地下へと続く階段は、俺たちの侵入を拒むかのように冷たく、湿っていた。懐中電灯の光が照らし出す石壁にはびっしりと苔が生え、一歩進むごとに黴臭い空気が肺を満たす。トーマスさんは、まるで忌まわしい記憶を辿るように、黙って先を歩いていた。
やがて、階段は終わり、俺たちはアーチ状の入り口の前に立った。その奥には、広大な空間が広がっている。トーマスさんが言っていた、地下のワインセラーだ。
懐中電灯で照らすと、無数のワインボトルが眠る棚が、闇の中に整然と並んでいるのが見えた。空気はひんやりと澄み、埃と熟成された葡萄の香りが混じり合っている。
「⋯変わらないな。匂いも、この空気も」
トーマスさんが、ぽつりと呟いた。子供の頃、ここが彼の遊び場の一つだったのだろう。その声には、郷愁とは少し違う、苦々しい何かが滲んでいた。
俺たちは音を立てないよう、棚と棚の間を抜けていく。目指すは、最も奥にある厨房へと続く扉だ。トーマスさんの記憶通り、分厚い樫の木で作られた扉がそこにはあった。
「鍵は⋯かかってない」
トーマスさんは、ドアノブを捻ると、扉の隙間から慎重に中の様子を窺う。俺もその肩越しに視線を送った。
扉の先は厨房だった。静まり返っているが、どこか人の気配が残っていた。
「静かに」
トーマスさんは合図し、滑らかに厨房へと足を踏み入れた。
俺も続く。厨房を抜け、使用人用の廊下へと続く扉の前で、トーマスさんが再び動きを止めた。扉の向こうから、微かに寝息のような音が聞こえる。
トーマスさんは扉をミリ単位で開け、中の様子を窺った。俺も息を殺して覗き込む。廊下の先の椅子に、見張りの男が一人、銃を抱えたまま船を漕いでいた。ドナート派の人間だろう。
ここを通り抜けなければ、階段にはたどり着けない。俺はトーマスさんの目を見た。彼は静かに頷き、先に進む意思を示した。見張りをやり過ごすしかない。
一歩、また一歩。床の軋みそうな場所を避け、壁際を影のように進む。見張りの男の横を通り過ぎる瞬間、心臓が大きく脈打った。男がわずかに身じろぎし、俺たちは凍り付く。だが、彼は再び深い眠りに落ちていった。
廊下の突き当たりに、目的の階段があった。トーマスさんの言っていた通り、古びた木製の階段は、体重をかければ盛大な音を立てそうだった。
「⋯こいつは厄介だ」
トーマスさんが先に、壁に手をついて体重を分散させながら、ゆっくりと足を乗せた。
ミシッ⋯。
小さく、だが静寂の中では心臓に突き刺さるような音が響いた。俺たちは動きを止め、階下の様子を窺う。反応はない。
俺たちは呼吸を合わせ、一段、また一段と、祈るような気持ちで階段を昇った。十数段の階段が、永遠に続くかのように長く感じられた。
二階にたどり着いた時、俺たちはようやく安堵の息を吐いた。目の前には、月明かりが差し込む長い廊下が伸びている。東棟だ。壁には、金縁の額に収められた肖像画がずらりと並び、その瞳が闇の中から侵入者である俺たちを見つめているようだった。
トーマスさんが、その場に立ち尽くした。初代、二代目⋯ヴォルペを築き上げてきた男たちの肖像。その中の一つ、一番新しい肖像画の前で、トーマスさんの足は完全に止まった。鋭い眼光でこちらを睨みつける、壮年の男。おそらく、現組長であり、トーマスさんの父親でもある男の肖像画だ。
「⋯親父」
絞り出すような声だった。憎しみ、反発、そして捨てきれなかった愛情。二十年分の複雑な感情が、その一言に凝縮されていた。
「トーマスさん」
俺は静かに声をかけた。
俺の言葉に、トーマスさんはハッと我に返った。彼は父親の肖像画をまっすぐに見据えると、何も言わずにその前を通り過ぎた。
廊下の突き当たり。重厚な扉が、俺たちの行く手を阻むように鎮座していた。組長の書斎だ。
扉の前に見張りはいない。だが、扉の隙間から、蝋燭の灯りのような光が漏れている。中に誰かがいる。
トーマスさんは一度、俺の方を振り返り、無言で頷いた。覚悟は、決まっている。俺も頷き返し、周囲を警戒する。
トーマスさんは深呼吸をすると、冷たい真鍮のドアノブに手をかけた。音を立てないよう、ゆっくりと、慎重にノブを回す。
カチリ、と小さな金属音が響き、扉がわずかに開いた。
俺達は扉をくぐった。
扉の先、部屋の中央で。痩せこけ、肖像画とは別人のように様変わりした老人が、車椅子に座って静かに窓の外の月を見上げていた。
「⋯親父」
トーマスさんの唇から、二十年の時を越えた言葉が漏れた。
その声に反応し、車椅子の老人が、ゆっくりとこちらに顔を向けた。その衰えた瞳が、扉の前に立つ息子を、確かに捉えた。
「⋯トーマス、か」
掠れた、だが威厳を失わない声が、静寂を破った。組長――ヴィンセント・ヴォルペは、車椅子に深く身を沈めたまま、ゆっくりと続けた。
「二十年ぶりだな。随分と老けたものだ」
その言葉には、非難も、驚きもなかった。まるで、息子が昨日の夕食に出ていったかのような、静かな口調だった。
トーマスさんは、凍り付いたようにその場に立ち尽くしていた。父親の変わり果てた姿と、変わらないその本質を前に、用意してきた言葉が見つからないようだった。
「どうやってここへ入った。ドナートの目は節穴ではないはずだ」
ヴィンセントは、俺に視線を移した。値踏みするような、鋭い視線だ。
「お前が、息子の連れてきた知恵袋か」
俺は黙って頭を下げた。ここで余計な口を挟むべきではない。これは、彼ら親子の二十年ぶりの対話なのだ。
「⋯親父」
トーマスさんが、ようやく声を発した。
「話がある。あんたは、遺言を用意していると聞いた。そして、ドナートがファミリーを我が物にしようと動いている。あいつは掟を破った! 俺の村に、俺の家族に手を出したんだ! ヴォルペの名の下に、無関係な人間を脅すような男が、このファミリーで好き勝手にしていいはずがない!」
その叫びは、書斎の壁に吸い込まれていった。ヴィンセントは、ただ静かに息子の言葉を聞いている。その表情からは、感情が読み取れない。
「⋯そうか」
しばらくの沈黙の後、ヴィンセントは呟いた。
「お前にも、守るべきものができたのだな」
その言葉は、トーマスさんの心の芯を静かに揺さぶった。父親に、初めて一人の男として認められたような、そんな感覚があったのかもしれない。
「親父⋯あんたは、どうするつもりなんだ。このファミリーを、ドナートの好きにはさせないでくれ」
トーマスさんの懇願に、ヴィンセントはゆっくりと車椅子を机の方へ向けた。そして、引き出しから、古びた一冊の革張りの手帳を取り出した。
「遺言状など、まだ書いちゃおらん。死ぬ前にやるべきことが残っているからな」
彼は、その手帳を机の上に置いた。
「俺の死後、ファミリーは必ず割れる。それを力でまとめ上げられるのは、今のヴォルペではドナートしかおらん。奴の非情さと冷徹さこそが、ファミリーの存続には必要かもしれん。⋯だが、奴はもはやヴォルペの人間ではない」
「どういうことだ?」
「ドナートは、ファミリーの資産を海外のシンジケートに横流ししていた。長年にわたってな。このファミリーを内側から食い尽くし、乗っ取るための準備だ。その証拠が、この手帳に記してある」
衝撃の事実に、俺とトーマスさんは息を呑んだ。ドナートの行動は、単なる後継者争いではなかった。ファミリーそのものに対する、周到な裏切りだったのだ。
「なぜ、それを今まで⋯!」
「泳がせていた。奴の繋がりと金の流れ、その全貌を掴むためだ」
とヴィンセントは咳き込みながら言った。
「だが、俺の命も尽きかけている。もはや、俺の手で奴を粛清することはできん」
彼は、トーマスさんの目を真っ直ぐに見据えた。
「トーマス。お前が今日ここへ来たのは、天の配剤かもしれん。お前が臆病なままなら、この手帳は俺と共に燃やすつもりだった。だが、お前は来た。家族を守るという、揺るぎない覚悟を持ってな」
ヴィンセントは、その手帳をトーマスさんに向かって差し出した。
「二つの道がある。一つは、この手帳をここに置いて逃げ帰ることだ。そうすれば、ドナートがファミリーを乗っ取り、お前の家族は永遠に狙われ続けるだろう。奴は、脅威の芽を徹底的に摘む男だからな」
彼は、苦しそうな息の下で続けた。
「もう一つの道は、この手帳をセルジオの元へ届けることだ。ヴォルペ・ファミリー最大の裏切りの証拠をな」
「これを、セルジオ翁に⋯?」
「そうだ。セルジオはファミリーの良心。この手帳があれば、奴は動く。いや、動かざるを得なくなる。ファミリーの古株たちを集め、ドナートを断罪するための大義名分が立つからだ」
それは、ファミリーの未来を左右する、まさに乾坤一擲の一手だった。成功すればファミリーは浄化され、失敗すればトーマスもろとも全てが闇に葬られる、あまりにも危険な賭けだった。
「ドナートは、俺が証拠を掴んでいることに薄々感づいているだろう。今にも、全力でお前たちを殺しに来るはずだ。この手帳が世に出れば、奴は全てを失うのだからな。だが、もしお前がこれを届け、セルジオがドナートを排除することに成功したなら⋯」
ヴィンセントは、そこで言葉を切った。
「俺に⋯ファミリーを継げと、言うのか⋯?」
トーマスさんが迷いと苦悩の表情を見せた。
「馬鹿を言え」
ヴィンセントは吐き捨てた。
「ファミリーをどうするかは、ドナートを排除した後の、セルジオと他の幹部たちが決めることだ。解散させるもよし、信頼できる誰かに継がせるもよし。だがな、トーマス。お前がこの戦いに勝てば、少なくともお前の家族を脅かす者は、ファミリー内部にはいなくなる」
それは、逃げるのではなく、自らが脅威を排除する側に立つという選択。家族を守るための、最も困難で、しかし唯一確実な道だった。
「選べ、トーマス。お前の家族を守るための、お前自身の戦い方を」
その時、廊下の向こうから複数の足音が急速に近づいてくるのが聞こえた。見張りが異変に気づいたのか、あるいは最初から罠だったのか。
「アレン、行くぞ!」
トーマスさんは手帳を掴み、即座に決断した。その顔には、もう迷いはなかった。
ヴィンセントは、騒がしくなる屋敷の気配に眉一つ動かさず、静かに目を閉じた。
「トーマス。お前が生まれた日、俺は嬉しかったぞ⋯」
最後に聞こえたヴィンセントの言葉を背に、俺たちは書斎を飛び出し、再び闇の中へと身を投じた。