魔装融合士は黒き少女たちとダンジョン最深層を潜る ――異能装備で挑む“ダンジョン”の深淵――   作:藍紫

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1-10 無垢な願い

 

 目を見開き、リビングの隣に座るいろはへと顔を向ける。

 

「依頼内容のことだけどな。……5月の第3週から始まる、ハンター学院の特別クラス実習に、俺も現地教官として参加することになった」

 

 その瞬間、いろはの肩がわずかに揺れた。

 伏せがちだった瞳が、ぱちりと見開かれる。

 

「……そうなの……ですか……」

 

「ああ。詳しい内容はまだ知らされていないけど、月城会長と学院側からの正式な依頼らしい。受注そのものは連休明けだが……三日後には学院に顔を出して、担当教官たちと顔合わせの予定だ」

 

「……そう……ですか……」

 

 いつものように淡々とした声。でも、その言葉の合間にほんの微かな滲みがあった。

 

 ──たぶん、普通の人間なら気づかない。けれど、俺には分かる。

 二年一緒に暮らしてきた。

彼女が“何も言わないとき”こそ、何かを抱えている。

 

「……何か気になることがあるのか?」

 

 俺がそう訊ねると、いろはは首を横に振った。

 

「……いえ……なにも……」

 

 その声に嘘はない。

だが、真実が含まれていないのもまた事実だ。

 

(……やっぱり、何かあるな)

 

 そう思いながらも、今はこれ以上、踏み込まない方がいいと判断した。

 ──今は黙って見ておくしかない。踏み込むことで、彼女の歩みを止めてしまう気がした。

 

「いろは。何かあるかもしれないってのはなんとなく分かる。でも、今はまだ聞かない。……それでいいか?」

 

「……はい……」

 

 声の抑揚は依然として薄い。

 けれど、その中にどこかほっとしたような響きが混じっていた。

 

「でもな。抱えきれないって感じたときは、ちゃんと俺に言えよ。──あの時、言っただろ」

 

 あの時、と聞いた瞬間、

 いろはは少しだけ俯いて、それでもしっかりと頷いた。

 

「……はい……」

 

 その声は、今度こそ安心の色を含んでいたと、そう感じた。

 ふとリビングの壁掛け時計に視線をやると、短針はすでに十を過ぎ、22時17分を指していた。

 ──そろそろ、頭と身体を休める時間だ。

 

「明日は、自由日。そして日曜日は予定通りダンジョン攻略のため備品補充に出る。……それで問題ないな?」

 

「……はい……」

 

 抑揚のない、けれど拒絶の気配もない返答が返ってくる。

 

「よし。じゃあ、今日はもう寝よう」

 

 そう言って立ち上がろうとした瞬間、服の袖口にわずかな引っかかりを感じた。

 

 見ると、いろはの指先が、そっと俺の袖を掴んでいた。

 力強くはない。ただ、名残惜しそうに──まるで離したくないと願っているように。

 俺が視線を向けると、いろははその視線から何かを察したのか、しずしずと指をほどき、静かに袖から手を離した。

 言葉もない。だが、その仕草に込められた思いだけは、確かに伝わってきた。

 

(……この子にとって、俺との一日の終わりすら、名残になるのかもしれないな……)

 

 もちろん、俺といろはは別々の寝室を使っている。

 廊下へと歩き出し、ふと足を止めて振り返る。

 

「……おやすみ、いろは」

 

 小さな背中がぴくりと反応した後──

 

「……おやすみなさい……誠司様」

 

 変わらぬ抑揚の中に、ほんのわずかな温度を感じる声が返ってきた。

 

 

 

 

 

§  §  §

 

 

 

 

 

 いろはが自室のドアを閉める音を確認してから、俺もようやく自分の部屋へと足を踏み入れる。

 スマホを取り出して、メッセージの確認を始める。

未読の中に、見覚えのある名前があった。

 

『相談がある 近いうちに連絡をくれ』

 

 ──あいつらしい、簡潔すぎる文章。

 まったく、相変わらずだな。

 時計を見ると、時刻はもうすぐ23時。

さすがにこの時間に連絡するのは、妻子持ちのあいつにとっては迷惑だろう。

 

(メッセージの返信は、明日電話してみるとして……装備の点検も予定通り、明日だな)

 

 心の中でそう確認しながら、部屋の明かりを落とす。

寝巻きのまま、ベッドに身を投げると、じわりと疲労感が押し寄せてきた。

 

(ふぅ……今日はダンジョン探索より、話し合いの方がよっぽど神経をすり減らしたな)

 

 天井を見つめながら、今日の出来事が脳裏をよぎる。

 いろはの学院生活について、口を出しすぎるのは違うと思っている。

 

 でも……あの子が学校で本当に無意味な時間を過ごしているのなら、保護者として何かしらの判断を下す必要があるかもしれない。

 

 現地教官の依頼についても、相手次第だ。理事長はまともな人物だが、学院の教官連中はどうかだろうか‥‥‥『C+』という協会公認の訳ありハンターをどう扱うかは未知数だ。

 

 ……そして、会長の孫娘。

 

(あれは……しばらく無視でいい。あの会長が言いよどむくらいだ。確実に面倒ごとの匂いがする)

 

 軽く息を吐いて、ようやく目を閉じた。

 

 

 

 

 

§  §  §

 

 

 

 

 

 ほんの数分──眠気が微かに訪れようとした、その時だった。

 

 寝室のドアが、きぃ……と小さな音を立てて静かに開く。

 ノックの音は、やはりない。だが、来ることはわかっていた。

 月明かりが差し込む暗い部屋に、影がひとつ、そっと足音を忍ばせながら近づいてくる。

 

 ──当たり前のことだが、いろはだった。

 

 彼女の姿は、白い寝間着に包まれて、ふわりとした印象をさらに引き立てている。

 いつものように無言で、いつものように表情は薄い。

 ただ、その水色の瞳には、ごくわずかな迷いと不安、そして甘えたいという感情が混ざり合っているように感じる。

 

 いろはは何も言わず、俺のベッドの脇に立ち止まった。

 そして、いつものように静かに立ち尽くす。

 

 ……俺の返答を待っている。

 

 その姿は、まるで飼い主の許しを求める小動物のように、ただひたすら健気だった。

 ため息をひとつ、軽く吐いてから、俺は声をかけた。

 

「……自分の部屋で寝なさい」

 

 いろはの小さな肩が、ぴくりと動いた。

 ほんの一瞬、迷ったような素振り。

 だが、それもすぐに消えて──彼女はゆっくりと布団の端を持ち上げ、無言のまま、俺の左側へと入り込んできた。

 すう、と滑るように布団に潜り込んだ彼女は、そっと俺の左腕に身体を寄せてくる。

 遠慮も、躊躇もない。

 ただ、『ここにいたい』という気持ちが、まっすぐに行動となって現れているだけだった。

 

 いろはの体温が、じんわりと腕を通して伝わってくる。

 あたたかい。小さい。

 細い腕が、俺の袖口をおずおずと握りしめる。

 その指先は、とても静かに、けれど確かに、──俺にしがみついて、放そうとしなかった。

 

 (……甘いな、俺は)

 

 心の中でひとつため息をついて、それでも抗えず、空いた右手でいろはの頭をそっと撫でる。

 

 ふわりとした髪が、指の間をすり抜ける。

 乾いていて、柔らかい。……優しい感触だった。

 それだけで、胸の奥に妙な温もりが広がる。

 

 (この子の存在が、もう俺の“日常”なんだ)

 

 いろはは目を閉じたまま、俺の腕に顔を寄せていた。

 その頬が触れるたびに、吐息が、肌をくすぐる。

 守ってほしい。ここにいたい。誰にも邪魔されたくない──

 ……そんな想いが、きっとこの小さな抱きつきに込められているような気がした。

 

(……まったく。こんなに不器用に甘えられたら、拒めるわけがない)

 

 そう心の中で呟きながら、俺は少しだけ体を預けた。

 

 

 

 

 

§  §  §

 

 

 

 

 

 

「……誠司様」

 

 その小さな声は、眠気とも夢ともつかない曖昧な揺らぎを帯びていた。

 

「……わたし、夢をよく見るんです」

 

 誠司は視線を横に落とす。いろはの瞳は閉じていたが、口元だけがわずかに動く。

 

「真っ白な部屋の中……何もなくて、誰もいなくて。……でも、そこに誠司様がいたの」

 

 そこで、ふと笑う。あまりにも、寂しげに。

 

「……わたしの魔法でね……夢を形にできるなら……」

 

 いろはの声が、そこで一度、途切れた。

 

 そして──

 

「誠司様だけ、……ちゃんと形にできたら……わたし、他にはもう……何もいらないのになぁ……」

 

 誠司は言葉を失う。

 穏やかに囁かれたその一言が、まるで凍てつく硝子のように、静かに心をひび割らせていく。

 

『世界に影響を及ぼす力】を持ちながら――この子は、たったひとりの存在だけを願っている。

 

「……せいじさま……は……わたしの……なの……」

 

 その声は、夢か現かもわからないような、かすれた囁きだった。

 眠っているのか、ただ目を閉じているだけなのか。

 境界に揺れる意識の中で、いろはは誠司の袖を、小さな手でぎゅっと握っていた。

 

 

 

 まるで、縋るように。

 

 

 

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