STALKER:Fox Hunt 作:abubu_nownanka
昼下がりの駅は行き交う人々の喧騒に満ちていた。
改札を抜けるスーツ姿の男、子連れの母親、旅行鞄を引く若者。電車の出発を告げるアナウンスが雑踏に溶け合う。ホームの彼方には背の高いビル群が霞むようにして広がっていた。
ほぼ一年ぶりの街の情景はグレブの目にはどこか夢物語のようだった。”スタルカーだった男”はベンチに腰掛け、ぼんやりと人の波を眺めている。防護服やライフルの重みはなく、清潔なシャツと上着の軽さが、まるで現実から切り離されたような感覚を助長していた。
あの洞窟を逃げ出してからの記憶はほとんど断片でしかなかった。宵闇の平原を無我夢中で走り、ようやく正気を取り戻した頃には完全に方向を見失っていた。バラノフカの拠点に辿り着けたのは運以外の何ものでもなかっただろう。
アントンは実際優秀な男だった。持ち帰った宝の山は彼の店の換金能力を大きく超えていたが、それでもその場でグレブの借金を完済させ、更に外の世界の金融会社を通じた分割払いの契約書も作成した。あの鷲鼻の鑑定士が山のようなアーティファクトに度肝を抜かれた瞬間だけは今も忘れがたい。
キツネから何らかの報復があるとして、それがどこまで及ぶかは分からなかった。かつて異形の少女がバンディットを皆殺しにした昔話をアントンに伝え、暗に逃亡を促すと、自分自身も急き立てられるようにバラノフカを後にした。ゾーン内の移動を専門とするスタルカーを雇い、休む間もなく境界を目指す旅程を始めたのだ。
拠点を跨いだ数日の移動と休息を繰り返し、ついにゾーンと外の世界との境界に辿り着いた。だが運悪く──あるいは幸運にもと言うべきか──丁度フェンスを越えたところで、密入域を摘発する軍のパトロールに見つかった。疲労困憊の極みにあったグレブは抵抗する気力もなく、両手を上げて大人しく拘束を受け入れた。
窓格子の嵌った病院での療養が続いた。体内の放射性残留物を徹底的に除去されて後は、数週間に及ぶ取り調べが密入域者を待っていた。とは言え銃器の一切をフェンスの手前で捨てていたグレブは彼らにとって"恐らく密入域した不審者"に過ぎず、取り調べ官も「いずれゾーン内での何らかの犯罪に関与していた可能性が浮上すれば、当局への出頭を求める」と念押しした上で、容疑者を開放した。
彼らは賄賂を受け取らない程度には真面目だったし、それに加えて出所時に返却された背嚢の底に沈む札束は些かも目減りしていなかった。グレブは感謝の言葉と共に札束の一つを手渡し、幾つかの軽微な違反に対する罰則金と、収容中の滞在費及び治療費を清算した。
そしてその頃にはアーティファクトの売却代金も電子口座に着々と振り込まれていた。久々に確認した口座には借金どころではない目の眩むような大金が記されていた。グレブは密入域者拘留施設前の路上でしばし忘我してその桁数を数えた。
人生を取り戻す金。首都の一等地に立派な家を買い、家族三人で豊かに暮らすには十分すぎる額。死地を潜り抜けてなお、グレブは生きている。手足もちゃんと揃っている。人生逆転を夢見てゾーンへ入ったスタルカーとしてはこれ以上ない成果だ。
──だが、ライフルと検知器の不在が彼の胸をざわつかせていた。無意識にアノマリーを警戒してしまい、広い道を直線的に歩くたびに緊張が背筋を這う。自分を落ち着かせるのには意識的な努力が必要だった。
夜ごと襲い来る夢には抗いようが無かった。いつか地下で見た悍ましいミュータントたち、闇に住む者。怒りに満ちた呼吸音とねばついた腐臭が目の前に迫る瞬間、グレブは真夜中に飛び起き、汗に濡れたベッドの上で自分が施設にいるのか暗い廃墟に取り残されたのかを確認しなければならなかった。
そしてもちろん、あの異形の少女──。キツネ。まさしくゾーンの神秘が生み出した存在だった。その無垢な笑顔に、しばし心が通ったように感じた瞬間もあった。だが結局は離れた。人間ならば誰しもグレブと同じ選択をするのか、それともグレブの根底に巣食う猜疑心、変えられない性質がそうさせたのか。
仮に、もし仮にバラノフカへ戻ることがあればキツネはグレブがアーティファクトを盗んだことなど笑って許し、また無邪気に狩りに誘うかもしれない。それでもキツネの住処で見たもの、屍の川を歩む亡者、異形の子供の再誕の光景だけは、どうしても受け入れられなかった。熟練のスタルカーにして妄執の狂信者であったあの男は、今も亡者と共に川底を歩いているのだろうか──。
人混みの中、ふと三角の耳やフサフサの尻尾を目にする気がする。背後でヒタヒタと小さな足音、ズルズルと袋を引きずる音が響く瞬間がある。染みついたゾーンの記憶は金と引き換えにグレブの心に刻まれた傷跡だ。それを癒すためにも、グレブは家族の元へ急いだ。
ポケットから写真を取り出した。汚れきり、ぼやけた一枚。ナディアとリナの顔がかろうじて見える。二人の姿も暮らした日々も間違いなく確かに覚えている。妻と出会った経緯も、娘が生まれた日のことも思い出せる。あの半分狂ったような科学者が口走った戯言が脳裏を掠めたが、グレブは首を振って追い払った。何も問題はない。
連絡があったのだ。今日、この駅へ迎えに来ると。
アナウンスが電車の到着を告げた。ホームに車列が滑り込み、人々が一斉に降りてくる。グレブは写真を仕舞い、立ち上がった。人の波に目を凝らし懐かしい姿を探す。待ち合わせの時間を少し過ぎているのが気にかかるが、もう間もなくだ。
もう間もなく、会えるはずなのだ。
もう間もなく──。
『Stalker: Fox Hunt 終』