ある街の真暗闇の、言いしれない気色悪さを孕んだ夜を、一人の窶れた男が歩いていた。
顔は疲労しきったような表情で痩せておりハイライトが無い、服装も大して綺麗な訳でもない。かと言って貧乏人のような服装でも無い、そんな男だ。
言うなれば平民、だろうか。
普通の服を着ているが所々解れており、特に手入れもせずに長年着ていた事が分かる。
そんな平民は、薄汚れた傘を手に、音の無い雨が降る中歩いていた。
この道には平民以外、誰も見えない。
一つの足音が響く訳でもない、そんな静けさに溢れんばかりの夜が、あった。
明かりが全く無い夜だと言うのに、天球には星ひとつ無い。
何処となく湿気を含んだ空気が肌に纏わりつき、不快な夜であった。
この夜に鳴る音は平民の足音だけである。
だが、何か夜に紛れて蠢く者を、何故か感じた。
この街ではよく、人が消えるらしい。夜中に散歩に出掛けたり、帰りが遅くなった者が帰ってこない。
そんな街である。
平民はどうやら、提灯をぶら下げており、仕事で疲れて、この夜に死にに行く、という訳でも無いらしい。
実はこの街では最近問題が多発しており、掲示板に依頼を書いて報酬を用意するという文化が生まれたのだ。
そのような文化が出来れば、報酬を目当てに活動する輩がいても何らおかしくない。別に悪い事では無いのだが。
この平民も同じであった。
労働時間が長い癖に給与が少なく、生活費を稼ぐ為に、こうして夜に掲示板に向かっているのだ。
平民にとってこの文化はまさに蜘蛛の糸であり、光であった。
持っているのは精々数尺先を照らせるだけの弱々しい提灯であるがこの平民には十分だった。
長年この街に住んでいるのであろう、曲り角もよく知っているようだ。特に足を止めずに進んで行く。
何度か角を過ぎた後、平民はやっと、歩みを止めた。
平民が提灯を上げるとその全貌が見える、それこそが掲示板であった。
よく分からない色に塗られた枠は塗装が剥げ、ひび割れている。穴だらけのボードに薄汚れた紙切れが大勢貼ってある。
掲示板と言えば、最近の近況や祭りや何かの予定が貼って有りそうな物だが、何故かこの掲示板にはそのような物は、無い。
その代わりに行方不明者だとか人攫いだとか、そんな物騒な張り紙が貼ってあるばかりだ。
それによると、どうやら夜、出歩いた者がよく消えるらしい。粗奴らは未だ、見つかっていない。
こんな物を見れば普通恐怖しそうなものだが平民は全く、動揺すらしていない。
いや、もしかしたら心の中で動揺したのかも知れないが、少なくとも外からはそう見えなかった。
しかし、この様な掲示板が置かれている街があるだろうか。物騒な内容しか書かれていないなら、この街は大分、治安が悪いらしいが。
平民はその中の一枚の紙切れ目を留めた。
人攫いについての張り紙だ。金髪で頭にリボンを付け、低めの身長を持っているらしい。
捕まえた者には、賞金として大金が支払われるとか。
余程見つからないのだろう、人攫いの懸賞金としては随分と高い。平民にとっては馴染みのない、金額である。
それだけ雰囲気が異質だったため目に留まったが、平民はそのまま路地裏へ、進んだ。
路地裏は酷く不気味な雰囲気を漂わせ、何かがこちらを手招いているような、そんな気がする。そう、思えた。
星一つすらない今日日の夜よりも醜い漆黒が、広がっていた。
奥に行くに連れ、臭いが酷くなって行く。それでも平民は怯まず、淡々と進んでいく。
提灯が数尺先を照らし、両脇のひび割れた落書きのある塀を脇目に。
数十歩歩いた所で平民は何かを見つけた。
どうやら人、らしかった。
それを目に入れた瞬間、平民はいきなり止まった。血の臭いが、一気に広がったからである。それと同時に何かを齧る音も、聞こえる。
それでも平民の顔は揺らがず、平静である。
足音を最小限にし、その人間に「何をしている」
と強い怒気を孕んだ口調で、それでも静かに話しかけた。
その瞬間、その人間の動きがピタリと止み、先程から耳を焼いていた音も、止んだ。
十数秒経っても返答が無いため「別に私は君を捕らえに来た訳では無い、散歩していただけだ」
と言った。
その言葉を信用したのか、知らないがその人間はようやっと、此方に顔を向けた。
提灯に頼ると、どうやら少女らしい。
金髪で頭にリボンを結び、汗を垂らして何とも恐怖を感じていそうな表情を、していた。
平民が持つ提灯で少女のしとしととした肌が照らされ、赤みを帯びた瞳はてらてらと光っていた。
平民はこの少女について、覚えがあった。
掲示板に書かれていた、人攫いの情報と、酷く一致していた。
少女が此方に顔を向けると同時に、平民の目には少々齧った後が残る、人間の死体を目にした。
真夜中に人を攫っていたのはこの少女だと、平民は分かった。
もう一度何をしているか聞こうと思ったが、その必要は無かった。
「君は何故人を喰う」と平民が問うと、
「そういう人間なの、」と少女が震えた声で答えた。
それを聞いて、平民は失望する訳でも無く、侮蔑する訳でも無く、ただ他人事のようかに聞いていた。
人を食い物にしている事に大して、怒りすら、覚えなかった。
「そういう人間とは、」と問えば無言が広がり、「食わなければいけないのか」と問えば、「2日に一回、」と帰って来るばかりである。
少女との会話は続くが、それを知っても平民にはどうする事も出来ない。
この平民には、人を食っていることを揉み消せる権力も無ければ権力者に取り入る金も無いのだ。
それを知っていながら平民は、少女の話を聞いていた。
そのまま平民は少女に何をする訳でも無く、「また来る」とだけ告げて、路地裏から出ていった。
それから平民は少女を探しては話をし続けた。
数週間も経てば少女は平民を気に入ったのか、自分から名前を教えてきた。ルーミア、と言うらしい。
生まれながらの体質だとか、そんな事を知りながら、平民にはとある勇気が無かった。
掲示板には、人攫いを捕まえた者には賞金を与えると書いてあったのだ。
平民は一応身分的には低い訳では無い。
だが、仕事の関係で貧乏であった。それこそ、服すら買えない程には。
この少女を突き出せば、平民は瞬く間に富豪になれるだろう。
かと言っても、平民にはこの少女について、密告する勇気が無かった。
数週間経っても尚、羅城門の下人のように、勇気が湧いて来なかったのである。
この少女を食い物にする勇気が。
そこで平民は「君は人を食う事について、どう思う」と聞いた。
少女は「私が生きる為だから」と平然と答えた。
その言葉が、妙に平民の心を刺激した。
私が生きるため、その為ならば、人を食い物にしてもいい。そんな考えが、浮かんだのだ。
そんな考えは特に平民の良心を気にする事無く、スッと理解出来た。してしまったのだ。
そうして、平民は拳に少し力を入れ、覚悟を決めた。この少女を食い物にするという、覚悟を。
平民に迷いは無かった。
次は最初に出会った所にいると言う話だけを聞いて、平民は立ち去った。
少女の濁った目を背中に抱えて。
平民が向かう先は、言わずとも分かるだろう。
とある日、富豪は優雅に、緑茶を飲んでいた。
机に提灯を乗せ、目にハイライトを作りながら。
仕事を辞め、より楽な仕事に就いても尚、この様な余裕があった。
かつて無かった権力や金を手に入れ、過ごしていた。前の平民の姿は、何処にも無い。
整えられた身なりで、過ごしているだけである。
その日を皮切りに、人攫い等の張り紙は消え、行方不明者も出なくなった。
密告者は湯呑みを置き息を吐くと、その息は、
妖魔が犇めく夜に、消えて行った。
少女の行方は、言うまでも無い。
〜完〜
人の闇を書きたいと思ったので。
無論、『羅生門』を元に書いてます。