魔装融合士は黒き少女たちとダンジョン最深層を潜る ――異能装備で挑む“ダンジョン”の深淵―― 作:藍紫
目を見開き、リビングの隣に座るいろはへと顔を向ける。
「依頼内容のことだけどな。……5月の第3週から始まる、ハンター学院の特別クラス実習に、俺も現地教官として参加することになった」
その瞬間、いろはの肩がわずかに揺れた。
伏せがちだった瞳が、ぱちりと見開かれる。
「……そうなの……ですか……」
「ああ。詳しい内容はまだ知らされていないけど、月城会長と学院側からの正式な依頼らしい。受注そのものは連休明けだが……三日後には学院に顔を出して、担当教官たちと顔合わせの予定だ」
「……そう……ですか……」
いつものように淡々とした声。でも、その言葉の合間にほんの微かな滲みがあった。
──たぶん、普通の人間なら気づかない。けれど、俺には分かる。
二年一緒に暮らしてきた。
彼女が“何も言わないとき”こそ、何かを抱えている。
「……何か気になることがあるのか?」
俺がそう訊ねると、いろはは首を横に振った。
「……いえ……なにも……」
その声に嘘はない。
だが、真実が含まれていないのもまた事実だ。
(……やっぱり、何かあるな)
そう思いながらも、今はこれ以上、踏み込まない方がいいと判断した。
──今は黙って見ておくしかない。踏み込むことで、彼女の歩みを止めてしまう気がした。
「いろは。何かあるかもしれないってのはなんとなく分かる。でも、今はまだ聞かない。……それでいいか?」
「……はい……」
声の抑揚は依然として薄い。
けれど、その中にどこかほっとしたような響きが混じっていた。
「でもな。抱えきれないって感じたときは、ちゃんと俺に言えよ。──あの時、言っただろ」
あの時、と聞いた瞬間、
いろはは少しだけ俯いて、それでもしっかりと頷いた。
「……はい……」
その声は、今度こそ安心の色を含んでいたと、そう感じた。
ふとリビングの壁掛け時計に視線をやると、短針はすでに十を過ぎ、22時17分を指していた。
──そろそろ、頭と身体を休める時間だ。
「明日は、自由日。そして日曜日は予定通りダンジョン攻略のため備品補充に出る。……それで問題ないな?」
「……はい……」
抑揚のない、けれど拒絶の気配もない返答が返ってくる。
「よし。じゃあ、今日はもう寝よう」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、服の袖口にわずかな引っかかりを感じた。
見ると、いろはの指先が、そっと俺の袖を掴んでいた。
力強くはない。ただ、名残惜しそうに──まるで離したくないと願っているように。
俺が視線を向けると、いろははその視線から何かを察したのか、しずしずと指をほどき、静かに袖から手を離した。
言葉もない。だが、その仕草に込められた思いだけは、確かに伝わってきた。
(……この子にとって、俺との一日の終わりすら、名残になるのかもしれないな……)
もちろん、俺といろはは別々の寝室を使っている。
廊下へと歩き出し、ふと足を止めて振り返る。
「……おやすみ、いろは」
小さな背中がぴくりと反応した後──
「……おやすみなさい……誠司様」
変わらぬ抑揚の中に、ほんのわずかな温度を感じる声が返ってきた。
§ § §
いろはが自室のドアを閉める音を確認してから、俺もようやく自分の部屋へと足を踏み入れる。
スマホを取り出して、メッセージの確認を始める。
未読の中に、見覚えのある名前があった。
『相談がある 近いうちに連絡をくれ』
──あいつらしい、簡潔すぎる文章。
まったく、相変わらずだな。
時計を見ると、時刻はもうすぐ23時。
さすがにこの時間に連絡するのは、妻子持ちのあいつにとっては迷惑だろう。
(メッセージの返信は、明日電話してみるとして……装備の点検も予定通り、明日だな)
心の中でそう確認しながら、部屋の明かりを落とす。
寝巻きのまま、ベッドに身を投げると、じわりと疲労感が押し寄せてきた。
(ふぅ……今日はダンジョン探索より、話し合いの方がよっぽど神経をすり減らしたな)
天井を見つめながら、今日の出来事が脳裏をよぎる。
いろはの学院生活について、口を出しすぎるのは違うと思っている。
でも……あの子が学校で本当に無意味な時間を過ごしているのなら、保護者として何かしらの判断を下す必要があるかもしれない。
現地教官の依頼についても、相手次第だ。理事長はまともな人物だが、学院の教官連中はどうかだろうか‥‥‥『C+』という協会公認の訳ありハンターをどう扱うかは未知数だ。
……そして、会長の孫娘。
(あれは……しばらく無視でいい。あの会長が言いよどむくらいだ。確実に面倒ごとの匂いがする)
軽く息を吐いて、ようやく目を閉じた。
§ § §
ほんの数分──眠気が微かに訪れようとした、その時だった。
寝室のドアが、きぃ……と小さな音を立てて静かに開く。
ノックの音は、やはりない。だが、来ることはわかっていた。
月明かりが差し込む暗い部屋に、影がひとつ、そっと足音を忍ばせながら近づいてくる。
──当たり前のことだが、いろはだった。
彼女の姿は、白い寝間着に包まれて、ふわりとした印象をさらに引き立てている。
いつものように無言で、いつものように表情は薄い。
ただ、その水色の瞳には、ごくわずかな迷いと不安、そして甘えたいという感情が混ざり合っているように感じる。
いろはは何も言わず、俺のベッドの脇に立ち止まった。
そして、いつものように静かに立ち尽くす。
……俺の返答を待っている。
その姿は、まるで飼い主の許しを求める小動物のように、ただひたすら健気だった。
ため息をひとつ、軽く吐いてから、俺は声をかけた。
「……自分の部屋で寝なさい」
いろはの小さな肩が、ぴくりと動いた。
ほんの一瞬、迷ったような素振り。
だが、それもすぐに消えて──彼女はゆっくりと布団の端を持ち上げ、無言のまま、俺の左側へと入り込んできた。
すう、と滑るように布団に潜り込んだ彼女は、そっと俺の左腕に身体を寄せてくる。
遠慮も、躊躇もない。
ただ、『ここにいたい』という気持ちが、まっすぐに行動となって現れているだけだった。
いろはの体温が、じんわりと腕を通して伝わってくる。
あたたかい。小さい。
細い腕が、俺の袖口をおずおずと握りしめる。
その指先は、とても静かに、けれど確かに、──俺にしがみついて、放そうとしなかった。
(……甘いな、俺は)
心の中でひとつため息をついて、それでも抗えず、空いた右手でいろはの頭をそっと撫でる。
ふわりとした髪が、指の間をすり抜ける。
乾いていて、柔らかい。……優しい感触だった。
それだけで、胸の奥に妙な温もりが広がる。
(この子の存在が、もう俺の“日常”なんだ)
いろはは目を閉じたまま、俺の腕に顔を寄せていた。
その頬が触れるたびに、吐息が、肌をくすぐる。
守ってほしい。ここにいたい。誰にも邪魔されたくない──
……そんな想いが、きっとこの小さな抱きつきに込められているような気がした。
(……まったく。こんなに不器用に甘えられたら、拒めるわけがない)
そう心の中で呟きながら、俺は少しだけ体を預けた。
§ § §
「……誠司様」
その小さな声は、眠気とも夢ともつかない曖昧な揺らぎを帯びていた。
「……わたし、夢をよく見るんです」
誠司は視線を横に落とす。いろはの瞳は閉じていたが、口元だけがわずかに動く。
「真っ白な部屋の中……何もなくて、誰もいなくて。……でも、そこに誠司様がいたの」
そこで、ふと笑う。あまりにも、寂しげに。
「……わたしの魔法でね……夢を形にできるなら……」
いろはの声が、そこで一度、途切れた。
そして──
「誠司様だけ、……ちゃんと形にできたら……わたし、他にはもう……何もいらないのになぁ……」
誠司は言葉を失う。
穏やかに囁かれたその一言が、まるで凍てつく硝子のように、静かに心をひび割らせていく。
『世界に影響を及ぼす力】を持ちながら――この子は、たったひとりの存在だけを願っている。
「……せいじさま……は……わたしの……なの……」
その声は、夢か現かもわからないような、かすれた囁きだった。
眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか。
境界に揺れる意識の中で、いろはは誠司の袖を、小さな手でぎゅっと握っていた。
まるで、縋るように。