小傘との予期せぬ出会いの後、教えてもらった採取場所はまさに隠れ里のようで、驚くほど大量の上質な砂鉄を手に入れることができた。夕闇が空を覆い始め一番星が瞬きだす頃、別れを惜しむように手を振る小傘を残して再び現れた紫のスキマへと身を滑らせた。
八雲邸に戻ると、家の中からは既に夕食の温かく食欲をそそる匂いが漂ってきていた。障子を開けると柔らかな灯りに照らされた居間で、藍と橙が湯気を立てる料理が並んだ食卓を囲んで待っている。二人の穏やかな表情が、疲れて帰ってきた剣獅をまるで家族のように温かく迎え入れた。
「藍さん、ただいま」
剣獅が静かに声をかけると、藍は手にした書物を置き優しく微笑んだ。
「ああ、おかえり」
橙は剣獅と紫の姿を見つけるとぱっと顔を輝かせ、ちょこちょこと駆け寄ってきた。
「お二人とも、おかえりなさい!」
「すみません……少し遅くなっちゃって」
剣獅が砂鉄の入った重い桶を床に置きながら、申し訳なさそうに言うと、藍は静かに首を横に振った。
「気にすることはない、丁度今出来たところだからな」
テーブルには、湯気を立てる温かい料理が並べられている。
「さぁ、冷めないうちに早くいただきましょう?」
紫が促し、一同は席に着いた。
温かい夕食を終え、剣獅は湯船にゆっくりと浸かった。その後自室の布団に身を委ねると、心地よい疲労感が全身を包み込み、すぐに深い眠りに落ちた。
その穏やかな寝顔を紫はそっと開けた障子の隙間から、うっとりとした優しい眼差しで見つめていた。月明かりが彼女の白い頬を妖しく照らし出し、その表情はまるで愛しい子供の寝顔を見守る母親のようだった。
「ふふ……可愛い寝顔ね」
しかしその慈愛に満ちた瞳の奥には、彼の出自に対する警戒の色が揺らめいているのも事実だった。
◇◇◇
夜も更け、八雲邸全体が深い静寂に包まれた頃、月明かりが白く照らす縁側で、紫と藍は静かに湯呑みを傾けていた。冷えた夜気に、温かい茶の湯気がふわりと立ち上る。藍が静寂を破るように口を開いた。
「紫様、剣獅に鍛冶をさせるのですか?」
紫は静まり返った庭の木々をぼんやりと見つめてから、ゆっくりと答えた。
「ええ。彼、忘れてるみたいだけど、過去にやったことがあるみたいなのよ。あの時の鍛冶屋を見た反応はただの気のせいじゃない気がするの。思い出すきっかけになればいいと思って」
藍の鋭い視線を受け止めながら、さらに言葉を重ねた。
「それだけですか?」
「ええ、それだけよ?それに、藍も料理に使う新しい包丁を欲しがってたでしょ?」
「買えば済む話でしょう……わざわざ、記憶もない人間に作らせるなんて」
藍は納得がいかないといった表情で、すらりとした腕を組んだ。紫はそんな藍を見て肩をすくめた。
「まぁまぁ、少しだけ期待してみましょ?何が起こるか、分からないじゃない」
「はぁ……紫様がそうおっしゃるなら。それと、そろそろ剣獅に弾幕修行もさせてみては?あの力、眠らせておくのは勿体ない気がします」
紫は少し考え込むように顎に手を当てた。
「そうねぇ……でも、教えるなら霊夢や魔理沙のほうが適任じゃないかしら?」
「霊夢はまだしも、魔理沙はただの戦闘狂なだけですよ?力任せの勝負を仕掛けるだけで、教えるとなると話は別です」
藍の辛辣な言葉に紫は小さく苦笑した。
「でも実力は文句なしだし、教えられると思うわよ。それに剣獅のあの身体能力なら、多少のことではへこたれないでしょう」
「剣獅に何かあったらどうするんですか?」
藍の声には心配の色が濃く滲んでいた。
「万が一の時のために覚えさせるのよ。自分の身を守る術は持っておいて損はないでしょう?それに時折垣間見える不思議な力……あの子は、きっと大丈夫よ」
「確かにあの身体つきも、
藍も剣獅の中に秘められた底知れない力の一端を感じ取っていた。
「心配性ね…」
紫はそう言ってふわりと微笑んだ。その横顔は月明かりに照らされ、どこか神秘的だった。
◇◇◇
翌日の昼頃、清々しい陽光が八雲邸の庭に降り注ぐ中、紫は小屋の様子を見に行った。
「剣獅、調子はどうかしら……あら?」
小屋の扉を開けると、中は静まり返り人の気配はない。しかし、昨日までただの作業場だった炉の周りには、見慣れない奇妙な構造物が出来上がっていた。それは土と石を丁寧に積み重ねて作られた、小さな窯のようなものだった。
「……」
紫は興味深そうにそれを眺めていた。しばらくすると、背後から物音が聞こえた。
「……わっ!紫さん」
剣獅は煤で少し汚れた顔で、紫に気づいて慌てて振り返った。その瞳には少しばかりの戸惑いを宿していた。
「ふふ、集中してわね。お邪魔だったかしら?」
紫はその熱心な様子に微笑んだ。
「いえ、大丈夫ですよ。丁度、一段落ついたところです」
「ありがとう。それで、これは何かしら?」
紫は炉の横に置かれた奇妙な窯を指さした。
「これは『たたら』です。砂鉄から鋼を作るための、原始的な炉ですよ」
「……まさか、もう完成したの?」
紫は驚きを隠せないといった表情で目を丸くした。まさかこんな短時間でここまで作り上げるとは、想像もしていなかった。
「はい、丁度。まだこれから火を入れて、鉄を取り出す段階ですけどね」
剣獅は少し誇らしげに胸を張り、照れたように笑った。
「……そう」
紫はただただ感心したように呟いた。彼の内に秘められた才能の片鱗を見た気がした。
◇◇◇◇
数日後、その小さな小屋からはリズミカルで心地よい金属音が絶えず響き渡るようになった。槌が熱せられた鉄を叩く、力強い音。時折金属同士がぶつかり合う、鋭くも澄んだ音が混じる。それは生命を吹き込まれる鉄の叫びのようだった。
縁側で紫は温かい湯呑みをゆっくりと傾けながら、小屋から聞こえてくるその規則的な音に静かに耳を澄ませていた。隣では藍が湯気を纏う茶を、物音一つ立てずに啜っている。
「凄い集中力ですね」
藍がまるで呼吸をするように途切れない槌の音に、感嘆の息を漏らした。
「ええ、寝るのもご飯も忘れちゃうんだもの……何度か声を掛けないと、自分がここにいることさえ忘れてるみたい」
紫は呆れたように笑った。その集中力は凄まじく、食事の時間になっても気づかず藍が何度か声をかけなければならなかったほどだった。
そしてまた数日後。小屋から聞こえる音は力強い金属音から、滑らかに金属を擦るような繊細な音へと変わっていた。剣獅は粗方形が出来上がった包丁の刃を、丁寧に砥石で研磨しているのだろう。その手つきは長年の経験を持つ職人のように滑らかで、一切の無駄がない。研ぎ澄まされていく刃が、陽光を反射して鈍く光る様子が目に浮かぶようだった。
さらに数日が過ぎ、今度は木を削る音や何かを打ち付ける、乾いた音が聞こえてきた。柄付けをしているのだろう。その鮮やかで迅速な一連の動きは、まるで長年の経験を持つ熟練の職人のようだった。記憶を失っているとは到底思えない。やはり彼の身体は過去の記憶をしっかりと深く刻み込んでいるのだろうか?
そして、ついにその日が来た。
「藍さん。これ、完成した包丁です」
剣獅は丁寧に磨き上げられた息をのむほど美しい包丁を、藍の前に両手で差し出した。刃は陽光を浴びて鋭く、しかしどこか温かみのある光を放ち、柄は手にしっくりと馴染むように丁寧に作られている。
「あ、あぁ。ありがとう……」
藍は差し出された包丁をゆっくりと、まるで宝物を受け取るかのように両手で受け取った。その完璧な出来栄えと、信じられないほどの速さで完成したことに言葉を失っていた。
「……なんて美しい包丁だ」
その非の打ちどころのない仕上がりに、藍は思わず息を呑んだ。その刃文はまるで夜空に瞬く星々を閉じ込めたように、繊細で奥深い輝きを放っていた。
「本当ね」
紫もその見事な出来栄えに目を細め、満足そうに頷いた。
「さっそく使ってみてもいいか?これから昼食の準備だし……」
「勿論」
剣獅の言葉に、藍は早速その包丁で野菜や魚を切ってみた。信じられないほど滑らかな切れ味に、藍は目を見開いた。まるで刃が食材に吸い込まれていくようだ。
「凄い……全く力を入れなくても、スイスイ切れてしまう」
「業物ね、見事よ剣獅」
紫は、満足そうに頷いた。
「ありがとうございます!」
褒められたことで剣獅は自信が出てきたのだろう。少し照れたように頬を染め、紫に意を決したように思い切ってお願いをした。
「あの……紫さん、人里で鍛冶屋をさせてもらえませんか!?」
「いや、剣獅……それはな」
藍はその言葉を聞いた瞬間、鋭い眼光を剣獅に向け険しい表情で拒否しようとした。まだ彼の出自も、秘められた力も完全に把握できていない今、安易に人里で自由にさせるのは計り知れない危険を孕んでいると考えていたからだ。しかしその言葉が口から出るよりも早く、紫の口から藍の予想を大きく裏切る意外な言葉が飛び出した。
「いいわよ、この腕なら問題ないと思うわ。立ち上げるための支援も勿論するわよ」
「ありがとうございます!」
剣獅の顔がまるで花が咲いたように、ぱっと明るくなった。その瞳には希望の光が宿っていた。
「ゆ…紫様!?」
藍は信じられないといった表情で紫を見つめた。しかし紫は涼しい顔でまるで当然のように言葉を付け加えた。
「ただし!それは三年後ね。それまでは……うちにいなさい」
「三年後?……なんで三年後なんですか?」
剣獅は突然突きつけられた条件に、戸惑いを隠せない。三年という気の遠くなるような時間に、彼の表情には疑問の色が濃く浮かんだ。
「ん~、寂しいからよ。もう少し一緒にいてくれてもいいじゃない♪」
紫はどこか子供のようなわがままな口調で、しかしその瞳には剣獅に対する確かな情のようなものが宿っていた。しかし藍にはその建前の裏に隠された真意がしっかりと伝わっていた。剣獅の監視をあと最低三年は続ける目的を。
「……分かりました」
剣獅はその意外な理由に納得しきれないながらも、紫の申し出の温かさに深く頷くしかなかった。三年という時間は確かに長い。しかし紫の申し出は、記憶を失い頼るべき人もいない自分にとって、何よりもありがたいものだった。彼はいつか必ず自分の力でこの幻想郷に居場所を見つけたいと、改めて強く思った。その決意が彼の瞳に静かに燃える炎となって宿っていた。