———女子SP最終グループ、第1滑走
シャーッ……
ホランの演技が始まるや否や、観客たちは息をのんだ。
「え!? 加速度速っ!?」
「なんか、これまでの選手と質が違う滑りだね」
今シーズンのホランは急成長した。指導と感覚と身体の成長のバランスとがうまく噛み合ったのか、「円熟」と言っても良いくらいのスケーティングスキルの伸びを見せた。
さらには、シーズンが進むにつれ、ホランは何故か調子が尻上がりに良くなり、感覚が冴え渡るのを感じていた。
『感じる……氷の一粒一粒まで……勝てる!』
その感覚が、スケーティングスキルをさらに研ぎ澄まされたものにしていた。そして、その正確なスキルがそのまま、元々ベテラン並みに芸術性の高かった滑りを押し上げた。それがジュニシニ初年度のグランプリファイナル出場とユース五輪金メダルをもたらした。
その大きな大会での勝利が、さらに彼女に自信と経験の積み上げをもたらした。この世界ジュニアという舞台でもその成長はとどまるところを知らなかった。
『……空気の流れまで感じる。今日の私も冴えている。誰にも負ける気がしない!』
……シュタッ
「おお!」
難しい入りからの3F。高さや幅もさることながら、ジャンプに入るまでの流れすら美しい。
何より、積み重ねた勝利と称号、そして一身に集まる国中からの期待と賞賛の眼差しが彼女にジュニアの頃にはなかった安定感をもたらした。一挙手一投足に集まる視線が彼女の神経を鋭敏なものにした。
わかりやすく言えば、ホランは『見られて伸びる』タイプだった。そんな彼女が一国のエースとしてシニアに上がった事で、注目が彼女のポテンシャルを最大限まで押し上げた。
「ホラン! ホラン!」
「オンニー!」
国内外からの声援が血の流れのように彼女の身体を巡り、パフォーマンスを倍化させる。
『今までで一番の演技だ!』
ラストジャンプも鮮やかに決め、ステップ、スピンともその勢いを保ち決め切った。ホラン自身でも信じられないほどの大満足の出来だった。
『どうだ!』
キスクラに向かいつつ見栄を切るホランの目には、各選手がおののくような緊張の表情をしているのが見えた。ニヤリと笑うホランだったが……
『どうだい? 結束いのり?』
リンクの向こうのいのりを見た時に、ホランの表情は一転、凍りつく様な憎々しげなものになった。
いのりは、笑顔でホランを見ていた。
まるで自国選手の活躍でも見る観客の様に。
———
「おおおっ!?」
間もなく告げられたホランの得点に皆驚愕した。
「ペク・ホランさんの得点……78.28。現在の順位は第1位です」
「やったぞ! ホラン!」
コーチも興奮して叫んだ。現在1位の上桐天音の73.66を4点以上も上回っている。
だが、ホランの表情は冷静だった。
『予想よりかなり伸びた。しかし、あとは結束いのりと胡荒亜子、ミーア・オセロットがどこまで伸びるか、だよね……』
この3人は高難度ジャンプを跳ぶ。いのりと亜子に至ってはコンビネーションでも跳ぶ。さらに、成功率もかなり高い。JGPFの点数までならまだなんとかなる。できればSPで4点前後差をつけておきたいが……
ライリーはホランの点数に気圧されることなくほくそ笑む。
「さすが、ユースとは言え金メダリストね。でも、亜子ちゃんもいのりちゃんも負けちゃいないわよ」
続いて胡荒亜子の滑走。
初っ端から切り札を繰り出す。
……シュタッ、シュタッ
「3A+3T?」
「さすがJGP女王!」
観客が盛り上がる中、亜子は続く3F、2Aも完璧に決め、75.19の高得点を叩き出した。
ホランは歯噛みした。
「3点差をつけるのがやっとか……3AをSPに組み込める選手だし、仕方ないわよね。さすがJGP女王か。
でも……真に警戒すべきは次ね。
ジャンプ構成で追いつく子より、地力で来る子の方が……」
次は、ユース五輪で銀メダルとなったベリンダ。JGPと同じくらいならば、ホランにとって脅威ではないが……
「やっぱりこの子も食いついて来るわね」
ホランがため息を漏らす。JGPからユースの間で伸びていたように、ユースからこの世界ジュニアの間でも伸びが感じられる。今年から脚の調子が回復していることもあり、ジャンプの出来が表現力の高い演技と噛み合って来ている。
……シュタッ
小気味のいい3F。亜子の3A+3Tのように歓声が上がるジャンプではないが、ホランは高く評価した。
「ジャンプがしっかりと音楽の中のアクセントになるように入れられている。ジャンプを抑えてた去年からは一皮剥けている」
そう評価を呟きつつ、ホランは冷静だった。
「でも、想定内」
既にユースでも競り合った相手だ。
間もなくベリンダの点数が告げられる。
「ベリンダ・ベルガマスコさんの得点……75.98。現在の順位は第2位です」
ベリンダはキスクラで苦笑いする。
「ホランさんとかに『想定内』って言われてそうね」
コーチもつられて苦笑いする。
「こっちもかなり伸ばしたと思うんだけどね。……ユイツカ・イノリは何と言ってるかな?」
ベリンダは真顔になった。
「彼女は……『やっぱりベリンダさんの演技は勉強になる』って言っていると思うよ」
「やっぱりベリンダさんの演技は勉強になる」
ベリンダの演技を見ていたいのりは一人うなづきながらそう呟いた。その様子を見ていたホランは、
「結束はさすがに私やベリンダの演技に気圧されている様子はないようね……さあ、しかしこれだけの高得点見せられて、しかも、JGP女王のクラブメイトも点を伸ばしている中でいつもどおりの演技ができるかしら?」
と、食い入るようにいのりに視線を送っていた。
いのりはそんな視線に気づかなかった。いや、観客や会場の空気を読むのに手一杯で、いち選手の視線にまで気づかなかったのだろう。
そして何より、次の次の自分の滑走順が来てリンクに降りるまでの間、頭の中はベリンダの演技の解析に使われていた。
『ベリンダさんの身体の使い方で、JGPの時にもう一つ気がついたポイント。ベリンダさんは肩で表情を作る時に、しっかりと上半身・下半身を使い分けている。だから、足元がステップで忙しい時も、上半身で静と動を分けて表現できている。
司先生とジュナさんに指導してもらって、自分も今日まで練習してきた。ベリンダさんと同じくらいまで表現を作ることができるかが、この大会の自分の課題だ』
次滑走のロビンを挟んで、いのりの順番が来た。今シーズン国際大会で小ミスが続いていたロビンだったが、今滑走ではミスなく、73.48とシーズンベストを叩き出している。
そんな高得点続きの会場にあって、いのりは静かに自分の演技に向けて集中しつつ、リンクへと降りた。
いのりの頭の中は既に切り替わり、リンクを中心としたフィギュアの世界になっている。
司のパーカーの紐を握る。いつものルーティーン。
演技が開始され氷上にエッジの軌跡が走ると、それだけで観客も選手達もひと味違う「巧さ」を感じた。ホランと同じく「滑りの質が違う」事が、一目見ただけの素人にまでありありと感じられた。
いや、ホランの芸術性やベリンダの音楽性では劣るが、滑走技術では2人より上だろう。その滑走技術を土台に表現が積み重ねられていく。
ベリンダが感嘆しつつ分析した。
「いいね……やはり滑走技術がしっかりしていると、表現の技術の乗りが違う。自分のやり方を真似されるのも、ここまで上手くやられると脱帽だね。見せてやる甲斐があるとまで思えちゃう」
コーチが突っ込む。
「それで負けたら困るんだけどね」
ベリンダが笑う。
「そうなんだけどね」
結束いのりは、コーチの明浦路司やクラブメイトの狼嵜光の技術だけではなく、自分のスタイルに合った技術を取り入れ、積極的に磨いてきた。表現の面では今シーズン最も参考としたのはベリンダだった。司やジュナからも、ベリンダの技術はどんなものか、どうやって自分の演技に取り入れていったら良いか聞き、習得していった。昨シーズンからの「振り付けごと感情表現」の急造仕事に比べれば地味だが着実な進歩が見込める練習。結果として芽生えたセンスと身につけた技術が噛み合ってきた。
「来たぞ……」
司が感動して呟く。今年の集大成となる演技ができつつあった。鳥の頭の動きを模した細かな頭の動きも、羽ばたきを模した手の動きも、その土台にある滑走技術と胴体の動かし方の技術の確かさが表現力を後押しするようになった。
まるで工芸品のような演技が終了すると、息を呑んでいた観客から堰を切ったように拍手と歓声が溢れ出し、いのりがキスクラに収まるまで止まなかった。
いのりは満足気にガッツポーズを作った。
「よし、これなら……」
その横の司も緩みそうな表情を必死に抑えながらスコアボードを睨む。
「来るぞ……」
「結束いのりさんの得点……75.86。現在の順位は第3位です」
「やった!」
「いやったああああ!!」
いのりの小さな歓声をかき消さんばかりに飛び出した司の雄叫びに、場内からくすくす笑いが起こる。
そして、一泊遅れて思い出したかのように拍手が湧き起こる。
それを見てホランが悔しげに息を吐いた。
「くう」
高難度ジャンプを持たないベリンダは置くとして、4Sを2本跳んでくるいのりにここまで詰め寄られると厳しい。
こうなれば……
「ホラン、落ち着いて」
苦悶の表情を浮かべるホランをコーチがなだめた。
「この大会の意味を考えて。あなたが勝たなければならない相手はあの子じゃないだろう」
ホランはハッとした。
ライバルの岡崎いるかと同じ日本人というところで、必要以上に敵愾心を燃やしてしまっていたが、ホランはそもそもいのりに勝つ必要はない。もちろん、大会に勝てば得られるポイントはあるが、ジュニア大会にわざわざポイント稼ぎに来たわけではない。ホランは次期ジュニアの枠さえ確保できたら、世界選手権大会に注力すべきだ。
「そうね……熱くなりすぎないようにしないとね」
「そう。世界選手権も待っている。幸い、フリーでは皆の滑りを見てから滑れる」
ホランは余裕を取り戻して、キスクラのいのりを見つめ直してつぶやいた。
「今のうちに笑ってなさい……お手並み拝見といくわ」