魔装融合士は黒き少女たちとダンジョン最深層を潜る ――異能装備で挑む“ダンジョン”の深淵―― 作:藍紫
いろはの手をそっと取ると、彼女は何も言わずついてきた。
そのままリビングへ向かい、ダイニングチェアに腰かけさせる。
ふわりと座面に沈み込むいろはの動きは、相変わらず小さくて軽い。
「待ってろよ」
俺は短く声をかけ、一度部屋に戻り装備を脱ぎ、脱衣所に行き、風呂の湯張りを予約してからキッチンへと向かった。
手を洗い、大型の冷蔵庫を開け、タッパーを二つ取り出す。
そのうちの一つをレンジに放り込み、加熱開始。ごはんは炊飯器でタイマー設定してあり、19時に炊き上がって保温状態のまま、ふっくらと湯気を立てている。
インスタント味噌汁の袋を破り、ポットで湧かしたお湯を注ぐ。
……この辺りの手順は、もう何百回も繰り返してきた。
「いろは、テーブルに持って行ってくれ」
「……はい、誠司様」
応える声は、いつものように感情の起伏がない。
けれどその声に、妙な静けさは感じられなかった。
「熱いから気をつけろよ」
「……はい」
いろははお盆を持って、ゆっくりとテーブルに運ぶ。
食卓に並ぶのは、ご飯、味噌汁、温めた肉じゃがとキャベツとハムのマリネ。
質素な男料理だが、温かい。
俺は椅子に座り、手を合わせる。
「いただきます」
いろはもそれに倣って、ほんのわずかに口を動かす。
「……いただきます」
会話はそれきりだった。
でも、この無言の時間が、俺たちにとっての普通だ。
ぎこちなくもない。居心地が悪いわけでもない。
(……これが、たぶん俺たちの距離感なんだろうな)
ただ、静かで穏やかな空気が流れる。
いろはは小食だから、みそ汁は一杯分だが、ご飯はお椀半分ほどで、おかずもほんの二口ずつ。
それでも、箸の動きは丁寧で、食べ残し一つない。
俺の食べ終わりを見計らって、いろはも箸を置く。
「ごちそうさま」
「……ごちそうさまでした」
食器を片付けようとしたところ、いろはがさっと立ち上がって、二人分の茶碗をシンクへ運ぶ。
手際よく水に漬け、袖をたくし上げて洗い物に取りかかろうとしたところで、俺が声をかけた。
「いろは、今日は俺が洗うよ」
「いえ、させてください」
即答だった。
だが、その声の響きに、どこか不安定な揺らぎがあった。
「……なら、一緒にやろう。俺が洗うから、お前は拭いてくれ」
「……わかりました」
きっと俺のために全部やろうとしていたんだろう。
でも、今の状態では一人に任せるのは少し危うい。
隣に立って一緒に作業したほうがいいだろう。
皿を洗いながら、ふと話を振ってみた。
「今日は学校、だったよな。どうした? 何かあったのか?」
「……途中で、帰ってきました」
「そうか‥‥‥体調でも悪くなったのか?」
「……誠司様が、いないのが嫌です」
「……っ」
その言葉に、誠司は手を止めかける。
静かに落ちる水音の中で、思わず返す言葉を探してしまった。
……あまりに、まっすぐだったから。
だけど、それだけじゃないと、いろはは続ける。
「……それに、やることが……何もないんです」
「授業は? 課題とか、残ってなかったのか? 友達は──」
「……今週は課題対応でした。すぐに終わらせました」
淡々とした口調。それは努力の成果を語るにはあまりに無表情だったが、裏に込めた意思は確かに届いてきた。
「そっか。さすがだな。よく頑張ってるよ」
その言葉に、いろははほんの少しだけ、口元を緩めた。
かすかに、ほんの一瞬だけ──微笑んだ気がした。
(……学校では、誰にもこんな顔は見せないんだろうな)
誠司は、流しの水を止めてふと口を開いた。
「……なあ、いろは。学校で、無理にとは言わないけど……友達を、少しだけでも作ってみないか?」
静かな沈黙が返ってくる。
いろはは誠司の言葉に反応せず、ただ俯いたまま小さく首を横に振った。
「……いりません。誠司様が……いてくれれば、それでいいです」
予想通りの返答だった。
(……それが本音だろうな。でも)
「わかった。でもな、いろは──」
誠司は手を止め、タオルで手を拭きながら続けた。
「俺はずっとそばにいるつもりだけど……学校ってのは、どうしても一人じゃこぼれる場面もある。だから、ほんの少しでいい。自分のために、人と関わってみてくれ。な?」
その言葉に、いろはは小さく目を伏せたまま──ただ静かに、誠司の袖を握った。
言葉にはしない。けれど、いろはの答えは、そこにあった。
(……いろはのこと、なんとかしてやらないとな)
そう胸の奥で強く思いながら、誠司は再び流しに向き直った。
水音が再び流れ出す中、沈黙のなかで温かく残った感触だけが、心に灯り続けていた。
§ § §
洗い物を終えると、隣でいろはが静かに食器を拭き終えていた。
時計を見れば、時刻は二十一時を回っている。
「いろは。風呂がそろそろ沸いてるはずだ。確認して先に入ってくれ」
そう言うと、いろははこちらを無言でじっと見つめてくる。
その視線に込められた意味は、もう二年も一緒に暮らしていれば嫌でも分かる。
何かを訴えている──が、言葉にはしない。
……ああ、またか。
あえて気づかないふりをしていると、観念したように、ぽつりと口を開いた。
「……一緒に入りたいです」
小さな声。けれど、はっきりとした意志があった。
「いい歳の女の子が、そういうのは控えなさい。慎ましくな」
「…………嫌です」
面倒くさいやつだ。ため息をつきながら、いろはの目を見る。
「……一人で入れるだろ。入ってきなさい」
「…………わかりました」
しぶしぶといろはは、一度自室に戻った後、風呂場へと向かっていく。
その小さな背を見送りながら、俺は肩をすくめた。
「……世の中のお父さんたちは娘に嫌われていないと喜ぶシーンなのかもしれんけど、実際はけっこう大変なんだよな」
ぽつりと独り言をこぼしながら、リビングの明かりを少し落とす。
風呂から上がってきたいろはは、きっちり三十分後にいつも通りのペースで声をかけてきた。
そのままバトンタッチで風呂に向かい、シャワーで軽く汗を流す。
(……なんとなくだけど、今日はもう少し話しておいた方がいい気がするな)
そんな直感が、心の奥でくすぶっていた。
入浴を終え、寝巻に着替えてリビングに戻ると、いろはがソファに座っていた。
髪を乾かしきれていないのか、肩口に水滴が一つ残っている。
「いろは、隣に座るぞ」
そう声をかけて、ソファのいろはの隣──すこし間を空けて腰を下ろす。
……すると。
いろはは俺を見つめながら、何のためらいもなく、その隙間を埋めるように身体を寄せ、そのまま、俺の服の袖をそっと、小さな手で握る。
(……まあ、いつものことか)
内心で軽くため息を吐きながら、口を開く。
「明日からのゴールデンウィークの予定だけど、少し変更することになった」
いろはは無言で首を傾げる。小さな動きだけど、不安が滲んでいた。
「いろはには、来週の月曜から渋谷ダンジョンの45層攻略に入るって伝えてたよな。でも、月曜は予定が入った。火曜から潜る。一日減るが……お前の実力なら問題ない。安心してくれ」
いろはは少し俯きながら、ぽつりとつぶやく。
「……予定……?」
やっぱり不安になってるな。俺の目を見ずに、膝の上で手を握りしめてる。
(たぶん、俺が誰か他の女とって方向に想像してるんだろうな)
「違うぞ。お前が思ってるようなことじゃない」
「……」
いろはがはっと顔を上げ、こちらを見つめて誠司が話をすることを待っている。
「今日の呼び出しは、月城会長からだった。その件で、事前打ち合わせが必要になったんだ」
いろはの表情がわずかに曇る。
指先が、俺の服の袖をきゅっと強く握りしめていた。
その小さな手には、微かな震えが──。
「……つき……し……ろ……」
かすれた声。けれど、確かにその名を口にした。
普段はほとんど感情を見せないはずの彼女が、こうしてわずかに強張るだけで──
その内側にあるものが、痛いほど伝わってくる。
俺は深く、静かに息を吐いた。
(月城会長がすべて悪いわけではないが……月城にはまだ、拒絶反応があるようだな)
そして、ソファの背にもたれかかりながら、少しだけ目を閉じる。