宇宙世紀0090。
人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになってから、遠からず百年の節目を迎えようとしている。
かつて宇宙移民政策を構想した地球連邦のエリートたちは、どのような未来を想定していたのだろうか。少なくとも、ここまでの無秩序を予想していた者はいなかったはずだ。
スラム街ですれ違う難民たちを見ながら、彼女はふとそんなことを考えた。
一年戦争の勃発以来、繰り返される騒乱は宇宙から多くの命と共に居住地を奪っていった。宇宙は難民たちであふれかえり、辛うじて喪失を免れたコロニーには無数のスラム街が乱立する。
「…………ッ」
感受性に優れた彼女は、望まなくても難民たちが抱える虚無と絶望を鋭敏に感じ取ってしまう。周囲の空気がドロリと淀み、息苦しさすら覚えるようだった。
「考え事かい? ナナイ」
不意にかけられた声に、ナナイ・ミゲルは我に返った。
「申し訳ありません。大佐」
一瞬でも気が緩んでしまったことを猛省しながら、ナナイは隣を歩くサングラスの男──シャアに謝罪する。
「謝る必要はない。疲れが溜まっているのだろう。私は一人でも大丈夫だから、ゆっくり休んでほしいのだが」
「そういうわけにはいきません」
シャア・アズナブルの提案を、ナナイは即座に断った。
そもそも、地球連邦が躍起になって捜索しているシャアが、堂々と街中を歩き回っていることが無法なのだ。この上、一人にさせるわけにはいかない。
「そうか。なら、調査を続けるとしよう。少しでも早く、例の不埒な集団を突き止めなければ」
どうしてナナイたちは二人でスラム街を歩き回っているのか。
きっかけは数日前、この街にナナイたちが潜伏を始めてすぐのことだった。難民に紛れて情報収集をしていた部下の一人が、ジオン残党狩りを名乗る集団に襲われて重傷を負ったのだ。
ナナイにとって不幸だったのは、その報告を偶然シャアの方が先に受け取ってしまったことだろう。
彼女が気づいた時には、シャアは自ら部下を襲った集団について調査するべく、単身スラム街へ繰り出そうとする直前だった。
「たしかに人手は足りませんが、なにもあなたが自分で対処しなくても」
「そう言うな、ナナイ。その集団、ジオン残党狩りを名乗りながら、実態は見境なく難民を襲って憂さを晴らしているならず者と聞く。大事の前であろうと小事に目をつむるわけにはいかん」
毅然として言い放ってから、シャアは理解を求めるようにそっとナナイの肩に手を置く。
「私だって世直しを志す人間だ。ならば、自分の手が届く人々の日常ぐらいは守る気概を見せねばな」
言いたいことは山ほどあったが、ナナイは言葉を呑み込んだ。シャアが口にする義憤が、本心からのものだと理解しているからだ。
彼は常人では計り知れないほどに屈折した人間性の持ち主ではあるが、その根底にあるのは間違いなく善性なのである。
「部下が襲われたのは、この辺りで間違いないな?」
「はい。まだ軽く調べた程度ですが、この区画が活動範囲の中心かと思われます」
「ふむ。それなら……あの店に寄ってみようか」
唐突にシャアが立ち止まる。その視線の先を追ったナナイの目に映ったのは、今にも自重で潰れそうなほどにみすぼらしいダイナーだった。
「大佐、本気ですか?」
「情報とは、ああいうところに集まるものだ。それに歩き回ったせいか、どうにも小腹がすいた」
冗談めかして言うと、シャアは迷いのない足取りでダイナ―へと向かっていった。
十数分後。
ナナイたちはカウンター席に座り、出された軽食を義務的に口へ運んでいた。
店内は閑散としている。険しい顔で皿を磨いている髭面の店主と、料理を黙々と口に運ぶ肉体労働者らしき男たちが数人、それと昼間から一人で酒を飲んでいる男がいるだけだ。
誰もが一様に押し黙り、割れた窓ガラスから入り込む風の音だけが、ときおり静寂を乱していた。
「店主。少しいいだろうか」
「……なんだい、お客さん」
軽食を腹に収め終えたシャアが話しかけると、店主は皿を磨く手を止めて、うなるように先を促した。
「私たちはこの街に来たばかりでね。ようやく仕事も見つかって一息つけそうだったのだが、どうも良くない噂を聞いたもので……」
そこでシャアは、いかにも人目をはばかる風を装って声を低めた。
「なんでも、この辺りで暴行事件が連続しているとか」
「ああ。あの悪党どものことかい」
店主は顔をしかめ、忌々しさを隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「人間のクズの集まりだ。ジオン残党狩りを名乗っちゃいるが、あいつらは暴力を振るえる相手なら誰でもいいのさ。くれぐれも用心するこった。こんな美人の嫁さんがいるなら、なおさらな」
「そうなのか。気をつけるとしよう」
店主に応じながら、シャアがこっそりと目配せしてくる。
彼の目論見通りに糸口をつかんだ。後は目立たぬよう、慎重に情報を引き出していく必要がある。それでもシャアならわけもなくこなすだろう。
「それで──」
シャアが話を続けようとした時だった。
「あれぇ? 知らなかったのかよ、店主」
間延びした男の声が、三人の会話に割って入る。声の主は、さっきから一人で酒をチビチビやっていた男だった。
「あいつらなら、もう壊滅したぞ。一人残らず半殺しだとよ」
「なんだと」
その知らせを聞いた店主は、いぶかし気な視線を酔っ払いに向ける。
「初耳だぞ。いつの話だ?」
「二日前ぐらいだったかな。俺も聞いた話だからよぉ。なんにせよ、壊滅したのは本当らしいぜ」
「驚いたな。どこぞの組織にでも襲われたのか」
「いや、それがよぉ。あいつら、よりにもよって例のアクシズ崩れに手を出したんだと」
「あのバケモンにかッ!?」
驚きのあまり磨いていた皿を取り落としかけた店主は、「おっと、いけねえ」と淵の欠けた皿を大事そうに置いてから、呆れと納得が入り混じった表情で腕を組む。
「なるほどな。それであいつら全員、八つ裂きにされたのか」
「いや、半殺しだって。どっちにしろ、いい気味さ。あいつらのやり方は目に余ったからよぉ」
「まったくだ」
店主と客の男は訳知り顔で話を続けるが、ナナイたちは話についていけるはずもない。店主たちの会話が途切れたタイミングを見計らって、シャアが口を挟んだ。
「店主。そのアクシズ崩れと言うのは?」
「おっ、こいつは悪かったな。つい二人で話し込んじまった。……アクシズ崩れってのは、まあ、ここらでは良くも悪くも有名な男なんだが」
店主はあごひげを手でさすりながら、肩をすくめる。
「一度でも暴れ始めたら、腕自慢が十人がかりでも止められないバケモンでな。幸い、ちょっかいさえかけなけりゃ大人しいもんで、今じゃ誰も声さえかけようとしないんだが」
「ほう。その男、元はアクシズの軍人だったと?」
「とは聞いたがね。どこまで本当なのやら」
言葉を紡ぐ店主の顔は、心底どうでもよさそうだった。こんなスラム街では、他人の素性を気に留めるのは時間の無駄なのだろう。
「よほどの猛者だったか、さもなくば大ボラ吹きか。どうせ後者だろうがね。一年戦争からの生き残りだとか、一人でティターンズの拠点をぶっ潰したことがあるとか、そんな話ばかりさ。おまけに、あの赤い彗星と戦って生き延びたなんて吹聴しているんだからな」
瞬間、ナナイは激しい胸騒ぎを感じた。
「しかし、あのアクシズ崩れもさすがに無傷じゃあ済まなかったとよ。かなり弱っているらしいし、もうすぐオダブツかもな」
「そうかい。ま、こんな世の中だ。珍しい話じゃない」
呑気に話し続ける男たちから視線をそらし、こっそりと横目でシャアの様子をうかがう。結果、嫌な予感が的中したことを察したナナイは、力なく目を伏せた。
「店主。頼みがあるのだが」
シャアは、あくまで世間話の延長のように切り出す。しかし、その声はナナイのような親しい者が聞けば、好奇心で弾んでいることが丸分かりだった。
「そのアクシズ崩れについて、もっと詳しく教えて欲しいのだが。赤い彗星と戦ったという、その大ボラ吹きの言っていたことを」
ナナイは思わず額を押さえそうになった手を、強靱な意志で留めた。
これからそのアクシズ崩れを訪ねることは、すでにシャアの中では確定事項となっている。そして、そう遠くないうちに彼は新しい部下を迎え入れることになるのだろう。
ナナイにできることは、その一連の流れがすんなりと進むことを祈るだけだ。
この時のナナイは、その後のネオ・ジオンで語り継がれる「シャア・アズナブル殴殺未遂事件」の目撃者となることを、まだ知らない。
例によって次話が難航しているので、短めの過去編を投稿。
このタイミングで出す予定はなかったので後々困りそうですが、きっと未来の自分がなんとかしてくれるでしょう。たぶん。
気がついたらジークアクス最終話から一年以上たちましたね。放送中にいただいた感想とか見ると、阿鼻叫喚としていて懐かしい気分になれます。