戦火の心臓 作:Navi
「少佐、出発の準備が整いました。いつでもコルディセスへ向かうことはできますよ?」
「ああ、ありがとうな?(…出来るだけ早く向かわないといけない…アイツにもこれ以上の負担はかけられないか…)スチードがまだこんな状態なのに悪い…じゃあこのまますぐに向かうぞ。」
「はい、それでは……うっ!?しょ、少佐…!う、後ろに…!」
スチードの焼けこげた森を抜けてコルディセスへ向かうための馬車が配置されており、その近くには数人のスチードの隊員と少佐が立って話をしていた。
出発の準備を終えたのを確認し、そのまま馬車に乗り込もうとした少佐であったが、隊員の1人が恐怖の滲んだ目を少佐の背後に向けて動きを止めた。
その表情から少佐は嫌な方向に何かを察知し、隊員が向けていた視線の先へと振り向いた。
「……おい、どうやってあそこから抜け出してきた?すぐ動いても気付けるように何人か見張りはつけていたはずだぞ?」
「…隙を見て抜け出して来ただけだ……途中で目をつけられはしたが……話は通してきた……少佐…オレもコルディセスへ行かせてほしい。」
「(話には聞いていたがこんなボロボロの状態なのか、猟犬!?)…さ、流石に連れて行けませんよね…少佐…?」
「………」
その言葉に少佐は一瞬黙り込み、改めて猟犬を見つめた。
そこに立っていた猟犬は、首や足に包帯を巻き付け、まだ受けた痛々しい傷を隠している猟犬である。
被っている水平帽の鍔による影で表情の暗さが一段と濃くなっており、その隙間から覗かせる瞳を見るだけで固まってしまいそうな圧迫感があった。
すぐに大佐は動けずにいた隊員たちに前に行くように指示を出し、改めて猟犬と2人で話をする選択を取った。
「はぁ……こうなると薄々思ってはいたが…本当にこのままオレに付いて来るのか?…そのケガで出歩くのはオレとしても色々とな……それに、お前は…」
「……問題ない…むしろオレが行かないといけないんだ。…こうして生き残った人間としてコルディセスへ……行かなければいけない…」
「(……やっぱりダメか…このまま動きそうにないな…)そうか……その気持ちは理解した。」
薄い青空と日の光が包み込む空気は数日前の悲劇を包み込むように暖かいものになっているが、猟犬と少佐の声だけが静寂を裂くように響く。
その冷たさは、まるでまだ乾いていない戦場の傷跡のようだった。
今ここにいるのは馴染んだ傷跡を顔につけて包帯が取れた少佐と、塗装の剥がれた兵器を背負い、少佐のことを暗い瞳で見つめている猟犬の2人のみ。
この2人のやり取りをチラチラと気にしている隊員たちはこの無言の空気に対して息を潜めることしか出来ていない。
「(…み、見てるだけでも息が詰まりそうだ…)」
「(しかし、少佐のあの表情……まさか本当に猟犬を…?)」
「…まさか、本当に抜け出して来るとはな?出来ればお前にだけはバレたくはなかったんだが……その様子だと、このまま待機していろと言っても無理してでもオレについて来るよな?」
「………」
コルディセスへは1人で向かおうとしていた少佐の前に痛みに耐えながら現れた猟犬の身体の状態を見て少佐は表情を曇らせていたが、そんな猟犬から滲み出ていたのは引き下がる気はないという意思。
歩くことすらままならないボロボロの足を無理矢理を動かしてまでやって来た猟犬をつき返そうにも、吸い込まれてしまいそうな猟犬の目を見て少佐は否定の言葉を向けずに口をそのまま閉じた。
「……はぁー…」
こうしてしばらく互いに無言のままだったが、先に折れた少佐は軍事帽を握りながら猟犬に近づく。
そのまま少佐は、猟犬がじっと目を合わせるのを見て、しばらく黙ったまま足元を確認した。
息を呑むような沈黙の後、少佐はゆっくりと腰を下ろし、猟犬を見つめる。
「…分かった。それじゃこのままオレたちと向かうぞ。
「(…!?本当に大丈夫なんですか、少佐!?)」
「(少し落ち着けって。…これは俺たちが割って入っていけるような問題じゃない。…あの2人で話し合って決めたのなら、それに従うしかないだろ?)」
「(…確かにそうかもしれないが…)」
「………感謝する…少佐…」
少佐の考えを察した猟犬は表情を動かさないまま黙って少佐に背負われ、待機していた馬車の中へ猟犬を下ろした。
掴まれた肩に添えられた腕が震えていたことに言及はせずに少佐は一度馬車から身体を出して待機させていた不安気な表情をしている他の隊員たちへ指示を出すと、すぐに馬車が小刻みに揺れながら動き出す。
進み出したのを確認した少佐は鋭い表情を浮かべながらそのまま猟犬の正面に座り込み、顔を俯かせている猟犬のことをじっと見ていた。
「……それで、ここまではアトマには何も言わずに来たのか?」
「……そう…だな……これは…オレが向き合うべきこと……だからな…」
「なら、アトマにはオレが連絡をしておく。ここからおそらく1日はこのまま揺られることになると思うが、その間は絶対安静にしていることがコルディセスへ行くための条件だ……分かったな?」
「………了解した…」
「…スチードのことは心配するな。あの侵攻を受けてからこの国の人間も警戒心を高めているのに加えて、アイツも戦場に出てくれることになった。…今度こそ、お前が気を負わなくてもいい状態になっている。」
「…!……そう…だな……今度こそ…今度こそ大丈夫…なはずなんだ…だからオレは……ここに…」
少佐の言葉を聞いて、今まで表情を出していなかった猟犬の顔が苦しそうに歪む。
こうして自分の意思でここまでやってきたことに改めて気づき、また先日のようなことが起きるのではないかと想像して身体を震わせる。
自分の中で何度も『大丈夫だ』と言い聞かせても、どうしても過去の恐怖が脳裏を離れなかった。
「…ハリス、確かに絶対はない。…だからってそこまで1人で気負いすぎるな。スチードにいる他の隊員の意思は、お前が思っているよりもずっと大きいものだ。…ここまで来たのなら、今度こそ大丈夫だと信じておくのが1番いい。」
少佐は猟犬の目をじっと見つめ、声を低くして言った。
猟犬はその言葉を受け止めるかのように、少しだけ肩をすくめた。
「…っ……了解…した…」
「(……本当に弱り切ってるな…)…とりあえず、少し話をするか。最近は前みたく会話できてなかったからな?そうすれば心配も少しは紛れるだろう。」
少佐が軽く笑みを浮かべながら言うと、猟犬もそれに応じるかのように、わずかに目を上げた。
「……ああ…」
少佐の提案により、スチードを出てからしばらくは2人の会話は続き、猟犬が傷を庇うようにしながら座り、そんな虚な目の猟犬の表情を随時確認しながら少佐が会話を切り出すという流れになっていた。
しかし飛び交う言葉は少なく、少佐から見た猟犬の様子は以前から見ていた猟犬の姿に戻ったように受け取ってしまうものである。
だが、内面の歪みは以前よりも明確になっており、それが会話の端々に滲み出ていた。
キッカケとしてハインドレートで見てた憎悪に溺れた猟犬の姿を目の前で見たことであり、これもあって少佐は猟犬に対して言葉にできない危機感を抱いている。
「あとは…オレはコルディセスに戻ったらそのまま残る。この数日で何とか連絡手段は回復したようで、コルディセスに到着次第お前に色々と話そうと思っていたが…こんな状態だし、その必要は無くなったな?」
「……そうか…また少佐はコルディセスに…」
「…これは仕方ないことだ。そして
「…………ホウロと、言ったな……あの人間が…」
ホウロの話題を出したことで猟犬は、腕に巻かれていた包帯の点々とまだ血が滲んでいる箇所に触れて表情を暗くした。
数日前、あの時が初めてのホウロと猟犬の対面であったが、結果としては互いに相手に対して、最悪な印象を持ったところであの対面は終了した。
猟犬はあの時に見せた感情の爆発を思い出して、少佐は心の中で深くため息をついて、自分がスチードにいない間の2人についてどうなるのか憂いた。
そしてそれを考慮してか、少佐はホウロに対して軽くフォローを入れつつ、猟犬の心を刺激しないよう慎重に言葉を選び始めた。
「…アイツは、あれでも1人でかなりの戦力になる。戦場に出たとなればオレがもう1人いるように見てもいいかもな?…先に許可は出しておくが、仮にまたあのバカに何か言われたらその時は死なない程度に叩き直してもいいからな?そうしてくれればアイツにとっても良い薬になる。」
「……ああ……了解…した………だが…何故少佐は、あの人間と仲がいい…?……オレは…どうしても…」
「…まあ……やっぱり嫌いになったよな、アイツのこと?…オレとアイツは昔からの馴染みだ。前から損得第一で考えて行動する奴だったな…自分以外の人間は全て駒だと考えていて、場の空気や状況も考えずにズカズカ出てくる荒い言葉、誰に対しても噛み付くあの性格には昔からオレも手を焼いている…」
「…………強いのは…確かにあの時自分も感じ取った……だが…何故、少佐のように戦場に出ることがない…?……少佐のように、1人で戦況を変える力を持っているはず…今までも、そして今回も少佐のように前線に立てばスチードは……スティラ…は…」
猟犬はホウロを締め上げた際につけられた、腕に深く食い込んだ傷をさすりながら口を開く。
あの性格には違わない荒々しい力でつけられた傷は猟犬にとっては、『それを何故戦場に立って発揮しない?』と思うほどのものであった。
この猟犬からの疑問に少佐は困ったような表情を浮かべていたが、しばらくするとポツリと言葉を口にし始めた。
「…確かにアイツは、以前はオレやお前のように前線に立って暴れ戦っていた。さらに言えば、戦場に立てばオレよりも多くの戦果を上げるようなめちゃくちゃなやつだったな?」
「………ならば何で……動こうとしないんだ…?数日前のあの時にオレは初めて目を合わせた…」
「……ああなったのには昔に『きっかけ』ってものがあってな?…それがあってから、アイツは前線から退いて上官やスチードの首元までやってきた敵を相手取る最終防衛のような立ち位置に切り替わったんだ。」
「……そのきっかけとは…一体何だ…?」
少佐から出てきた『きっかけ』という言葉に反応して猟犬は目線を上げて顔を見ながら口を開いた。
しかし猟犬のその質問を聞いた瞬間に少佐は眉をピクリと上げ、纏う気配が大きく変える。
「………すまないが、それについては…オレからも言えない。…きっかけにはオレもそれには関わっているからこそ、あんまり思い出したくないんだ……悪いな?」
「……!…いや…問題ない…」
言葉を探しているような表情で話を聞いていた猟犬であったが、不意に滲み出た少佐の声に、
それによって、これ以上先の話について踏み込むことを躊躇させる。
こうして自身が
しかし少佐はすぐに溢れ出させた憎悪を引っ込めて深くため息を吐きながらじっと猟犬の目を見て言葉を続ける。
「…それでも、流石に今回はアイツに百パー非がある。お前が手を出さなくてもあのままオレがアイツのことを詰めてただろうからな?…だからお前が必要以上に気を落とす必要はないってことだけは言っておくし、アレについてオレからは責める気は全くないからな?」
「………分かっ…た…」
天井を見上げ、一度ため息を吐いた少佐は、ゆっくりと軍事帽を取り外した。
馬車の側面に取り付けられた窓から見える空は青く快晴に近い空模様であったが、この場にいる2人にとって、この景色をとても晴れた気分で見ることなどできない。
そんな空に向かって少佐は再びため息を吐き捨て、そのまま汚れや傷のない整えられて綺麗な軍事帽を手癖で払い、視線を下に向けながら暗い顔をしている猟犬に対して口を開いた。
「…話はこれで終わりにしようか。これからオレたちはコルディセスへスティラのことを弔いに向かう…が、とりあえず到着するまでの間に少し眠れ、ハリス。…流石にその顔は弔うのに向かないものだ。」
「…あっ……ああ…そう…だな……少し…だけ…」
身体の状態を言い当てられ、問題ないと言おうにも迫力がある少佐の態度に押されて猟犬は不安な表情を作りながら横になろうとする。
そんな猟犬の表情を見て、少佐はじっと猟犬の目を見ながら静かに言葉を紡いだ。
「…何かあってもオレはすぐ動けるように近くにいるから安心しろ。…お前を置いてここから離れたりするつもりはないからな?」
「…!……すまない……少佐…」
「(………お前が、そんなこと言う必要はないんだよ…)」
少佐は、その言葉に一瞬だけ目を伏せた。
少佐は猟犬を安心させるための言葉を向けながら、再び軍事帽を深く被り直す。
「…いや、気にするようなことじゃない…」
これに対して猟犬は数日の間まともに眠れていないためか、被っていた水平帽をそっとすぐ近くに置く。
最後に少佐が目の前にいるのを確認した後、まるで張りつめていた意識が糸を切られたように、ゆっくりと意識を深い眠りへと沈めていった。
*******
「(…っ…!?また…この場所…か…)」
ふと猟犬は重い瞼を開けると、自分が赤く染まったあの時の景観の中で1人佇んでいることに気づいた。
いつの間にか身体中についていた傷は綺麗に無くなっていたが、身体が焼かれるような熱に晒されている。
それにより、呼吸することすらままならない息苦しさに膝をつき、そのまま地面に視線を落とそうとする。
だが、そんな意識に反して目を逸らすことすらできず、あまりにも鮮明に焼きついてくる目の前の景色にただ身体を震わす恐怖を浮かべたの表情を向けることしかできない。
「(……違う…違…う…これは…現実じゃ…ないんだ……ここは…っ……分かってるはずなのに…何でここまで鮮明に…)……っ!?」
空気を取り込むために呼吸が荒くなっているが、取り込むためのこの行動に反して自分の身体に入り込んでくるのは血の匂いの充満した空気のみ。
いつしか自分が意識しない内に口から吐き出される赤黒い液体に気がついたことで、顔を歪めながらその場から逃げ出そうとした。
しかし、地面を這うように動こうにも身体は意思に逆らうように重く、段々とその重さに身体が耐えられなくなり数歩進んだだけで地面に倒れ込んだ。
「(醒めろ醒めろ醒めろ…!)…っぁ……!?」
叫び声すら出せずに頭から全身にかけて湧き上がってくる恐怖に打ちひしがれていると、倒れ込んだ衝撃によって被っていた水平帽が目の前に落ちる。
突然広がったこの景色と状況に、思考もままならないまま急いで落ちた軍事帽を拾い上げようとしたが、赤黒い液体に濡れた手がそれに触れる前に目の前に現れた人影が猟犬よりも先に拾っていった。
「………ぁっ…」
か細い声を洩らしながら水平帽の行方を目で追うと、猟犬の目の前に立っていたのは拾い上げた水平帽を両手で持っているスティラであった。
しかし猟犬を見下ろすその目は酷く冷たいものであり、それを見た猟犬の心臓は張り裂けるほど大きな鼓動となって身体をさらに締め付けてきた。
「(スティ…ラ…?)…ぁ……っぁ…」
『…今度はこうして私から逃げるんですね?意思を捻じ曲げたことで間に合わなかったくせに、すぐ目の前にいたのに、結局届かず…救うことができたはずなのに。』
「…っ!!…ぃ……ぁっ…!!」
目の前に現れたスティラから向けられた言葉を聞いて、猟犬は必死の形相で言葉を伝えようとしたが、口から出でくるのは掠れて何も聞き取れないものだった。
そんな状態の猟犬を影を差し込んだ瞳で見下ろすスティラが軍事帽を被り直すと、その瞬間に今まで見ていたスティラの身体からさらに濃い血の匂いが充満し始め水平帽は赤く染まり、猟犬と同じように赤黒い液体が口や目から流れ落ちてくる。
これを目の当たりにした猟犬はついに息をするのすら忘れ、ただ赤黒い液体が流れ落ちるスティラの表情を黙って見る事しかできなくなった。
『…………ハリス、あなたが私を殺したんですよ?』
「………(………オレ…が…)」
猟犬はうつ伏せのような体勢のまま顔を上げて視点のあっていない目を向ける事しかできていない。
目の前のスティラの言葉をただ聞き入れるしかなく、無力感だけが深く刻まれていく。
そうして立っていたスティラ膝を折り曲げ、太陽のような色の消えた黒い瞳で猟犬を睨みながらそっと赤黒に染まった両手を猟犬の首に伸ばす。
『苦しいんですよね…そしてきっと、今のあなたには私の存在自体がただただ気味の悪いものに見えていますよね?でもこうなったのは何もできなかったあなたのせいなのに…何で今更それから目を背けようとするんですか?』
「…!!?カッ……ッァ……!」
ただ添えられただけなのにも関わらず、猟犬の首から焼かれるような痛みが生じて思わず顔を歪める。
しかしそれでも、猟犬はこれこそが自分が受けるべき痛みであると自然と解釈し、痛みに耐え続けてスティラの顔を見続けていた。
だが痛みはいくら時間が経っても治りを見せる事なく、それどころか時間に比例して痛みと熱が大きくなっていった。
『ハリス…あなたは何なんですか?人を殺すための『猟犬』として生きているはずのあなたに、私の価値はないに等しいはずですよね?何故あなたは、今まで殺した命の価値全てより私を高く見ているんですか?今まで殺した人間にも帰るべき場所、愛すべき人…それがあったはずなのに。』
「…ッ……ァッ…」
『…本当に…身勝手なんですね、
ふと一瞬だけ焼かれる痛みが消えたのと同時に、猟犬の目に映り続けるスティラの表情が悲しさを感じるものになったように見えた。
血に濡れた目の前のスティラの言葉が鋭利な牙となって突き立てられているのにも関わらず、それでも猟犬は言葉を発することも、スティラから目を背けることができない。
そして、その一瞬の時間がすぎた瞬間にスティラの手に力が込められるとあらゆる感覚が遮断し、猟犬の意識は再び熱も痛みも感じない暗闇へと暗転した。
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「……っ!?ハァ…ハァッ!!」
酷く憔悴した表情で飛び起きた猟犬はすぐに自身の包帯の巻かれた首に手を置き、さらりとした感触が伝わってくるのを自分の手で確認した。
ここでさっきまで自分が見ていたのは夢であったと察した猟犬だが、呼吸整えながら腕に巻かれている包帯の隙間を何度も引っ掻くようになぞり続ける。
そして虚な目ですぐ横に視線を送ると、すでに小窓から見える外の風景は夜の訪れを告げており、延々と広がる空の暗闇が目に飛び込んできた。
「(…もう……こんな…に…)…っ!!」
しかし、それを目にした瞬間に意思とは無関係に湧き上がってきたのは、底の見えない不安と胸騒ぎであった。
同時に見ていた暗闇の奥に赤い炎が浮かび上がってきたことによって再び呼吸が荒いものとなる。
すぐに何かに怯えるように近くに置いてあった白い水平帽に手探りで伸ばして掴み取り、それを抱えて身体をガタガタと震わせた。
「はぁはぁ…!…っ……?!少佐…少佐は…!?」
鮮明に記憶にも感覚にも残り続けた夢の景観に呼吸を荒くしていた猟犬であったが、震えが収まらぬまま、近くにいるはずの少佐の姿を探す。
そして暗い馬車の一角に眠りについていた少佐の存在に気がついた。
それを見たことによって猟犬は濁流のように湧き上がっていた不安は小さな残火となってくすぶるように静まり、ここで初めて安堵の混じった息を長く吐き出した。
しかし、猟犬の苦しみを感じる声に反応してか、少佐はスッと目を覚ましてむくりと横になっていた身体を起こした。
「…!…少……佐……っ…」
「……ん?ああ、起きたのかハリス……?なんでそんなに怯えて…」
「……!い…や…何でもない……すまない…休息の邪魔をしてしまった…大丈夫……大丈夫なんだ…まだ何も…」
「…おい、本当に何があった?とりあえず今は落ち着くまでは深呼吸をしていろ。大丈夫だ…話をするのはその後からでいい。」
「しょ、少佐…!?叫び声が聞こえたのですが何が…!?」
先に目を覚ましていた猟犬の表情を見て、少佐は只事ではないことが起きていたことを察し、眠気を完全に覚まして意識を現実へと戻した。
遅れて前からやってきた他の隊員が声をかけてきたが、少佐は言葉を少し交わした後に止まっていた馬車を再び進めるように指示を出した。
そして素早く猟犬の隣に座り、震える背中に手を置いて呼吸を整えるように言うと、猟犬もそれに安心感を覚えたためか身体の震えを少し抑え、目を覚ましてから初めて少佐の目をハッキリと見た。
「…よし、それでいい…寝ている間に居心地の悪い夢でも見たのか?…スチードについては安心しろ。もうすぐコルディセスに到着するが、緊急の連絡は来ていない。」
目を開けてパニックになっていた猟犬の状態を見て、少佐は即座に今の猟犬が求めているであろうことを口にした。
そして、馬車に揺られながらも完全に猟犬の怯えが消えるまで静かに待ち続ける。
しばらくして猟犬は落ち着きを取り戻し、先ほどまで見たことを口にしようとしたが、夢の中で見たスティラの言葉を思い出してそのまま開こうとしていた口を閉じた。
「……何でも…ない……これも…自分が向き合うべきことで……もう誰も…」
「……ハリス、気負いすぎるなと言ったはずだ。何度言葉がつっかえてもいい…オレに何があったのか話してくれないか?」
「…っ……オレ…は…」
少佐はそれ以上の言葉をかけることなくじっと猟犬から言葉が向けられるのを待っている。
この間に猟犬は荒くなった呼吸をゆっくりと整えていき、それが終わると少しずつだが少佐へ自分が感じていたこの息苦しさの原因を言葉として出していった。
「………ずっと理解していなかった……自分が殺した人間にも…家族がいた……帰るべき場所があった…その重さを考えずに、ただ…奪っていた…」
「…!それは…」
今の猟犬は以前レーヴルにて
それこそが、自身にとって大切なものを奪われるという恐怖そのものであった。
あの時に感じた身体が重く蝕まれていくようなその感覚を、猟犬は
しかしそれを実行に移した後でもざわつきは消えることなく、むしろ得体の知れない感覚となって膨張していた。
そしてそれが身体中を伝播していき、少佐がいるコルディセスへ向かうきっかけとなった。
「…あの時……少佐に対して向けていた不安も…同じものだと思っていた……だが、違う…そんなものじゃなかった…」
「……」
「こんなに……恐ろしいものだと理解できずに…オレは……何も考えずに…撃ち殺して…」
「……ハリス。」
自分のしてきたことの重さを本当の意味で理解した猟犬は身体を小さくして震え続けていた。
『命令』という形で今まで実行してきたことは、自覚したことで想像を超える苦しみとなって重くのしかかる。
だが、少佐は言葉を向けずにただ近くにいることで負担をかけさせないようにしており、譫言のように話をしている猟犬の言葉が落ち着いてきたタイミングで名前を呼んだ。
「…何がなんでもそれを忘れろとは言わない。オレはこんなことくらいしかお前に言えないが…いいか?自分のしたことに後悔だけを向けずに、お前が自分の手を血で汚したことで救われるものがあることを理解してほしい。」
「……っ…」
「ハリス、お前は無意味に人を殺してきたわけではない。戦場に立つことで、スチードを守っているんだ。片方から見たら非道なことをしているのは確かにそうだが…それとは反対にお前が戦場に立つことによって多くのスチードの人間は救われている。」
「………」
「より近くで死を目の当たりにするオレたちはそれに気付きにくいが、確かに得るものがあるんだ。…命に価値なんてつけるべきではないが、オレたち人間はどうしてもそれに優劣をつけて生きる生き物だ。それでどうしても苦しむことになるのなら、その時に見るべきは自分の後ろにあるものだけだ。」
「……後ろに…ある…もの…?」
「… お前の後ろにあるもの、それこそがスチードなんだ。迷い、苦しむことになったら、何よりも価値のあるべきものとしてそれを見るしかないんだ。自分のしたことを綺麗に消すことなんて誰にもできないからな…」
「……っ…分から…ない…スチードは…オレの何なのか……考えたことなど…」
「…それならまだ分からないままでいい。無理矢理意味を見出そうとしても、それが感じている苦しみに変わるものになることはないからな?…今は、ただ思う存分吐き出すだけでいい。…コルディセスの到着するまで、思っている胸の内を空っぽにしろ、ハリス。」
「……分かった…」
まだ小さくうなされていた猟犬の名前を呼びながら、少佐は猟犬の正面に座り直し、そこから太陽が登って影が伸びるまで目の届く距離から離れることはなかった。
血のつながりはなくとも並ぶ2人の姿は、親子と見間違うほどであり片方は小さく、もう片方は大きく見えていた。
*******
「…少佐。コルディセスに到着しました。」
「…!…分かった。ここまでオレと同行してくれて感謝する。それで、少しは気は紛れたか?一応聞いておくが、このままついて来るか?」
「………問題…ない……ここまで感謝する、少佐…」
「…いいんだよ。暗い顔のままじゃ、弔うのには向かないからって言っただろ?…ほら、オレたちもすぐに降りて向かうぞ?…悪い、猟犬が降りるまで手を貸してやれるか?」
「もちろんですよ、少佐。…ほら、そんな足じゃ立つ事すら難しいだろ?…んしょ……このまま歩いていけるか?」
「……ああ…感謝する……っ!!」
再び馬車の動きが止まったタイミングで外から他の隊員の声が聞こえると、少佐は隊員たちに礼の言葉をかけて外へと降りていく。
それに続いて猟犬も壁や隊員の手などを支えにしながら降りていくと、陽の光に包まれた外から多くの歓声が猟犬と少佐に対して聞こえてきた。
「…!?(うおっ…こんなに歓迎されるのか…)」
おぼつかない足取りの猟犬を支え、降りた猟犬を支えていたスチードの隊員は、突然の歓声に驚き振り返る。
そこには、猟犬と少佐に歓声を送る多くのコルディセスの人々の姿があった。
しかしそれを見ていた他のスチードの隊員は明るい雰囲気のコルディセスの人間とは対照的に、少し暗い様子でその場に佇んでいた。
「(……そうだよな…少佐と猟犬は2度もこの国を救った英雄のようなもの…だが…今は…)…?…猟犬?そんな顔して一体どうしたんだ?」
「…………………」
「(…?……何をこんなにじっと見て…)」
ふとその隊員が猟犬の方を振り返って見ると、そこには水平帽の影に隠れて黒く染まった目を見開き、その場から動けずにいる猟犬が呆然と立ち尽くしていた。
口をわずかに開いたまま、震える手が帽のつばを掴み損ねる。
最初は、賑やかな声に気圧されたのかと思っていた。
だが…その目は違った。
虚な目で『ある一点』を見続けていることに違和感を感じ、猟犬の見ていた方角に同じく目を向けた。
「………はっ?(……嘘…だろ…?)」
その隊員は猟犬の見ていた場所に目を向けた瞬間に猟犬が何故このような様子になっていたのかを察し、聞こえていた歓声が消え去って同時に言葉も失ってしまった。
…何故なら猟犬の見ていた視線の先、到着したスチードの隊員たちに歓声を向けている多くのコルディセスの人混みから見えていたその間。
「………」
そこには明るい様子の他のコルディセスの人間とは違う、猟犬と同じような虚で暗い影を目の中に落とした、『死んだはずのスティラと瓜二つの人間』が立っていた。