魔装融合士は黒き少女たちとダンジョン最深層を潜る ――異能装備で挑む“ダンジョン”の深淵―― 作:藍紫
数分後、二つの丼が同時にカウンターへと置かれた。
だが、その二杯はあまりにも違っていた。
(……なんだこれは)
誠司の前に置かれたのは、煉獄ラーメン──真紅のスープに、唐辛子で色づいた麺と具材が鮮烈に浮かぶ。
常人には十分すぎるほどの激辛。だが、まだ“人間の食べ物”のようだ。
一方で。
光莉の前に供された《第零階・煉界王》は、もはや“食”というカテゴリを逸脱していた。
スープは、ただ赤いのではない。
漆黒に限りなく近い深紅──光を吸い込むような紅蓮地獄の色。
そこに、表面を覆うように浮かぶ妖しくも不規則な斑模様の緋色と紫黒。
スープがまるで“鍋に煮詰まった怒りと業”そのもので、微かに虹のような干渉色が揺れている。
それは化学染料ではない、天然素材でしか出せない“生きた色”だった。
麺は、唐辛子色ではなく、赤銅色に近い焦げ朱(こげあけ)の麺線に、微細な黒粒と燻んだ紫の紋様が浮かび、まるで魔獣の腸線を彷彿とさせる不気味な質感をしていた。
湯気は赤く、店内の灯りが反射しているはずなのに、どこか青黒い影が滲んで見える。
誠司は思った。
(……これは、“食べ物の色”じゃない)
それは──“煉獄”という言葉が初めて、正しく視覚化された一杯だった。
「……私が店長です」
ラーメンを渡してきた男が、カウンター越しに深く一礼しながら口を開いた。
「《煉界王》。辛さは神話級。……当店の誇りにして、ダンジョン深層すら超えると自負しております。天瀬様……いえ、ラーメン特攻隊長。ぜひ、ご賞味を」
その言葉に、光莉はまっすぐに相手の目を見つめて、小さく頷いた。
「ええ、ありがたく。いただきます」
その言葉を合図に、静かだった店内がさらに凍りつく。
光莉は箸をとり、ふわりと立ちのぼる灼熱の湯気を切り裂くように麺を持ち上げる。
一口すすると、周囲の空気が、止まった。
そして、咀嚼。
口元に軽く手を添え、続けてスープを一口──
その間、店内の誰一人として息を飲むことすらできなかった。
まるで、そこにいる全員が“煉獄”に引き込まれ、言葉も動きも失っていたかのようだった。
「…………うん、美味ですね」
やがて光莉は、ゆっくりと微笑んだ。
その顔には、驚きも苦しみも、わずかな汗さえ浮かんでいない。
むしろ、目を細めるその姿は、食の悦楽を満たした一流の美食家のそれだった。
彼女は、まるで何事もなかったかのように、辛さの暴力を前にして優雅に箸を動かしていた。
店内のざわめきが、爆発した。
「うそだろ……!」
「汗ひとつかかずに、神話級を……!?」
「流石、ラーメン特攻隊長!」
「俺たちは、今、伝説を目撃している……!」
客も、店員も、誰もが目の前のラーメンを忘れ、調理を忘れ、咀嚼さえ忘れていた。
ただ、ただ──天瀬光莉というひとりの女の所作に、息を呑んで見入っていた。
そして、静かに──店長が、泣いていた。
「……苦節二十年。このラーメンは……貴方様に食べていただくために私は作り続けたと言っても、過言ではありません……!」
顔をくしゃくしゃにしながら、男泣き。
その背後で、ベテランらしき二名の店員も、うんうんと涙ぐんでいる。
(……いや、重いわ)
隣で静かにスープを飲んでいる光莉を横目に、誠司は内心だけでそう思った。
ラーメンは熱い。スープも辛い。そして空気が……暑苦しい。
ふと、自分がまだ何も食べていないことに気づいた誠司は、黙ってレンゲを手に取る。
隣では幸せそうにラーメンをすすっている光莉。その姿をチラと見て、誠司は(いただきます)と心の中で呟いた。
煉獄ラーメンの真紅のスープをすくい、一口──
「ごふっ……おっ、ごほっ、ごほっ!!」
突然、喉が焼かれたようにむせ返る。
一瞬で全身から汗が噴き出し、額どころか背中までびっしょりだ。
咳き込みながら顔をしかめる誠司に、店内の視線が集中する。
「……あはー、辛すぎましたか?」
名前を呼ばず、さりげなくフォローを入れる光莉。慣れている。
にこやかな表情で、氷水のグラスを差し出してくる。
「口の中、冷やしてくださいねー」
受け取ったグラスを一気に飲む誠司。
確かに一時的に辛さが増す。けれど、体温は少し落ち着いた。
「……うっ、ふぅ……煉獄、か……いや、辛すぎだろ……」
そう小声でつぶやく誠司の横で、また店内がざわついた。
「やはり普通はああなるか……」
「だよな……普通の人間の感性だとああなるもんな」
「特攻隊長の隣にいるとはいえ、彼は一般枠……か?」
「いや……彼もまた、我らと同じ“地獄”に挑む者だ……!」
誠司の口火に触発されたかのように、客たちの間に微妙な賞賛と共感のざわめきが広がる。
誠司はそれを背に受けながら、静かに戦いを続けていた。
汗をかき、咳き込みながらも、少しずつ麺を啜り、具材を口に運ぶ。
そして、スープを──飲まずに残す。
(……いや、俺別にラーメン通じゃないし。はしごもあるし)
完食の達成感よりも、これからの行動計画を重視する。
そう、それが、彼の戦術だった。決して、スープの辛さから逃げだわけではないのだ。
隣では、光莉が丼を持ち上げ、ゆっくりと、最後のスープを飲み干していた。
「……ごちそうさまでした」
満足そうな顔で言う光莉に続いて、誠司もぽつりとつぶやいた。
「御馳走様」
そして──
「天瀬様、完食、誠にありがとうございます……!」
再び、店長の声が上がった。
「貴方様に食していただき、感謝の極みです……!」
「いやー、店長、素晴らしい辛さでしたよ~。私が食べた激辛ラーメンの中でも五指に入ります。……おいしさを加味したら、三指ですね」
光莉は続ける。
「辛さだけを誇示する店は多いですが、こちらはその辛さの中に──しっかりと旨味と香りを閉じ込めている。だからこそ、私の中でも上位三指に入るんですよ」
その評価に、店長は再び号泣。ベテラン店員たちも、涙を拭いながら彼女に頭を下げる。
そして店内。
この地獄を愛する猛者たちは、光莉の完食に拍手を送り、静かに丼へと向き直る。
だが、誠司──そして一部の一見客たちはというと、若干引き気味だった。
(いや……ほんと、暑苦しいわ)
そんなことを考えていると、涙を拭った店長が、唐突に誠司へと顔を向けた。
次の“矛先”が、自分であることを──誠司は、悟った。
§ § §
涙で濡れた頬のまま、店長は誠司をじっと見つめ、深く頭を下げた。
そして、まるで高貴な存在に謁見するような口調で語りかける。
「……天秤様とお見受けいたします。当店のオーソドックスな一品──煉獄ラーメン。
あなたの味覚には……如何でしたでしょうか」
声は低く、真剣だった。
その瞬間、一部の客たちが反応した。
ざわ……と、微かな波紋が店内に広がっていく。
「……天秤……だと?」
「嘘……まさか……あの人が……?」
一方で、初来店らしき一見客たちは困惑していた。
まるで宗教儀式の途中に紛れ込んだような、あの置いてけぼりの空気。
(……はぁ、またかよ)
誠司は内心で嘆息した。
こういう展開には慣れている。慣れているが、面倒なものは面倒だ。
誠司はゆっくりと視線を店長に向け、そして隣でにこにこ笑っている光莉を睨みながら口を開いた。
「……えぇ、店のコンセプトに合った、非常に辛くて美味しいラーメンだったと思いますよ」
やんわりと、当たり障りのない表現を選んだつもりだった。
だが、店長はなおも食い下がる。
「御身に対し、不敬かもしれませんが……。その、あなたの“味覚”には……如何でしたか?」
(うわぁ……本気で聞いてきたよ)
誠司は深く息を吐いた。そして、静かに答える。
「……俺の味覚にはマッチしませんね。ただし、激辛好きのコアな客層にマッチした、非常に辛く、美味しいラーメンだったと思います」
その言葉を聞いた瞬間──
「くっ……!」
店長が厨房の台を両手で叩きつけた。
隣のベテラン店員二人は額に手を当て、ラーメン通たちは揃ってうなだれる。
一見客たちは、意味も分からずざわざわと戸惑っていた。
やがて、店の片隅でひそひそ声が交差し始める。
「……天瀬様の隣にいた男……あの人、何者なんだ?」
「天秤様って、何?」
「あの人はラーメン四天王の5人目だ」
「四天王! でも5人目!? …………まぁ、よくあることか。」
「……でも、“天秤”ってのは何だ?」
ラーメン通と思しき青年が、小声で解説を始める。
「『ラーメン界の天秤』。それは、『ラーメン特攻隊長』こと天瀬光莉さんと、時折ともに現れる謎の人物……。その素性や顔写真は、天瀬さんが訴訟を何度も起こして削除させたらしく、ネットではほとんど見られない」
「じゃあどうやって有名になったんだ?」
「彼が、“味覚に合う”と評価したラーメン店は、翌年からラーメン店全国ランキングのトップ10に食い込む。逆に“味覚に合わない”と一言でも漏らされた店は……だいたい、1年以内に閉店してる」
「マジかよ……それ、ただの都市伝説じゃ……」
「そう思うだろ? でも、ラーメン屋って味や話題性だけじゃなくて、信頼で食い繋いでるんだよ。看板背負ってる店主たちは、あの“天秤”に聞かずにいられないんだ。──彼の言葉ひとつで、未来が決まるってな」
重々しく、そんな会話が交わされていく店内。
「じゃあ、この店はどうなるんだ?」
「……今回の評価だと、激辛ラーメンとしては上位だな。コアなファンには刺さる。ただし、
万人受けには届かない。いわば、店の看板のとおり、地獄を愛する者のための選ばれし店だ」
「……天秤様、すげぇ……!」
誠司はその会話が耳に入っていながら、氷水を飲みつつ、もう何も言わずにただ天井を見て静かに考えていた。
(……そもそも俺、ラーメンって一人じゃ食べないんだよな)
光莉の趣味に付き合ってるだけ。
ラーメンが好きというほどでもない。むしろ“付き合い”でしかない。
(なのに、いつの間にか……)
誠司が「味覚に合う」と言った──
ただそれだけで、店の売上が跳ね上がったり、逆に「口に合わない」と言っただけで、
不味くもない店が閉店に追い込まれた。
それは、光莉──“ラーメン特攻隊長”にして“日本のヒカリ”と称される彼女の隣にいたからこそ、勝手に注目され、勝手に重みを与えられてきた結果だった。
(……考えてみてほしい。俺は、ただの食事において“万民”の中の一人だ)
料理人でもない。評論家でもない。
そんな自分の「味覚に合う」が意味するものは──
“みんなが普通に美味しいと思う味”ということ程度にすぎない。
なのに、ラーメン界隈ではそれが特別な評価として扱われ、店の未来を左右するようになった。
(そのせいで、“四天王の5人目”、“天秤”なんて不名誉な異名をもらって……。
もう、軽率に味の感想なんて言えやしない)
真面目に努力している店に、不用意な一言で影響を与えてしまう重圧。
それが、誠司の中にしこりのように残っていた。
本当に──ラーメン界って、面倒くさい。
§ § §
街灯が光る夜の歩道を、帽子を被った光莉が前を歩く。
背中越しに伸びをひとつ。細身の体がしなやかに弧を描く。
「う~ん……お腹いっぱいです。ラーメン三昧って、やっぱり最高ですね」
軽快な声が空に弾ける。
その直後、後ろから呻き声がこぼれた。
「うー……胃もたれしてる気分だ……」
誠司が腹をさすりながらぼやくと、光莉はおかしそうに振り返った。
「あははっ、誠司、まだ若いのに~? 胃もたれなんて早いですよぉ?」
からかうような笑みに、誠司はむすっとした表情で返す。
「笑うなって……それにな、お前のチョイス、今日も相変わらず無茶苦茶だぞ。
超激辛《煉界王》、超酸味《酸仙》、で、最後が……岩塩ラーメン《塩界(え~んかい)》? あれ、もうラーメンじゃねぇ。岩塩が“調味料”じゃなくて“主役”になってたぞ! なんで丸ごと一塊入ってるんだよ!?」
「いや~、ですよね~。でも、あの岩塩の塊感、私はけっこう好きでしたよ?
……ああいうのって、激しい運動のあとに食べると、
身体にじわ~っと染み渡るんですよねぇ。……ね、誠司?」
光莉はくすりと笑いながら、左手の親指と人差し指で小さな輪をつくり、そこに右手の人差し指を何度も前後にくぐらせる。
どこか──艶やかで、そして狂気じみた仕草だった。
「……まあ、普通のラーメンに関して言えば、たしかに言うとおりだな。
運動したあとなら、かなり旨く感じたかも。
……でも正直、今日の三軒目は──ちょっと食いすぎて、味がぼやけてた」
誠司は、自分が頼んだ岩塩が普通の調味料として使用されていたオーソドックスな岩塩ラーメンを思い出しながら、どこか苦笑混じりにそう返す。
「ふふっ。誠司、やっぱり分かってるじゃないですか。
それでは、今から“激しい夜の運動”でも……しませんか?」
光莉はぴたりと足を止め、くるりと振り向いて距離を詰めてくる。
片手を誠司の首に回し、もう片方の手でそっと顎を持ち上げる。
そして──その顔がゆっくりと近づいてくる。
15センチ……10センチ……5センチ……
光莉の目は笑っているが、その奥に宿る光は、どこか獲物を前にした捕食者のようだった。
(……またこれか)
誠司が静かに息を吐いたそのとき──
♪ チャララッ、ラーメンエネバ~♪
場違いなCMソングが周囲の空気を引き裂くように鳴り響いた。
光莉のスマホから、彼女が出演する“ラーメンエネルギーバー”のテーマが流れる。
……ダサい。誠司はそう思った。心の底から。
「……はい、光莉です。って、あの、なんで電話してくるんですか。
メッセって言いましたよね? ……えぇ、あと少しだったのに……
はぁ? 日本の直線距離より遠いって何ですか、それ」
電話先の相手も、どうやらこの寸止め劇を察していたようだ。
誠司も内心で強く同意する。
「……はいはい、で、要件は? えぇ……そうなんですね。了解しました」
「……はい、誠司もいますので、一緒に対応します。……はい、それでは、向かいます」
電話を切ると、光莉はぱっと笑顔に戻った。
「うーん、さっきは惜しかったですね? 誠司?」
「いや、まったく惜しくなかったぞ」
「ひど〜い。もう少しで、恋のラーメンスープが煮詰まるところだったのに~」
「……その例え、絶妙にキモい」
そんなやり取りのあと、不意に光莉が一歩、誠司に近づいた。
「……誠司。乙女心、わかってませんねぇ?」
「いや、ギリギリ乙女……かな?」
──ゴスッ
誠司の首の皮一枚より前に鋭く叩き込まれる手刀。
「誠司……“乙女”ですよ」
満面の笑顔。だが、その瞳は一切、笑っていない。
「……お、おう。乙女乙女。超乙女」
そう言うと、光莉はあっさりと手を放し、また前を向く。
軽やかに歩き出しながら、くるりと振り返った。
「それじゃ、誠司。──デートの続きに、行きましょうか」
光莉は、どこか嬉しそうに、甘い余韻を噛みしめるような笑みを浮かべていた。
特定のラーメン屋のラーメンをイメージしたわけではありませんのでご理解願います。
ラーメンのネタは各味覚への限界挑戦をイメージして記載したため、光莉が食べたラーメンは全て一般人だと救急搬送されるレベルだと思っております。