その名はサイトウ・コウキ。
最速161km/hを誇るストレート、緻密なコントロール、冷静沈着なマウンドさばき――すべてが桁違い。
誰もが彼の前に屈し、誰もが彼に夢を託した。
野球の神に愛されたかのようなその才能は、すでに高校野球という枠を超えていた。
しかし、その輝きの裏には、誰にも語られない影と覚悟があった――。
甲子園──すべての高校球児にとって、夢の舞台。
そこには、羨望があり、希望があり、そして絶望がある。
三年間、すべてを賭けてきた想いが白球に込められ、夏の空へと打ち上げられる。
この場所は、球児たちの命が燃える場所だ。
第107回・夏の甲子園大会──準々決勝。
全国の注目が集まる一戦は、優勝最有力候補・大阪代表「誠信学園」と、
30年ぶりの出場を果たした、奇跡の進撃・兵庫代表「県立北高校」の激突となった。
──『8回裏、1−0で誠信学園のリード。県立北高校の攻撃が始まります』
場内アナウンスが響くと同時に、俺は静かに、だが確かにマウンドへと歩を進めた。
夏の陽射しが背中を焼き、汗が背筋を伝う。
グラブの中の白球を握り直す。1点を守る。いや──絶対に守り切る。
俺たちのような超強豪校にとって、「出場」は目的じゃない。
「優勝」こそが唯一の使命。
準々決勝など、通過点に過ぎない。
そんな空気の中で、俺たちは生きてきた。
吹奏楽の演奏も、観客の声援も、今の俺にはすべてが重圧でしかない。
だけど──分かっている。
このマウンドは、俺たちが踏み潰してきた何百という夢の上に築かれている。
「ストライク!」
球審の声と同時に、ストレートがミットを鳴らす。
156km/h──この夏、甲子園で記録された最速の一球だった。
「ストライク、ツー!」
今度は外角から鋭く内に曲がるスライダー。
俺が“次に”自信を持つ変化球。
打者のバットが空を切り、観客席が一瞬、息を呑む。
──そして、最後の一球。
「ストライクスリー! バッターアウト!」
落差50センチのフォーク。
俺の決め球にして、誰にも打たれたことのない必殺の一投。
ミットに吸い込まれたその瞬間、電光掲示板にまた一つ、赤いランプが灯る。
三者連続三振。
この流れ、完全に俺たちのものだ。
──夏の甲子園2連覇。あと一歩。それが現実になる。
『100年に1人の最強』
『今年のプロ最注目候補』
『甲子園史上最高の投手』
──そんな言葉で俺は呼ばれてきた。
だがそれは栄誉じゃない。背負うものだ。
そして、マウンドにはもうひとりの好投手がいた。
シマダ レント。県立北高校のエース。
変化球に優れ、特に彼のカーブは見事だった。
誠信打線ですら手こずるその投球術──きっと、彼がいたからこそ、北高はここまで勝ち進んできた。
今年の選抜王者・神奈川第一を一回戦で破ったのも、偶然ではない。
──そして、最終回。
『9回裏、最終回です』
あとひとつ。この回を抑えれば、勝利だ。なにがあっても抑える。
「ストライク!」
「ストライク、ツー!」
「バッターアウト!」
赤いランプがまた一つ、灯る。
残るはあと2人──汗がアンダーシャツに染み込み、心拍が速くなる。
プロに行くかなんて、どうでもいい。
すべては、この場所で、勝つために。
『抜けたーっ!』
ど真ん中に投げたストレートが、完璧に捉えられた。
金属バットの鈍い音が響く。
サード線ギリギリ──ツーベースヒット。
……舌を噛みそうになる。
でも──崩れない。崩れたら、終わりだ。
「コウキ、落ち着け。お前なら抑えられる」
マスク越しにキャッチャーが声をかける。
俺は深く頷いた。次を抑えればいい。まだ終わっちゃいない。
「ストライク、ツー!」
仲間の声が飛ぶ。「追い込んだぞ、ピッチ!」
体力は限界。息が上がる。だけど心は折れていない。
『ファール』『ファール』『ファール』
簡単には終わらせてくれない。
相手打者の顔からは、最後まで闘志が消えなかった。
キャッチャーのサインは──ストレート。
息を整える。軽く天を仰ぎ、プレートに足をかける。
足を振りかぶって──投げる。
その瞬間、確信した。
これは、今までで一番良いストレートだと。
白球はミットへ……否、飛んだ。
バットが完璧に捉えた音がする。
鋭い打球が、一直線に空へ──落ちない。落ちない。
打球はスタンドへと吸い込まれた。
スコアボードがゆっくりと、変わる。
──逆転、サヨナラ。
視界が揺れる。呼吸が浅くなる。
でも、それでも──俺はマウンドに立っている。
この悔しさもまた、甲子園の現実なのだ。涙が溢れる。俺はマウンドの上で膝から崩れ落ちた。
電光掲示板には、162km/hの数字が刻まれていた。
この夏どころか、今世紀の高校野球でも類を見ない、会心のストレート。
俺のすべてを込めた一球。魂ごとぶつけた、渾身の一撃。
──それを、打たれた。
あの打者は、それを簡単に弾き返したわけじゃない。
全身を削るようにして、何球もファウルで粘り、執念で振り抜いた、その最後の一振りだった。
打たれたことが悔しいんじゃない。あの打者が、あの打席で、俺を越えてきたという事実が、ただ、ただ──悔しかった。
試合が終わったあと、俺はもう立っていられなかった。
膝に手をついたまま、動けない。
帽子のつばを深く下ろしたけど、意味がなかった。
気づけば、涙が止まらなかった。
「……勝ちたかった……!」
声にならない叫びが喉から漏れる。
俺は誠信のエースとして、勝利しか許されていなかった。
勝って、優勝して、全国の頂点に立つ。それが、義務だった。
でも今はもう、何も届かない。
白球はスタンドへ消え、俺の夏も、そこで終わった。