ここ数日、朝から扉の鈴が鳴りっぱなしだった。今日も例外ではない。
リヒターの店は、湖上の魔法都市オイサーストでも橋詰に近い通りへ面していた。岩島の上に築かれた街は、南岸から一本だけ伸びる長い石橋に物流も人流も吸い寄せられる。
検問が厳しくなれば、荷も客も、そこでまとめて詰まる。濃い茶髪を後ろへ流し、顎先に短い髭を残したリヒターは、暗い赤紫の長衣の袖を肘まで捲り、朝からその詰まりを修理台の上で見ていた。
窓辺に並べた護符と導魔環は目に見えて減り、代わりに作業台の上には、外した留め金、刻み直しかけの術式板、割れた芯石、魔導灯の底板が積み上がっている。炉の火は朝から落とせず、濡れた革と汗の匂いが熱と一緒に店へこもっていた。警報札の留め具、門番用の結界杭、旅用の護符札。減り方だけで、街のどこへ負荷が偏っているかが分かる。
リヒターは皮肉屋でぶっきらぼうな男だが、仕事の手は速い。焼いた金具を万力へ噛ませ、細い槌で歪みを戻し、導魔環の縁を指先で弾いて芯の通りを確かめる。
術式板の刻みが摩耗していれば細い鏨で掘り直し、芯石の座りが悪ければ削り粉を払ってからもう一度嵌める。見た目の傷と、使った時の癖が必ずしも一致しないことを、彼は手触りで知っていた。
赤紫の長衣は本来よそ行きに見える仕立てなのに、いまは袖口も裾も煤と削り粉で荒れていた。二級魔法使いの資格があるからといって、橋詰の修理依頼を加減してくれるわけではない。朝から昼までのあいだに同じ説明を何度も繰り返し、それでも手を止めない癖が、すでに顔つきへ染みついていた。
午前の三人目は、魔導灯を抱えた宿屋の女将だった。底板が熱で反り、蓋の蝶番まで歪んでいる。橋詰で止められた旅人が夜になると町側の宿へ流れ込み、昨夜は土間と納屋まで寝床に変えたらしい。灯具を熱い状態で外して廊下と物置を何度も持ち回り、梁へ吊り直したせいで、底と蓋がまとめて歪んでいた。
「今夜は無理かい。昨日、橋の外で日暮れを食った客がまとめて来てね。廊下も納屋も灯りが必要だったんだよ」
「底板から替える必要があるな。だが、今は銅板を切らしている。修理は明日だ」
女将は不満そうに鼻を鳴らしたが、作業台の上に積まれた修理待ちを見て、文句を飲み込んだ。灯具を抱え直す手つきまで、朝より荒れている。代わりに、外で拾ってきた噂を一つ置いていく。
「橋詰の空気が変だよ。門を半分開けて、協会の連中まで出てきて、荷置き場を空けさせてるよ」
「協会の連中が出てきたってことは、魔法使いも来るってことだな」
リヒターはそれだけ言って灯具を奥へ回した。女将が帰るより早く、今度は衛兵が結界杭を二本まとめて置いた。先端の金具が歪み、軸には石を擦ったような深い傷が走っている。差し込み口へ乱暴に打ち込んだ傷だった。
リヒターは一本を取り上げ、真っ直ぐな方の目で芯の通りを見た。木はまだ生きているが、替えの芯材がない。短く息を吐き、台へ戻す。
「一本だけだ。夕方に詰所へ回す。もう一本は荷が着いてからになる」
「今日中に二本欲しい」
「欲しいのは分かるが、ない物は入れられん」
衛兵は舌打ちしかけたが、警報札や護符札の修理待ちが積まれた作業台を見て口を閉じた。急ぎと書いた紙が括られた品ばかりだ。誰もが同じ場所で詰まっている。
さらにもう一人、泥の乾いた裾を引きずった男が携行式の発動具を持ち込んだ。掌に収まる銀具で、先端の水晶にひびが入っている。魔法使いらしい旅装だが、目の下に薄い隈がある。
「替えの核を入れる。今日中は無理だ」
「明日、魔物避けの仕事があるんです」
「なら貸し物を協会から借りろ。ここで待つより早いぞ」
男は何か言いかけ、結局は発動具を置いて出ていった。外へ出る足音が、次の足音に飲まれる。午前のうち七人目だった。いつもの月なら半日で二人か三人だ。街は静かなままなのに、中身だけが別の街へ差し替わったように見える。
客が途切れた隙に、リヒターは帳面を開いた。北から入る荷の印と、自分の署名が並んでいる。芯石、銀線、銅環、魔導灯の底板、補修用の薄板。
その箱の隅には、自分用に回す導魔石も押し込ませてあった。店へ出すには半端な大きさだが、工房で術式の噛み合わせを試すにはちょうどいい。二級の資格を看板に店を回すだけで終わるつもりはない。店の修理で術式を詰めることも、自分の魔法を磨くことも、彼の中では同じ手仕事だった。
橋詰が荒れれば、店の仕事も、自分の準備も、一緒に腐る。一級魔法使い選抜試験までまだ一月あると考えるか、もう一月しかないと考えるかで、手の動かし方は変わる。リヒターは後者で考える方だ。
昼前、向かいの店の使いの小僧が裏口から顔を出した。息を弾ませ、「リヒターおじさん」と声を先に飛ばしてくる。
「南からの届け物、まだ橋まで来てないって。岸の見張りが怒鳴ってた」
「俺をおじさんと呼ぶなガキ。遅いだけならもう驚かん」
「遅いだけじゃないよ。荷車が減ってるって。先に戻った馬もいたってさ」
リヒターの手が止まった。小僧は言い切ると、それ以上深入りせずに走り去る。裏口の向こうでは、橋詰へ向かう足音ばかりが増えていた。
正午の鐘が鳴る前に、今度は顔見知りの門番が表から来た。肩に石粉をつけたまま、用件を投げる。
「南から来る荷列で、お前の店の名前が出てる。着いたら荷主確認が要る」
「まだ外か」
「外だ。ひと揉めあったらしくて、到着が遅れているらしい」
門番はそれ以上を知らない顔で肩をすくめた。リヒターは炉の火を落とし、途中の仕事へ布をかけた。表の札を裏返す。荷が着かなければ今日の修理は詰まり続ける。抜かれていれば、明日からの段取りがまとめて崩れる。
店を出ると、オイサーストの空気は朝より乾いていた。湖を渡ってくる風は冷たいのに、人の歩幅は熱に急かされるように速い。橋詰へ向かう坂の途中では、荷役が空車を脇へ寄せ、衛兵が通りを片側に空けていた。
橋詰はもともと広くない。湖上都市へ入る唯一の石橋、その終点に門楼と検問台と荷置き場がまとめて押し込まれている。今日の橋詰は、その狭さが露骨に出ていた。
門は半分しか開いておらず、橋の中央には綱が渡されていた。荷車を一台ずつ内へ入れるつもりらしい。荷受けの衛兵は帳面と荷札の控えを抱え、荷置き場の空きと受け渡しの机を何度も見直していた。
門楼の下では、荷役が縄の巻き直しと空箱の移動を急がされていた。協会職員も、この隊商に魔法使いが二人連れで乗ってくるとは先に聞いていたらしく、照合用の机の一つを空けたまま外を見ている。
橋の内側には荷主が呼び出しに備えて寄せられ、門番は伝令とやり取りしながら外を見ている。壁際に積まれた空箱と板が、受け入れの忙しさを先に示していた。
リヒターは壁沿いの荷主列へ回され、帳面の控えを荷受けの衛兵へ差し出した。汚れた指で引取り札に印を付けられ、「着いた順に呼ぶ」とだけ言われる。橋の外では列の車輪がまだ鈍く軋み、湖霧の向こうで幌の影が重なっていた。どれが自分の荷か、ここからではまだ見分けがつかない。
荷受けの衛兵が、擦れた声で順番を守れと繰り返している。記録紙には泥の指跡が重なり、検査台の脇では別の衛兵が縄と封蝋の道具を並べていた。湖岸側の見張り台で鐘が短く鳴り、門番が橋の外へ身を乗り出した。
「橋の手前だ!右の岩場に敵影!」
怒鳴り声につられて人の頭がいっせいに外へ向く。リヒターも石壁の陰から橋の外を見た。橋へ入る直前の列の中ほどで白い閃光が弾け、馬が前脚を跳ね上げる。横へ流れた荷車から箱が落ち、荷役が一人、道の端へ転がった。
次の瞬間、湖岸の岩場から銀の鎧がいくつも立ち上がる。橋へ続く土道の最後尾では、荷車の縁からひとつの影が飛び降りた。
*
見張り台で鐘が鳴る少し前、南岸の街道終点では、最後尾の荷車に腰を掛けたユーベルが、湖霧の向こうのオイサーストを見ていた。彼女は深緑の髪を高い位置で片側に結い、喉には黒いチョーカーと細い紐飾りを掛けていた。
肩を大きく出した黒い膝上丈の服には、太い腰ベルトが締められ、前腕には長い黒手袋、上腕や脚にも帯が巻かれている。動きやすさを優先した軽装だ。
彼女の視線の先に灰色の水面から岩島が立ち上がり、その上に白い城壁と塔が重なっている。岸から島へは一本の石橋しかない。
そこへ向かう道を、荷車の列が重い音を立てて進んでいた。先頭から最後尾まで揃っていれば多少は見栄えもしただろうが、いまはところどころに隙間が空き、途中で捨てた積み荷の跡が車輪に泥のように付いている。
ユーベルは隊商に雇われたわけではない。オイサーストへ向かう途中で、同じ方向へ行く隊商を見つけて勝手に乗り、勝手に残った。
それでも誰も追い払わなかったのは、最初の夜に街道脇へ出た魔物を一匹、彼女が何でもない顔で斬ってみせたからだ。翌朝、荷主は彼女が三級魔法使いだと聞くと、飯だけは黙って分け前に入れてくれた。
列の真ん中には、青い封蝋を打った細長い箱が三つ、四角い樫箱が二つ、魔力を通す薄板を詰めた筒箱が二本載っていた。上には食料袋と布反が重ねてあるが、その荷台は御者も荷役も角をぶつけまいとして動きが小さい。
荷主はその荷の横を何度も往復し、布の掛け直しだけで手を震わせている。縄を引き直すたび、指先は青い封蝋の箱から先に触れていた。
隊商の前後には、途中で襲われた跡も残っていた。片方の荷車は横板が新しい木で打ち替えられ、別の荷車は幌の端が焼けて色を失っている。空の鞍が括りつけられた馬もいた。結び綱は切り直しの跡が生々しく、誰もその馬の名を呼ばない。
騎乗している護衛は二人。徒歩の護衛が五人。荷主が連れている年嵩の魔法使いが一人と、その弟子の若い女魔法使いが一人。出発した時の顔ぶれからは減っている。御者の手綱は粗く、馬の泡は白く乾いて鼻先に張りついていた。途中で抜けた護衛の代わりに荷主自身が弩を持っているが、持ち方に手慣れはない。
若い女魔法使いは、師の老人に低い声で何か確認していた。老人は疲れた顔のまま頷き、手の中の杖を握り直した。若い女が杖先を道の左側へ向けると、老人も杖の石突きを地に当て、同じ方角へ魔力探知を走らせた。最後尾の荷車に腰を掛けたユーベルも、片足をぶら下げながら、そちらへ薄く感覚を伸ばす。
橋へ近づくにつれて、魔力探知は余計にやり辛くなっていった。魔法使い向けの荷から漏れる微かな魔力、橋詰の検査用結界の反響、湖霧に散った街の魔力灯。その上、左の岩場からの手応えが妙に噛み合わなかった。
若い女魔法使いが触れたはずの岩陰は、次の瞬間には手応えが薄く抜けた。老人が同じ箇所をなぞると、今度は少し横の石陰で同じ抜けが出る。ユーベルが最後尾から探知を滑らせても、掴めるのは、そこに何かいるという気配だけで、輪郭も数も拾えなかった。
御者たちは橋が見えてから首を前へ固めるようになった。誰かが手綱を鳴らすと、後ろの荷車もつられて半歩詰める。護衛は左右へ視線を走らせ続けていたが、そのたびに前の列から注意がこぼれていく。
若い女魔法使いは、城壁より藪と岩場を見ていた。杖を握る指が固かった。年嵩の魔法使いも橋ではなく左岸へ顔を向け、石の並びを目で追っていた。ユーベルは荷台の縁で足を揺らし、口元に笑みを残したまま左の岩場から目を離さなかった。
「左の岩場、何かいます。探るたびにさっきの場所から外れます。正確な位置が取れません」
若い女魔法使いの声に、老人が顔を上げる。杖先を左へ向け直し、岩陰を一つずつなぞった。三つ目の石の手前で手応えが消え、次に拾えたのは少し奥だった。
「間を詰めるな。護衛は左を見ろ」
老人はそう返したが、橋が目に入った御者たちは半歩遅い。門楼の旗も見える。もう着くと思った者から手綱を鳴らし、荷車の間が中途半端に詰まり始める。命令が後ろから前へ伝わる前に、列の形が橋へ吸われていく。
ユーベルの口元の笑みがほんの少し深くなる。
「やっぱり来たね……対人戦の時間だ」
湖岸の岩場で硬い金属音が一つ鳴った。次の瞬間、岩陰に伏せていた影が一斉に起き上がる。銀の鎧、細身の曲刀、黄土色の肌──ギスヤンキだ。
「Lead cart first! Kill the mages!(先頭車を止めろ!魔法使いから殺せ!)」
短い怒鳴りとほぼ同時に、隊長格のギスヤンキから刺すような思念の波が走った。声ではない命令が部隊全体に突き刺さり、射線と踏み込みが揃う。
斜面に散っていた前衛がまず位置を取るより先に、その後ろの弩兵が魔導クロスボウを持ち上げた。腕木の根元に細い金属筒と水晶の装填器を噛ませた異界の弩だ。引き金が絞られるたび、弦が自分で巻き戻り、腹の高さへ並んだ矢が間を置かずに飛び出す。
一斉射の最初の束は、先頭の馬と御者台を狙った。前馬の肩へ黒い鏃が三本続けて食い込み、荷車が横へずれる。二射目は護衛ではなく魔法使いに来た。年嵩の魔法使いが荷車の脇で杖を振り上げ、《防御魔法》を張る。薄青い六角の光面がいくつも噛み合い、前へ開いた。
だが銀の矢はそこで散らず、同じ箇所へ二本、三本と叩き込まれた。鏃の根元に仕込まれた薄い青い筒が割れ、光面に粘るように張り付く。次弾がその一点を穿ち、防壁が砕けた。腹へ入った一本に遅れて、首筋を浅く裂いた二本目が血を噴かせる。
年嵩の魔法使いはよろめいて膝をつき、杖を落としながらも右手を前へ突き出した。
「《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》……!」
だが光は最後まで結ばれない。短く《Misty Step(霧渡り)》した前衛がその手首を踏みつけ、もう一体が横へ現れる。ためらいなく振るわれた刃が首を刎ね、若い女魔法使いの息がそこで止まった。悲鳴は声にならずに喉で潰れた。
斜面の上で隊長格の頭がわずかに傾く。口は動かない。だが次の命令は、頭の芯へ針を打つみたいな鋭さで飛んだ。下にいた弩兵三人が膝をつき、同じ角度で魔導クロスボウを構える。若い女魔法使いが慌てて《防御魔法》を立てるが、一射目で位置を測られ、二射目で六角の光面が大きくたわみ、三射目が肩口を貫いた。
彼女は荷車の横板へ膝をつき、片腕を押さえた体勢で呼吸を整えようとする。傷口に残った青い光片が体内の魔力を乱し、息を吸うたび喉が狭くなる。駆け寄ろうとした徒歩護衛の足首へ、別の前衛が低い位置から剣を差し込んだ。転ばせた相手の背を踏み台にして荷台へ飛び乗る。その手際に躊躇がない。
「Take the sealed crates! Move!(封蝋の箱を奪え!急げ!)」
荷車へ飛び乗った二体は、食料袋ではなく封蝋の色だけを見て縄を切った。青い封蝋を打った細長い箱を優先して外へ投げる。荷主が弩を構えて叫ぶが、狙いは定まらない。
岩場の一段高い場所に立つ隊長格は、肩に紅色の外套を垂らし、その下に銀灰の半板金鎧を着込み、細い曲刀を帯びていた。空いた手に淡い術式の光を滲ませ、時折片手を切るように振り、その都度、思念の命令が部隊へ走る。
右側の岩陰から、今度は握り拳ほどの金属球が転がってきた。荷車の下へ入り込み、次の拍で白く弾ける。視界が焼け、耳の奥で薄い鐘が鳴る。馬が跳ね、御者が目を押さえて身を伏せた。
二台目の車輪脇で破裂した別の球は、閃光ではなく鈍い衝撃を撒いた。見えない槌で車輪と地面のあいだを殴りつけたみたいに、荷台が一度持ち上がる。片輪が外れ、箱が崩れた。
崩れた箱の中身を、ギスヤンキは一瞬で選り分けた。価値のない器具は蹴り散らし、魔力の匂いが強い包みだけを抱えて斜面へ投げ渡す。食料袋は道へ転がしたまま、青い封蝋の箱を脇へ抜く。片輪の外れた荷車がそこで道を塞ぎ、前の列と後ろの列のあいだに馬一頭ぶんの空きが開いた。
若い女魔法使いは肩から血を流しながらも、杖を拾い直して詠唱を繋ぐ。今度は《防御魔法》ではなく、前方の轍へ氷を張ろうとした。だが、その細い声を隊長格は聞き逃さない。片手が斜めに振られ、ひやりと冷たい思念が前衛へ刺さる。
「Shut her up!(あの女を黙らせろ!)」
応じた前衛が短く《Misty Step(霧渡り)》し、次の瞬間には彼女の眼前にいた。刃を振るより先に、柄頭が口元を打つ。詠唱はそこで潰れ、続く柄頭の一撃で若い女魔法使いの頬骨を割る。彼女は足をもつれさせ、轍の脇へ倒れ込んだ。杖が石に当たって乾いた音を立てる。
護衛が彼女に駆け寄ろうとした瞬間、後方の隊長格のギスヤンキが片手を向けた。放たれた《Magic Missile(魔法の矢)》が三条の赤い線となって飛び、護衛の顔面を撃ち抜く。頭を後ろへ弾かれた護衛は、その場に崩れ落ちた。女魔法使いの詠唱を止めたギスヤンキが、止めを刺そうと前へ踏み込む。
最後尾の荷車から、ユーベルは既に飛び降りていた。右手が何もない空間へ沈み、先端が穂先のように尖った黒い長杖が引き抜かれる。口元の笑みが、血の匂いの中で少し濃くなる。踏み込んだギスヤンキが、倒れた女魔法使いへ剣を振り下ろそうとした瞬間、ユーベルは一歩だけ横へ出た。
「《レイルザイデン(大体なんでも切る魔法)》」
見えない斬線が、相手の剣ごと胸を裂いた。銀の板が紙みたいに割れ、血が遅れて噴き出す。倒れた体が若い女魔法使いの足元へ崩れるより早く、別のギスヤンキが短剣を投げる。ユーベルは身を沈めて避け、荷車の横板へ杖を当てて板ごと斜めに切り落とした。木板が斜めに倒れ、短剣の射線を塞ぐ。
銀の鎧の向こうで、別の前衛がこちらを見た。ほんの一瞬、値踏みするみたいに視線が止まる。ユーベルはその目を見返して、楽しそうに口の端を上げた。切れそうなものが増えると、単純に気分がいい。橋は近い。人は死んでいる。列は崩れかけている。その中でも、目の前の線は妙にはっきり見える。
前では、片輪が外れた荷車を支えようとして護衛が叫び、右では荷主が封蝋の箱へしがみついている。倒れた若い女魔法使いは、荷車の陰で頬を押さえたまま泣きも呻きもしない。護衛の怒鳴り、荷主の悲鳴、馬のいななきが別々の向きから重なり、誰も同じ場所を見ていなかった。
「Hold the road! No one reaches the bridge!(橋への道を止めろ!一人も抜かすな!)」
隊長格の念令に合わせ、斜面の弩兵の半分がまとめてユーベルへ射線を寄せる。最後尾で前衛を落としている彼女をここで止めるつもりだ。
最初の一射は荷車の板を穿つ。鏃の根元の青い筒が砕けると、青白い粘りみたいな光が木へ張り付き、次の矢がそこをえぐった。板が内側から裂ける。あれを《防御魔法》で受ければ、同じ場所へ重ねられて抜かれる──ユーベルはそう見た。
だから張らない。足元へ魔力を噛ませ、短い距離を一息で横へ抜ける。頬をかすめた矢が後ろの荷台を抉り、青い光片が裂けた木へ食いついた。遅れて飛んだ三本目が、そこを楔みたいに打ち広げる。
ユーベルに線を取られているあいだも、列の前では別の護衛が橋へ向かって馬を押し出そうとしていた。騎乗護衛の一人が槍を捨て、射線を切るため馬ごと横へ出る。そこへ前衛が短く《Misty Step(霧渡り)》し、次に見えた時には馬腹の下にいた。斜めの刃で馬が崩れ、護衛は落ちる。落ちた男の首を、後ろから来た別の一体がそのまま踏み越えざまに裂いた。
ユーベルは最後尾から列の流れを見て、また別の一体へ向きを変えた。全部は見られない。だが、切るべき線が増えていくのは分かる。岩場の上の隊長格がまだ動かずにいるのも見える。あれまで切れたら面白いと思ったが、距離が遠すぎる。近くで斬れる相手と、列の流れの方が先だ。
耳元を細い音が裂く。別の前衛が《Misty Step(霧渡り)》の瞬きに合わせ、低い位置から踏み込み、曲刀で脇腹を狙ってくる。正面から来ない。荷車の軋みと御者の怒鳴りに合わせて位置をずらし、切れると見える線をわざと濁してくる。
ユーベルは一度だけ目を外し、相手が踏む板と、跳ぶ先の縄と、立ち直るために置く手の位置を先に切った。横板が落ち、縄がほどけ、相手の一拍が遅れたところで、肩から腰へ斜めの《レイルザイデン(大体なんでも切る魔法)》が通る。
銀の鎧が切り裂かれ、体が荷車の脇へ崩れた。
それでも、列の端までは届かない。ユーベルが前衛の一体を落とした時には、別の荷台からまた小箱が引きずり出されていた。視界の左では徒歩護衛が二人がかりで倒れた馬を脇へ寄せ、右では荷主が自分の腕で箱を押さえている。どちらも間に合っていない。
橋へ入る直前、最後尾の車輪が大きく跳ねた。斜面の弩兵が足元の泥へ矢を打ち込み、土ごと飛ばして轍を崩したのだ。荷車が傾き、積んでいた箱が半分滑り落ちる。ユーベルは箱ではなく、車軸のすぐ前へ杖を振るった。切れた土が崩れて車輪の前へ寄り、軸がきしみながら持ち直す。滑っていた箱も縁で止まり、それ以上は落ちなかった。
隊長格はその修正も見ていた。ユーベルの杖が空を払っただけで、車軸の前の土が裂けて崩れた。彼ははすぐに片手を振り、差し向けた二人へ短く怒鳴る。
「Invisible slashes! Don't face her head-on! Hold her attention and cut from the flank!(見えない斬撃だ!正面に立つな!目を引きつけて横から刻め!)」
二人が左右に開く。ひとりは荷台の角に沿って斜め前へ出て剣を見せ、もうひとりは荷車の外側へ回って短剣を構えた。ユーベルの視線が斜め前の剣へ向いた瞬間を狙って、外側から肩や腿へ短剣が飛ぶ。
斜め前の剣は踏み込まず、短剣が間を見て飛び、ユーベルの裾を掠めて黒い布が細く垂れた。斜め前の一体の脚甲に魔力が走り、《Enhance Leap(強化跳躍)》で荷台の縁から跳び上がった。
真上を取って剣を振り下ろしてくる。ユーベルはその落下軌道へ《レイルザイデン(大体なんでも切る魔法)》の斜線を走らせたが、相手は空中で腰を捻り、刃を半枚外して荷台の端へ着地した。切れたのは肩当てと外套だけだ。
着地の勢いを殺さずに、今度は喉笛を狙って横薙ぎが来る。ユーベルは上体を引いてそれを外した。銀の刃が鼻先をかすめ、切り飛ばされた髪が頬に貼りつく。相手は続けて荷台の縁を蹴って剣を返すが、ユーベルは剣が返りきる前に切った。
跳び込んでくる首筋から肩へ《レイルザイデン(大体なんでも切る魔法)》の斜線が通る。喉から肩までが開いて血が噴き出し、体が地面に落ちた。
外側へ回った一体は、味方の跳躍に合わせるつもりだったのか、そのまま短剣を投げてくる。ユーベルは振り返らずに手首を返し、《ゾルトラーク(一般攻撃魔法)》を短く放った。白い光が飛来した短剣を弾き、逸れた刃が荷台の板へ突き立つ。
荷車の脇で身を屈めていた護衛のひとりは、ユーベルが敵を引きつけているのを見て、ようやく荷台へ肩を入れ直した。彼女は誰かを助けたつもりはない。自分の邪魔を減らしただけだ。それでも、列の流れが一息ぶん持ち直す。
橋までの道が狭まる。直後、橋の上で声が上がった。
「ゲナウ殿、右の岩場です!」
ユーベルが顔を上げる。門楼の欄干に、一人の男が立っていた。片手で顔の半分を覆うように額へ触れ、もう片方の手を胸の前へ引く。
「《ディガドナハト(黒金の翼を操る魔法)》」
低く抑えた声が橋の上から落ちると、彼の背後で黒金の羽が開く。その刹那、斜面の一段高い場所にいた隊長格のギスヤンキが、はっきりと顔を上げた。値踏みの気配がそこで消え、片手が鋭く切られる。
「The black-gold mage from the reports! Bring him down first!(報告にあった黒金の翼の魔法使いだ!まず奴を落とせ!)」
念令が下の弩兵へ突き刺さる。斜面の二人が狙いを定め、魔導クロスボウを門楼へ向けた。二人は間を置かずに引き金を絞る。腹の青い筒が続けて光り、矢が二本、ほとんど同時に飛んだ。
直後、ゲナウの黒金の羽弾が弾幕のように降る。飛ばした羽で矢の根元の青い筒へ噛みつかせ、空で割らせる。白い閃光が欄干の外で弾け、二本目は別の羽が石肌すれすれで角度を折る。逸れた矢が門楼の脇で炸け、破片が雨みたいに散った。
返った羽弾は勢いを緩めず斜面へ潜り込む。喉を貫かれた弩兵が後ろへ倒れ、胸を抉られたもう一人も岩の縁に崩れた。手を離れた魔導クロスボウが段下へ転がる。
続けて、長い髪が石橋の欄干を這った。一本ではない。何十、何百もの髪束が橋の側面、荷車の軸、倒れた木箱へ瞬時に噛みつき、その張力で持ち主の体を前へ弾く。長い髪の女は地を走らない。
髪で地形を繋ぎ、橋から荷車へ、荷車から岩場へと跳ぶ。若い女魔法使いへ落ちかけた銀の刃を髪が横から絡め取り、ねじ切るみたいに軌道を外した。別の髪束が頬を押さえた女を荷車の陰へ引きずり、さらにもう一本が橋へ逃げようとしていた護衛の肩を巻いて石橋側へ投げ戻す。
髪の持ち主はそのまま前衛の懐へ入った。手首を落とし、返す髪刃で喉元を裂き、次の一体が振るった短剣は髪束の束ねた盾で受ける。長い髪が橋の欄干を噛んだ刹那、ユーベルは髪の持ち主を見た。名前は知っている。自分が失格処分になった二級試験のときに、監督をしていた一級魔法使いだ。
「……ゼンゼさんじゃん」
声は小さかった。上ではゲナウの羽弾がもう一度散る。今度は弩兵の伏せた岩の縁に沿って曲がり、肩口と手首を正確に拾っていく。魔導クロスボウを握ったままでは次弾が撃てない角度を選んでいた。
斜面の一段高い場所にいる隊長格が、短く片手を切る。下の弩兵がすぐに射線を切り替え、こんどはゲナウへではなく橋へ寄ろうとする者と、ゼンゼに向かう者へ散らして撃つ。
同時に、封蝋の箱を抱えた前衛が先に斜面の裏へ回り、残った前衛は退路の左右を切って下がり始める。橋へ踏み込む並びではない。門楼に一級魔法使いが二人立ったところで、その動きが一斉に速くなった。
「Pull back! Keep the crates!(退け!箱を守れ!)」
閃光弾が二つ、退路の前に転がる。白い光が弾けた隙に、銀の鎧は斜面の裏へ消えていく。追おうとしたユーベルの前を、ゼンゼの髪が横へ走って切った。止められたのではない。橋へ人を通すために、外へ出る線が先に消された。
門楼の上で門番が綱を上げろと叫ぶ。橋の中央に渡された綱が持ち上がり、道幅がぎりぎりまで絞られる。衛兵は橋の外へ走り、生きている者と、まだ引ける荷を先に内へ入れ始める。今日通すはずだった隊商は、その一列のまま半分欠けていた。
先頭の荷車は片輪の縁を削り、後ろの荷車は馬を失って人手で引かれている。橋の外へ目をやれば、道の端に倒れたまま動かない影がいくつもある。それでも門番は、まず生きている者を内へ入れろと怒鳴り、橋板の上から死体をどける手を後回しにした。
生き残った御者、荷主、護衛は、門をくぐるなり荷車の脇や石壁に手をつき、ようやく大きく息を吐いた。膝から崩れかける者もいたが、門番は休むな、生きている者から内へ寄せろと怒鳴る。
橋詰の机は、荷受けの衛兵が並べ直し、荷札の控えと隊商の申告書を突き合わせながら、通せる荷から順に門の内側へ引き込んだ。協会職員はその脇で魔法使いの照合に回り、申告書の記載を追っている。
橋詰の倉庫から運ばれた樽と板が、即席の検査台になる。衛兵は封蝋を確かめ、縄を切り、欠損を書きつけていく。橋の中央では、門番が綱を張りながら荷車を一台ずつ止め、人と荷を分けて流していた。
リヒターは自分の箱が検査台へ運ばれるのを見た。釘が一本抜かれ、側板に刃の薄い跡が入っている。荷受けの衛兵が縄を切り、蓋を上げる。藁は乱れ、芯石の包みは一つ破れ、銀線も引き出されていた。包みの順番まで変わっている。
慌てて漁ったのではなく、一度手を入れて、要るものだけ確かめて抜いた跡だ。店を回す分は残っている。だが、自分で工房へ回すつもりだった導魔石の袋がなくなっていた。抜き方が腹立たしかった。箱を荒らしたのではなく、選んで持っていっている。
導魔石だけではない。細巻きの銀線も一束抜かれ、芯石の包みは数を見たうえで破られている。店先へ並べても高く売れない物はそのまま、修理と調整に使う物が消えていた。橋の外で箱を開けた連中が、荷物の値段ではなく用途で選んでいるのが分かる。明日の修理の順番が、そこでまた一つ組み直しになった。
欠損を調べていた荷受けの衛兵が、札を書きながらようやく顔を上げる。
「申し訳ありませんが、確認が済むまで荷物は渡せません。引き渡しは夜になります」
リヒターは箱の中を見たまま答えた。
「本当に今夜のうちに済むんだろうな?これがないと明日の仕事が止まるぞ」
「規則ですので。止まるのは皆同じです」
衛兵の指先は赤く擦れている。疲れているのか苛立っているのか、自分でも区別がついていない手つきで、欠損分を書き足し、次の荷を呼ぶ。橋の向こうではゲナウがまだ欄干の上から岸を見ながら動かず、黒金の羽は背の後ろで畳まれている。
ユーベルは門をくぐったところで止められた。橋詰の机には、先に回っていた申告書が広げられている。彼女が名乗り、三級魔法使いだと伝えると、協会職員は申告書へ目を落とした。書いてあったのは、年嵩の魔法使いとその弟子の女の名だけだ。
協会職員は彼女の顔と荷車を見比べ、首をひねった。帳面に出ていない魔法使いが一人混じっている。
「名前が帳面に見当たりません。壁際で少々お待ちください。後ほど照合いたします」
ユーベルは言われたまま壁際へ寄った。そこで、開いた状態の箱と、その前に立つ男をまともに見る。赤紫の長衣は仕事着で、袖が煤で黒い。
削り粉と血の匂いが混じる橋詰の空気の中でも、男の身の内に沈んだ魔力は妙に静かだった。量より、収まり方が目につく。ユーベルは、そういう静けさを腕の立つ魔法使いに何度か見ている。
ユーベルは開いた箱へ顎をしゃくった。
「それ、あんたが頼んだ荷物?」
リヒターは顔を上げた。視線が、ユーベルの裾に残った泥と血、空いた手、肩の力の抜け方を順に追う。最後に、目の位置で止まった。彼の目が少し細くなる。
「そうだ」
短く返してから、リヒターは検査台の向こうに立ったまま続ける。
「……あんた、相当腕の立つ魔法使いだな。さっき戦い終わったばかりなのに、息も乱れてない。オイサーストには一級魔法使い選抜試験を受けに来たのか?」
ユーベルは一度だけまばたきをした。
「うん。そっちも受けるつもりでしょ?」
リヒターは頷いた。ユーベルは肩をすくめて開いた箱をもう一度見た。
「中身、結構盗られてるね。戦うのに夢中で見てなかった。ごめんね」
リヒターは箱の中を見ながら、鼻を鳴らす。
「最初から積荷を守る気もなかったやつが、よく言う」
ユーベルは口の端を上げた。
「ありゃ、ばれちゃったか」
その時、別の机で申告書を見ていた協会職員が、隊商の生き残りたちへ顔を上げた。顔色の悪い若い女魔法使いは、割れた頬を押さえた状態で、焦点の合わない目で床を見ている。
「……申告書にヴェルナー氏の名前があります。隊商に同行していた方の中に、ヴェルナー氏はいらっしゃいませんか?身元確認をしたいのですが」
机のあいだに、その声だけが通る。返事はなかった。ユーベルが壁際から女魔法使いを見て、あっさり口を挟んだ。
「ヴェルナーってその子の師匠の名前だよね?その人なら、ギスヤンキに殺されたよ」
職員が顔を上げ、ユーベルを見た。
「……死亡の確認はしたのですか?」
彼女は肩を壁に預けながら頷く。
「首を落とされたから、間違いなく死んだと思うよ」
女魔法使いの肩が止まった。直後、力が抜けたみたいにその場へ崩れ落ちる。彼女は床に膝をついた体勢で顔を上げない。門楼の内側が、そこで一度しんと静まった。
机の周りにいた職員の手が止まる。羽根ペンの先からインクが一滴落ち、荷札を持っていた衛兵も言葉を失った。誰も、すぐには次の段取りを口にしなかった。
リヒターはそちらを見てから、検査台の箱へ視線を戻す。
「あの女も受験予定だったなら、競争相手が一人減ったな」
ユーベルが目だけでリヒターを見て、口を尖らせる。
「ひどーい。優しさの欠片もないね」
言い方のわりに、本気で咎める響きは薄い。ユーベルは崩れた女魔法使いをもう一度見てから告げる。
「でも、まあ……あそこで折れるなら、どのみち無理だったかな」
リヒターはその返しにだけ、ほんの少し口元を動かした。
「だろうな」
橋の外からまた荷車の軋む音がして、門番の指示が短く飛ぶ。どちらもそちらへ顔を向けず、別の方を見た。
門楼の脇では、ゼンゼが早足で机のあいだを抜けてきた。割れた頬を押さえた若い女魔法使いの前で膝をつき、顎の角度と呼吸を確かめる。長い髪の先が床を這い、崩れた体をそっと支えた。
「教会へ運ぶ。治療が必要だ。歩けるか?」
女は答えられない。ゼンゼは近くにいた協会職員へ短く指示する。
「肩を貸してくれ」
職員がうなずき、若い女魔法使いの腕を取る。ゼンゼは髪で反対側の肩と背を支え、女を立たせるようにゆっくり引いた。崩れた膝が一度折れかけたが、そのまま二人で門楼の脇を抜けていく。
ゼンゼの髪が女の背中と肘を支えるあいだ、彼女は一度も泣かなかった。割れた頬の奥から浅い息だけが漏れ、足は自分の意志と関係なく引かれていく。
ユーベルは石壁にもたれながら、その背を見送った。リヒターは検査台の上の箱と、書き足される欠損札を見比べていた。箱の蓋がまた一つ開く。門楼の内側では呼び出しの声と、荷を閉じる縄の擦れる音が途切れず続いていた。
橋の上では綱の鳴る音がまだ続き、門楼の隙間で湖風が鳴った。橋の外では、まだ誰かが怒鳴っている。湖風は朝より冷たく、朝より静かなはずなのに、耳の奥はずっと騒がしい。
*
オイサースト北区の市場を抜けた頃には、午前の用事はだいたい片づいていた。乾物屋で旅用の豆を補い、宿の女将に頼まれていた燭台の芯を一本受け取り、足りなくなっていた薬草も小袋ひとつ分だけ買い足した。
どれも大仕事ではない。宿代の足しになり、明日の食事に困らない程度の用事ばかりだ。フェルンは抱えた包みの紐の食い込みを指で直しながら、残っているのは洗濯と、宿に戻ってからの細かな仕分けくらいだと頭の中で並べた。
北門の正面通りへ出る角で、人の流れが鈍く詰まっているのが見えた。朝に橋の手前で襲われた荷車がまだ通りの端へ寄せ切れておらず、片輪を外した車体と、荷を積み替えるために引き出された空の手車が道幅を食っている。
物売りは籠を抱えて壁際へ寄り、急ぐ者ほど歩幅が揃わない。横板の割れ目から覗く藁には、乾きかけた血がまだ黒く残っていた。近くを通る者ほど、そこを見ないように歩いている。声は大きくないのに、道のあちこちで棘が立っていた。
壊れた荷車の脇で、商人らしい男が吐き捨てた。
「銀鎧のゴミどもめ。朝だけで何人死んだと思ってる」
別の場所では、宿屋の使いらしい少年が空の籠を抱えながら、顔を青くしていた。
「次は門の内側まで入って来るかも……」
衛兵はその間を縫って歩きながら、止まるな、道を空けろと繰り返している。怒鳴り声というほどではないが、喉の奥に苛立ちが残っていた。
シュタルクが橋側を見て眉を寄せる。
「正面の道がだいぶ詰まってるな」
「そうだね。あっちを通るのはやめよう」
フリーレンは立ち止まらず、教会の尖塔が見える脇道へ目を向けた。倉庫の壁と石塀の間を抜ける細い道だ。普段なら遠回りとも言えない裏動線だが、今日は表の通りより人が少ない。
「宿へ戻るなら、こっちの方が早いよ」
脇道へ入ると、表の喧噪は石壁に削られて薄くなった。その代わり、橋側から押されてきた人の気配が狭い通りに残っている。空の荷車が軒へ寄せられ、教会へ納める蝋燭箱が壁際へ積み直されていた。荷を運ぶ修道女見習いが、通りの真ん中ではなく端を選んで歩いている。
フェルンは橋側から流れてくる空気の重さに気づいた。大声で騒いでいる者はいない。けれど、皆が足を速めるくせに、道の先を何度も見ていた。橋の外で何かあったのだと、歩幅と声の尖り方で分かる。
脇道へ入って間もなく、前を横切ろうとした老人が急に止められた。教会側から出てきた若い職員が、掌を立てて道を塞ぐ。
「少しお待ちください」
その声に、フェルンたちも足を止めた。門楼の脇から教会へ抜ける処理線が、一瞬だけこちらへ開いたのだ。
最初に見えたのは、白い壁を擦るほど長い髪だった。その髪が、割れた頬を押さえた若い女魔法使いの肩と背を支えている。女は自分で歩いているというより、足を前へ出されるたびに膝を折らないよう保っているように見えた。
頬の傷は乾ききっておらず、指の隙間に赤が薄く残っている。視線は落ちており、教会の扉も、道を塞いだ人間も見ていない。
長い髪の魔法使いは、躊躇なく教会の方へ向かっていた。女の肩を支える手が早い。足を止めさせないための支え方だ。
フェルンは包みを抱えながら、二人へ目を留める。若い女魔法使いは旅歩きの外套のままで、杖も荷も見えなかった。
フリーレンは一歩だけ進みかけて、すぐ止まった。見ていたのは門楼から教会までの短い距離と、その間で道を空ける職員たちの顔だ。教会の扉はもう半分開いていて、中では別の職員が寝台代わりの台を引いている。
シュタルクは思わず口を開きかけた。
「あの、大丈夫──」
途中で飲み込んだ。いま声を掛ければ、運ぶ足が止まると分かったからだ。髪で支える魔法使いは振り返らず、肩を貸す職員も前を見ている。
若い女魔法使いが教会の扉へ吸い込まれると、止められていた人波がまた少し動き始めた。だが、空気は軽くならない。朝に襲われた荷車はまだ道の途中で止まり、荷台に積み直された木箱の縄が軋んでいる。荷車を押していた男が、前の車輪を睨みながら吐き捨てた。
「奴らが出てくるたびに、こっちの物流が殺される。見張りは何を見てたんだ」
横を通った女が、息を切らしたままそれに被せる。
「ギスヤンキを見るのは朝だけで十分だよ。兵が来るのも遅いし、もう子どもを表へ出せない」
荷を背負った青年も、壁へ肩をぶつけながら顔をしかめる。
「何のために高い税を払っていると思ってんだ。検問ばかり厳しくして、肝心な時はこれだ」
青年の声に、前を歩いていた衛兵が振り返りもせず怒鳴り返す。
「文句はあとだ!今は人を溜めるな!」
怒鳴り声に、前を急いでいた女が肩をすくめ、脇を抜けようとした男が舌打ちを飲み込んだ。シュタルクは苦い顔をする。
「……なんか、空気悪いな」
フェルンは何も言わず、閉まりかけた教会の扉を見ていた。フリーレンは人波の先を見て淡々と言う。
「城壁の前で隊商がギスヤンキに襲われたらしいからね。守備隊に不満を言う人は出るだろうね」
シュタルクが視線を橋側へずらすと、引き上げてきた荷役が、空の担架を壁へ立てかけ、使い終わった麻布をたらいへ放り込んでいた。すぐ脇では若い修道女が桶の水を替え、赤く濁った水を溝へ流している。見て見ぬふりをして通る者ばかりなのに、誰も歩みは緩めない。
教会の脇を抜けた先の広場では、宿の裏口が開け放たれ、女将が帳面を脇に挟んだまま、板箱と毛布の数を確かめていた。土間へ入れるはずの薪束がいったん外へ出され、かわりに桶と布束が並んでいる。
裏口の脇では、空の籠を持った少年が行ったり来たりし、女将の返事を待つたび足先で石を打った。使いがまだ戻らないのか、通りの方を何度も気にしている。
裏手の井戸では、普段より早い手つきで二人が水を汲んでいた。桶の底が石に当たる音が、短い間隔で続く。脇へ伏せた空桶の内側には、洗い流しきれなかった赤茶けた筋が薄く残っていた。
フェルンはその前を通り過ぎた。裏口へ出した品が脇へ退き、桶と布が先に動いている。抱えた包みの紐へ、指が少しだけ深く食い込んだ。さっき教会へ運ばれた女の白い頬が、不意にそこで重なった。
教会の壁を回り込んだ先で、また道が細くなった。表から見えない搬入路で、石壁の間に荷車一台ぶんの幅しかない。そこでも再び、前を行く人間が止められていた。今度は声が低い。
「すまない。道を空けてくれ」
担ぎ手が四人いる。二人が前、二人が後ろ。担いでいるのは布に包まれた遺体だった。外見だけならひとつの身体に見える。けれど、首のあたりは布の巻きが厚い。外套まで重ねてあるせいで、肩から上が不自然に太く、そこを支える前の二人は後ろより慎重に足を運んでいた。
布はきれいに巻かれているのに、重心が落ち着かない。担ぎ棒が揺れるたび、胴より先に首のあたりが遅れて返ってくる。固定してあるのだと、フェルンは見てしまった。何を、とまでは言葉にならない。ただ、普通の遺体ではない。
フリーレンも同じ場所を見ていた。視線は首もとで止まり、次に担ぎ手の手へ落ちる。包みを一体に見せるために巻いているのに、そこだけ持ち替えの回数が多い。黙ったまま、彼女は道の端へ半歩寄った。
シュタルクはいったん目を外したが、担ぎ棒が揺れるたび首もとの布が遅れて動くのが見えて、もう一度そちらを見た。声は出さず、フェルンの包みがぶつからないよう、自分の腕の位置を直す。
遺体を教会の裏口へ向かう途中、担ぎ手たちが短く言葉を交わした。
「ヴェルナー氏は指導役として評判が高い方だったのですが……本当に残念です」
「弟子との関係も良好だったらしい。彼女も気の毒にな」
「首の固定はそのままだ。僧侶が来るまで解くなよ」
「記録札を先に回せ」
石壁に跳ねた言葉で理解してしまった。さっき教会へ入っていった若い女魔法使いの師が、この布の中にいる。
フェルンの指が、包みの紐を握り直す。さっき見た女魔法使いは、泣きも叫びもしなかった。ただ立てなくなって、髪に支えられて教会へ入っていった。その師匠が、いま教会の裏口へ運ばれている。
フリーレンに「行くよ」と言われて、フェルンは返事が遅れた。
「……はい」
自分でも分かるくらい動揺していて、指先の感覚が変わる。落としかけた包みを持ち替え、紐の位置を直した拍子に、フェルンの目がフリーレンの袖口へ落ちた。買い物の途中で引っかけたのか、袖の縫い目が少しばかり捻れている。
考えるより先に、手が伸びた。
「フリーレン様、袖が」
整えてから、フェルンは自分の手が震えていないかを確かめた。もし、あの若い女魔法使いのように自分が急に立てなくなったら。もし、いま隣を歩いている人がいなくなったら。二つの想像が、同じところへ落ちてくる。
フリーレンは袖を直されても礼を言わない。代わりに、フェルンの顔を一度だけ見て、それ以上は何も言わず歩き出した。
少し歩いてから、シュタルクがフェルンの横顔を窺う。
「平気です。急ぎましょう」
答えはいつも通りだったが、語尾が少し薄い。シュタルクはそれ以上聞かず、代わりに荷物の多い側へ自分を回した。
宿へ向かう道でも、人の流れはまだ荒れていた。橋側から戻された荷車が路地の口を半ば塞ぎ、御者が検査札を振って衛兵に何か訴えている。菓子屋の半開きの戸からは焼き釜の熱ではなく、子どもを呼び戻す女の声が先に漏れた。日が高いうちから雨戸を半ば下ろし始める店まであり、通りを渡るたびに誰かが城壁の方を振り向いていた。
日がまだ傾き切らないうちに宿へ戻ると、階下は普段より早い時間からざわついていた。フェルンは部屋へ上がり、抱えていた包みを机に下ろす。豆は棚へ、薬草は紙から出して乾いた布へ、燭台の芯は宿の分と自分たちの分に分ける。手順はいつも通りなのに、紐を解く指が何度か止まった。
紙片を引き寄せ、明日の用事を書き出す。宿代の残り、支部で確認すること、足りない物。細い字が並び、最初の行に書きかけた「フリーレン様を起こす」で筆先が止まる。フェルンは小さく息を吐き、その行を塗り潰して「起床」と書き直した。黒い縁が紙の上に薄く残る。
窓の外はまだ明るかったが、部屋の中にいると橋側の気配がやけにはっきり聞こえた。荷車の軋み、短い怒声、どこかで鳴る鐘。
フリーレンは買ってきた豆の袋を一つ摘んで中身を確かめ、シュタルクは窓辺で外の様子を見たが、二人ともいつもの軽口は挟まない。フェルンは机の端へ包帯と薬草と銀貨を順に寄せ、手早く終えたあとで、指先に残る強張りを意識した。
やがて日が傾くと、三人は階下へ降りた。食堂は昼より混み、旅人や冒険者が壁際まで席を埋めている。暖炉の火に鍋が掛かり、女将が皿を運ぶ。フリーレンたちが隅の卓に着くと、ちょうど隣の長机で泥の乾ききらない外套を着た冒険者たちが、声を潜めたまま言い合っていた。
「東の方で赤い竜を見た奴がいたそうだ。ただ、紅鏡竜とは動きが違ったらしい」
「俺もその話は聞いたな。紅鏡竜なら腹が減った獣みたいに突っ込むが、そいつは違ったそうだ。上で翼を止めて、下を見て獲物を選んでいたとか」
木椀を置こうとしたフェルンの手が、そこで止まる。冒険者の一人は熱い汁を一口で飲み、唇を拭ってから続けた。
「しかも背に人が乗っていたらしい。そいつが何か叫んだら、竜の方が首だけ回して返したとよ」
「竜の声は唸りじゃなかったそうだ。意味は分からなくても、言葉のやり取りだったと」
別の男が両肩を軽く持ち上げる。
「やめてくれよ。竜が人と喋るなんて聞いたことがねえ」
「俺だって聞きたくなかったさ。けど、噂にしては話が揃いすぎてる」
卓の向こうで女将が皿を置く手を止め、すぐに視線を逸らして次の席へ向かった。食堂のざわめきは消えないのに、その机の周りだけ声の熱が浮いている。フェルンは椀の湯気越しにフリーレンを見る。フリーレンは少し目を細め、隣の話をそのまま拾うように言った。
「タヴが言っていたね。ギスヤンキにはレッド・ドラゴンに乗った竜騎士がいるって」
シュタルクが眉をひそめる。
「じゃあ、さっきの話……」
「まだ噂だよ。でも、状況から見て、少数は送り込まれている可能性はあるかも」
フリーレンは椀を持ち上げたまま続ける。
「ギスヤンキが完全に竜騎を揃えたら、ここらへんの都市なんてすぐに落とされるよ。オイサーストみたいに魔法使いが多くて、空からの襲撃に備えがある街なら別だけど」
シュタルクがパンを持つ手を止めて聞いた。
「魔法の仕組みはよく分からないけどよ、結界……とかで防げないのか?」
フリーレンは顎に指を当て、少し考えてから告げる。
「うーん……。断言はできないけど、ギスヤンキや竜だけを選んで弾く結界を、街全体に張るのは難しいと思うね」
フェルンがフリーレンの説明に付け足す。
「物理的に何も通さない結界なら、できる都市もあるかもしれません。でも、荷や人を入れるたびに結界を切り替えることになります。現実的ではありません」
湯気の向こうで視線が落ちる。フェルンは誰に向けるでもなく小さく呟いた。
「……女神様は、この状況をどう思っているのでしょうか」
フリーレンは椀の中を見たまま答えた。
「それは分からないね」
それきり三人は黙って夕食を口に運んだ。パンをちぎる音と皿の触れ合う音のあいだにも、隣の卓では「北の尾根で見えたらしい」、「いや、湖の上を渡ったと聞いた」と噂が形を変えている。
フェルンがスープを飲み干したあとで、喉の奥に残るのは、スープの熱さではなく赤い竜の話だった。
*
帝都アイスベルクでは、朝から紙の擦れる音が絶えなかった。会議室へ運び込まれる文書束は、最初から一つにまとめられていない。仕分け用の板まで卓の脇へ持ち込まれ、書記官が束の置き場を何度も入れ替えている。机の端には未開封の封筒がまだ積まれていた。
泥の乾いた封を残す街道管理の要請、薄い香油の匂いが移った神殿側の文面、商会の紋が押された救援願い、周辺の防衛側から上がってきた被害報告。書記官がそれぞれを机の上へ並べるたび、フラーゼは混ぜるなと短く言った。同じ北部高原からの声でも、出所が違えば求めているものも違う。
帝都の外は冷えているのに、会議室の中は紙と蝋と人の熱で乾いていた。長机の正面には皇帝が座り、その左右に軍務と宮廷の席が並ぶ。フラーゼは皇帝のやや下手に立ち、運び込まれた束を自分の手でもう一度分け直した。
封の色まで違っていた。商会の束は濃い青、神殿側は白、街道維持の報せは茶、北側の防衛筋は赤い細紐で括られている。書記官がそれをほどくたび、紙の端に乾いた泥がこぼれ、蝋の欠片が卓へ落ちた。遠い場所から急いで集められた文書だと、封の傷み方で分かる。
神殿側の封は香油で少し滲み、商会の封蝋は角から欠けていた。街道筋の報せが泥を厚くこびりつかせていて、同じ北部から来た紙でも通ってきた道筋の荒さが違う。
皇帝は最初から椅子へ深くもたれなかった。机の上に開かれた束を順に見て、読み上げられる語の違いを拾っている。軍が欲しがるのは広い任務だ。書く側が油断すれば、支援要請はそのまま出兵理由へ変わる。
北部高原は帝国領ではないが、帝国の真下に広がり、街道も補給も神殿網も繋がっているから無視できない。放っておけば、その揺れは街道沿いに帝都の勘定へ返ってくる。
書記官が封の一通を開き、読み上げに入る。
「ノルム商会より。護衛不足による隊商遅延、街道閉塞、避難民流入に伴う倉庫圧迫。護衛の補助と異常事象の調査支援を請う、です」
次の一通は、別の書記官が受け取った。
「北部の神殿側より。教会施設への負傷者流入、埋葬と治療の逼迫、異常な傷の増加。原因の照合と、再発時の対処助力を請う、とあります」
さらに街道維持の文面、防衛側の報せ、村落被害の記録が続く。どの文にも困窮はある。だが、語尾の向きが違った。護衛を求めるもの、調査を求めるもの、異常行動の実見を求めるもの。
そこへ会議用の案文が、最初から別の重さを持って乗っていた。同じ北から届いた紙でも、封色の違いで机の上の扱いが変わっている。
街道管理の役人は橋と宿場の滞留を口にし、神殿寄りの席は施療院と埋葬地の逼迫を訴えた。北方交易に関わる席は、隊商が止まれば春の仕入れそのものが飛ぶと数字を並べ、周辺領主に近い男は村落焼失の報せを机へ叩きつける。求めるものは同じ救援でも、中身はまったく揃っていない。
宮廷魔法局の席から、別の案が出た。
「綻びと位相痕の照合に限るなら、ラジエル殿を回す理屈は立ちます。北部高原側も、そこで起きている異常が異界由来かどうかを知りたがっている。まずそこを切り分けねば、帝国軍も兵の置き方を誤る」
その意見自体に、フラーゼは反対しない。現地が本当に欲している部分がそこにあるのも事実だからだ。
「照合だけなら、です」
彼女は紙をめくる。
「魔族の異常行動がギスヤンキか、マインド・フレイヤーか、別の要因か。そこを確認するための調査なら通ります。しかし、街道全域の護衛や魔族掃討を一枚に載せれば、別任務になります」
軍務側の男が、その案文を指で押さえた。
「現地が求めているのは結局、綻びの調査だけでは済みません。街道護衛も、襲撃源の排除も、現場では一続きです」
「原文に『排除』の語はない」
皇帝が先に言った。声は低いが、部屋の端までまっすぐ届く。
「誰が足した」
書記官の手が止まり、案文を持っていた男は咳払いで間を繋ぐ。
「こちらで整理する際に、実務上必要な範囲として」
「実務上必要か、こちらに都合がいいかは分けて話せ」
皇帝は視線を紙へ落としたまま続けた。
「北部高原側が何を求めているか。それと、我々が何をさせたいのか。その二つを最初に混ぜるな」
フラーゼはそこで別の束を一枚前へ滑らせた。商会の願いには「護衛」の語があり、神殿側には「照合」と「助力」があり、防衛側の報せには「異常行動の実見」がある。会議用の案文では「対処」と「討伐」が太くなっている。
原文の「護衛補助」が「広域護衛」に膨らみ、「助力」が「制圧準備」に置き換わっていた。紙を並べるだけで差が見える。
「ラジエル殿へ回せるのは、異界干渉の調査と、その痕跡の照合までです」
フラーゼは文面の上に指を置いた。北方交易に顔の利く男が、椅子へ浅く腰を掛けたまま言う。
「現場で起きている事はそんなきれいに別れてはいない。綻びが見つかる場所では荷も焼かれ、人も消える。異常因子のみ見て帰るつもりなら、要請の意味がない」
「要請の意味を膨らませているのは、現場ではなくあなた方です。現場での事象が重なっているのは承知しています。だからこそ、何を誰に背負わせるかを切り分けてください」
神殿寄りの席の男が、低い声で続けた。
「正規軍を大きく出せば、それだけで北部高原への関与が前へ出ます。街道護衛も治安維持も、今の段階で正文に載せれば荒れるでしょう。兵を出す線引きそのものが評議の争点になります」
北方交易に顔の利く男が鼻で笑い、案文の端を爪で弾いた。
「だから客分を使うんでしょう。そうすれば、兵を大きく動かさずに済む」
数人の視線が、会議に出ていないラジエルの席へ一度流れた。フラーゼがその男を見る。
「扱いやすいから使う、では制度が持ちません」
「制度を守って世界が崩れれば元も子もない」
「だから本文を絞るのです」
言い返した瞬間、書記官が二本目の筆を取った。広げようとする理屈と、狭めるための文言が、同じ卓の上で競っている。
別の席の男が、そこで紙を叩いた。
「では観測任務に限ればよい。前線手前の高地へ出し、綻びと異常行動を見せる。遭遇戦になった場合は自衛として処理できる。討伐命令を出さずに、必要な結果だけ得られる」
書記官の筆が、その一行で止まった。誰が聞いても、討伐を言わずに討伐へ持ち込む案だった。
「それが自衛行動であったと、何を基準に誰が判断するのですか?」
フラーゼが問うと、男は論点をずらす。
「安全な後方ばかり回って『何も分かりませんでした』では、北部高原側も納得しない」
フラーゼは初めて相手の目を見て告げる。
「交戦規定、報告系統、現地指揮官の承認。そこまで書けるなら観測任務になります。書かずに『現場判断に任せる』とだけ言うなら、ただの危険地帯への誘導です」
男の視線が紙へ落ちた。フラーゼはさらに畳みかける。
「観測地点の選定は誰の署名で通すつもりですか?彼が死亡した場合、責任は軍務局か、現地指揮官か、それとも『自己責任』の一文で流すのですか?」
皇帝がそこで初めて、肘掛けから手を離した。
「単独先遣は却下する」
短い一言で、部屋の線が一本引き直される。
「前線手前へ投げるだけなら、調査ではなく捨て札の扱いになる。やるなら帝国軍の監視と護衛を伴う。記録も残せ。曖昧な自衛へ逃がす気なら、最初から案文へ出すな」
書記官がその場で案文の一行を細く消した。単独観測。前線先遣。その二語が削られ、代わりに「同行監視」「護衛配置」と書き足される。
軍務側の別の男が、今度は違う紙を差し出した。
「しかし、北部高原でいま最も大きく燃えている火種は神技のレヴォルテです。魔族が徒党を組み、平時にはない攻勢を見せている。ギスヤンキやマインド・フレイヤーの活動で、異常な状態へ押し上げられていると見るなら──」
「推測と事実を一緒くたにしないでいただけますか」
フラーゼが遮った。
「異界干渉の結果として魔族が荒れている可能性と、レヴォルテ討伐を正式任務へ入れることは別です」
「別ではないでしょう。火種の規模を見れば」
「別です」
今度は一語ごとに切った。
「照合の結果、介入の証拠があった。だから現地で発生した戦闘へ自衛として応じた。それならまだ筋が通っています。最初から討伐を本文へ入れれば、帝国が客分へ魔族討伐を命じたことになる」
皇帝も同じ紙を見ていた。指先で「討伐」の語を押さえ、そのまま書記官へ視線を送る。
「本文から外せ」
書記官が筆を引き、語が消える。だが、そのまま空欄にはしない。
「……異界干渉の有無を照合し、その結果として現場で自衛行動が発生した場合はこれを妨げない」
皇帝が読み上げるように言うと、書記官はその文を新しく書き込んだ。完全な拒絶ではない。軍務の席は顔をしかめ、商会寄りの席は逆に目を細めた。どちらも、自分に都合のいい読み方ができる余地は残ったからだ。
レヴォルテの名が出たあとも、机の上の紙は簡単には静まらなかった。商会側に通じる席は補給線の保全を押し、神殿側と近い席は負傷者対応の継続を求め、軍務側は観測範囲を少しでも広げようとする。
フラーゼはそのたび、原文の束を一枚ずつ前へ出した。求めているものの出所が違う以上、任務一枚へ便利に畳ませないためだ。
皇帝はその流れを見て、書き足された行のうち二つを自ら線で消した。広域護衛、街道安定化。その語が残れば、客分の調査はすぐ帝国の常設任務へ変わる。書記官が消した跡へ細い砂を振り、乾かす。
フラーゼは新しい文面を見て、さらに二か所を指で示した。
「『支援』と『派遣』は使い分けてください。北部高原は帝国外です。帝国軍の出兵命令と同じ書き方では、後で揉めます」
「『介入』も削るか」
皇帝が問う。
「削るべきです。向こうから見れば救援の文書で、こちらから見れば関与の口実になります。なら、正文は薄い方が良いかと」
書記官は頷き、語尾を変えていく。支援。照合。同行。報告。紙の上で大きな言葉ほど削られ、残ったのは狭い動詞ばかりだった。
最後に残った本文は、長くない。
綻び・位相痕・異界由来の異常因子の照合。北部高原側から寄せられた異常行動の実見。帝国軍の監視および護衛を伴う現地調査。必要最小限の自衛行動。確認できなかった場合はその時点で終了。現地治安維持は帝国軍と北部高原側の案件。自衛発生時は報告義務を負う。
決裁の言葉が落ちるまで、反対の声は上がらなかった。商会側の男は口を結んだまま紙を睨み、軍務の席は目を伏せたまま指先で卓を叩く。神殿寄りの席は朱の入った正文を二度読み返し、街道管理の役人は消えた「広域護衛」の語を目で追っている。誰の顔にも満足はなかったが、異議を唱える者もいなかった。
「これでいく」
決裁のあと、書記官は会議用の束を左右へ分けた。残す語を本文側、削る語を別紙へ移し、命令文と追補の草案を整えていく。商会、神殿、街道筋、周辺領主から届いた願いは、ここでようやく一枚の派遣文へまとめ直される。
乾ききらない修正に砂が振られ、別の書記官が清書用の紙を机へ運んだ。フラーゼは残す語と外す語が入れ替わっていないかを一枚ずつ見ていく。皇帝は最後に残った本文と追補へ目を通すと、近くの書記官へ視線を向けた。
「ラジエルに伝えよ」
控えていた書記官が一礼して謁見の間を出ていく。会議の席が解かれると、卓の上にはまだ朱と削り屑が残っていた。フラーゼは乾いた本文と追補を揃え、命令書の受け渡しと確認に使う細長い部屋へ向かう。
壁際には書記官が一人、机の上には北へ送る印のついた封筒と、署名待ちの命令文、差し替え用の予備紙が重ねて置かれていた。封蝋用の小皿と砂壺も脇に寄せられている。
ほどなくして、呼びにやった書記官に先導され、ラジエルが部屋へ入ってきた。蒼銀のローブが白い壁と黒い机の間でやけに目立つ。彼は椅子へ腰を下ろす前に、机の上の封筒と文面の束へ目を走らせる。
フラーゼは机の向こうへ命令書を置き、封を切って開いた。
「北部高原派遣の件です。決裁は下りました」
ラジエルは本文を取り、素早く目を通していく。文の冒頭より、削られた痕と残った語を先に追っている。人員配置と報告先の欄で、彼の指が止まった。
「なるほど」
最初に出たのはそれだけだった。紙を置き直し、彼は唇の端を少し上げる。
「討伐という語を抜いたのは賢明だね。あれを残したまま渡されたら、受け取る前に返していたよ」
口元は少し上がったが、目は上がらない。フラーゼは返事を急がず、続きを待った。ラジエルはもう一枚の補足条項へ目を移す。
「単独で前線手前に出す案もあったみたいだね。あれでは、僕が死んでも『事故でした』で片づいてしまう。察するに僕を始末したい派閥があるようだ」
「案は陛下が却下されました」
「消し跡で分かるよ」
彼は紙の端を指で弾いた。
「だけど、これでも現地で任務を足される余地は残る。確認できなければその時点で終了。この一文はもっと前に置いた方がいい。現地治安維持は帝国軍と北部高原側の案件、これも本文に入れておくべきかな。自衛は報告義務付き──そこまで書いてあれば、現地指揮官も勝手に広げにくい」
フラーゼは机の脇から、別の紙を出した。すでに同じ三点を書き加えた追補だった。
「清書へ回す前に、こちらも確認してください」
追補の一行目には、異界干渉が確認されない場合、現地判断で治安任務へ転用してはならない、と皇帝の朱がまだ乾かぬまま入っていた。余白の赤はまだ艶を残し、差し込まれたばかりだと見て取れる。ラジエルが一瞬だけ目を上げる。フラーゼは紙を引かず、机の端に指を置きながら待った。
追補を読み終えたラジエルは、紙を伏せずに答える。
「これなら、現地で任務を増やされても断る根拠が残る。全部は防げなくても、ないよりずっといいね」
「帰還後に文面を照合できます。誰がどこを書き足したか、そこで誤魔化せません」
ラジエルの口元が、ほんの少しゆるんだ。目はまだ紙から離れない。
「助かるよ。現地で文書だけ差し替えて『北部高原側の要請でした』と逃げる手も潰せる」
彼は追補へ署名し、それから本文の末尾にも目を通して言った。
「……骨が折れたね。さぞかし面倒な会議だったと想像できるよ」
「折れる前に止めたまでです」
署名を終えたラジエルは紙を机へ戻した。そこまでは、声も手つきも崩れなかった。だが部屋を出て、書記官の目が切れる廊下の角で、彼は足を止める。
指先が目頭を押さえた。軽口も笑みもない。長く息を吐き、数拍のあいだ目を閉じたまま立ち尽くす。フラーゼは角の手前で足を止めなかった。廊下の先では、書記官が封蝋台へ火を移し、別の使いが清書前の書類束を抱えて走っていく。
やがてラジエルは手を下ろし、歩き出した。蒼銀の裾が廊下の角を曲がる頃には、封蝋の甘い匂いがそこまで流れてきていた。
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