※本作は「pixiv」にも投稿しています。
藤堂小夜子という少女がいる。
海軍軍人一家に生まれた末娘。家族は父と母、そして三人の兄。
だが、兄の一人は、既にこの世の存在ではなくなっていた。
*
今、戦争が続けられている。日本は、人類は深海棲艦と呼ばれる異形の軍勢と死闘を繰り広げている。
深海棲艦との主戦場は海だった。したがって、各国の海軍がこの戦争の主役となっている。
だが、戦況は厳しいと言わざるを得なかった。人類を上回る
このままでは、世界は亡ぶ――
追い詰められた人類は、最後の手段に打って出た。
*
一〇月四日。妙に寒い日だった。
海沿いの大きな街に住む小夜子は、今日も女学校へ登校している。
友人たちとの会話は相変わらず明るいものとは言いがたい。日本が深海棲艦との総力戦を続けている中では、誰もが仄暗いものを抱えて生きているから、仕方のないことではあった。
そして、徐々に話題にあがらなくなってきた少女の存在があった。
数ヶ月前、小夜子の友人の一人が突然女学校へ姿を現さなくなった。担任の説明ではやむにやまれぬ事情で転校したということだったが、彼女の家族はこの街に住み続けている。ただ、その少女だけが消えていた。
(時子ちゃん……どうしているのでしょうか)
女学校からの帰り道、小夜子はいつも友人を想っていた。
*
長い黒髪と、凛とした瞳。生真面目な性格とはきはきとした言葉遣い。小夜子は、産まれながらにそういった要素を持っていたような娘だった。もちろん、父や三人の兄の影響もあったかもしれない。
「ご息女が男子であれば、一廉の
以前、父を訪ねてきた中佐がそう小夜子を褒めたことがあった。母は内心眉をひそめたようだが、何故か小夜子はそのことばが嬉しかった。
女学校から帰った小夜子は、玄関に見慣れない靴があることに気付いた。女物だった。母の知り合いだろうか。
「ただいま、戻りました」
母が姿を現した。手に、白い封筒を持っている。
「小夜子さん。あなたにお客様よ」
「わたしに、ですか?」
母の持った封筒に書いてある文字が見えた。知っている人名だった。家にも何度か来たことのある海軍士官で、長兄の同期生だ。
「あの方の代理であなたに会いに来たそうよ。大事なお話があるとかで……」
「わかりました」
教科書と文具の詰まった鞄を母に預け、小夜子は小さな応接間に立ち入った。もちろん「失礼します!」と彼女らしく声を出して。
応接間には、一人の女性がいた。小夜子より七つばかり年上のように見えた。左目の瞳の色が、驚くほど薄い。
「藤堂小夜子ちゃん、ですね?」
左右違う色の瞳が小夜子を見つめていた。優しそうな声だったが、小夜子は緊張して息をのんだ。
「はい」
努めてはっきりと小夜子は答えた。女性は微笑んで頷いた。
「わたしたちの提督に代わって、あなたとお話をしにきました。わたしは古鷹。重巡洋艦古鷹です」
彼女の名前に違和感があった。人の名前としては不思議な響きに思えた。
二人は座布団の上に正座した。母が出した煎茶が置かれていたが、古鷹は手を付けていないようだった。
「おかしな名前、って思いますよね」
古鷹はそう言った。正直に言えば、確かに小夜子はそう思った。
「わたしたちは、人としての名前を捨ててきました。もう、人ではなくなったから」
人では、ない。何を言われたのか、小夜子は理解できなかった。
「もう人間じゃないんです、わたしは。わたしたちは」
小夜子は喉の渇きを覚えた。
「わたしたちは『艦娘』と呼ばれています」
「かん、むす……?」
「はい。小夜子ちゃんは、今お父様たちが戦っている相手のことを知っていますか?」
「深海棲艦と呼ばれる化け物の軍隊と父から聞きました」
古鷹は頷いた。そして、黒い右目を手で覆った。薄い黄色の左目が、小夜子を見つめていた。
その左目が、わずかに光っているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
「そう、化け物なんです。普通に戦っていたら勝つことはできない。だから、日本も、ドイツも、イタリアも、アメリカも――世界中の海軍は深海棲艦に対抗するただ一つの手段を選びました」
この人の話を聞いてはいけない。何故か、小夜子の意識がそう訴えていた。だが、彼女はその場を立てなかった。
「人間を深海棲艦に限りなく近づける。人間を化け物に変えるんです」
古鷹は沈黙した。小夜子も沈黙したままだった。
二分ほど経っただろうか、古鷹は右目を隠したまま、ことばを続けた。
「深海棲艦に近づけられた人間は艦娘と呼ばれるようになります。フネの力を得て、深海棲艦と戦えるようになります。ですが、誰でも艦娘になれるわけじゃないんです」
古鷹の左目、その薄い色がさらに薄まる。本当に発光しているようだった。
「艦娘というからには、まず女の子しか深海棲艦に近づけません。そして、フネの力を得る、移植される適性を持っていなければいけません」
小夜子はまだ声を出せなかった。喉がさらに乾く。
「詳しくは軍機なので言えませんが、小夜子ちゃん、あなたは艦娘の適性を持っています。そして、今は一隻でも多くの艦娘が必要なんです。もしできることなら、わたしたちの『鎮守府』へ来てください」
「わたしに……化け物になれとおっしゃるのですか?」
わずかな忌避を込めた小夜子の返答。だが、小夜子の中には忌避より遥かに大きな感情が沸き立ちつつあった。
「それは否定しません。さっきも言いましたけど、艦娘になるということは人間じゃなくなることです。人間であったときのことを、すべて捨てないといけないから」
古鷹が右目を覆っていた手を下ろした。そこには、やはり黒い瞳がある。
「わたしの左目、光ってるんです。光を抑えられないんです。
だから、自分が人間じゃなくなったって思えるんですけどね。そう続けて、古鷹は微笑みを寂しげなものに変えた。
「艦娘になると、まず名前を捨てます。人間だったころの、いちばんの拠り所、名前を」
「名前、を?」
「はい。そして艦娘としての名前が与えられます。そのとき、人間だった誰かが死んで、艦娘に生まれ変わるんです。深海棲艦と、戦うために」
忌避は消えていない。だが、小夜子の中で沸き立つ感情はますますその大きさを広げていく。
彼女は気付いていなかった。その感情が、高揚と呼ぶべきものであることに。
「そして、家族やお友達とは会えなくなります。海軍の兵器、装備になるわけですから。お手紙くらいは送れますが、もちろん検閲されます」
艦娘として捨てるべきもの。古鷹はいくつも挙げていった。本当は、小夜子に艦娘になって欲しくないとでも言うように。
一通り話した後、古鷹は冷めてしまった煎茶にようやく口をつけた。そして、小夜子は沸き立つ感情に従って、古鷹に問いかけた。
「わたしも、戦えるんですか」
「はい。小夜子ちゃんにはその適性があります」
「深海棲艦を沈められるんですか、あの深海棲艦を。章二郎兄さんを殺した深海棲艦を」
二番目の兄。小夜子のことを最も気にかけてくれていた兄。藤堂章二郎中尉は装甲巡洋艦<羅臼>に乗り込んでいた。そして、アリューシャン列島付近で深海棲艦の航空攻撃に遭い、<羅臼>と運命をともにした。
次兄の戦死を知らされたあとも、小夜子は気丈に振る舞った。そうであろうとした。だが、誰もいないところで泣いていた。
そして、小夜子の中に芽生えた小さな想い。
――章二郎兄さんの、仇を討ちたい。
「はい。わたしたちの『鎮守府』に来てもらえるなら」
古鷹が頷く。
だが――小夜子は即答しなかった。艦娘になるとは言わなかった。
母を、残していくわけにはいかない。父も、長兄も、三兄もどこかの海へ行っている。家には、母と、小夜子だけだ。
小夜子が艦娘となれば、母は独りぼっちになる。
「……わかります。お母様を放っておけないんですよね」
小夜子が答えないことはわかっていたのだろう。古鷹はそう言って、一通の封筒を差し出した。封緘されていて、「藤堂小夜子様」と墨書されている。裏には、やはり長兄の同期生の名前。
「提督から、この書類だけ渡してきてほしいと頼まれました。これを小夜子ちゃんが受け取ってくれれば、それでいいと」
あまり長居すると、お母様が心配しますね。そう言って、古鷹は立ち上がった。
無理に小夜子を連れていくようなことはしない。すべて、小夜子が決めることだ。無言のうちに、そう語っているようだった。
「一つだけ、教えてください」
小夜子は、辞去しようとした古鷹にそう問いかけた。
「何ですか?」
「お名前です。古鷹さんの、本当のお名前」
古鷹は三度、静かに微笑んだ。
「……忘れちゃいました」
*
提督と古鷹が呼んだ人物からの封筒。その中には、二枚の紙が収められていた。一枚は艦娘に生まれ変わるための承諾書。古鷹が語ったように、捨てなければならないものがいくつも記されている。その一つめが、「氏名」だった。
もう一枚は「鎮守府」の案内だった。広島の呉にあるらしい。
これをよこした人物は小夜子の兄、長兄の兼一郎の同期生だった。だが、小夜子や長兄に宛てた手紙のようなものは入っていなかった。
小夜子はそれを冷たいとは思わなかった。もし、彼が手紙の一通でもこの中に添えていたら、それは小夜子の情に訴えるためのものになってしまう。あくまで、小夜子自身に考え、決めてもらいたいという気遣いを彼女は感じ取った。
そう、兼一郎兄さんと同じで、真面目な方でした。小夜子は、封筒に書かれている「提督」の名前を見て、そう思い出していた。
*
古鷹と会って、数日が経っていた。
小夜子に封書が届いた。差出人は書かれていなかった。ただ、藤堂小夜子様という達筆な文字には見覚えがあった。宛名の下には、検閲済みを示す赤い印があった。
封書の中には、二枚の便箋と一枚の写真があった。写真を見て、小夜子は驚きの声をあげた。そこには海軍式の挙手礼をとる、小夜子と同年代の少女が写っている。
どこか雰囲気は変わってしまったが、肩のお下げ髪と少年のような眼差しは間違いなく小夜子の友人だった。
小夜子へ
突然の手紙で驚かせてしまったかもしれないね
君が知っている僕の名前は、もう書くことはできない
だから、その名前はもう忘れて欲しいんだ
僕は今、呉にいる
駆逐艦に生まれ変わって、毎日訓練に明け暮れているよ
何度か出撃して、深海棲艦と戦った
こわかった
でも、戦わないといけなかった
君たちをまもるって、決めたから
提督から聞いたよ
小夜子も艦娘の適性があるって
君がどうするのかはわからない
でも、今のままでいてもいいと思うんだ
君たちを艦娘としてまもれること、それは僕にとっての希望なんだ
君が人間のまま生きる、それも希望なんだ
だから、そのまま生きることもためらわないで
君が艦娘になるなら、それはきっとこころづよい
もちろんその時は、僕たちは戦友だ
届かないから、返事は書かなくていい
ただ、僕が書きたくて書いた手紙だから
また、会えたらいいね
時雨
*
艦娘となったかつての友人から封書を受け取った翌日のことだった。
女学校から戻った小夜子を母が出迎えた。ただ、母の様子がおかしかった。
「小夜子さん、いらっしゃい」
母はまだ履物も脱いでいない小夜子を抱きしめた。華奢な小夜子の身体が痛みを訴えるほど、強く。そして母は押し殺した声で泣き始めた。小夜子の肩に温かいものが染み入ってくる。
小夜子は理解した。
また、家族がこの世からいなくなったのだと。
長兄の兼一郎が戦死した。インド洋へ向かった軽巡洋艦<石狩>に乗り込んでいた兼一郎は、深海棲艦によって乗艦ごと海に沈められた。当然、遺体は返ってこなかった。
*
一時的に帰宅を許可された父が戻り、遺体のない長兄の葬儀が簡素に営まれた。
二人の息子を喪った母は泣き通しだった。父は毅然としていて、もっとも父に似ていた小夜子はやはり気丈に涙を見せなかった。
葬儀が終わると、小夜子は古鷹に渡された書類を再び開いていた。そこに記されていることを、何度も、何度も読み返す。
そして、決意した。
兄の仇を討ちたい。あの高揚感は消え去っていた。ただ、時雨と名乗ったかつての友人からの手紙、その一文が小夜子の胸にあった。
君たちを艦娘としてまもれること、それは僕にとっての希望なんだ
護ること。小夜子のたいせつなものをすべて。それは、復讐よりもずっと大きな想いだった。
小夜子は仏間に両親を呼んだ。そして、いつも通りの凛とした声で告げた。
「わたしは、決めました」
兄たちの遺影を背に、小夜子は両親の顔を見渡した。戦うことを決意した、凜とした顔。その瞳に曇りはなかった。
「お父さん、お母さん。小夜子も戦います。艦娘となります」
「小夜子さん……!」
父から艦娘の存在を聞かされていたのだろう、母は泣きはらした目に再び涙を浮かべ、小夜子を抱きしめた。それは、母としての明確な拒絶の意志だった。
「……お母さん、ごめんなさい」
小夜子は、その細腕で母の抱擁を解いた。それは、娘としての明確な拒絶の意志だった。
「わたしは、護りたいんです。お母さんのことも、お父さんのことも、進三郎兄さんのことも。友達のことも、この街のことも。わたしも戦うことができるなら、その道を選びます」
「小夜子」
娘の意志の強さを誰よりも知る父は、静かに小夜子の顔を見つめていた。
「海軍は、厳しいぞ」
「望むところです」
父のことばに、小夜子は居住まいを正した。そして、両親の顔をもう一度見渡した。
「艦娘となる者は、遺書を遺していくことを許されていません。だから、わたしはこの名を、藤堂小夜子の名を遺していきます。わたしがこの家にいたことを、この名に込めて」
小夜子は、不思議と穏やかな微笑を浮かべていた。
*
翌月、藤堂小夜子と呼ばれた少女は「死」んだ。そして、入れ替わりに、一隻の艦娘が「生」まれた。
朝潮型駆逐艦一番艦、朝潮。
新たなる名を得た彼女の長きに渡る戦いの物語は、始まったばかりであった。