高校一年の夏休み。
僕は祖父がやっていた古い喫茶店のかたずけをしていた。
すると可愛らしい女の子がやってきた。
彼女は、秦谷美鈴といった。


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最近、秦谷美鈴さんが気になって仕方がなくて。気が付いたら書いていました。


はた「やみ」すず

 

僕は、アイドルというか流行全体に疎い。

だから、秦谷美鈴という女の子が現役のアイドルだということは知らなかったし、中学生の頃は人気のユニットにいたなんてこと、想像もつかなかった。

もちろん、そのユニットが解散してしまったことも。

だから僕にとって彼女は、いつもお昼寝をしているのんびりとした女の子だ。

それが心地よかった。

今でも彼女と初めて出会った時のことはよく覚えている。

 

「まだ開店していませんでしたか?」

 

それはある晴れた夏休みの午後。

僕が、祖父のやっていた喫茶店の掃除をしていると、女の子が扉を開けて入ってきた。

すごく可愛らしい女の子だから、びっくりした。

 

「あぁ、えっと。開店というか……」

 

僕は言いよどんだ。

少女は、小柄で繊細で、まだ幾分幼かった。

たぶん僕と同じ、高校1年生か2年生じゃないだろうか。

こんな女の子が、急にやってくるとは思わなかった。

 

「実はもう閉店するんだ」

「閉店? そんな時間ですか?」

 

女の子が首をかしげる。

 

「今日は閉店って意味じゃなくて、これから、ずっと」

「あら」

 

おっとりとした動作で反応をする。

 

「……ここ、僕のお爺さんがやっていた店なんだけどさ。入院しちゃったんだよ」

「入院。お悪いんですか?」

「さぁ、どうだろう」

 

本当は、もう長くないらしいが、それを口に出すのははばかられた。

口に出すと今すぐ祖父が死んでしまうような気がしたからだ。

 

「とにかく、店はもう閉めてしまうつもりだから。それで片付けてるんだよ。親父は今出張中で忙しいから、僕が代わりに」

「そうなんですね」

 

少女が表情を曇らせた。

改めて見ても、すごく可愛い。

祖父がやっていた喫茶店は、いわゆる純喫茶というやつ。

こだわりの豆を焙煎していて、店内はどこか薄暗くて、クラシックをレコードでかけているような店。

普段の客層のほとんどはお年寄りかおじさんだったはずだ。

女の子は、どう見てもこの店に不釣り合いだった。

けれど、たぶん常連だったのだろう。

 

「では、わたしは帰りますね。お邪魔をしてすみませんでした」

 

女の子が、ぺこりとお辞儀をする。

 

「あ、えっと」

 

僕は、思わず変な提案をしてしまった。

 

「まぁ、CLOSEDの札を掛けるのを忘れていた僕も悪いし……珈琲一杯ぐらいなら出そうか?」

「いいんですか?」

 

少女が柔らかく微笑んだ。

僕は少し赤くなった。

 

 

 

 

珈琲を美味く入れる技術なんて持ち合わせていないけど、一応ドリップの仕方ぐらいはわかる。

祖父が気に入って使っていた豆を挽いて、ペーパーに乗せ、お湯で丁寧にドリップした。

 

「美味いかどうか、わからないけど」

「ぜんぜんかまいませんよ。味なんてわたしもわからないですから」

「え、そうなの?」

「はい。ここは、いつも空いているから好きだっただけなんです」

 

うわっ。

思ったよりもはっきりとものを言う子だな。

僕は思わず少女を見つめる。

 

「どうかしましたか?」

 

しかし、少女は僕の内心を見透かしているのかいないのかよくわからないような透明な笑顔で微笑むだけ。

そういうギャップも含めて、なぜか不思議な魅力を感じてしまう。

 

「そ、それじゃ、僕は片付けの続きやるから。それを飲み終わったら、帰りなよ?」

「はい」

 

返事だけは行儀がいい……のだが。

 

「すぅすぅ」

 

しばらくして様子を見たら、眠っていた。

マジか。

珈琲を一杯飲んだら帰る気なんて全く無さそうな態度。

この子……自由のかたまりか。

僕はあきれつつ、苦笑いした。

起こす気にはならなかった。

まぁ、もう少し寝かせといてあげるか。

 

 

 

 

「あら、ここは……」

 

女の子が顔を上げる。

しっかり1時間は寝ていた。

 

「ここは?じゃないよ」

 

僕はため息をついた。

 

「ぐっすりと眠ってたよ?」

「あぁ……そうでした。珈琲をごちそうになっていたのでしたね」

「やっと思い出した?」

「はい。やっぱりこのお店は居心地がいいですね」

 

女の子は全く動じていない。

それから、一言二言他愛もない会話を交わしていると、柱時計が鳴った。

17時だった。

 

「さて、それではそろそろお暇をいたします」

 

女の子が優雅な動作で立ち上がった。

 

「お代はどうすればいいですか?」

「別にいらないよ。もうお店やってないわけだし」

「あら。優しいのですね」

 

優しさかどうかはよくわからないけど。

 

「それではお言葉に甘えて」

 

女の子がお辞儀をする。

お店を出ていこうとしてから、ふと思い出したように振り返った。

 

「ところで片付けって、まだお日にちがかかりそうですか?」

「うーん。帳簿の整理とか、他にもいろんな思い出の品の整理とかもあるし。結構かかるかもね。どうせ夏休みだし、一週間ぐらいは毎日やってるかも」

「そうですか」

 

ふわりと彼女は微笑む。

 

「では、また来ますね」

 

やっていない喫茶店にまた来るつもりなのか?ということよりも、女の子の笑顔がとびっきり可愛くて、僕はそのことで頭がいっぱいになってしまう。

 

「え、また来るの?」

 

なんとかそう問いかけると、女の子は言った。

 

「はい。わたし、最近、暇ですから」

 

理由になっていないような……。

そんな僕の心の中の突込みをよそに、彼女は飄々と自分の名前を告げた。

 

「わたし、秦谷美鈴っていうんです。よろしくお願いしますね」

 

 

いったい何がよろしくなのかは、よくわからなかったけれど。

可愛い女の子と仲良くなれたような気がして、悪い気はしなかった。

 

 

 

 

 

 

その日から、僕と美鈴の奇妙な交流が始まった。

僕が喫茶店の片付けをしていると、ふらっと美鈴が入ってくる。

彼女は決まって、珈琲を注文しておきながらろくに飲まずに昼寝をした。

代金の代わりに、洋菓子を持ってきてくれこともあった。

 

「お料理が好きなんです」

 

僕は実は甘いものが苦手なんだけど、可愛い女の子が作ってくれたという付加価値でついつい嬉しくなってしまう。

というか、女の子が作ったお菓子なんて、食べるのは初めてだった。

僕はドキドキしながら、彼女が持ってきてくれたクッキーやエクレアを食べた。

 

 

一方でその間も、祖父はどんどんと死へと向かっていた。

病巣は彼をむしばみ、彼は彼を無くしていく。

脳の病気であったこともあり、祖父は会うごとに、自我を緩やかに失くしていった。

病室で祖父を見かけるごとに、彼の中に彼ではない別の何かが生まれているような感覚に陥った。

その何かは、彼の体の中の空洞に住み着き部屋を作り、やがてその部屋は祖父の体全体に広がっていくのだ。

 

「ねぇ、なにか、音楽はないのですか?」

 

美鈴の声で、ふと我に返った。

 

「あぁ、ごめん。音楽か。考えてみたら、何も流してないね」

「はい。でも喫茶店には、音楽がつきものですから」

 

もう今は閉店しているわけだけど。

まぁ、音楽をかけるのも悪くはないかもしれない。

祖父は喫茶店でいつもクラシックを聴いていた。

クラシックを聴くために喫茶店をやっていたというべきかもしれない。

事実そのために、30歳の時に勤め先に辞表を出したのだと言っていた。

僕は、バックヤードの真空管アンプとターンテーブルに電源を入れる。

埃をかぶったレコード棚から、いくつかのレコードを見繕った。

 

「えっと。ワルター・ギーゼキングの弾くフランクの交響的変容曲。ギドン・クレーメルのべートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ。これはピアノにマルタ・アルゲリッチが入ってる。それから、フリードリッヒ・グルダのデッカ録音。シューベルトのソナタだ。どれがいい?」

「どれでもいいですよ」

 

あっさりとした答え。

 

「クラシックに詳しいわけじゃないんです。こういうのって、雰囲気ものですから」

 

なるほど。

この子らしい答えだ。

僕はこの数日で、美鈴の性格をなんとなく把握できるようになっていた。

ふんわりマイペースでひょうひょうとしている。

でもそんなところも可愛らしいのだ。

僕は苦笑して、グルダの弾くシューベルトのピアノ・ソナタをかけた。

古いデッカの録音は、少しレンジが狭いけれど、レコードで聴くにはむしろそれがちょうど良いぐらいだ。

 

「お好きなんですか?」

「クラシック?」

「はい」

「それほど好きでもないんだけど。爺さんが好きだったからさ。影響で小さい頃によく聞いたんだ。中学生になったぐらいからはロックばかり聞くようになったけど」

「そうですか」

 

美鈴が、なぜか寂しそうな顔をした。

 

「人って、変わってしまうものなんですね、やっぱり」

 

やっぱり?

何か思うところでもあるのだろうか。

そんな僕の疑問を感じ取ったのか、彼女は言った。

 

「すべては通り過ぎていくものなのでしょうか?」

「それは……いろいろな気持ちの変化のこと?」

「まぁ、そうですね」

 

僕は腕を組んだ。

 

「どうなんだろう。どちらかというと、積み重なっていくんじゃない?」

「積み重なる?」

「うん。だってさ、僕だって中学以降はロックばっか聞いてるってさっき言ったけど、子供の頃に聞いたクラシックのことはちゃんと覚えてる。この曲だって、こうやってかけていたら、爺さんと一緒に聞いた時のことを思い出したりもする。そういうのって、消えてしまうわけではないからさ」

 

言いながらふと、病室にいる祖父の姿が目に浮かんだ。

僕の言葉に反して、彼は彼の自我や記憶を失い、そしてこの世から消えつつあるのだ。

 

「……そうですか」

 

美鈴がつぶやいた。

彼女のその声は、いつもの、たおやかだけれどどこか薄い膜につつまれたような声音ではなく、生々しいトーンがあった。

ただの一言のつぶやきが、妙に僕の耳に残った。

 

「べ、べつに。大したこと言ったわけじゃないよ……って、あれ?」

「すぅすぅ」

 

もう眠っている。

僕はずっこけそうになった。

 

 

 

 

「心地よい音楽なので、ぐっすりと寝てしまいました」

 

悪びれもせずに美鈴が笑う。

まったく、繊細に見えて大胆不敵な女の子だ。

僕は肩をすくめて、「いいよ」と言った。

 

「また来ますね」

「うん」

 

夕暮れが、少女の後ろ姿を包み、どこか幻想的に見えた。

 

 

 

 

それからも祖父の病状は悪くなる一方だった。

彼は日中もほとんど眠るようになった。

しかし、死はまだ彼を完全には支配していない。

彼は、ゆっくりと死へと歩みながら、同時に眠り続けている。

僕は祖父の病室で、窓の外の景色と祖父を交互に眺めながら、イヤホンで音楽を聴いた。

フリードリッヒ・グルダのシューベルト。

ピアノ・ソナタの21番。

長大なソナタは、終わりのない荒野のあぜ道を連想させた。

一歩間違えると迷ってしまいそうだ。

 

 

 

 

「あなたの名前って、なんていうのですか?」

 

ある時、美鈴が僕に問いかけた。

もう彼女がやってくることは日常になっていた。

 

「沖田博昭だよ」

 

僕は答える。

女の子に名前を教えるのって、少し緊張する。

 

「どういう漢字を書くんですか?」

 

僕は、紙ナプキンに自分の名前を書いた。

それを手渡しながら、逆に問いかけた。

 

「君はどんな漢字なの?」

「わたしですか?」

「そう、はたやみすずって名前は知ってるけど、漢字は知らないから」

「うーん、そうですねぇ」

 

少しいたずらっぽく勿体つける。

 

「僕のを教えたんだからさ」

「まぁ、そうですね。それではフェアに行きましょうか」

 

彼女は僕の名前の下に、自分の名前を書いた。

 

はたやみすず

 

「平仮名じゃん!」

 

思わず突っ込みを入れる。

 

「ふふふ」

 

美鈴が笑う。

 

「謎があるほうが女の子は可愛くありませんか?」

「まぁ、別にいいけど」

 

僕は、今日も彼女のために珈琲を入れる。

この数日間で、すっかりと珈琲の淹れ方は手馴れてしまった。

 

「はたやって漢字さ」

「はい」

「八幡の幡? 太秦の秦?」

「畑の意味の畠かもしれませんよ」

 

教えてくれる気はないらしい。

その時、店内の電話が鳴った。

病院からだった。

電話をかけてきた看護婦と短く簡潔に言葉を交わし、僕は受話器を置いた。

 

「何かあったのですか?」

「え?」

「いえ。何処か深刻そうでしたから」

 

僕は少し迷ってから、電話の内容を彼女に伝えた。

 

「うちの爺さん。もうあまり長くなさそうだって」

 

もともと美鈴は、この店の常連だったから、ここへ来たんだ。

祖父のことは、伝えた方がよいかと思ったのだ。

 

「……そうですか」

 

しかし彼女は、さほど大きな反応は見せなかった。

僕は、肩透かしを食らったような気分になったのと同時に、他人の死について詳しく語られても困るだけか、と反省もした。

 

しばらくお互いに無言で珈琲を飲んでいたが、美鈴が口を開いた。

 

「現実に肉体が死んでいくというのと、心の中の何かが死んでいくのって、どう違うのでしょうね」

「え?」

 

それは、唐突な問いかけだった。

 

「心の中の記憶や気持ち。そういうのって、生きていくと、消えていくじゃないですか」

 

僕は少し面喰いつつも、うなづいた。

 

「わたしは、まだ15年しか生きていませんが。そういう経験をしました。友達とけんかをして、元通りにならなくなりました」

 

つぶやいて、珈琲カップを置く。

 

「空になっちゃったんです。心の一部が。こんな風に」

 

飲み干した珈琲のカップ。

 

「いえ。違うかも」

 

首を小さく降る。

 

「自分で、空にしたんです。嫌な気持ちとか、友達を好きだった気持ちとか、楽しい気持ちとか。そういうのを、忘れた方が楽だなって」

 

僕は、答えに窮した。

 

「そういうのって、これまでの自分が死んだのと、どう違うんでしょうか」

「……わからないよ」

 

僕は答えた。

 

「そんな風に考えて、生きてきたことないから」

「この店に初めて来たとき」

 

僕の答えを無視して、美鈴が話を続ける。

 

「死臭がしたんですよ」

「え?」

 

言葉の意味が一瞬、頭に入ってこなかった。

刺繍? 詩集? ししゅう?

 

「おじいさんが一人きりで、珈琲を入れていて。古びた机、かび臭い壁紙、時代遅れのレコード。それにおじいさん自身。すべてから、死の腐乱臭が漂っていました、だから居心地がよかったんです。わたしの心中の小さな死が、もっと大きな死に紛れて薄まるような気がして」

 

そこまで彼女が話してやっと、僕は死臭の漢字を理解した。

 

「でも本当におじいさん、死んでしまうんですね」

 

しばらく、言葉が途切れる。

今度は言葉が死んでしまったようだった。

言葉が死んだ空間の中で、古いレコードのピアノソナタだけが空虚に鳴り響いていた。

 

「今日まで、ありがとうございました」

 

美鈴が立ち上がる。

 

「あのっ」

 

何か言おうとした僕を彼女の言葉が遮った。

 

「いまのこの店は、嫌いです。あなたからは、死臭がしないから」

 

そう言って、少女は店を出ていった。

 

 

 

 

それ以来、彼女はもう二度と喫茶店にはやってこなかった。

二日後の夕刻に、祖父は危篤状態になり、僕が病院にたどり着く前に死んだ。

僕はなぜか、祖父の死に顔よりも、その時の病室の窓から見えた夕日の赤の方を強烈に記憶している。

その日の夜、夢の中に美鈴が出てきた。

彼女はなぜか祖父の病室のベッドで、眠っていた。

すぅすぅと、柔らかな寝息を立て、天使のような寝顔をしていた。

けれども、彼女はまるで、眠ることで死を疑似体験しているように見えた。

僕は怖くなり、病室を出た。

病室の入り口には、彼女の名前が貼ってあった。

それはやはりひらがなで、「はたやみすず」と書いてあった。

僕は、その文字列の真ん中に「やみ」が潜んでいることを知った。

ひらがなの「やみ」は闇になり、僕の夢の世界を塗りつぶした。

 

 

 

(おしまい)

 









いかがでしたでしょうか。
少しでも楽しく読んでいただけたら幸いです。

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