横邊に電灯の灯った(*)、晩夏のことである。のちに必要になるので加えると、星暦八百七十六年である。
キュクロープスが両腕を広げたが如し奔流が、2人を呑み込まんと迫る。しかし間にある崖に阻まれそのまま恨めしそうに谷底へと落ちていく。
迸る飛沫がまだ高い太陽の光を浴びて長い虹の橋を描く。
轟々と流れ落ちる滝の荒々しさと、その前に映し出される優美なアーチの対照的な情景を、崖の向こうの欄干から女と童は眺める。
二人の足元、欄干の下を、また幅広の別の流れが駆け抜けていく。その川の流れも2人の眼前、滝口から落ちていき、眼の前の滝と相対するように巨大な幕を織りなした。
大八洲を見渡す芙蓉峰の山裾から湧き出た水の集合であるヤチマ川。
女、尼の暮らす雲営寺を抱くようにするカクガ岳からの流水。
秋津洲の久遠なる御稜威と護国の魂を讃えし神の涙。
寺堂の欄干から頭を乗り出して見れば、遥か下滝壺で
2つの異なる流れがあらぬ場所でめぐり逢い一つとなって、新たな流れを為す。
その在り様に何を思うのか、女は日々こなすべき日課を終えると、まだ暑さの残る時間なのも厭わずここを訪れていた。
傍らの童は寺に預けられた子どもで、父は遠く星欧の視察に向かった提督の護衛として同道した、名うての剣豪という
吃音の気があるのか寺に遊びに来る他の子供たちから孤立しがちで、哀れに思った尼が時おり彼をここに連れて来ていた。
彼は彼とて川の流れの奈落へ落ちる様を、飽きずに恍惚とした様に眺めるのであった。
そんな彼が身を乗り出して落下せぬよう、時おり伺う尼の名を安里という。
童を見やるその瞳は澄み切った碧である。尼削ぎにした髪は、金糸と見紛う如き束をなす。
鼻筋が通り、眼窩は深い。何よりその、突き出た耳。
道州に生まれ落ちた者とはおおよそかけ離れた容姿。
この開明の時代にありてなお旧弊囚われし教養なき者は、彼女を「天狗」と呼び陰口を叩いた。
しかし取り分け意地の悪い者が闇夜「赤く光る瞳」を眼にして以降、少なくとも表立って彼女を悪く言う者はいなくなった。
女の年はかなりのものと推察される。
ただどうしたことだろう。常人が歳を重ね肉体的に老けたというよりは、元の容姿にこれまで彼女が長き年月で積み重ねてきた労苦や辛酸といったものが刻み込まれ老醜と為した。
その様な奇妙さがあった。
2人のいる欄干から首を左に向ければ、また一段と高みにある場所に、彼女がこの国へ訪れた頃、彼女を伴った角師が植えた苗木。今は立派に育った木々の山肌に根ざし繁茂する様を観ることが出来る。
右に向ければ遥か下方に流れ行く河川。
流れの先にある両翼に開けた場所には、この国において初めて樹立した武家政権が拠点としたかつての武家の都が在り、細い路地に連なる民家の瓦屋根が密集するさまを、寺社の厳かな伽藍を、そしてその向こうの海岸線の空と溶け合うさまを、一望することが出来た。
だが何より安里の感情を揺り動かすもの。
夏の強い日差しが地面を熱し、湿った空気が勢いよく上昇して雲になる。
白い巨人が膝を立て天を突くような壮麗な入道雲が、頭上の青い空に浮かび上がる。
それを見て老尼は、隣の童を含め誰に聞かせる訳でもなく叫んだ。
「あれはキャメロットの双頭巨人か? エトルリアで世話した羊か? いや麦酒だ。大層な泡だ。ああ、あれを見ると思い出す。アレッセアの小麦を醸造した
そんな卑属な叫びは、足の下で唸る滝の轟音によってかき消された。
尼の操る言葉は、彼女が普段達者に使う秋津洲の言葉ではない。
彼女の生まれ故郷であるエルフィンドの言葉で、それも韻を踏み語りに抑揚をつけることで音楽的な調子を刻む。それによって、発せられた言葉に本来の単語や文法以外の意味を乗せる。あの古典アールヴ語が巧みに用いられていた。
ひとしきり俗世の欲望を口にした後で滝の飛沫に冷却されたかのように落ち着きを取り戻した尼。
傍らの童の方を見やると、立ちっぱなしで疲れたのか、欄干の手摺りから遠ざかり、寺堂の壁面に据えられた長腰掛けに腰掛けている。
それでも水の自由落下する様の何が楽しいのか、それとも虹の綺麗さに目を奪われているだけか。まだ恍惚とした様に滝の方を見ているのだ。
安里もえっちらとそこに腰掛ける。隣の童に先ほどの言語で語りかけた。
「お前さんに私の言葉が通じないことは、もちろん分かっているよ。ただお前はあの村の者たちとは違う……。確かに何かを見通す目を持っていることを、私は信じているさ。だから今から私が語る話を聞いて、もちろんお前は内容をちっとも理解できないだろうけど、しかし何かを感じ入ることはあるだろう。ああ、確かに信じ難い話だろう。でもこれは、私の身に起こった出来事なのだよ……」
そう語った年老いた白エルフは、新たに奇妙に見える身振りを付けながら、再び語り始めた。
語りに身振りを交える古典アールヴ後の技法。
しかしそれとは別に、そうした身振りをすることで、長い年月の間に忘却の彼方に置いてきた、自身の記憶を取り戻す試みの様にも思えた。
――昔。昔と言っても人間の考える祖父母や曽祖父母が語る昔々のそれを、遥かに凌駕した昔。星暦と呼ばれる暦がまだ誕生の片鱗も無い頃。そんな頃を言う昔。
私がエルフィンドの白銀樹の根元に産まれたのは、そんなときだった。
私が産まれた時代は、まさに光を――世の成り立ちを目撃した白エルフたちが、西方にあるという理想郷を目指した時代、そのさなかであった。
当然地上に降り注いだという光と縁のなかった私は、その様な流れとは無縁に育った訳だが……。
お前くらいの年頃――まぁ人と我の寿命の違いを考えると、実年数にして大層な違いなのだが――まだ私が人間の一回り分の半分も生きていない。ロクに世の中を生き抜くための分別もついていない、そんな年頃のことだ。
農家の手伝いを終えた私は、木々のたもとに腰掛けて取り留めなく歌でも歌っていると、ふと人の気配を感じた。
そちらを見れば、私たちの国にはいる筈のない、醜男。
男は身体つきも貧相なれば髪もボサボサで、美を愛でる我が種族の価値観において、ここに存在するにはおおよそ似つかわしくなかった。
継ぎ目なく全身を覆う不思議な素材の服に身を纏った男は、私の姿を見て目を窄めると、こちらに向かって手を伸ばし、声を震わせこう語るのだ。
「アンリ……。可愛い君……。【ゲート】を目指すんだ。この閉ざされた世界を抜け出して。【ゲート】はどこでだって開かれている。脱出の手段は幾らでも用意されているのに、何時迄もここに留まっていたら、それも潰えるんだよ。早く【ゲート】を、そうすれば向こうで迎えに来れるから。……くそ、奴らもう
話の途中で私はギャッと悲鳴をあげ、その場から逃げ去っていた。
当時住処にしていた家屋に逃げ込むと、ベッドに飛び込みそのままうつ伏せで震えていた。見ず知らずの男と対面した恐怖で身体が戦慄き、汗でぐっしょりと濡れそぼった。
私はこの面妖な話を誰にすることも無かった。話しても信じてもらえないと思ったからだ。
それからまた2,30年が経った。
雨の夜だった。
未だ子どもの見習いの身の私は、その日も番小屋にいた。
戸をノックする音がする。開いてみると、年老いた老人が立っていた。
私は驚きで固まったまま、しかしその老人の姿を見つめていた。
ボロ布の服を身に纏い、白い髭で覆われた顔は、その杖で海を割ったという預言者の風格で、荘厳にさえ思えた。
しかし私が何より惹かれたのは、その瞼が重く垂れ下がり傾ぎながらも、夢を見続けるような澄んだ目であった。
私は辛うじて、「雨が降っているから中へ」とだけ、か細く言ったのを覚えている。
(老人が雨に濡れないよう慮ってか、それともこれ以上雨に濡れることで番小屋の中まで濡れるのを厭んでか、どっちであったか)
だが老人はそれを辞退した。
良く見れば面妖にも老人の体やボロ服は、この雨にも関わらずちっとも濡れてはいなかった。
そして彼は慈悲深い視線を私に送り、こう告げるのだ。
「【理想郷】を目指しなさい。君たちこそ神に選ばれた種族だ。この大地に楽園を築き上げるに相応しい生き物なんだ」
そう述べた後で、「<ヴィラール>こそ真の世界だった。
独りごちると、老人は戸の前から離れていた。
私は小屋から飛び出して老人の姿を探したが、闇の中不思議にも彼の姿を見出すことは出来なかった。
お告げを受けた私は、その晩寝ることが出来なかった。
翌朝私は、とうとう我慢することが出来ず、親友である
話を聞いた親友は、雷に撃たれたかのように身を震わせ、私に跪いた。
この信心深い親友の口によって話は瞬く間に広まり、私の周りには大勢のエルフが集まった。彼女たちは皆、私と同様【光】を目撃していない未成年者であった。
熱情あふれた者たちに突き動かされ祀り上げられた私は、皆を引き連れとうとう旅立つことになった。
農園の手伝いや工場の見習いに従事する幼きエルフたちの突然の出奔に、大人のエルフたちは狼狽えた。
中には思い留まるよう慰留したり、直接私たちの無謀を詰る者もいたが、熱狂に取り憑かれた私の信者たちによって、この不信心な者たちは追い払われてしまった。
列を為し少年遠征隊の私たちは道を征く。行く先はエルフィンド随一の大港だ。
港では出港する者たちへの船がたんと準備されていたから、私たちの乗る船も容易に手配がついた。
帆を上げ出港する。
老人があの男の成れの果てかもしれないと気づいたのは、旅を始めてとうに経った頃だった。
―――君たちを愛している。
私たちも。
―――君たちは世界一美しい。
嬉しい。
―――君たちこそ、この世界に満ちるべき種族。
はい、そうですわ
―――君たちの歌声が、この世界を彩る。
ありがとう。
楽曲と、詩作と、文化を何よりも広めよう。
―――この世界に拡散するんだ。祝福の種をばら撒くんだ。
もちろんです、私たちは世界にあまねく広がります。
―――決して世界の寒さに挫けるな。荒野に独りぼっちと寂しがるな。
私たちは何時だって君たちの傍にいる。
どんな辛いときも、あの天から降った【光】を思い出して心を奮い立たせますとも。
その時代、我々は突き動かされるように半島の外を目指した。
とは言っても大半の者が行き着くのは対岸の大ログレス島止まりであったが、それでも遠征は困難を極めた。
あの時代の北海を横断する航海もそうだが、島は大半が未開の地で、慣れないキャンプで命を落とす者、伝承で伝えられるような怪獣の犠牲になる者が続発したからだ。
そうでなくても人間のいる地の逗留を選んだ結果現地の者との諍いになり、そのまま全滅したグループもあった。
そうした受難をもってなお熱狂に塗れた我々は、「外」を目指す。
大ログレス島で、聖剣で伝説の巨人を打ち倒した勇者。
投石の天才であった英雄インゲ・ヴォルグ。
島の北部で蔓延した疫病を奇跡の【魔法】で浄化した【ヴィリエラ】と、自己犠牲の従者。
僭主に追いやられた若い後継者に支援の手を差し伸べ、叛徒を討伐した支援者たち。
あるいは定住先の藩主の暴政に耐えかね決起し、とうとうエルフたちで国を興してみせた。
あの島に残った数多の碑や伝承は、そういった遠征の成果を記録したものだった。
ログレスに留まらず、更に遠方へ向かう者たちもいたんだよ。
キャメロットと大陸の間を通り抜け陸地を観測し、大陸のどこか上陸できる場所を選んで定住。そこを拠点とする者たち。
今で言うグロワールの突き出た半島に定住する者たちがとみに有名であった。
上手く自活できれば良いが、そうでなく他の集落を脅迫してやむなく物資を奪う、抵抗されれば「自衛」の為反撃する。海賊のような集団に成り果てる者たちも、あの時代は現れた。
更に西に西に流れ、今で言うセンチュリースターのある大陸に辿り着いた者たちまで現れた。
一方で北へ北へ流れ世界の果ての氷の島に漂着し、現代に至るまで永久に凍りついた者たちもいたという。
その様な中私たちが向かったのは、やはり西。しかしそこから大洋には出ず、星欧大陸の西端イザベリア半島をぐるりと周回する。そうした航路であった。
意図してその様な奇妙な航路をとった訳ではない。
大陸側で上陸できる場所を求めているうち、自然そうしたルートになったのだ。
この頃にはもう白エルフの大量移動の情報は大陸中に広まっており、その活躍も知れ渡っていた。
だから領主たちは、白エルフが政治力でもって現地の支配者層にならないか。そして遂には自分の地位を襲わんか。
そして現地住民たちも一部白エルフの「海賊」行為を警戒していたから、どうしても我々を受け難くなっていたのであった。
上陸した先で定住を断られ、何とか交換した物資で食いつなぎながらとうとう辿り着いたのは、長靴のように突き出たエトルリア半島、その南部の空白地帯であった。
人の良い領主に我々の境遇を嘆かれ、空いていた土地への入植を提案されたとき、遠征の断念や病没により、我々の人数は半数まで減っていた。
こうして定住の地にありついた少年遠征隊の我々であったが、この時大人のエルフたちは、築いた駐留地を放棄し、国すら棄て半島へと戻りつつあった。
……結局のところあの「大移動」の時代が終わり、エルフたちが半島へ帰っていった理由は何なんだろうねぇ……
新たに指導者になったという者の導きに従った。それもそうだろうね。
種族としての数の問題。繁殖なしに樹から産まれる我々は、それ故人口の絶対数も増えず、やがては各地で人間に押されていった。
誕生の問題を言うなら、そもそも故郷のエルフィンドでしか出生しないのだから、既に築き上げた拠点においても、人口を増やすにはそこからの移住を待つしか無かった。どの道我々が生存圏の線引を巡って競争していたら、ジリ貧になるのだ。
言語の問題。我々が操る古代アールヴ語は、言外に界隈内で通じるニュアンスを込める特殊な言語だ。ではこの言語に達者であるには、常に界隈の主流・最先端に在らなければならない。つまり文化の『上流』にいる必要がある。
我々種族が得意な政<まつりごと>にしても同様だ。誰かを謀ろうとする者は、逆に自分も謀られないよう、常に『権力』の周囲に留まらなければ不安なのさ。
となると私たち【少年遠征隊】が、【回帰】に参加しなかった理由は自ずと分かる。
あの【光】を見た訳ではない、自発的に『外』の世界を目指した我々は、新たな教祖も指導者仰がなかったから、彼女の進める回帰に従うことはなかった。
古代アールヴ語や政にしてもそう。端から子どもの私たちには、盲目的に従う『文化』というものがなかった訳だ。
そしてもう一つ。
このとき既に私たち。指導者に見放された私たちは、新たな【信仰】を見つけていた。
(後編に続く)