、今日は蕎麦を食べに来たんじゃないんです。……実は、相談がありまして」

 

剣獅は単刀直入に切り出した。

 

「この店の包丁や鍋、最近調子が悪いものはないですか? 魚の身が崩れたり、鍋の熱の通りが偏ったりしてないかと思いまして」

 

店主は一瞬驚いた顔をし、それから申し訳なさそうに視線を逸らした。

 

「……分かるかい。あぁ、実はな。松江の旦那に頼みに行きたいんだが、あそこは今、注文が詰まってて一ヶ月待ちだって言われちまってな。かといって、新しい店に任せるのは……ほら、な?商売道具だし……」

 

「不安なのは分かります。だから、今回はタダでやらせてください」

 

「タダ……?」

 

驚く店主に、剣獅は火千代の肩を叩きながら続けた。

 

「預かった道具を、俺たちが手入れします。出来栄えを見て、もし少しでも気に入らなかったら、一銭も払わなくて構いません。逆に、満足してくれたなら、次からは正式に客として利用してもらえませんか?」

 

店主夫婦は顔を見合わせた。一ヶ月待ちの老舗か、それとも「タダ」という怪しい新参者か。だが、剣獅の濁りのない瞳と、その後ろで静かに控える火千代の凛とした佇まいに、店主は小さく頷いた。

 

「……分かった。あんたを信じてみるよ。これだ、頼む」

 

差し出されたのは、年季の入った巨大な蕎麦切り包丁と、底が歪み始めた大きな鉄鍋だった。

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 預かった道具を工房に持ち帰ると、そこからは「二人」の戦いが始まった。これは単なる修理ではない。稲羽鍛冶屋の未来を賭けた、デモンストレーションだ。

 

「火千代、炉の温度を上げてくれ。この鍋、底の厚みが不均一だ。一度熱して叩き直す必要がある」

 

「はいよ!」

 

火千代は「温度を操る」自らの特有の力を全開にした。以前は恐れていたその力も、今ではふいごの風と調和し、炉の中に理想的な「青白い炎」を生み出している。剣獅は重い大槌を振り上げ、真っ赤に焼けた鍋の底を叩いた。

 

―――ガィンッ…ガィンッ…

 

看板を打ち付けた時よりも遥かに重厚な音が、店の中に響く。火千代が温度を調整し、剣獅が形を成す。その光景は、三年前の絶望の中にいた火千代からは想像もできない、力強く美しい共同作業だった。鉄鍋は歪みが取れるにつれて、濁った音から耳の奥まで浸透するような澄んだ高い音へと変わっていった。

 

―――キィィンッ……チィィンッ……

 

蕎麦切り包丁も、ただ研ぐだけではない。

剣獅は職人の目で、鋼の内部にある微細な不純物の混入箇所を特定した。そこを重点的に叩き出し、地金と刃金の接合部を再加工していく。

 

小傘から教わった「驚かせるための技術」と、剣獅が持つ確かな職人の目の直感が、一つの道具の息を吹き返させていった。

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 翌日。剣獅は約束通り、蕎麦屋へと道具を届けた。

 

「……これが、うちの包丁かい?」

 

店主が包丁を握った瞬間、その表情が固まった。かつて錆びかけていた包丁は、まるで月の光を閉じ込めたような妖しいまでの美しさを放っていた。重さは変わっていないはずなのに、手への馴染みが格段に良くなっている。そして試しに葱を切った瞬間、店主の目が大きく見開かれた。

 

「力が……いらない。吸い込まれるように切れる。それに、切り口がツヤツヤしてやがる」

 

「それに、この鍋……」

 

妻の方が鉄鍋の表面を撫でる。煤は完全に落とされ、熱の伝わり方が劇的に改善されるよう、底面の厚みがミリ単位で均一に調整されていた。表面を指で弾けば、まるで最高級の鐘のような、澄んだ余韻が響く。

 

そして鍋を火にかけ、声を上げた。

 

「あんた、見ておくれよ! お湯が沸くのが早いわ。それに、対流がすごく綺麗……! これ、預ける前よりずっと使いやすいじゃないか!」

 

夫婦は信じられないものを見る目で剣獅と火千代を見た。松江鍛冶屋の仕事も確かだったが、これは次元が違う。道具が、まるで意思を持って「使ってくれ」と叫んでいるかのような、圧倒的な生命力を感じた。

 

「……参ったな、剣獅。この前の()()()って話、取り消させてくれ」

 

「えっ……?」

 

火千代が少し不安げに顔を曇らせたが、店主は満面の笑みでカウンターを叩いた。

 

()()()じゃねぇ。()()()だ! 今日の代金、タダなんて言わせねぇぞ。しっかり受け取ってくれ。……それから、里の知り合いにも触れ回ってやる。腕のいい鍛冶屋が、もう一軒里に現れたってな!」

 

その言葉と共に差し出された報酬は、霊夢の時よりも重く、そして何よりも温かかった。

 

「ありがとうございます!」

 

二人の声が、活気ある蕎麦屋の店内に響いた。

 

「火千代、明日から忙しくなるぞ」

 

「ああ、任せてくれ!」

 

火千代の笑顔は、初夏の太陽よりも眩しく輝いていた。過去の「呪い」を「祝福」に変え、新しい名前「錬峯」を背負った彼女の本当の人生が今、槌音と共に高らかに鳴り響いた。

 

 

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