ーー数日後
茜色の光が障子をじんわりと染め上げ、台所からは出汁と味噌の混ざり合ったどこか懐かしい香りがふわりと漂ってきた。藍は、夕焼け色の光を背に受けながら、慣れた手つきでまな板の上の瑞々しい大根をトントン、と小気味良いリズムで刻んでいる。その隣では、剣獅が湯気を立てる味噌汁の鍋を見つめながら、白い豆腐を慎重に、均等なさいの目に切っていた。二人の足元では、小さな橙がちょこちょこと動き回り、時折鈴を転がすような声で「藍様、今日のご飯は何ですかー?」と問いかけている。
その穏やかな空気を切り裂くように、鋭い金属音が響いたのは、まさにその時だった。
「きゃっ!」
鋭い金属音とともに、藍の小さな叫びが台所に響いた。剣獅が振り返ると藍が左手を抑え、顔をしかめている。床には刃先が欠けた包丁が転がっていた。
「どうしました、藍さん?」
橙も心配そうに、きらきらとした大きな瞳を藍の指先に向けた。「藍様、大丈夫ですか?」と、小さな手が藍の裾を掴む。
「あ、あぁ……ちょっと指を切ってしまった。包丁が割れてな……」
切れた指先からは、赤い血が滲んでいる。
「わぁ……」
「ご、ごめんなさい藍様……私が邪魔をしたから……」ウルウル
橙は大きな瞳に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうだ。
「いや、大丈夫だぞ橙!?これくらいすぐ治る」
「藍さん、手を出してください」
「ん?」
藍は訝しげに怪我をした左手を剣獅に差し出した。剣獅はそっとその指先に自分の手を重ねる。その瞬間、温かい光が微かに灯ったような気がした。それは、ろうそくの火が揺らめくような、淡く優しい光だった。
「!?」
藍は自分の目を大きく見開いた。傷口からの赤い出血が奇跡的に止まり、みるみるうちに、損傷した皮膚が糸を紡ぐように修復されていくのが、彼女の目の前で起こっていたからだ。
「傷がない!」
欠けていた包丁も、まるで時間が巻き戻ったかのように元の形に戻っている。
「……お、包丁も元通りになってるな。これがお前の能力か?」
剣獅は自分の手に目を落とし、不思議そうな表情で答えた。
「能力?」
「幻想郷に住むほとんどの者は“能力”を持っているんだ。例えば私は『式神を操る程度の能力』、橙は……「私は『人を驚かす程度の能力』、あとは式神になってる時は『妖術を扱う程度の能力』も使えますよ!」……うむ、ありがとう橙」
橙は胸を張り、得意げに言った。エヘン!
「なるほど……紫さんは?」
「あの方は次元が違うぞ。『境界を操る程度の能力』を持っている」
「ほぉ……」
剣獅は感心したように呟いた。
「じゃあ僕は『壊れたものを再生する程度の能力』ってところですかね?少し前に物を修理したり、生き物の怪我を治したりできることに気づきまして」
「……そりゃ医者泣かせな能力だな、優秀な回復術ってわけか」
「ただどういうわけか自分の怪我は治せないんですがね」
「ふむ……それは大きな欠点だな」
剣獅は何か遠い記憶を呼び起こすように、目をゆっくりと閉じた。
「ただ……もう一つ能力があるみたいなんです。上手く説明できないんですけど……時々、いろんなものが……妙に『視える』んです」
「二つの能力か?珍しいもんだな」
◇◇◇◇
食卓には、湯気を立てる家庭的な料理が並んでいた。味噌汁の優しい香り、焼かれた魚の香ばしい匂いなどが混ざり合い、温かい雰囲気を作り出している。剣獅は自分の能力について、改めて紫に話していた。
「へぇ~、物を直したり、怪我を治したりできるなんて、ずいぶんと便利な能力じゃない! それでもう一つの、『視える』っていう能力は、一体どんな風に見えるのかしら?」
紫は咀嚼する口元を隠しながら、興味深そうに細い目を輝かせた。
「う~ん……上手く言えないですね。人の感情だったり、物の本質だったり……いろんなものが“視える”んですけど」
剣獅はもどかしそうに頭を掻いた。
その時、藍が静かに口を開いた。
「あ、紫様。あれをお忘れでは?」
「?」
「霊夢に会わせるんですよ。そろそろいいでしょう?」
「……あ!」
(ほんとにこの方は妙なところで抜けてるというかなんというか……)
藍は内心少し呆れていた。
「霊夢というのは?親戚か何かですか?」
「いや、この幻想郷を守る役目を持つ博麗の巫女だ」
藍の声にはわずかながらも重みがあった。
「博麗の……巫女」
「そうだ。幻想郷ではたびたび“異変”と呼ばれる普通でない出来事が起こる。まぁ主に妖怪が起こすんだが……それを解決するのが博麗の巫女であり、その当代が霊夢だ」
「……」
剣獅は何か引っかかるものを感じたが、それが何なのかまだ言葉にできなかった。
「どうした?何か気になることでもあったか?」
「あ、いえ。なんでもないです」
「そうか。幻想入りしたら一度は博麗神社に行くのが決まりでな」
「分かりました」
「ついでに橙と人里で遊んで来たら?少しお金も持たせるから」
紫は懐から数枚の硬貨を取り出して剣獅に差し出した。
「いや、流石に悪いですよ」
「橙も遊びたがってるんだ、相手をしてやってくれ」
藍は紫の言葉に補足するように微笑んだ。
「お兄さん、遊びましょ~♪」
橙はキラキラとした瞳で剣獅を見上げた。可愛らしい小さな手が彼の服の裾を掴んでいる。
「……分かりました!」
剣獅は橙の純粋で真っすぐな瞳に心を打たれ、微笑んで頷いた。