第48話
5月の終わり。
魔界で仕事を済ませた葵は、霊界にいた。
慌ただしく働く霊界案内人の様子と切迫感のある雰囲気に、ただ事ではないと感じた。
魔界と人間界を行き来できる彼女は、境界トンネルのことはすでに知っていた。
依頼とは別に、魔界の現状をコエンマに静かに報告した。
「……そうか」
彼は青い顔をしながら聞いていた。
その後、葵は伝言を預かり、人間界へと戻った。
行き先は、蔵馬の高校。
ちょうど昼休みの時間。
関係者以外立ち入り禁止と書かれた、学校の片隅にある物置の一角。
わずかな光が、すりガラスの窓から入る薄暗さの中、蔵馬と葵は静かに向き合っていた。
「魔界でも、境界トンネルのことは話題になっているわ。慎重に様子を見る者もいれば、我先にと、人間界へ行く準備をする者もいるようね」
葵の声は穏やかで、抑揚のないものだった。
客観的に魔界の現状を伝えていた。
「……コエンマは、すでに首謀者について知っているかもしれないな」
「もしそうだとしたら、言いにくい理由があるのね」
蔵馬は組んでいた腕を解いて、ゆっくりと一歩、彼女に近寄った。
その瞳に宿る光は淡く、冷静沈着な鋭さを帯びている。
そして、境界トンネルの影響で、人間の中にも新たな能力者が出現していること、その能力の特性、今後の動向についてなどを淡々と話した。
空気は静まりかえり、学生たちの喧騒は遠い。
細かい埃の舞う光の筋の中で、お互いの息遣いが、手に届くようだった。
「今回の境界トンネルについては、霊界、人間界、魔界を含めたおおごとになるだろう。簡単に穴をふさいで終わるとは思えない。それでも……オレは行く」
その声は、普段よりも低く、知性を含む静かな抑揚があった。
激情を削ぎ落とした分だけ、底に潜む決意がにじみ出る。
彼の冷静沈着な先見性、判断力、そして覚悟が肌を通して伝わってきた。
(……あなたらしいわね)
蔵馬は妖怪だ。魔界では、力こそ全てで、魔の血には戦いに身を投じる性がある。
一方、葵は、妖怪の中でも稀有な存在だった。戦いに積極的な性質とは程遠い。
彼女は自分ができることと、できないことをわきまえている。
蔵馬が皆まで言わなくても、わかっていた。
暗黒武術会のときもそうだったように、彼は勝算のない状況でも、命をかけて戦いに出る覚悟をもっている。
自分のために、仲間のために、大切なものを守るために。
その潔い生き様を、葵は何度も目の当たりにしてきた。
もちろん聡明で敏腕な彼は、たとえ劣勢の中でも打開策を練るだろうが。
葵は小さく頷き、彼をまっすぐ見た。
頷いたとき、短くなった花色の髪の毛がさらりと揺れる音がした。
「私にできることは、ないかもしれないけど…。心は、いつもあなたの傍にあるわ」
「……。」
彼女は、蔵馬の決意を否定も肯定もせず受け止めた。そして自らの意志をただ伝えた。
その言葉は、力強く、それでいて柔らかくて、切なかった。
(君は…物分かりがよすぎる……)
心の水面がゆらゆらと揺れている。
一瞬指先が動きかけた。蔵馬はそれを、拳を作って理性の海に封印した。
今すぐ抱きしめたい衝動を、心の奥にしまうために。
そして、少し低い繊細な声で伝えた。想いを潜めて。
「……オレも、心は傍にある。君も……気を付けて」
葵はいつもと変わらず、花がそっと開くような微笑みを贈った。
きっと、また会える。そう心からの想いを込めて。
彼女を大切に想うのは変わらない。ただ蔵馬は戦いにいかなければならなかった。
今は、行く道が別となっても、また逢えると信じている。
今までもそうだったように。
道が別とも感じない。本流から一時的に離れただけで、枝葉に分かれた先には一つにつながっているから。
次の日、蔵馬は桑原たちと境界トンネルの中心を調査しに行った。
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霊界からの伝言を蔵馬に伝えて数時間後。
葵は、静かな林の中をひとり歩いていた。
新緑が揺れる枝々の間から、木洩れ日がまだらに差し込み、薄く温かな光が土の小道を染めている。
彼女の足取りは穏やかだったが、思考はどこか遠くに向かっていた。
境界トンネルによる霊界の緊迫、人間界への危機、魔界の不穏。
蔵馬たちの向かう先の不確かな未来を案じていないと言えば、嘘になる。
あらゆる情報が、胸の内で静かに渦を巻いていた。
「……こんなところで何をしている」
低く、乾いた声が、不意に背後からかけられた。
葵が振り返ると、木々の影から、黒い装束の男が姿を現す。飛影だった。
鋭い眼光が、じっとこちらを見据えている。
「飛影」
名を呼ぶと、彼はしばらく沈黙を守った。
視線が、葵の髪にふと留まる。短くなったその様子に気づいても、何も聞かない。
それがこの男らしい。
「……お前に、聞きたいことがある。最近の魔界の様子はどうだ?」
「境界トンネルの影響を受けて、なかなかざわついているわ」
葵は簡潔に魔界の現状を話した。
魔界に流れる人間界の空気、それに対する妖怪たちの反応。
彼女の言葉に、飛影はフンと言って、わずかに眉を動かす。
「飛影は、魔界に戻るの?」
「当然だ。もう人間界に用はない。誰がやったか知らんが、境界トンネルをこじあけてくれたのは、むしろ好都合だ」
そう言い放ち、彼は踵を返した。
背を向けたまま、わずかに間を置いて声を落とす。
「お前には、もう武器を頼むことはないだろう。この騒ぎに巻き込まれんよう、せいぜい長生きするんだな」
それは、彼なりの不器用な気遣いだった。
葵は目を細め、彼の背に向かって静かに言葉を返す。
「心配してくれるのね。ありがとう」
「……フン」
飛影は鼻で笑い、そのまま歩き出そうとした。
だが、どういう風の吹き回しか、数歩進んだところで、再びぴたりと足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
彼は葵の足元から視線を上げ、しばらく彼女を見つめた。飛影にしては珍しい。
鋭い瞳が、森の光を受けてわずかに揺らめく。
「……おい。妙な深入りはするなよ」
その言葉は、風のように冷たく乾いていたが、わずかに感情的な響きを帯びていた。
葵の特殊な感性や、どこか儚い存在感が、魔界の騒動や危険な事柄に自然と引き寄せられる可能性を、飛影は感じ取っていた。
彼はそれを「言葉」にすることを選ばなかった。
飛影なりの最大限の忠告だった。
葵は、その言葉の裏に隠された飛影の意図を受け取る。
「……ありがとう、飛影。気をつけるわ」
飛影はそれ以上言葉を交わすことなく、林の奥へと身を躍らせる。
黒い影は木々の合間に溶けるように消えていった。
彼の背に揺れていたのは、ほんのわずかに覗いた「情」の痕跡。
葵は、その気配が完全に遠ざかるまで、彼の消えた方向をじっと見つめていた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
境界トンネルの闘いから1週間。
蔵馬たちが命をかけた戦場の余波がまだ魔界を包んでいた頃、しばらく魔界に滞在していた葵は、人間界に来ていた。
人間界との境界トンネルから、人間と妖怪が魔界に来て、派手な戦闘を繰り広げた。
これは前代未聞の騒乱となった。
現在、霊界の力によってトンネルは閉じられたが、魔界ではどこに行っても、その話で持ちきりだった。
蔵馬の予見通り、魔界、人間界、霊界を巻き込んだおおごとに発展していた。
魔界では、三大勢力がおのおの動きを見せているという噂がたち、時代が大きく動くような風が吹き始めていた。
彼らが魔界で戦闘を繰り広げていたころ、葵も魔界にいた。
場所は遠く離れていても、戦いの余波は伝わり、彼らがまた大きく強くなったことを感じ取っていた。
(また一つ、彼は先へ進んだのね……)
そう思うと、胸の奥が静かに軋んだ。
葵はまず霊界へ行った。
コエンマに魔界の再診情報を伝えるために、そして彼から先の戦いの様子を聞くために。
霊界は表向きは平生と変わらないが、どこか物々しく張りつめた空気が漂っていた。
境界トンネルのことが発覚したときと似ているが、その時よりもどこか皆視線がよそよそしい。
やがて、執務室に通されると、コエンマはすぐに人払いをした。
「葵。……しばらく霊界には来ない方がいい」
声は低く、明らかに重いものを抱えていた。
「……。」
「察しの良いお前ならわかるだろう。いま霊界は非常事態のまま、何も終わっていない。人間界に滞在するS級妖怪の幽助、飛影、蔵馬の3人をどう抹殺するか、躍起になっている」
これはコエンマの意向ではなく、彼の父閻魔大王のものだった。
コエンマは、伏せていた視線を彼女に向けた。
「彼らと少なからず親交がある妖怪のお前が、ここにいるのは好ましくない状況だ」
「わかりました」
葵の返事は淡々としていた。動じた様子も見せず、ただ事実として受け取った。
コエンマが、僅かに息を呑む。
「…驚かんのか?」
「予想していました。でも、敢えて、あなたと会って確かめたかった」
「……そうか。お前は誰かと同じで、物分かりがよすぎるな」
彼は、組んでいた腕を降ろした。そして彼女に背を向けて、窓の外を見つめた。
何かを言おうとして、言い淀んでいる様子だった。
長い沈黙の中、葵は言葉を静かに待った。
やがて、彼がようやく声を絞り出した。
「……葵。その後、正聖神党からの接触はないか?」
「ええ」
蔵馬とコエンマの尽力のおかげで、5月中旬以降尾行も襲撃もない。
窓を見つめていた彼が振り返った。
「……これは、黙秘してもらっても構わん。以前、枉鵬に襲われたとき、奴はお前を……どうするつもりだったんだ?」
葵は、ほんの一瞬、まぶたを伏せてから答えた。
「……彼は、私を洗脳して利用しようとしていました。そして、それは手慣れている様子だった。私が事実としてわかるのはこれだけ」
一瞬コエンマの目がわずかに見開かれた。
視線を反らして大きく息を吐くと、彼は腹をくくったように虚空を見つめた。
「……わかった」
(彼もまた……大きなものを背負っているのね)
霊界の統治者の一人としての重責と苦悩を、葵は垣間見た。