戦火の心臓 作:Navi
「…それは本当なのか?大佐?」
「そうだね…僕もこれには驚いたよ。まさか
スチードの中心の建物の一室。
そこにはゆらゆらと椅子の前脚を浮かして揺らしながら神妙な顔つきで話す大佐と、目を開いて驚いたような表情を浮かべた猟犬がいた。
そんな重々しい雰囲気が漂う2人の間に置かれているテーブルの上に広げられた一枚の地図。
その中に描かれていた複数の○の部分に目を落とした大佐は、顔を上げて鋭い視線を猟犬に送った。
「…
「
「…話が早くて助かるよ、ハリス。今日君をここに呼び出したのはそれを伝えようと思ったからさ。今までは地形を把握している僕らが有利に働いていたけど、少しでも放置してしまえば
「ああ、分かった。現時点で位置の割り出しは行えているようなら、すぐにでもこちらから動く…では、行ってくるぞ大佐。」
「行動と判断が本当に早いね?…ああ、レーヴルへ向かう前に1つ聞いておきたい事が……ハリス、スティラがやって来たからそれなりの時間が経つけど、彼女は君の目にはどう映っている?」
「…!…どう…映っているか?」
手早く目的の共有を行い、かなり近い場所まで手を伸ばしていた
大佐の様子から中々緊急性が高い事案であったが、その張り詰める雰囲気のまま向けられた質問の内容に呆気に取られたように猟犬は動きを固めた。
そして背中を向けかけていた猟犬はスッと大佐の方へ向き直ると目線を逸らしながら口を開いた。
「…そうだな…やはり助けられている部分が多いな?純粋に
「…例えばどんな風に?」
「そうだな…言い表しにくいが、見えるものが明るくなったような…そうだな?そんな感じだな。」
「…!へぇ…まさか君がそこまで言うほどになるとはね?なるほどなるほど…」
「…?何故そんな顔をしているんだ、大佐?」
「…いやぁ、なんでもないよ?急に呼び止めて悪かったねハリス。今回はすぐに動ける他の隊員は配置しておくけど、基本的には君1人での対応になる……くれぐれも気をつけて行っておいで。」
「…ああ、分かった……大佐。今回の戦闘にあたってこちらへの指示出しは不要だ。そして、こちらが帰還するまで身体を休めておく事を提案する。」
くたびれた様子で小さく笑みを浮かべた大佐であったが、不思議そうにそれについて問いかけを行った。
それをのらりくらりと躱して猟犬に対して出撃の許可を出した大佐であったが、その様子をじっと見ていた猟犬は目を細めながら大佐に突然の提案を行った。
それを受けた大佐は首を傾げながらいつもより外ハネが目立つ髪を指に巻き付けながら口を開く。
「…?…なんでかな?」
「今の大佐からは口調や表情、声色から重度の疲労が見て感じ取れる…大佐に必要以上の手間をかけさせるつもりはない。だから、こちらとしては少しでも休息を取ってほしいと思っている。」
「…はは…いやぁ、参ったなぁ……そんなに顔に出てたんだ?そっかそっかぁ…でも大丈夫だよ。うん…もう少しで終わるからね…」
「…?大佐……っ!」
困り顔を浮かべながら、小さく笑みをこぼす大佐。
そのままスッと目を閉じ、穏やかな声で言った。
「…僕の心配する必要はないよ、ハリス。」
この時の大佐は、状況の移り変わりが激しい戦闘中でも、常にどこか余裕を持っている様子と明らかに違うのは明白であった。
薄く開いた瞳の奥から向けられた光を受けた猟犬は、それ以上の言葉を向けることはない。
そしてその光を宿した瞳をじっと向けながら、大佐は重くなった口から淡々と言葉を口にする。
「……ハリス、行っておいで。君はすべてを
「…ああ。外にいる隊員たちにはこの部屋に近づかないように忠告を行っておく……それでは、行ってくる。」
「…ありがとう、ハリス。君のそういうところが…頼もしいよ。」
「……失礼する。」
重々しい雰囲気を発する大佐は猟犬からそれ以上の言葉を紡ぐことを許さずに空気を飲み込んだ。
しかし命令を受けた猟犬は、すぐに絡め取られるようなその雰囲気を振り切るように背中を向けて部屋を後にした。
扉の閉まる乾いた音が部屋全体に向かって聞こえたのちに、大佐は深く息を吐き出しながら両手で頭を抱えて視線を落として身体を細かく震わせた。
そしてすぐに口元を手で覆い、吐き気を押し殺して胃の奥からこみ上げるものを喉の奥でせき止める。
暗く虚ろな目が、広げた地図の一点をただ見つめていた。
「(っ…このままで…これでいいんだ…)…そうだ…役割が…こっちにも望まれた時が来ただけなんだ…」
荒くなった呼吸を整えつつ大佐はテーブルの引き出しの中の数ある通信機の中から1つを取り出した。
その通信機からは砂嵐の音がしばらく続いていたが、途切れ途切れの音の中から掠れた音が流れてくる。
そして天を仰ぎ、膝の上に置いていた軍事帽を強く握り締めながら通信機に向かって口を開いた。
「はぁっ……猟犬は動き始めました……はい…それでは、始めましょう…(…長く続いたこの戦争を…多くの命と引き換えに…)…そして終わらせる…フロンラット大戦を…!」
声としては小さなものでありつつも、固い決意を込めて力強くそう呟く大佐の表情から一切の感情が消え去る。
その表情には、ぽっかりと空いた穴のように、影を落とした瞳だけが残っていた。
それはまるで、猟犬と同じような、意味を他者に委ね、自らの意思を持たぬ者の空ろな目だった。
*******
「(…太陽の光も無く肌寒い…だが
「『…大佐の指示を仰がずに本当に1人で行くのか?何かあったのなら、こちらもすぐカバーには向かうから…決して無理だけはするなよ?猟犬。』」
「…ああ。気遣い感謝する…(今の大佐に手を煩わせるわけにはいかない……確実に遂行する…)」
猟犬は鈍色の曇天の空に溶け込むように肌を刺すような冷たい風を浴びながらレーヴルの山頂付近から反対側に広がる深い緑を見下ろしていた。
スチード側とは打って変わって、反対側の山肌は登る事が不可能だと思えるほど急な斜面となっており、これが自然の防壁となって
そんなレーヴルの上からじっと影を落とした瞳を向けている猟犬はふと、突風のような風に煽られながら後ろに広がっているスチードの光景を目にした。
「(ハインドレートからの侵攻は確認されていない。だがこちらの対処中にまた敵影が現れたのなら、その時はスティラが…)…やはり手間はかけていられないな……こちら猟犬、目的地に到着した。…これより
「『こちらポイントα、了解…頼むぞ、猟犬。』」
「……ああ。」
通信機越しに待機中の隊員へ連絡を入れると、猟犬の纏う空気が一変した。
身を低く構えた猟犬は、通常なら足を取られて転落しかねない急斜面を一気に駆け下りていく。
身体はバランスが崩されそうなほどの強風に煽られながらもそのスピードを緩める事なく向かって行き、目の前に広がる木々の中へ背負っていた兵器を手に取りながら入り込んでいった。
報告で把握していた地点へ向かい、猟犬は木々の隙間を縫うように最短距離で進む。
細めた眼光のまま草木をかき分けながら進むその姿は、野生の動物と大差ないほど重なって見えるほどであり、まさに猟犬の名前に違いないものであった。
「(この先……
走り続けたその先で視界にとらえたのは
その様子を見た猟犬は一瞬ざわつくような違和感を覚えたが、手に持つ兵器の引き金に指を触れた瞬間にそれは霞のようにフッと消え去る。
そしてトップスピードを緩めないまま木々の隙間から飛び出し、多くの
「(……この状況、こちら向かうべきは…)…あそこだな?」
「…ん?この辺りいた動物が迷い…ぐぁっ…!?」
「………はっ…?」
そして引き寄せるように腕を絞め上げると、その首から生々しい音が響いた。
あまりにも唐突な光景に一瞬の静寂の後、凄まじい緊張と混乱が
猟犬は動き始めた
「随分と…呑気に構えていたな、
「(なっ…!?スチードの軍服…もう嗅ぎつけられたのか…!?)おい!全員戦闘態勢に…!!」
猟犬の手にあるのは、以前に
その構造はスティラが使用しているものと変わらないが、アトマの手が加わることにより、その兵器はより凶暴さを孕んだ性能を宿すに至った。
猟犬が銃口を人が最も密集している中央に向けて引き金を絞ると、赤い火花が散り、灼熱を帯びた銃弾が唸りを上げて放たれる。
「「……!?」」
爆発の予兆を察知した猟犬は、速度を緩めず直角に方向を変え、近くの
そして転がった
平穏な空気を裂いて現れた影と火花を散らす銃弾。
今の一撃によって
響き終わると同時に、猟犬は躊躇なく混沌としている目の前の戦場へ飛び出していった。
「…っ、何が……っぁ!?」
「ゴホッ…!クッ…ソ……スチード…もうここに…ガハッ…!」
「なっ…!奴はどこから!?」
周囲の岩を足場に、猟犬は滑るような動きで戦場を駆けて
しかし爆撃に巻き込まれずに生き残っていた
何故ならーー
猟犬は既に低い岩から大岩へと移り、そのまま周囲を取り囲んで壁のように連なる岩の側面を地面のように走っていたのだった。
「(…23……11……6…4…)」
猟犬の錯覚に近いその動きに、誰も正体を掴めない。
やがて時間の経過とともに
爆発を間一髪で避けた一人の兵士が、よろよろと身体を起こす。
だが、その視界に映るのは散らばった屍ばかり。
平穏な時間の幕引きを告げる一瞬の殲滅劇を目にして、その人物は力無く再び地面に崩れ座り込むのだった。
「な…なん…で……こんなの…聞いてな…」
「(…まだ息がある人間がいたか…)…クリア。」
「……あっ……」
背後から響いたその声は、生き残った男の耳に果たしてどのように届いたのだろうか。
その
「……次は…(…?なんだ…)」
完全に動かなくなったその様子を見届けた猟犬は踵を返し、すぐに別の目標地点に移動しようとする。
だが、たった今撃ち殺した
視界の隅に映った何かに気づいた猟犬は、思わず足を止める。
そして血に濡れ、紙片が赤く染まりゆくのを見た瞬間に猟犬の目が見開かれた。
「(……写真か?…それにこれ…は…)…この人間の…家族…?」
写真には、砂で汚れながらもありふれた家族の温もりを切り取った一枚が写っていた。
写っていたのは、たった今猟犬が手にかけた男とその隣で子供を抱く女性の三人家族だった。
「……っ!!」
笑顔の3人の様子が切り抜かれたそれを目にした猟犬は本能的にこれ以上ここにいてはいけないと感じ取ってすぐに兵器を持ち直してその場から動き出した。
しかし脳裏に残る、写真に写った男性側の立ち姿が段々と赤色に染まっていくその様子が離れても消えない。
気づけば、猟犬の心臓の鼓動が経験した事ないほどまで異様に早まっていた。
「(なんでだ…?なんで…今になってこんなにざわつきが大きくなる?なんで頭から…身体から消えない?何故だ…何故…だ?)」
それは今までのものとは比べられないほど重い身体中を這い回るようなざわつく違和感。
動き続けているのにも関わらず足先から全身にかけて広がる悪寒が絶えず流れ、無意識のうちに呼吸を荒くさせて乾いた口の中で激しい噛み合わせを行っていた。
それが命令実行の原動力になっているためか、はたまた無意識のうちに逃れるために動いているためか、荒々しい様子の猟犬の目は段々と散乱としていた。
「(……消えてくれ、頼む……頭から、抜けてくれ…!なんでだ……なんで、今さら…!?)…!…あぁ…そうか…?…
一度動かし続けていた足をピタリと止めて曇天の空に視線を移した猟犬は、無表情のまま数秒じっとその場に留まり、小さく息を入れ直して鋭い眼光を森の奥へ向けた。
そうして再び駆け出したその姿は、形容し難い意思のない怪物のように見えるものであった。
*******
「……地獄って、こんなにも高い場所から見下ろせるものだったのか…?」
そこからの猟犬の行動は同じスチードの人間から見ても異常そのものであった。
複数の拠点として事前に説明を受けていたこともあり、その数や位置の割り出しは把握していた。
だが恐ろしかったのは一つ目の拠点に巨大な爆発が起こった後の戦況の移り変わりである。
1回目の爆発の数十秒後にはかなり離れた地点から1発、さらに少し離れた場所から1発の爆発がレーヴルの中に響き渡り、曇天に登る黒煙が次々と上がった。
炎は森を這うように広がり続け、焦げた匂いが風に乗って隊員たちの鼻腔を突いたが…本当の恐怖の色が滲んだのはその後の出来事であった。
最後の爆発が起こってから十数秒後、この光景を呆然と見ていた隊員の通信機に声が届いてきた。
「『はぁ、はぁ……こちら猟犬…
「…!猟犬……流石にやりすぎだ。ここまで短時間に、ここまで苛烈に片をつける理由があるとでも…」
「…いや、いつもと何も変わらない…そうだ…何も変わらないはずだったんだ…」
「うおぁっ…!?お、おい…!ここまで戻ってきてるならわざわざ通信機越しで…っ!?」
通信機の先から聞こえていた声がレーヴルの山頂付近からこの様子を見ていた隊員の背後から聞こえてきたことで、身体を跳ねさせながら振り向くとそこには戦闘開始前から大きく様子の変化した猟犬が立っていた。
全身から爆煙の匂いを漂わせ、袖を通した軍服の至る所に破れた跡と血や土の汚れをつけていた。
しかしそれよりも目がいったのは、鈍色の雲の色を閉じ込めたような暗く虚な瞳であり、ぼんやりと背中を曲げて姿勢を低くした猟犬の立ち姿と相まって酷く不気味に映って見えていた。
「(…コイツ……本当に今の間に一体何が…?)…はぁ……取り敢えず、俺から大佐に代わって任務を完了させてくれたこと…感謝するぞ、猟犬。」
「…ああ…」
「…しかし本当にこれはやり過ぎたな?風と雲の様子からこれから降る雨で消えるとは思うが…レーヴルの木々を燃やすのはこれを限度くらいにしてくれよ…?」
「…ああ…すまな…」
虚な猟犬が言葉を言い切る前に隊員の手元で通信機が警告音を繰り返す。
その瞬間、2人がいるこの場の空気が凍りついた。
それに反応して猟犬はすぐにハインドレートに視線を向けたが、目につく範囲では
隣に立っていた隊員は慌てて通信機に声をかけると、その先から聞こえてきたのは大佐の声であった。
「『…突然申し訳ない…しかし緊急事態です。』」
「大佐…!今度は一体何が…!?レーヴルの対処はたった今猟犬が完了させましたが…」
「『そう…か…本当に手が早いね…?この国に対して異常が起きたわけじゃないんだ…コルディセスの方で、深刻な問題が…』」
「…!コルディセスで…ですか…?」
「『…はい、コルディセス近辺で
「…!?な、なんですって!?現在の状況は…コルディセスにいるはずの少佐からのアクションは…!?」
「…!!」
その言葉を聞いた瞬間に猟犬から再び表情が消えて身体中に嫌な感覚が駆け巡った。
そして頭の中で思い出されたのは、自身が撃ち殺した隊員の持っていた写真が段々と赤色に染まっていく光景と、軽い笑みを浮かべて手を振ってコルディセスに向かっていった少佐の姿であった。
「……少佐…?」
記憶としての全くの紐付きがないはずの二つ。
だが、立て続けにこれらが頭に思い浮かんだ次の瞬間には、猟犬の足はすでに意思とは無関係に動いていた。
「…っ!猟犬!?おい、どこへ行く気だ…?!」
「『……どうしましたか?』」
「い、いえ…!ここにいた猟犬が動き出してしまい…っ!!まさかアイツ…!」
「『…!そう…ですか……一度通信を切ります。君はすぐにポイントαの部隊の撤収を。そして今からコルディセスからの情報と
「りょ、了解しました!しかし大佐、体調の方は?!」
「『…僕の心配しないで大丈夫だよ…それじゃあ、こちらも待っているのですぐに帰還して下さい。』」
「あっ、大佐…!?…っ……くそっ…一体何がなにやら……猟犬、少佐を救いに行くからにはらお前まで頼むから死ぬなよ……コルディセスを…少佐のことを頼んだ…」
通信機から音が途切れたことで残された隊員はその場に座り込んで天を仰いでため息をついた。
重く憂鬱になりそうな暗く厚い雲はそれを嘲笑うかのように冷たい風を吹かし、森はざわめき、灰色の海がうねりを増す。
冷たい風が、これからの出来事をあざ笑うように吹き荒れていた。
*******
「(っ…コルディセスからスチードまでは、以前なら約半日…だがあの時よりペースを上げさえすれば…)…まだっ…!」
低く小さくなって聞こえた大佐の言葉を聞いて反射的に身体が動いた猟犬はスチードからすでにかなりの距離を離す地点まで走り抜けていた。
レーヴルの山道と違ってある程度開けているとはいえ、先の戦闘で生じた疲労が顔に滲んだ汗と呼吸の荒さとなって現れていた。
そんな状態の猟犬の軍服の内ポケットから通信機の警告音が鳴り響き、スピードを緩めないまま取り出した通信機に向かって口を開いた。
「っ…はぁ…こちら猟犬…」
「『…ハリス、今どこにいるのですか?と言っても…すでにコルディセスに向かってますかね…?』」
「…!…大佐、命令違反を行ってしまい…申し訳ない。だがこれはこちらの直感となるが、すぐに援軍として向かわなければ…!」
「『…えぇ…分かっていますよ、ハリス。こうして連絡をしたのは貴方の行いを咎めようとしている訳ではありませんよ……いいですか?現在の
「…!それなら…」
大佐から語られた言葉は猟犬にとっては、少しだけまとわりつくような重みがなくなるようなものであった。
通信機越しから感じる大佐の雰囲気が告げているのは、猟犬にとっては何度も与えられてきたもの。
それは自身の証明とも言える『命令』。
『ハリス』が『猟犬』であることを証明してくれる、唯一確かな『声』である。
「…『猟犬』。連戦という状況になってしまい申し訳ないですが、貴方にはこのままコルディセスの防衛に向かってほしいです。コルディセスは
「…ああ。分かっている…!」
「『こうなる前に、貴方がレーヴルに潜む
「了解した…大佐、貴方にスチードを任せる。」
「『…えぇ…
「……ああ…!」
正式な命令が下されたことによって猟犬はさらに進める足を早めてコルディセスに続く道を駆けていく。
残された猶予は、わずか3時間。
命令と執念を胸に、猟犬は自分の後ろから通り抜けようとする風よりも速くコルディセスへと駆けた。
*******
空には徐々に暗がりが満ち始め、太陽の傾きすら分からないほどだった。
体感として、猟犬は約2時間を足を緩めることなく走り続けていた。
息の荒さもかなりのものとなっており、先の戦闘で体に刻まれたざわめきと焦燥が、静かに体力を蝕み続けていた。
だが、猟犬は足を緩めることは決してなく、ただ愚直に前を向いて影が伸び続けているコルディセスの道を進んでいた。
「はぁ…はぁ…っ…(…状況としてはまだ
随時スチードからの報告を受けている猟犬であるが、頭の片隅には拭いきれない不快感がずっと存在していた。
それこそが自身が手にかけた
そして同時に浮かんできたのは自身と方向にずっと目を向けてくれていた少佐の姿であった。
何度頭の中でこの2つには関連性はないと理解はしていても、猟犬の中に立ち込める黒いざわつきが足を止めるという選択肢を塗り潰していた。
「(っ…こんな下らない想像を…するな…!そうだ…こちらが間に合えばいいだけの話……与えられた命令を、実行するだけだ…!)」
かつてないほどの心臓の鼓動を感じる猟犬の目は影を飲み込むほどまで黒くなっており、段々と自身の意思と命令を混濁させようとしていた。
ここまで抱えている違和感が大きなってしまっている原因として、少佐の姿が脳裏をよぎった瞬間、自覚してしまった。
ーー今の自分が何に怯えているのかを。
ーー『失う恐怖』というものを。
「(…っ…!そうか……こちらはもう…)っ…ゴホッ…!ぐっ……流石に無理をした…か…」
そんな意思とは裏腹に、咳と共に吐き出された空気の中に含まれていた血の塊を見て反射的に猟犬は進める足を緩めて止まり、近くの大樹に寄りかかった。
額を伝っている汗を拭い、何度も息を吸い込み続けて無理が祟った全身に空気を取り込ませた。
だが、すぐにその作業を終えるとぼんやりとした目を道の先に向け、再び進み始めるために一歩を踏み出そうとする。
しかし、その動作を行おうとしたのとほぼ同時、ふとした静寂の中で通信機から風に混じる不穏な砂嵐音が流れ始めた。
「…っ、はぁ…っ……コルディセスの状況は…(…大佐…?)」
「『っ…ハリスさん!?今の声…大丈夫じゃなさそうじゃないですか…!?そんな、まるで……な、なんだか呼吸がままならないほど息を切らしていませんか…?!』」
「…!スティ…ラ…?…何故…スティラがこちらに…」
「『慌ただしくスチード内が動いていたので、他の隊員さんからお話を聞いたんです…!かなり無理をしていませんか…?声も雰囲気も…いつもと違って鬼気迫っているように聞こえます…!』」
焦っている様子のスティラの声を聞いて猟犬は再び立ち上がって息を整えながら、ゆっくりだが足を動かし始めた。
身体の中から広がる焼けるように痛みを緩和させるために、重い身体をゆらゆらと揺らしながら少しずつ進むスピードを早めて行った。
「……問題ない…
「『む、無理だけは本当にしないでください…!本来、今のハリスさんのしている役割は私が行うべきなのにこうして…っ……私は…』」
「…これはこちらが受けた命令なんだ。スティラが重く受け止める必要はない……戦地に赴き、敵を殲滅する…それだけが『猟犬』に求められていることなんだ…これにはスティラは関係のないことで…」
「『…!……ハリスさん…』」
口元に伝う血の混じった汗を拭う猟犬はスティラへそう言葉を返す。
すると、通信機の向こうでわずかな沈黙が流れた。
「『そんなに、命令だけが…貴方にとっての全てなんですか?』」
「…?どういう…ことだ…?」
震えながらもハッキリと聞こえてきたスティラの声を聞いて、猟犬は荒い呼吸を整えながら疑問の言葉を投げた。
すると通信機の先から返ってきたのは怒気をまとった叫ぶような言葉であった。
「『っ…ハリスさんは、自分のことを軽く見過ぎなんです…!与えられる命令には、ハリスさんの意思は考慮されていないんですよ?!ただ…まるで兵器のように扱われているのに……どうして…そこまで貴方は…!?』」
「………」
その言葉を聞いた猟犬は何か言葉を言い返す事なく口を閉じて、ひどく落ち着いたものになっていた。
自身の存在意義は命令受けて動くような機械と変わらないようなもの…しかし、今の猟犬はそれと明確に違う意志を持つ答えを持っていた。
そして、息苦しそうにしながらも固く表情を浮かべた猟犬はポツリと言葉を紡ぎ始めた。
「…なあ、スティラ…?ここまで恐ろしいものなんだな……隣にいてくれた人間が、いなくなるかもしれないという恐怖は……頭で理解しても、身体は意思とは別に動いていて…どうにもならなかった…」
「『……!!』」
「…今回は、最終的に命令として大佐からコルディセスの防衛という目的を与えられたが…きっかけはこちらの独断専行で、こちらの意思によるものだ…最初はこちらも…何故ここまで湧き上がる不安を抱えて、意思とは無関係に動いたのか分からなかった…」
それは猟犬が初めて感じ取ったものであり、これが今回の行動を取る大きな引き金となった。
命令以外にあまり目を向けることのなかった猟犬の明確に『身近な人間の死』というものを恐れ、反射的にとった曲げられない意志を持った行動であった。
「…だが今はこれについてはこちらもハッキリしている。コルディセスには少佐と…スティラが守りたいと思っていたものとが多くある。
「『…っ…ハリス…さん…』」
「こちらは、過去に少佐に命を拾われたようなもの……だからこそ、たとえ四肢が無くなろうともこちらは…コルディセスへ向かわないといけない…!だから、足を止めるわけにはいかないんだ…!」
「『っ…ご、ごめんなさい…!こうして貴方を理解せずに…勝手なことを言ってしまって……本当に…』」
「…いや、謝罪の必要などない…言っていたことは正しいからな?スティラ…コルディセスはこちらが必ず守り切る。そしてこちらにとっての少佐と同じように大切なスティラの家族も……必ず。」
猟犬にまとわりついていた違和感は消え去り、その目には力強い意志が宿る淡い光が灯っていた。
猟犬の宣言を聞いたスティラは、通信機越しに涙声になりながらも言葉を紡ぎ続けた。
「『…!!はい…はい…!お願いします…コルディセスを…こんな私の故郷を…私のたった1人の妹をどうか…!』」
「…了解した。スティラは大佐たちと共にスチードの事を頼む…こちらは、必ずコルディセスを守り切る……約束する。」
「『っ…必ず帰ってきてください…!まだハリスさんと見てみたい景色が、聞きたい話が多く残っています…!私は…
「…ああ、楽しみにしている…必ず戻る。」
その言葉を最後に通話を終えた猟犬は通信機を内ポケットにしまい込んで目の前の道のさらに先へ視線を向けて再び走り出した。
スティラとの会話を行ったためか、ざわつくような違和感が消え去っており、今の猟犬の身体を満たしていたのは湧き上がる覚悟であった。
時間の経過と共に暗闇の割合が増えてきていることを肌で感じていたが、その変化に目を向けることはない。
そうして、ペースを保ちつつ軽快な足取りで進んでいた猟犬の目の前に目的地点が現れた。
「はぁ、はぁ…(……想定より…早く到着か…)」
暗く見えにくくなっているが、目の前に広がっていたのはスチードとは比較できないほどの多くの建物が立ち並んでいる国であった。
それらを目に入れたことによって、目的地であるコルディセスに到着したことを体感してここでやっと猟犬は完全に足を止めた。
国の状況としてコルディセスの人々が道の中を入れ替わり続けている様子が映ったが、それは同時にまだ
「(…間に合った…
深い安堵の息を吐きながらこの後の行動について思考を巡らせていた猟犬は、かなり密集して立ち並んでいる建物の上にじっと視線を向ける。
そして一度目を閉じ、背負っていた兵器を手に取ってこれから訪れる夜の色を滲ませた瞳でコルディセスのさらに先を見た。
そして、譫言のようにポツリと言葉を口にした。
「
鈍色の空から降り注ぐ夜の暗闇に溶け込むように、猟犬は動きだした。