魔装融合士は黒き少女たちとダンジョン最深層を潜る ――異能装備で挑む“ダンジョン”の深淵―― 作:藍紫
──世界は、淡雪色の靄に沈みつつあった。
ダンジョン45層。
本来ならば人工的な何もないホールを模した、無機質な戦闘空間のはずだった。
だが今や、すべての境界が曖昧となった。
壁も床も、天井すらも。空気の輪郭までもが、融けていくように霞んでいた。
その白は、単なる白ではない。
微かに桃の気配を帯びた──柔らかで残酷な白。
まるで、呼吸ひとつで壊れてしまう雪の幻。
その靄が、空間の隅々へと染み込みながら膨張していた。
現実をひとつずつ侵しながら、世界を“いろはの幻想”へと塗り替えていく。
誠司の目に映るのは、ただひとつの影。
淡雪の靄の中心に立ち尽くす──ひとりのの少女──橘いろは。
黒猫型の空想具現体・モルヴが崩壊した直後、彼女の魔力は暴走し、世界を塗り潰していた。
いろはは誰もいない空間に視線を彷徨わせた。
そして、その虚空に向かってぽつりと語りかける。
まるでそこに、“彼女”が立っているかのように──。
「いいこだった……よね? おとなしくしてた……はずだよね?」
「ずっと、となりにいた。なのに……どうして、つれていったの……」
「ならされて、こわれたにんぎょうだった。でも、うけいれたよ。ぜんぶ……」
「どうして……あなたが、せいじさまのてを、ひいているの……?」
「……あなたのこえ、やさしかった……」
「わたしのこえに、すこしにてたから──よけいに、わからない……」
「……わたしの、ちいさなあわゆきのゆめ」
「──やぶいたの、あなたなのに……っ」
「ねえ……もう、ちかよらないで……これいじょう、うばわないで……?」
「わたしには……せいじさましか、いないのに……」
その眼差しは、焦点を失ったまま狂気を孕んでいた。
誰もいないその場所に、彼女はなおも縋るように手を伸ばしていた。
ただ一つ──“彼”を求めるように。
§ § §
「……いろは」
いろはが何かをつぶやいているようだが、明らかに暴走状態である。
(……早く、終わらせなければ)
誠司はゆっくりと足を踏み出した。灰色の魔装【灰機装】に包まれたその姿は、静かなる覚悟の象徴だった。彼女を止めるのは、他でもない、自分しかいない。
「……いろは。俺は、ここにいる」
その声は届かない。いろはの瞳は虚ろで、狂気を滲ませて揺れていた。全身からは淡雪の光が漏れ出し、空間の構造そのものを浸食しはじめている。
誠司は、迷いを捨てた目で踏み込んだ。正面から滑り込むようにいろはへと進む。
その瞬間、彼の右腕が閃いた。
「【八葉変化:四式《大盾》】──展開!」
魔装融合【八葉変化】の魔力を帯び変形し、厚みのある盾が前腕部に生成される。同時に、内部の魔力炉から膨大なエネルギーが供給され、盾の表面に結界のような魔力障壁が形成された。
(この一撃で、道を拓く……!)
誠司は盾を構えたまま、いろはへと一直線に突き進んだ。だが──。
〈ぬるり〉。
いろはの足元、白く染まった靄の中から、何かが蠢き始める。それは──白亜の触手だった。空間そのものから生えたかのように、意思すら感じさせる滑らかな異形。
次の瞬間、触手の先端から“空想具現”による白刃が生えた。
それは音もなく誠司の盾に叩きつけられる。
「くっ──!」
瞬時に展開された魔力障壁が、刃に触れた瞬間、まるで融解するかのように消滅していく。白刃は魔力そのものを侵蝕し、盾の左端を切り裂いた。バキン、と乾いた音を立てて、盾の端に亀裂が走る。
(魔力ごと削り取る……っ!?)
誠司は咄嗟に後方へ跳ね退き、体勢を立て直す。盾の裂けた部分から、焦げたような蒸気が立ち昇っていた。
距離を取った誠司は、すぐに次の策へと移行した。
「【八葉変化:七式《魔導銃》】──展開!」
彼の背部から浮遊機構が展開され、一丁の重厚な魔導銃が手元に転送される。冷却が施された銃身に、青い魔力が脈打ち始める。
狙うは、いろはの足元から生じた白亜の触手群。
誠司は引き金を引いた。光弾が連続で発射され、純白の空間に蒼い線を描く。
一発、二発──五発。
魔力弾は次々に触手へ命中する。確かに命中した感触があった。触手は霧散し、弾け飛ぶ──かに思えた。
だが、その直後。
いろはは、何の反応も見せなかった。感情のない瞳で、ただ虚空を見据え──。
「……“せいじさま”……」
その唇が、ぽつりと名前を漏らした瞬間、彼女の背後から、淡雪の弾幕が放たれた。
数え切れぬほどの白い光弾。どこからともなく現れ、空間全体を満たす。
誠司の魔導銃による攻撃は、すべて霧散した。現実の法則が崩れたこの空間では、彼の“物理法則に基づく魔力”は無効化されていた。
(あの子は……本当に、 “いろは”なのか……?)
誠司の喉が、かすかに鳴った。
目の前の少女は、確かに“橘いろは”だ。
だが、あの優しい瞳は、もうそこにはなかった。
§ § §
誠司は、今度こそ言葉で届くと信じ再度前に出る。
(俺が見てきたのは……強い誰かじゃない。壊れかけのまま、笑いたくても笑えず、
だから、ただ寄り添おうとしてくれた……そんなお前だった)
(だからこそ、放っておけるわけがねぇんだよ……)
前方のいろはは、感情の色を失ったまま、淡雪の靄の中心に静かに立っている。
「……いろは、お前は、そんなやつじゃない」
声が震える。魔導銃の照準を外し、誠司は正面から叫んだ。
「お前は……誰よりも、人を信じようとするやつだった!」
「傷つけられても、裏切られても、それでも信じようとして……それでも、俺を選んでくれた……!」
「優しいとか強いとか、そんな言葉じゃ足りねえよ……! お前は……ただ、必死だったんだろ……!」
自分に言い聞かせるように、あるいは祈るように、言葉を絞り出す。
「お前が、そんなふうに……見境なく、破壊するはずがない……!」
だが──。
ぬるり。
いろはの足元から、また“それ”が生えた。今度は、白い蔓だった。淡雪色の空気を纏い、ゆらりと蠢いたそれは、ふわりと宙を舞う。
触れた空間が、音もなく──“消えた”。
存在そのものが、淡雪の靄に呑まれて跡形もなく消失する。地面も空気も、“あったことすら”否定されたかのように。
(……俺の声も、届いてないのか?)
胸に冷たいものが差し込んだ。
まるで、いろはの目の前に立っているのに──見えていない。聞こえていない。そこに“存在していない”。
蔓が、今度は自分へと伸びてくる。
「チッ──!」
誠司は跳躍した。空中で身体をひねり、蔓の軌道を読み切ってかわす。だが地面に着地する頃には、蔓の触れた床は既に喪失していた。空間そのものが、霧に呑まれ、穴となっている。
(やっぱり……この空間じゃ、物理も魔力も通じない。けど……)
(けど、それでも──)
歯を噛みしめ、誠司は拳を握りしめた。
(俺がいろはを信じなきゃ、誰が信じるっていうんだ……!)
まだ、終わらせない。まだ、言葉を諦めない。
この想いだけは、消えはしない。
例え、“彼女”が今の誠司すら──認識していなかったとしても。
魔力暴走の中心で、いろはがふと呟く。
それは、今この場の言葉ではない。
「……せいじさま……どこ、ですか……」
「……もうすこしで……てを、つないでほしいです……」
空間がきしむ音とともに、いろはの声はまるで“過去の記憶”をそのまま垂れ流しているかのようだった。
「ずっといっしょって、やくそく……したのに……」
そのたび、誠司の胸に鈍く苦い何かが走る。
§ § §
──三度目の突撃。ならばこそ、真正面から。
誠司は、灰機装の背についている魔力バーニアを点火し、静かに息を整えた。
浮遊する霧は、触れれば溶けるように肌を焼く。それでも彼は、前を向いた。
呼吸は浅く、心臓の鼓動が耳の奥で脈打つ。
背に感じるのは、魔力炉の鼓動。ほんのわずかな意志の遅れも、命取りになる。
(近づく……あの魔力嵐の中心へ……)
空間が軋み、風が鳴いた。いろはの魔力が渦を巻くように収束している。
だが──誠司の眼差しは、迷いなくその中心を捉えていた。
「……やるしかねぇだろ、誠司」
自分に言い聞かせるように呟く。
カチリ──
左手が背部の制御スイッチに触れた瞬間、灰機装の骨組みがわずかに収縮し、魔力管がうなる。
魔力流路が一斉に開き、バーニア内部の蒼光が点滅する。
(あの子のもとへ──届かせるために)
次の瞬間。
──点火。
背部に集積された八基の推進炉が、一斉に爆ぜるように噴出した。
轟音とともに、誠司の身体が白の暴風を切り裂き放たれた。
一直線。いろはのいる暴風の中心へ。
(やるなら、今しかない……!)
異空間に歪んだ重力と空気抵抗をねじ伏せ、誠司は全神経を集中させて突っ込んだ。空想の霧が肌を切り裂き、白の触手が背後からうねるように伸びる。けれど、それらをすべて振り払うように──彼は飛ぶ。
(届け……俺の全部)
そして──その瞬間。誠司の手が、仮面に添えられた。
カシャン。乾いた音とともに、仮面が空中へと舞った。
くるくると回転しながら、灰の仮面が虚空に落ちていく。
仮面が地面に落ちた瞬間、白い靄のなかで、誠司の素顔が露わになる。
かつて“何も持たない少年”だった、在りし日の誠司の表情がそこにあった。
その眼差しは、いろはに向けてきた日々と同じ、まっすぐな信念に貫かれている。
そして彼の脳裏に──一枚の記憶が、ふと滲む。
(あの時、お前が……初めて、笑ってくれた)
あの白い部屋。
わずかな陽光の差す片隅で、いろはが小さな声で「ありがとう」と呟いたあの瞬間。
すべての始まりは、あの笑顔だった。
「いろは──!」
声が、叫びではなく祈りに変わった。
いろはが誠司を見た。けれどその瞳は、まだ空虚なままだった。
色彩のない光がゆらめく中、その目には何も映っていない。
(違う……まだ届いてない……なら──)
誠司は、全身の痛覚を無視して彼女に手を伸ばした。
焼けつくような魔力が、彼の皮膚を焦がす。それでも、ためらいはなかった。
指先が、いろはの頬に触れる。
「見ろ、いろは。……俺だ、誠司だ」
触れた指先から、魔装が焼け、皮膚が剥がれる。だが誠司は笑った。
「お前を……お前だけは、絶対にひとりにはしない」
その言葉とともに、彼の左腕に装着された魔力供給装置【魔融接続具】が起動する。紫の光が脈動し、魔力の流れが誠司の体を走り抜けていく。
魔融接続具から流れる魔力。
その循環が、誠司の左腕の脈動に同調するように脈打っていく。
紫の宝珠──《ソウル・ガーディリア》。
そのかすかな光は、心臓の鼓動と合わせるように、ゆっくりと明滅をはじめた。
どくん、どくん──
魔力ではなく、“生”そのものを通じて、誠司はいろはと繋がろうとしていた。
「……お願いだ、戻ってきてくれ……」
誠司の膝が折れる。呼吸が荒くなる。だが彼は、決して手を離さない。
空間の中で、わずかに──ほんのわずかに、“白”が後退した。
淡雪のように静かに、しかし確実に。
(もう少しだけでいい……その目に、俺を映してくれ)
灰色の世界に、かすかな紫の光が脈打ち続けていた。
§ § §
膝をつきながら、誠司は魔力供給を続けた。
暴走する空間の中で、わずかに──ほんのわずかに、“白”が後退する。
そして、いろはの瞳が、揺れた。
虚ろだった双眸が、ほんの一瞬、震え──
そこに、水色の光が、戻っていた。
「……せいじ……さま……?」
かすれた声。迷子の子どもが、家を見つけたような、震える声。
誠司は微笑み、力なく言った。
「……おかえり」
その瞬間、空間に満ちていた白が、崩れ落ちた。
いろはの魔力が制御を取り戻し、空想具現は終息する。世界は、現実に戻りつつあった。
いろははその場に膝をつき、誠司の胸元にすがった。震える身体を、誠司は黙って抱きしめる。
(……俺は、まだ、弱い)
けれど、
(それでも──お前だけは俺が守る)
灰仮面という名の、ただの男は。
誰かを想い、誰かの心に触れ、そして世界を戻すために──戦う。
そうして、二人は、再び“生きている”世界へと帰還した。
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