天才冒険者リオの英雄譚 童貞・処女しか入れないダンジョンを攻略せよ! 作:ナオ3
パンケーキと特製プレートによって限界まで膨れ上がった胃袋を落ち着かせるように、広々とした客室の中には、満腹特有の心地よい気だるさと、温かな微睡みの空気が漂っていた。
絨毯の上に差し込む朝の陽光は少しずつ角度を変え、部屋の隅々に黄金色の淡い光の粒を撒き散らしている。窓の外から微かに届く城塞都市の喧騒すら、まるで遠い夢の中の出来事のように朧げだった。
「それじゃあ、食後の茶でも淹れてくるよ」
「あ、それなら私が……!」
テーブルの脇で控えていたメリルが、ハッとしたようにエプロンの裾を正し、慌てて立ち上がろうとした。先程までの号泣と悶絶で少し目元を赤くしながらも、専属侍女としての本分を全うしようと背筋を伸ばしている。
だが、俺は片手を軽く挙げて彼女を制し、柔らかく笑いかけた。
「いいって。最後まで俺にやらせてくれ、メリル。君はルミナたちとゆっくり遊んでてくれよ」
「で、ですが、客人にそこまで甘えてしまうのは侍女として……」
「いいからいいから。美味しいものを食べて、美味しいお茶を飲んで、みんなで一息つくまでが料理番の仕事だからさ」
俺はテーブルの上に散らばった全員の空皿を、ガチャガチャと音を立てないよう手際よく重ね、厨房の流し台へと運んだ。
背後からは、メリルが恐縮しつつも嬉しそうにルミナの隣へ腰を下ろす気配や、腹をさすりながら満足げに寝息を立て始めているステラの微かな唸り声が聞こえてくる。この穏やかな空気を壊さないためにも、極上の締めくくりを用意したいところだ。
厨房へと足を踏み入れ、間仕切りの扉を静かに引く。
青白い魔力の炎で熱せられた鉄瓶の中で、沸騰した湯がシュンシュンと小気味のよい歌を歌っていた。細い注ぎ口から立ち上る真っ白な蒸気が、狭い厨房の空気をしっとりと湿らせていく。
「さてと……確か、この棚の奥にあったはずだな」
俺は作業台の前に立ち、先程調理器具を探していた際に見つけた、吊り戸棚の最上段へと手を伸ばした。
重厚な樫の木で作られた保管庫の奥。他の一般的な調味料や乾燥ハーブとは明らかに隔絶された、豪奢な桐の木箱。その中に大切に納められていたのは、見事な浮き彫り細工が施された純白の白磁の壺だった。
ずっしりとした重みのある壺を、両手で慎重に作業台の上へと降ろす。
蓋の合わせ目には、深紅の蝋にパルシリア王家のものとおぼしき精緻な紋章が刻印された、重厚な封蝋が施されていた。本来なら、国家の重臣や王族をもてなす特別な晩餐会でしか開かれないような、厳重極まりない封印だ。
(……まあ、棚に『備え付けの消耗品はご自由にお使いください』って札が下がってたしな。減るもんじゃなし、使って怒られたら素直に謝ればいいか)
そんな平民特有の図太さを発揮しながら、俺はナイフの刃先を慎重に滑り込ませ、封蝋をパリリとこそげ落とした。
そして、磁器の蓋をそっと持ち上げる。
その瞬間だった。
「…………っ!?」
ふわり、と。
狭い厨房の空間が一変した。
まるで、真冬の枯れ野に突如として春が訪れたかのような、圧倒的な香気の奔流。
鼻腔をくすぐったのは、極上の芳香だった。
朝露に濡れた高原の花々の可憐な甘やかさと、深く豊かな大地の息吹を極限まで凝縮したような、どこまでも透き通った気品ある香り。乾燥している茶葉そのものから、まるで蜜を煮詰めたかのような濃密な余韻が、冷たい空気の中に幾重にも広がっていく。
(……これ、絶対にやばい代物だろ)
俺は思わず息を呑み、作業台に両手をついたまま固まってしまった。
いくら俺が贅沢に疎い、しがない冒険者崩れの平民だとしても、これくらいの分別はつく。
白磁の壺の中を覗き込むと、現れたのは芸術品のように均一な形をした茶葉だった。
一枚一枚が欠けひとつなく、熟練の職人の指先によって丁寧に手摘みされたことが一目でわかる。深い深緑色の葉は、まるで上質なビロードのような光沢を帯びており、雑味や痛みの原因となる細かな粉など一切混ざっていない。
おそらく、パルシリア王家が直轄する秘密の特級茶園で、選りすぐりの茶師たちが育て上げた、幻の最高級茶葉に違いないのだ。
市井の高級茶葉店に持ち込んだとしても、恐らく店主が泡を吹いて倒れ、「うちのような店では値段がつけられない」と突っ返されるレベルの超一級品。
金貨が何枚飛んでいくのか、想像するだけで冷や汗が背筋を伝い落ちていく。
(こんな神聖な代物を、俺みたいな男が普段使いの感覚で手を出してよかったのか……?)
一瞬、蓋を閉めて何事もなかったかのように棚の奥へ戻そうかという誘惑が頭をよぎった。
だが、すでに極上の香りは厨房を満たしてしまっている。それに、どんなに高価で神聖な茶葉であろうと、飲まれずに棚の奥で朽ちていくよりは、美味しく淹れられて誰かの心と腹を温める方が、茶葉にとっても本望というものだろう。食材は、美味しく胃袋に収めてこそ命が活きるのだ。
「よし……気合いを入れて淹れるとするか」
俺は軽く深呼吸をし、雑念を振り払って呼吸を整えた。
繊細な茶葉であればあるほど、淹れる人間の迷いや雑な所作が、そのまま味の濁りとなって現れる。
まず、用意した純白の磁器のティーポットに、沸騰したての熱湯を注ぎ入れて内側をしっかりと温める。陶器が十分に熱を帯びたのを見計らい、湯を惜しげもなく捨て去る。
温まったポットの底へ、計量スプーンなど使わず、指先の感覚だけを信じて適量の茶葉を静かに滑り込ませた。
チリッ、と。
ポットの残熱に触れた茶葉が微かに身をよじり、先程の乾いた香気がさらに一段と強く、華やかに立ち上る。
そこへ、沸騰の泡が静まりかけた瞬間の湯を、少し高めの位置から、空気をたっぷりと巻き込ませるようにして一気に注ぎ入れた。
ドーム状に広がる湯の奔流。立ち上る乳白色の湯気の中で、丸まっていた茶葉たちが驚いたようにジャンピングを始め、ゆっくりと、優雅にその青い手足を広げていく。
蓋をして、静かに待つ。
砂時計の砂が落ちるのを待つ必要はなかった。
パンケーキを焼いていた時と同じ、あの研ぎ澄まされた奇妙な感覚が、自然と視覚と神経の奥底に立ち上がってくるのを感じていた。
外界の雑音がすっと遠のき、視界のコントラストが極限まで跳ね上がる。
分厚い磁器の壁を透過するかのように、ポットの内部で熱湯がどう対流し、茶葉の葉脈からどのような成分がどの速度で溶け出しているのかが、肌感覚で、まるで手にとるように克明に伝わってくるのだ。
澄んだ湯の中で、淡い琥珀色の揺らめきが生まれる。
爽やかな渋み、輪郭を形作る微かな苦み、奥底に眠る重厚な旨み、そして鼻腔を突き抜ける芳醇な香りの粒子たち。それらが複雑に絡み合いながら、一滴の妥協もない黄金の比率へと向かって収斂していく。
(……まだだ。まだ旨みの芯が抽出しきれていない)
耳の奥で、トクン、トクンと自分の心臓の鼓動が、正確な秒針のように時を刻む。
茶葉が完全に開ききり、湯の色が最も深い、吸い込まれそうな輝きを帯びる臨界点。
旨みと甘みが最高潮の頂点に達し、そのほんの数秒後に訪れるであろう、舌を刺すような不要な雑味や強い渋みが溶け出し始める、刹那の境界線。
(……ここだ!)
今だ。
俺は迷うことなくポットの蓋を押さえ、ストレーナーを通して、あらかじめ湯通しして温めておいたティーカップへと一気に注ぎ分けた。
トポトポトポ……と、澄んだ涼やかな水音を立てて、透き通った琥珀色の液体が純白のカップを満たしていく。
最後の一滴——いわゆる『ゴールデンドロップ』が、完璧な放物線を描いて水面へと吸い込まれ、小さな波紋を広げた。
これ以上一秒でも長く湯に浸していれば、余分な渋みが茶の完璧な調和を破壊していただろう。
立ち上る湯気に鼻を近づけ、深く息を吸い込む。
(よし。初めて扱う茶葉だったが、上手く引き出せたぞ)
鼻腔を抜ける香りに、微塵の引っかかりもない。
ルミナとステラ用には、刺激が強すぎないよう、白湯でわずかに割り、人肌より少し温かい程度の優しい温度と濃さに調整した。
俺はトレイの上にカップを並べ、厨房の間仕切りを開けて、客室のテーブルへと足を踏み出した。
「お待たせ。食後のお茶が入ったぞ」
テーブルの中央へとトレイを下ろし、それぞれの前にカップを配っていく。
先程までパンケーキの余韻でぽやぽやと弛緩しきっていた全員の空気が、カップから立ち上る尋常ならざる芳香に触れた瞬間、一斉にピンと引き締まった。
「まあ……! なんて素晴らしい香りなのかしら……!」
最初に声を上げたのは、やはりフィオナだった。
彼女は驚きに黒い瞳を丸く見開き、行儀作法も忘れかけたように身を乗り出すと、白く細い指先でカップの取手を持ち上げた。
水面に上品に息を吹きかけて揺れる湯気を愛で、そっと唇を寄せる。
「本当に……信じられないほどいい香りね」
「う、うわあ……す、凄く深くて、綺麗な琥珀色をしています……」
アンナが感嘆のため息を漏らし、メリルもまた、まるで王家の至宝を前にした神官のように、恭しく両手でカップを包み込むようにして持ち上げた。
ルミナは両手でカップを包み、立ち上る湯気に小さな鼻を近づけてクンクンと匂いを嗅いでいる。
「それじゃあ、冷めないうちにどうぞ」
俺が促すと、三人の女性たちが示し合わせたかのように、同時にカップに口をつけた。
琥珀色の液体が、彼女たちの喉へと滑り込んでいく。
「…………っ!?」
最初に、文字通り『跳ね上がった』のはメリルだった。
一口目を嚥下した瞬間、彼女の背筋がまるで雷撃を受けたかのようにピーンと直立した。
持っていたティーカップがカタカタと激しい音を立ててソーサーの上で震え始める。大きく見開かれた栗色の瞳は焦点を失い、信じられないものを見たかのように虚空を凝視していた。
そして——その大きな瞳の端から、ツーツーと大粒の涙が滝のように零れ落ち始めたのだ。
「ちょ、ちょっとメリル!? なんで泣いてるんだよ!?」
俺がギョッとして声をかけると、メリルは顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、テーブルに突っ伏さんばかりの勢いで絞り出すような悲鳴を上げた。
「う、うう……っ! 美味しい……美味しすぎますリオ様ぁぁぁっ……!」
「な、泣くほどか!?」
「泣きます! 泣くに決まってますぅぅっ! ど、どうやったら……どうやったらこんなにも、しっかりとお茶の旨みとコクがあるのに、喉を通る瞬間はまるで清らかな水のようにスッと消えていくんですかぁぁっ!? 渋みも雑味も一切なくて、口に含んだ瞬間に満開の花畑が頭の中にバーッて広がるみたいで……! わ、私、侍女として毎日毎日、お茶を美味しく淹れる練習を何時間も重ねてきたのに……こんな、こんな神業みたいな一杯、生まれて初めて飲みましたぁっ!」
メリルは己の未熟さと感動の濁流に打ちひしがれたように、テーブルに両肘をついてしくしくと本気で泣き出してしまった。
いや、いくらなんでもリアクションが大袈裟すぎるだろう。美味しいと言ってもらえるのは料理人冥利に尽きるが、ここまで取り乱されると流石に引いてしまう。
「もう、メリルったら。美味しいのはわかるけれど、王室の侍女が客人の前ですぐそうやって取り乱すのはみっともないわよ」
フィオナが呆れたように小さく肩をすくめて見せた。
だが、そう口にするフィオナ自身、手元のカップを見つめるその瞳の奥には、隠しきれない途方もない驚嘆の色が色濃く渦巻いていた。
「……でも、本当に信じられない味だわ。これ、使っているのは特級茶葉なのは間違いないけれど……茶葉の質だけで出せる領域を完全に超越しているわね。湯の温度、蒸らしの秒数、そして葉を引き上げるタイミングが、神がかり的な精度で完璧に噛み合っているわ」
フィオナはゆっくりと息を吐き出し、信じられないといった様子で俺を見上げてきた。
「……私、物心ついた頃からこのお茶を飲んで育ってきたけれど。宮廷筆頭の茶道指南役の爺さんが、淹れた最高の一杯よりも、貴方の淹れたこのお茶の方が……ずっと、ずっと美味しいわよ、リオ」
「はは……お姫様にそこまで褒められると光栄だな。ありがとう」
俺は照れくささに鼻の頭を指で擦った。
宮廷筆頭の茶道指南役より上というのは、流石に王女様の過剰なリップサービスだとは思うが、それでも舌の肥えた彼女にこれほど喜んでもらえたのなら、勇気を出してあの壺を開けた甲斐があったというものだ。
ふと隣に目をやると、ルミナが両手で大事そうにカップを抱え、ふーふーと小さく息を吹きかけながら、猫のように舌先でちびちびと茶を口に含んでいた。
「ん。あたたかくて、すごくいいにおい。……からだが、ぽかぽかする」
「口に合ってよかったよ、ルミナ」
俺が微笑みかけると、ルミナは嬉しそうに目を細め、コクコクと頷いた。
さらにその隣の席では、先程まで腹が破裂しそうだと虫の息で転がっていたはずのステラが、小皿に注ぎ分けてもらった冷まし茶を、器用にペチャペチャと音を立てて舐め取っていた。
「ふにゃあぁぁぁ……五臓六腑の隅々にまで染み渡るにゃあ……。暴食の代償で張り裂けそうだった僕の胃袋が浄化され、癒やされていくのを感じるよ……生き返るぅ……」
どうやら、毛玉の口にもしっかりと合ってくれたらしい。
俺は心底からほっと胸を撫で下ろし、自分の分のカップを手に取って口をつけようとした。
その、まさに刹那のことだった。
「…………」
テーブルの向かい側。
アンナが、微動だにせず、手元のカップに満ちた琥珀色の液体をじっと見つめていた。
彼女は最初の一口を含んだきり、カップを唇のすぐ手前で留めたまま、深い深い思考の深淵へと潜り込んでいた。
その美しい眉間には、先程アスク先生の診察室で見せたような、苦渋と痛ましさ、そして言葉にできない激しい動揺が深く刻み込まれていたのだ。
「……いくらなんでも、完璧過ぎるわ……」
アンナの薄い唇が、震えながら微かに動いていた。
誰に向けたわけでもない、喉の奥から零れ落ちてしまったような、掠れた呟き。
「火加減の微細な調整も……茶葉の抽出の臨界点も……。時計も計量器も使わず、ただの目測と感覚だけで、どうしてここまで寸分の狂いもなく見極められるの……? これって、まるで……」
彼女の呟きはあまりにも小さく、言葉の後半は喉の奥にかき消されてしまって、俺の耳には届かなかった。
だが、その双眸の奥で激しく揺らめく感情の波は、隠しようもなく伝わってくる。
「アンナ? どうしたんだ? 口に合わなかったかい……?」
俺が不思議に思って声をかけると、アンナはまるで夢から無理やり引き戻されたかのように肩をビクリと跳ねさせた。
そして、慌てた手つきでカップをソーサーへと戻すと、その整った顔立ちに、いつもの完璧で慈愛に満ちた微笑みを瞬時に張り巡らせてみせたのだ。
「あっ……ううん、ごめんなさい! 口に合わないだなんて、とんでもないわ! あまりにも美味しくて、身体の芯まで染み渡るものだから……つい、味わうのに夢中になって物思いに耽ってしまっていたのよ」
「そっか。アンナにも気に入ってもらえたなら嬉しいよ」
俺は屈託なく笑って返した。
アンナの一瞬見せたあの物憂げで、どこか悲痛な表情の真意までは測りかねたが、彼女がそう言って笑ってくれたのなら、決して不味かったわけではないのだろう。大人には大人の、俺には計り知れない色んな悩みや物思いがあるのかもしれない。
食後のお茶がもたらす極上の温もりと芳香の中、客室の空気はすっかりと弛緩していた。
あれほど騒がしかったステラは、すっかり胃袋の苦痛から解放されたのか、テーブルの端で青い身体をまん丸に丸め、時折喉を「ゴロゴロ」と低く鳴らしながら本格的な昼寝の体勢に入っている。
メリルもようやく涙を拭い、アンナの隣でお行儀よく背筋を伸ばして座り直していた。
ルミナはといえば、俺の椅子のすぐ隣にちょこんと寄り添い、俺のシャツの裾を小さな指先で無意識にいじりながら、空になったカップを名残惜しそうに見つめている。
そんな満ち足りた静寂を破るように、カチャリ、と陶器が触れ合う澄んだ音が響いた。
「さ~て! 食後の運動代わりに、なんか面白い話をして頂戴、リオ!」
身を乗り出してそう声を上げてきたのは、やはりフィオナだった。
悪戯っぽく細められた漆黒の瞳が、退屈を持て余した子供特有の爛々とした輝きを宿し、獲物を狙う鷹のように俺の顔面を真っ直ぐに捉えている。
「俺? 急に言われても困るぞ。俺の話なんぞ、あんまり面白いとは思えないけどな……」
俺は苦笑交じりに両手をひらひらと振ってみせた。
冒険者としてそれなりの修羅場を潜り抜けてきた自負はあるが、俺が経験してきたことの大半は、泥臭くて、地味で、およそ王宮の温室で育った高貴なお姫様が喜ぶような華々しい英雄譚とは程遠いものばかりだ。
だが、俺の予想に反して、周囲から向けられる視線は異様なほどの熱を帯びていた。
ルミナが期待に満ちた翠玉の瞳をキラキラと輝かせながら、俺の腕を両手でぎゅっと抱きしめて見上げてくる。
眠りかけていたはずのステラが青い三角耳をピクリと立てて片目を開き、メリルまでもが「ぜひお聞きしたいです!」と言わんばかりに身を乗り出して息を呑んでいた。
アンナだけが、静かに微笑みながら、どこか慈しむような眼差しで俺の様子を見守っている。
(まいったな……完全に逃げ場がないぞ)
俺は後頭部をポリポリと掻きながら、頭の中で必死に過去の記憶の引き出しをひっくり返した。
子供たちが喜びそうな冒険の話、か……。
冒険者を始めたばかりの頃に受けた、王都の地下水道に繁殖した浄化用スライムをスコップでひたすら掻き集める清掃作業の話? ……いや、汚いしロマンの欠片もないな。
じゃあ、街道沿いにホーンラビットが異常発生して、仲間たちと三日三晩不眠不休で泥まみれになりながらウサギ狩りを続けた話? ……地味すぎて途中でルミナが寝てしまいそうだ。
血生臭い武勇伝なら、それこそ山ほどある。
だが、そんな殺伐とした生々しい話を、こんな無垢な子供たちの前で語れるわけがない。
逃げ出した貴族の飼い犬探し、薬草の採取、商隊の荷運び護衛……どれを思い出しても、パッとした華やかさには絶望的なまでに欠けていた。
俺が腕を組んで唸っていると、フィオナが人差し指をパチンと鳴らした。
「そうねぇ。なら……貴方の冒険者パーティー、『暁の剣』について教えてちょうだい!」
「暁の剣、か」
その懐かしい名前を耳にした瞬間、俺の胸の奥底で、誇らしさと愛おしさが混ざり合った温かい熱がじんわりと広がっていった。
俺の仲間たち。
同じ釜の不味い飯を食い、背中を預け合って数々の死線を潜り抜けてきた、かけがえのない戦友たち。
「いいぜ。あいつらの事なら、幾らでも語ってやるよ。ルミナにも、まだちゃんと話していなかったしな」
俺はルミナの頭にそっと手のひらを置き、柔らかく輝く金糸の髪を優しく撫でてやった。
俺の大切な仲間たちのことを、この小さな愛しい娘に知ってもらえるのは、純粋に誇らしく、嬉しいことだった。あいつらとの思い出なら、それこそ一晩中語り明かしても足りないくらいだ。
「まず、『暁の剣』っていうのはな、俺たちが育った『ハートフィールド孤児院』を出る時に結成した冒険者パーティーなんだ」
俺がそう切り出すと、ルミナが小首をコテンと傾げ、不思議そうに小さな唇を開いた。
「ハートフィールド……? リオと、おなじ?」
「ああ、そうだよ」
俺はルミナの目線の高さに合わせて、穏やかに頷いた。
「俺の『ハートフィールド』という姓は、その孤児院の名前から貰ったんだ」
そう。身元不明の、物心つく前に孤児院の門前に置き去りにされていた捨て子だった俺は、院の名前である『ハートフィールド』をそのまま姓として名乗っているのだ。
「孤児院を出て成人する時に、自分で新しい姓を名乗ることも出来たんだけどさ。俺はそのままにしてもらったんだ。俺を拾って、温かい飯を食わせて、ここまで大きく育ててくれた院長先生やみんなに対する義理と恩があるからな。俺にとっては、あの孤児院こそが、正真正銘の最初の『家』だったんだよ」
俺は何の気負いもなく、天気の良さを語るかのようなごく当たり前の日常の事実としてそう口にした。
自分が孤児であることや、親の顔も名前も知らない捨て子であるという境遇に対して、今の俺はこれっぽっちの劣等感も恥じらいも抱いていない。
決して裕福な暮らしではなかったけれど、あそこにはいつも笑い合える仲間がいたし、腹を空かせた弟や妹たちがいたし、温かいスープがあった。
まあ、社会から見れば、『ハートフィールド』と名乗ることは「私はどこの馬の骨とも知れぬ卑しい孤児です」と大声で自己紹介しているようなものなのだろうが、そんなことは俺にとってはどうでもいい些細なことだ。
あの孤児院こそが俺の原点であり、俺という人間を形作った誇るべき起源なのだから、俺はこの姓を堂々と名乗り続けるつもりだった。
だが——。
「…………」
ふと視界の端に映った光景に、俺の言葉がわずかに途切れた。
アンナだった。
彼女が、まるで息の根を止められたかのように、痛ましいほど深く、深く顔を曇らせていたのだ。
その紫紺の瞳は激しく揺れ、薄い唇を血の気が引くほど固く結び、まるで自分自身の胸の奥深くに冷たい刃物を突き立てられたかのような、悲痛極まりない表情で俺を見つめていた。
(アンナ……?)
俺は内心で小さく首を傾げた。
なんで彼女は、あんなにも今にも泣き出しそうな、胸が張り裂けそうな顔をしているのだろうか。
騎士派名門ジークフリード家の血を引き、王家とも深い関わりのある高潔な騎士である彼女のことだ。きっと『ハートフィールド』という姓の持つ社会的な意味——身元不明の孤児という過酷な境遇を瞬時に理解したのだろう。
俺が親の温もりも知らずに育った捨て子だと知って、同情し、胸を痛めてくれているのだろうか。
(本当に……どこまでも優しくて、情の深い人だな)
俺のような人間の生い立ちにまで、これほどまでに深く心を痛めてくれるなんて。
アンナの持つあの底知れぬ慈愛の深さに、俺は改めて頭が下がる思いだった。
これ以上彼女にしんみりとした悲しい思いをさせないためにも、湿っぽい生い立ちの話はここで切り上げて、仲間たちの愉快で馬鹿馬鹿しい冒険談へと舵を切らねばならない。
俺はコホンとわざとらしく咳払いを一つ挟み、気を取り直して明るい声を張り上げた。
第四章 愛すべき仲間たち
「さて、それじゃあ愉快なメンバーの紹介といこうか! まず一人目は……魔法使いのレイナだ」
俺がそう告げると、フィオナが待ってましたとばかりに興味深そうに目を細めた。
「へえ、魔法使いの女の子ね」
「ああ。彼女はそうだな……俺にとって、年齢は同じなんだけど、まるで口うるさい姉貴みたいなやつだったな」
瞼の裏に、愛用の杖を片手に携え、腰に手を当てて仁王立ちしながら俺をキッと睨みつけてくる、気の強い勝気な少女の姿が鮮明に浮かび上がってくる。
「とにかく、パーティーの中で一番しょっちゅう俺を叱り飛ばすのがあいつだったよ。俺が無茶な前衛の立ち回りをしたり、傷を作って帰ってきたりすると、烈火の如く怒り狂って、正座させられてエンドレスでお説教されるんだぜ? 『あんたはいつもそうやって周りを心配させて! 自分が頑丈だからって命を粗末にするんじゃないわよ!』ってな。……あの時のレイナの剣幕は、お姉ちゃんって言うよりは……そう、完全にお母さんだったな、お母さん」
俺は苦笑いしながら両肩をすくめてみせた。
もちろん、俺には本物の母親の記憶なんてものはこれっぽっちも存在しない。けれど、世間一般で言う「口うるさくて、心配性で、けれど誰よりも家族のことを想ってくれている母親」という存在は、きっとあんな感じなのだろうと漠然と思っていたのだ。
「お母さん……」
その時だった。
テーブルの向こう側から、地を這うような低く、ひどく渋い呟きが漏れ聞こえてきた。
視線を向けると、そこにはアンナがいた。
彼女は眉間にこれ以上ないほど深い皺を刻み、この世で最も苦い毒薬でも無理やり飲み下したかのような、凄まじく複雑で渋い顔をして宙を睨みつけていたのだ。
(あ、あれ……!?)
俺の背筋を、冷たい汗がツーと伝い落ちた。
なんでアンナは、「お母さん」という単語を聞いただけで、あんなにもこの世の終わりのような顔をしているんだ?
……あ、なるほど。
俺の頭の中で、バラバラだった点と点が急速に一本の線へと繋がった。
きっと彼女は、その類稀なる包容力とお世話焼きな性格、そして溢れ出る母性のせいで、若い頃から周囲の騎士仲間や部下たちに「アンナ様ってお母さんみたいですね!」と言われまくって、女性として深く傷ついてきた過去があるに違いないのだ。
アンナはまだ二十代程度の、誰もが息を呑むような美女なのだ。それなのに「お母さん」扱いされるのは、年頃の女性としてのプライドが許さないのだろう。
無理もない。レイナどころの騒ぎではない、部屋の空間全体を丸ごと制圧するレベルの圧倒的「おかんオーラ」を全身から常時放ちまくっているアンナなのだから、言われ慣れすぎてトラウマの領域に達しているのかもしれない。
ここは下手に触れて地雷を踏み抜く前に、華麗にスルーするのが大人の男の優しさというものだ。
俺は内心の動揺を押し殺し、何事もなかったかのように言葉を続けた。
「へえ、そのレイナって娘、かわいいの?」
フィオナが身を乗り出し、意地の悪そうな、からかいの色を含んだ笑みを浮かべて尋ねてきた。
「可愛いってよりは、キリッとした美人だな。普段は気が強そうに見えるけど、時折見せる素の表情は結構可愛いところもあるぞ」
「あら、素の表情?」
「ああ。野営の時に毛虫が出た時とか、戦闘中に呪文の詠唱を盛大に噛んじゃった時なんかにさ、顔を真っ赤にして慌てふためくんだよ。あれは見てて本当に面白かったなぁ」
思い出すだけで思わず笑いが込み上げてくる。
あの時、俺とガルドとゼインの三人で腹を抱えて大爆笑したら、逆上したレイナが顔から湯気を噴き出しながら、手加減なしの電撃魔法を乱射してきて、三人で必死に転がりながら避けたのは、今となっては最高に笑える思い出だ。
「彼女の将来の夢は、魔法の先生になることなんだ。口うるさいけど教え方はもの凄く丁寧だし、面倒見がいいからな。彼女ならきっと、生徒たちから慕われる立派な先生になるだろうさ」
仲間が自分の夢に向かって一歩ずつ進んでいる姿を思い浮かべるだけで、俺の胸は誇らしさで満たされていく。
「さて、次はガルドだ。俺たちの頼れる重戦士、タンクだな」
「たんく……?」
案の定、ルミナがまたしても可愛らしく小首を傾げたので、俺は優しく噛み砕いて説明した。
「タンクっていうのはな、全身に分厚くて重い鎧を着込んで、巨大な盾を構えて、一番前で怖いモンスターの攻撃を真っ向から受け止めて食い止める役割のことさ。仲間たちに攻撃が届かないように、文字通り命懸けの頑丈な壁になるんだ」
「かべ……」
「そう、壁だ。あいつが前線にドスンと立ってくれているだけで、パーティー全体の安心感が段違いなんだよ。性格も、まさに『豪快で頼れる兄貴』って感じなんだけどさ。そのくせ意外と気が細やかで、野営の時の見張り番のローテーションとか、馬車に積む荷物の重量配分なんかを一番几帳面に管理してくれるのがガルドなんだ。精神面の安定感も、パーティー随一だったな」
俺はガルドの広大で頼もしい背中を思い出し、胸を張った。
「それに……あいつ、滅茶苦茶デカいんだよ!」
「デカい?」
「おう、本当にデカいぞ。身長なんて俺の頭二つ分くらい高くて、横幅なんて熊みたいなんだ。ルミナも、いつかあいつに会ったら絶対に肩車してもらいなよ。あれはな……まさに絶景だ!」
「ぜっけい……!」
ルミナの翠玉の瞳が、未知の体験への憧憬で爛々と輝き始めた。
「冒険の途中で深い森に迷い込んだ時とか、遠くの敵を索敵する時に、よくガルドに頼んで肩車してもらったんだけどさ。視界が一気に二倍くらいの高さになって、見渡す限りの緑の海や地平線が一望できるんだ。風が吹き抜けて、本当に気持ちがいいんだぞ」
楽しげに語りながらも、ふと俺の胸の奥底で、昔から抱え続けてきたチクリとした羨望とコンプレックスが鎌首をもたげた。
(……ああ、俺もあんな男らしい、筋骨隆々の分厚いガタイになりたかったなぁ……)
俺はテーブルの上で、己の細い手首と腕をじっと見つめ、内心で深いため息をついた。
俺だって、日頃から鍛錬を欠かさず、純粋な膂力だけで言えばガルドに匹敵する、あるいは凌駕する数値を叩き出せるはずなのだ。
それなのに、どういうわけか俺の体つきは、いつまで経っても線の細い、ひょろっとした体型のままなのだ。身長こそそこそこ伸びたものの、いくら肉を食っても、いくら鍛えても、筋肉が横に肥大化して分厚い鎧のようになってくれない。
以前、筋肉に異常なこだわりを持つ筋肉愛好家のガルドが、「お前の筋肉と骨の密度、質の良さは……もはや人間の枠を超えた神の領域だな」と戦慄交じりに称賛してくれたことがあった。
だが、神の領域だろうが何だろうが、男としてはガルドのような、一目見ただけで悪党が震え上がって逃げ出すような、分厚くて威圧感のある肉体が欲しかったのだ。この細身のせいで、街のチンピラや新米冒険者から舐められて絡まれることがどれほど多かったことか。
「……コホン。まあ、ガルドの将来の夢は、自分の商会を立ち上げて大商人になることなんだ。あいつ、あのいかつい見た目に反して頭の回転がもの凄く速いし、数字の計算も商談の交渉も抜群に上手いからな。ガルドが商人になったら、俺たち冒険者にとっても頼もしい限りだろうさ」
俺は小さく息を整え、三人目の仲間の紹介へと移った。
「んで、三人目がアタッカーのゼインだ。魔力を帯びた魔剣を自在に操る魔法剣士で……とんでもないイケメンだ!」
「イケメンって……」
テーブルの向こうで、アンナが呆れたような、気の抜けた声を漏らした。
「いや、アンナ、冗談抜きでマジのイケメンなんだって!」
俺は身を乗り出して力説した。こればかりは誇張でも何でもない、動かしようのない客観的事実なのだ。
「ちょっと不公平に思えるくらいに整った顔立ちをしてるんだよ。鼻筋がスッと通ってて、切れ長の涼しげな目元をしててさ。一見するとクールで無口な孤高の天才剣士って感じなんだけど、根っこは誰よりも熱い奴なんだ。……そして間違いなく『暁の剣』の中で、最も多くの女性たちの心を無慈悲に奪い去っていった不届き者だ!」
瞼の裏に、王都の冒険者ギルドの酒場で、ゼインを取り囲んでいた街の娘たちや女性冒険者たちの黄色い歓声が鮮やかに蘇る。
「ガルドもあの圧倒的な包容力と男らしさでかなりモテたけど、ゼインのモテっぷりは次元が違ったからな。依頼からギルドに帰還するたびに、依頼人の令嬢や見知らぬ女の子からの手紙や手作りのお菓子が山積みに届いてたんだぜ?」
俺はしみじみと語りながら、誇らしげに腕を組んだ。
自分の大切な仲間が周囲から称賛され、異性から熱烈に好意を寄せられている姿を見るのは、友人として純粋に誇らしく、鼻が高かったのだ。
俺が仲間たちとの輝かしい思い出に浸り、うんうんと一人で満足げに頷いていた、まさにその時だった。
「あの……リオ様?」
控えめに、けれど少女特有の無邪気で生々しい好奇心をこれでもかと孕んだ声が、テーブルの端から投げかけられた。
声の主は、温かいお茶を飲み終えてようやく落ち着きを取り戻したメリルだった。
「なんだい、メリル?」
俺が屈託のない笑みを向けると、メリルは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、上目遣いに俺を見つめながら、疑問を投げかけて来た。
「その……ゼイン様やガルド様が大変おモテになったというのはよく分かりました。ですが……リオ様ご自身は、その……女性の方との『ご縁』などは、どうだったのでしょうか?」
ズン……!
その瞬間、客室の中の空気が、突如として物理的な質量を持って俺の肩へと重く圧し掛かってきた。
「…………」
何が起きた?
俺の全身の皮膚が、無数の目に見えない針でチクチクと刺されたかのような痛烈なプレッシャーを感じて総毛立つ。
危険を察知した俺が恐る恐る視線を巡らせると、そこには言語を絶する異様な光景が広がっていた。
まず、俺のすぐ隣に座っていたルミナ。
彼女は両手で持っていたカップをぎゅっと握りしめたまま、翠玉の瞳を極限まで細めて俺の横顔を凝視していた。その小さな瞳の奥底には、出会ってから今まで一度も見せたことのないような、圧力が宿っている。
そして、テーブルの向かい側のフィオナ。
彼女は先程までの退屈そうな笑みを完全に消し去り、右肘をテーブルにつき、手のひらに顎を乗せながら、底知れぬ漆黒の双眸でじっと俺の顔面を射抜いていた。その整った唇の端には、薄く、冷たい笑みが張り付いている。
「……へえ。私も、それには大いに興味があるわね」
フィオナの低く澄んだ声が、静まり返った部屋に氷の刃のように突き刺さる。
部屋の空気にあてられたのか、テーブルの端で丸くなっていたステラは全身の青い毛を逆立てて後ずさり、質問の主であるメリルに至っては、「わ、私、何かとんでもない禁忌の地雷を踏み抜いてしまったのでは……!?」と顔面を真っ青にしてガタガタと震え出していた。
アンナだけが、「ああ、なんてことを……」と言いたげに、ひどく心配そうな、そして深い諦念を含んだ眼差しで俺と少女たちを交互に見つめている。
(な、なんだこの空気は……!? 一体どうなってるんだ!?)
俺の額を、冷たい汗が一筋、音もなく伝い落ちていく。
なぜ、俺の過去の女性関係の有無という、この広大なパルシリア王国において最もどうでもいい塵芥のような話題一つで、これほどまでに部屋の空気が殺伐としなければならないのか。
「あ、ああ……悪いけど、みんなが期待するような面白い話は一切無いぞ?」
俺は引き攣った愛想笑いを浮かべながら、必死に両手を胸の前で振った。
「俺、正直言ってモテないどころか、女性との『ご縁』なんてものは金輪際、絶無だったからな!」
俺は胸を張り、堂々と己の完全なる非モテぶりを宣言した。
男として自慢できるようなことではないが、嘘偽りのない、誓って紛れもない真実だ。
「男友達なら、それこそ王都中に腐るほどいるんだけどなぁ……。ギルドの酒場でいつも一緒に馬鹿騒ぎしてた冒険者の悪友連中とか、割のいい依頼の斡旋をしてくれる受付の筋骨隆々で厳ついおっちゃんとか、何かと突っかかってくる騎士派の堅物な奴とか、行きつけの大衆食堂でいつも白米を山盛りにしてくれる料理人の兄ちゃんとか……」
指折り数えながら過去の交友関係を思い出してみるが、脳裏のスクリーンに浮かび上がってくるのは、むさ苦しくて暑苦しい野郎どもの汗臭い顔面ばかりだ。
「……うん、見事なまでに男しかいないな! 今考えても本当に不思議なくらい、綺麗さっぱり男ばっかりだ!」
「…………」
俺の堂々たる非モテ宣言を聞いた瞬間、部屋を押し潰していた重苦しい重圧が、ふっと霧散したような気がした。
気のせいか、隣のルミナの細められていた瞳がわずかに緩み、フィオナの唇の端の冷たさも和らいだように見える。
だが、俺はそんな微細な変化に気づくこともなく、苦笑混じりに言葉を続けた。
「まあ、パーティー内にはさっき話したレイナと、もう一人女の子のメンバーがいたんだけどさ。俺とはそういう甘ったるい色恋沙汰になるような間柄じゃまったくなかったしな。本当に、生まれてこの方、女の子からモテた事なんて一度も無かったよ」
実際、俺は好きな女の子が居たから、他の女性とのロマンスがないことなんてこれっぽっちも気にしていなかったのだ。
だが、客観的な事実として振り返ってみれば、なぜここまで俺の周りに浮いた話が一つも転がっていなかったのか、我ながら少し不思議ではあった。
(まあ……あれだな。俺、くっそ地味だしなぁ)
装備品はいつだって実用性とコストパフォーマンス最優先の安物ばかりだったし、普段着のセンスも皆無。休日の趣味といえば孤児院のチビ共と広場で泥まみれになって追いかけっこをすることくらいという、どこにでもいる平民の少年。
『暁の剣』のリーダーだって、俺じゃなくて華のあるゼインがリーダーだと初対面の依頼人から勘違いされることなんて日常茶飯事だった。俺には、人を惹きつけるような華やかさや色気が致命的に欠落しているのだ。そんな男に、熱烈に言い寄ってくる奇特な女性などいるはずがない。
他の女から言い寄られないのはむしろ好都合であり、深く悩むこともなく放置していたのだが。
俺の自虐を聞いていたフィオナが、人差し指でトントンと自らの顎を叩きながら、心底から解せないといった様子で小さく呟いた。
「おかしいわね……。いくら世間の女どもが節穴揃いだとしても、周囲の連中がそこまで盲目ばかりだったなんて……」
「ん~、まあ俺が地味だったからな。仕方ないさ」
「……そうね。世の中の見る目のない愚かな女たちのことなんて、貴方が気にする必要はこれっぽっちもないわ。気にしない、気にしない」
フィオナはフンと誇らしげに鼻を鳴らし、何故かひどく満足げにコクコクと頷いた。
「?」
「にゃ?」
「リオ様が女性とご縁が無かったなんて……そんなはずは……」
「おかしいわね……信じられないわ……」
ルミナとステラは首を傾げてぽかんとしているが、メリルとアンナは納得がいかないといった様子で、眉をひそめて何やら考え込んでいる。
(なんか……妙な空気になっちゃったな)
俺は心の中で頭を掻いた。
せっかくの食後のお茶の時間なのに、俺の情けない非モテ話のせいで、場が変にしんみりと停滞してしまっている。
この淀んだ空気を一瞬で吹き飛ばすような、もっと明るくて、みんなが笑顔になれるような面白い話題はないだろうか?
その時、俺の脳裏に、天啓のような名案がビビッと閃いた。
(そうだ……!)
俺は心の中で、ポンと手を打った。
女の子なら誰だって、他人の色恋沙汰——いわゆる「恋バナ」に興味津々なはずだ。メリルだってさっき、わざわざ身を乗り出して俺の浮いた話を聞いてきたじゃないか。
俺の男臭い泥臭い冒険譚や、非モテの自虐話なんぞを聞かされても退屈で欠伸が出るに決まっている。彼女たちが本当に聞きたかったのは、もっと甘酸っぱくて、胸がキュンキュンするような本物の恋愛の話なのだ。
(よし! ルミナたちが絶対に食いつく、とっておきの甘い話題を出してやろう!)
良かれと思って。
これ以上ないサービス精神と善意から、俺は満面の笑みを浮かべ、胸の奥底に大切にしまっていた一番の思い出の扉を、勢いよく解き放つことにしたのだった。
「さて、それじゃあ最後のメンバーを紹介するぞ!」
俺が満を持して明るい声を張り上げると、テーブルを囲む全員の視線が、再び俺の顔へと集まった。
「最後の一人は、ミリアっていうんだ」
俺の唇からその名が紡ぎ出された瞬間。
ほんの一瞬、部屋の中の気圧がわずかに変動し、空気が張り詰めたような奇妙な錯覚を覚えた。
だが、名案を思いついて上機嫌になっていた俺は、その微細な危険信号に気づくことすらできなかった。
「ミリアは、俺たちのパーティーの専属の治癒術士で……」
俺は少しだけ気恥ずかしさに頬を掻きながら、けれど誇らしげに、胸を張ってはっきりと告げた。
「……俺の、初恋の女の子なんだ」
ドォン……!
気のせいだろうか。
背後で、見えない雷鳴が轟いたような重苦しい衝撃が走った。
だが、一度思い出の奔流に乗ってしまった俺の口は、もはや誰にも止められなかった。
「ミリアはさ、本当に優しくて、信じられないくらい可愛い女の子なんだよ。ちょっとおっちょこちょいでドジなところがあってさ、なんにもない平坦な石畳の道で急につまずいて転びそうになるんだけど、そこがまた放っておけないというか、男として絶対に守ってやらなきゃって思わせる愛らしさがあってな。冒険者を始めたばかりの頃は、治癒魔法の腕前もまだまだ未熟で失敗ばっかりだったんだけど、誰かが怪我をして帰ってくると、自分の魔力がすっからかんになって倒れる寸前まで、涙目になりながら必死になって回復魔法をかけ続けてくれるんだ」
瞼の裏に、困ったように眉尻を下げて「えへへ、また転んじゃった」と照れ笑いを浮かべるミリアの、あの柔らかくて愛らしい姿が鮮明に蘇る。
「あいつの将来の夢は、立派な本物の医者になることなんだ。身分や貧富の差に関係なく、誰もが分け隔てなく温かい治療を受けられるような、小さな診療所を街に開くのが夢なんだってさ。その夢を叶えるために、過酷な冒険の合間も、野営の焚き火の明かりの下で分厚くて難解な医学書を開いて、眠そうに目をこすりながら一生懸命勉強してる努力家で……。そういうひたむきで健気な姿を一番近くで見守っているうちに、いつの間にか、俺の心はあいつのことでいっぱいになってたんだよなぁ」
語れば語るほど、当時の胸の疼きが蘇ってくる。
好きな女の子の魅力を他人に語るというのは、想像以上に気恥ずかしく、けれどそれ以上に誇らしくて堪らないものだった。
「だからさ、さっきの話に戻るけど、俺が他の女からモテなかったとしても、これっぽっちも気にしてなかったんだよ。だって、俺の目には最初からミリアしか映ってなかったし、俺はミリアのことが世界で一番好きだったからな!」
俺は次から次へと、堰を切ったようにミリアとの甘酸っぱい思い出を熱弁した。
一緒に街の露店で甘い果実の串焼きを半分こして食べたこと。
依頼で訪れた湖のほとりで、夕焼けを見ながら将来の夢を語り合ったこと。
彼女が風邪で寝込んだ時、俺がお粥を食べさせてやったこと。
すべてを語り終えると、俺は胸いっぱいの満足感と共に、ふうと誇らしげな息を吐き出した。
そして、テーブルを囲む少女たちに向かって、満面の笑みを浮かべて視線を戻したのだ。
「……とまあ、これが俺の初恋の思い出話さ!」
どうだ!
これぞ求めていた、胸がキュンキュンする本物の甘酸っぱい恋バナだろう!
そんな、完璧な仕事を成し遂げた男のドヤ顔を浮かべようとした俺の表情は、しかし——次の瞬間、完全に凍りつくことになった。
「…………」
沈黙。
それは、先程までの食後の穏やかな静けさとは、根本から次元の異なるものだった。
この世のありとあらゆる生命活動を根底から拒絶するかのような、絶対零度の暗黒の静寂。
部屋の室温が、誇張でも比喩でもなく、一気に急降下したかのような錯覚に襲われる。
(え……?)
俺の視線の先。
その凍てつく吹雪の発生源は……間違いなく、俺のすぐ隣と、正面に座る二人の少女だった。
『我、激しく憤怒せり』
そんな不吉極まりない古代の神託が、直接脳内に響いてくるかのような、凄まじい威圧感と怨嗟の念が、二人の小さな身体から立ち上っていたのだ。
「むううううううううううううぅ!!!!」
ルミナはといえば、小さな両手を膝の上でぎゅっと握りしめ、ぷっくりとした唇をへの字にこれでもかと固く結んでいた。
普段の愛くるしい真ん丸な翠玉の瞳はどこへやら、極限まで細められたその瞳は、もはや「ジト目」という生易しい表現を超越し、親の仇を睨みつけるかのような鋭利な半眼と化している。
出会ってから今まで、一度たりとも見たことのない天変地異レベルの不機嫌っぷり。
ぶすーっと露骨に膨らませた頬の隙間から、プシューッと激しい蒸気が漏れ出んばかりだ。
それどころか、彼女の華奢な背中の後ろから、モヤモヤとした紫がかった黒いオーラのような禍々しい湯気が、物理的な陽炎となって立ち上っているのが見えるのは、果たして俺の目の錯覚なのだろうか。
そして、正面の席のフィオナ。
「ふふ……あはは……。リオったら、本当に……本当に、その『ミリア』って小娘のことが、大好きなのねぇ……?」
フィオナは両手を顎の下で優雅に組み、口元には満開の花が咲き誇るような、極上の美しすぎる笑みを浮かべていた。
声のトーンも、銀の鈴を転がすようにどこまでも軽やかで、澄み渡っている。
だが——その漆黒の双眸の奥底には、光の破片すら存在していなかった。
底知れぬ深淵の底。光すら脱出できない暗黒の特異点で、ドス黒い業火がゴウゴウと音を立てて燃え盛っている。
その笑顔から放たれる目に見えない圧倒的な圧力だけで、二人の間のテーブルがミシミシと軋みを上げているかのようだ。
「「ひ、ひいいいいっ……!」」
そのあまりの恐ろしさと殺傷能力の高さに、ステラとメリルは互いに抱き合い、テーブルの隅でガタガタと小刻みに震えていた。
神の残滓たる蒼い獣と、王宮に仕える若き侍女が、身分の垣根を越えて手を取り合い、世界の終末を前にした哀れな生贄の羊のように怯え切っている。
「あ、あれ……?」
俺の背中を、滝のような冷や汗がドバドバと流れ落ちていく。
困惑のあまり、俺の視線は空中を激しく彷徨った。
「……つまんなかったか?」
恐る恐る口から絞り出した俺の問いかけに対して、言葉による返答は一切返ってこなかった。
ただ、ルミナの小さな鼻から、「フンスッ!!!!」と、部屋中の空気を吹き飛ばすかのような凄まじい威力の不満げな鼻息が響いただけだった。
どうしてだ?
なぜ、彼女たちはここまで激怒しているんだ?
俺は誰かの悪口を言ったわけでもないし、下品で不潔な話をしたわけでもない。
ただ純粋に、自分の過去の最も美しく誠実な初恋の思い出を包み隠さず語っただけではないか。
(……あ、そうか!)
極度の混乱の中、俺の脳裏に、再び至極真っ当な論理的帰結が閃いた。
(ルミナもフィオナも、まだ小さな子供なんだ……! 恋愛の話なんていう大人の領域の話題を振られても、共感できるはずがなかったんだ! むしろ、頼りにしている兄貴分が、自分の知らない昔の女の話を延々とのろけているのを聞かされて……退屈で、つまらなくて、構ってもらえなくて拗ねちゃったんだな……!)
そうだ。絶対にそうだ。それ以外に理由があるはずがない。
まだお人形遊びや追いかけっこが楽しい盛りの幼女たち相手に、本気の恋バナなんて振った俺の話題のチョイスが、致命的に、壊滅的に間違っていたのだ。
良かれと思って話したのが、完全に裏目に出てしまった。
(うわあ……どうしよう。どうやってこの機嫌を直してもらえばいいんだ……?)
俺が頭を抱え、冷や汗を拭いながら必死に打開策を模索していた、その時だった。
スゥー……と、深く、あまりにも深く重い吐息が、テーブルの向かい側から聞こえてきた。
見ると、アンナが右手の手のひらで深々と己の額を押さえ、天を仰ぐようにして座っていた。
その類稀なる美貌には、もはや怒りや悲しみを通り越し、言語を完全に失ってしまった人間の極致のような、深い哀れみと、底知れぬ諦念が色濃く滲み出ていた。
そして。
アンナの固く結ばれていた唇が、静かに開いた。
蚊の鳴くような、ひどく掠れた、けれど芯の通った呟きが、ぽつりと静寂の中へ零れ落ちる。
「……おバカ」
「えっ!?」
俺は思わず、素っ頓狂な声を上げて聞き返してしまった。
おバカ?
アンナ、今、俺のこと「おバカ」って言った!?
あの聖母のようにどこまでも優しいアンナが、俺に向かってそんなストレートで身も蓋もない悪口を吐き捨てるなんて!
その呆れ果てた眼差しと深いため息は、まるで——手のかかる、救いようのないほど出来の悪い我が子の愚行を目の当たりにして、頭を抱えて嘆いている母親そのものの姿だった。
……もちろん、俺に本物の母親の記憶なんてないけれど。
俺の凄まじい困惑を置き去りにしたまま、客室を支配する氷点下の空気は、どれだけ待っても、一向に温まる気配を見せないのだった。
リオは本当に女性とのロマンスに縁はありませんでした。
過去に接触して忘れたとか、男の子だったのが実は...というのもありません。