あまねく世界に音楽を届ける筈だった。ペンを振るってこの世界の神秘を余すこと無く記す筈だった。
そうして我らの【聖地】にたどり着けば、【祝福】が腕を広げて迎えてくれる筈だった。
私たちはこの世界で独りぼっちじゃない。見捨てられた訳じゃないんだ。
だから私たちは【外】を目指した。どんなに辛くても生き抜いてきた。【聖地】を目指した。
なのにどうして。貴方がたは私たちを見放したの。
「愛してる」と囁いてくれたのは嘘だった?
かつての指導者に「見捨てられた」と感じ、「転生者<ヴィラール>」信仰に見切りをつけた私たちは、新たな心の拠り所を見つけたがった。
正しくは、そんな私たちを受け入れてくれる信仰があったから、ヴィラールへの依存をあっさりと棄てられたのだろうね。
【聖地】に着いた後は竪琴を奏でて我々の航海譚を語り伝え、また現地の迷える人間の子を導いて啓蒙することを夢見た私だが、そんな余裕など無論無かった。
早朝から起きて牧場に出て夜遅くまで羊の世話をし、農作業の手伝いにだって出かけた。親友のデックは森に狩猟に出た。
ときには数日かけてもっとも近くの市場までたどり着き、作物を売っては代わりに生活に必要な物を入手して帰るといった具合で、毎日毎日その日を生き抜いていくことで精一杯だった。
そんなギリギリの暮らしの中、私が生涯で唯一となった人間の配偶者とつがい、そして相手が最期の時を迎えるまで添い遂げた。
ちょうどその頃、街はある話題で持ちきりだった。
星暦――その暦が生まれることとなった事件、まさに「それ」が起こったのだ。
人々は、【奇跡】を起こし地上に生きる生命を救った、聖者を崇め称えた。
聖者が信仰した宗教の教えは世界に瞬く間に広まり、誰も彼も競って帰依した。
私たち残留組のエルフも例外ではない。
グループの中の有志たちで街に出て、街の傍らにあるささやかな教会に入り信仰の道に入ることを申し出た時の、出迎えてくれた信徒たちの笑顔を、いまだに覚えている。
我々はその日のうちに司祭から洗礼を受けた。
さて我々が入信した聖星教の教えは、この世界のヒト――神がくださった「言葉」を喋り2本の足で歩む者たち――は全てこの世界に実在する尊い生命であり、この世界の創造主である天に君臨する神の前に、等しく平等であるというものであった。(****)
故に我々は天の神に見守られながら、それぞれの営み、歴史を紡いでいくのだ。
一度は指導者に見捨てられた我々だ。しかし新たに現れた救世主により、我々の心は闇に落ちること無く救われたのだ。
普遍の人類愛を説いた聖星教は、人々の心を巧みに掴み、迷える人々を勧誘し、瞬く間に勢力を広げていった。
特に弱い立場の者、貧者や我々のような少数派の魔種族といった存在も取り込み、救済対象とした。
初めは弾圧する国も無いではなかったが、信徒の自己犠牲の前に怯む者が多数。
果てには為政者や高級将校たちの間にまで教えが広がり、とうとう国教に採用する国が続出するまでになった。
こうして聖星教の教えが浸透した星欧であったが、その情勢は決して安穏たるものではなかった。
この時代、星欧は技術や社会制度といった文明の発展において、ミドルロード世界と比して遅れをとっていた。
今のイスマイルに位置したかつての大帝国の継承国こそ、依然健在だった。
星欧の守護国家として辛うじて「東」からの防波堤になってはいたものの、しかし我々にとっての聖地を、失陥していた。
世界の中央に座した『龍』の国が、強大な軍事力をもって瞬く間に周辺国家を併呑し、覇権をほしいままにした。
飛竜を操り空から敵対国家を攻め滅ぼしたこの国は、自身1代で滅びはしたものの、その支配地で彼らの信仰する神を奉ずる数多の後継国家が誕生。勢力圏を拡大するに至った。
その勢力図は目まぐるしく変遷した。今日精強を誇った国が、次の日影も形もないといった具合に。
それだけ闘争は熾烈であり、隣国で諍いに巻き込まれただけの我らの守護国家も、しかし徐々に勢力圏を後退していく。東国の支配の足音は、着々と我々の近くに忍び寄っていた。
そうした中、あの呼びかけが行われた。
最初に言い出したのは誰だろう。それは分からない。
星欧各地に現れた説教者や預言者と呼ばれる者たちが、神から告げられたという託宣を叫んで回った。
初めは真に受けなかった民衆たちも、彼らの熱狂に感染し始め、ひれ伏した。
託宣を告げる声は徐々に大きくなり、遂には星欧全土で叫ばれた。
「聖地だ。我らの聖地を異教徒の手から取り返すのだ」
私たちの暮らしていた村の傍にも、預言者が現れたという噂が立った。
人間の8歳になる預言者は、ただ託宣を告げるだけではなく、「奇跡」も起こしたという。触れただけで、盲だ少女の眼が治ったというような……。
私も仲間と共に彼のもとを訪れた。
彼はまだ年相応に遊びたい盛りのようで、丘の斜面で同年代の少年少女たちに交じって戯れている最中であった。
それが私たちが来ると一転して仕儀をただし、その厳かな面を来訪者へ向ける。
たんぽぽの綿毛のように繊細な金髪が、斜面に注ぐ太陽に照らされ淡い光を放っていた。
瞳は、澄み切った湖の碧を湛えている。長い睫毛がその瞳にかかり、柔らかな影をおとす。
乳のように滑らかな肌が、わんぱくな子どもたちの戯れの後も、痣や引っかき傷の一つもなく、無垢を晒していた。
白エルフもかくやと言わんばかりの造形美。人間の身である以上、それは瞬く間に損なわれるものでしかないのだろう。
しかしその一瞬の美に、私は創造主がおつくりになられたこの世の神秘を確かに見たと信じた。
預言者は震えるように腕を差し伸ばすと、人差し指の指す方向、その1点をじっと見据え、厳かに告げた。
「東へ行くんだよ。東の方へ、どこまでも行くんだ。そのためには船が必要だ。ティラノーサを目指すんだ」
星十字軍結成の噂はすぐに広まっていった。
ある街では貧民窟に巣食った貧者たちが列を為し、お告げのとおりにティラノーサへ向かった。
熱狂にあてられた民衆たちも進んで集団に加わった。
著名な隠者に率いられた集団は、下級騎士たちも軍勢に加わりその数幾万にも及んだという。
私も遂に出発の時が来た。
牧場や羊といった所有していた財産を、これまで手伝いとして雇っていた者らに幾ばくかの金銭と引き換えに引き渡す。
伴侶と築き上げた牧場を人手に渡すのは寂寞の念が湧かないでもなかったが、それより今はお告げに従い星十字に加わりたい。その一心であった。
親友のデックも、自らが切り開いて手に入れたばかりの土地を手放した。
そうして得た金で、旅装と異教徒と戦うための装備を入手するのだ。
こうして徒歩での過酷な旅が始まった。
我々の集団に集ったのは、専ら子どもと魔種族であった。
異教徒との戦いで散った父親の形見の剣を持って参加した遺児。
かつての私たちのように、大人の制止を振り切って家を飛び出した兄妹。
そうした子どもまでもが、使命感を抱いて星十字の集団に加わっていく。
ある街では深夜に130人もの少年少女が広場に集い、夜が明けぬうちに街から抜け出て帰ってこなかったという。街には脚が不自由で歩けなかった一人の少年のみが残された。
そして魔種族。
我々エルフだけではない。矮躯のドワーフ。あの打算に満ちたコボルト種族。普段は食べることしか頭にないオークといった、星欧に住まうあらゆる魔種族が、星十字の下に確かに集ったのだ。
中には我々も見たことがない生き物。
東国から逃れてきたというウマ耳の娘や、腕に翼持つ翼人といった者たちもいた。
多いときで数十人。延べにして100人になろうという者が集ったこの旅で、まず半日もしないうちに最初の死者が出た。
一行でもっとも年少であった少女が、突然バタンと前に倒れてそのまま力尽きたのだ。我々は泣きながら道の端に墓を掘り、亡骸を埋めた。
その後も旅を続ける間、死者が続出した。
ある者は錯乱の果てに、崖から飛び降りた。
飢えや病気で斃れる者がいた。
もう歩けないと地面に蹲ったままの者がいた。私たちも手を差し伸べる余裕もないのでその場に置いていくしかなく、後はどうなったのか。もうそれきりだった。
久遠の寿命を持つ魔種族たちからも死者が続出し、とうとう同族からも殉教者が現れた。
風の噂では、別の集団は当時猛威をふるった黒毒病の流行する地帯に知らずして入り、そのまま全滅したという。
仲間の死に直面し続け、その悲劇を哀悼しながら、しかし今なお不思議なことがある。
こうして旅の途上で斃れる者たち。
この度の星十字だけでなく、私たちがエトルリア半島に辿り着いたかつての【遠征】にしてもそうだ。
彼ら彼女らは皆、自分が辿り着くはずだった【聖地】の幻を見ながら、死んでいくのだ。
彼ら彼女らは、自分の見ている【聖地】――現実の荒廃したそれではなく、創造主の祝福で満たされた理想の姿を物語りながら、間もなく力尽きる。
皆例外なく、眼は恍惚として、自らを迎え入れる【聖地】を前に、喜びに満ちた表情を浮かべていた。
失輝死した者までもが!
私たちはようやくエトルリアの南端近く、ティラノーサの港のある島へ繋がる海峡に辿り着いた。
その時には、私たちの人数は出発したときの1/3以下にまでなっていた。
ただ既に先着していて私たちを待ち受けていた集団もあり、数十人からなる有志は、海岸でひたすらに祈った。
そうすれば今に天から光が降り注ぎ、両岸の間に虹の橋がかかる。それを渡って向こうの島へ行けるんだと信じて。
しかし、地裂海の波々とした蒼は、平素としてそこに在り続ける。
その様子を眼にしても、私たちは挫けることなく祈り続ける。
天の創造主は常に私たちを見守っているのだから。今もこうして苦境にある私たちのことを、憐れんでいるのだから。
きっと我々が全員集合するのを待っているだけなのだ。
だから私たちは創造主に対してひたすらに祈り続けた。後から遅れてやって来た者たちも、祈りに加わった。
そのうち我々の様子を見て哀れに思ったのか、敬虔な見た目の男が近づいてきて、自身の船で【聖地】までの案内を申し出た。
「お告げにあったティラノーサではない」とためらう者もいたが、痺れを切らしかけていた私を含め半数の者は、これが恩寵とばかりに男の申し出に乗った。
勇んで船に乗り込んだ私たちだが、船は【聖地】には向かわず、南への航路をとり、ミスルのイスカンダリーヤに着いた。
そこの奴隷市場で私たちは悉く売られてしまった。
――ここまで語ると、安里はその時の無念を思い返すように目を閉じ、しばらくの間黙った。
安里の半生が物語られる間、それなりの時間が経っていたのだろう。
滝を走る虹は夢想の中に掻き消えた。
既に空は夕焼けに染まり、山肌の木々や眼下の都を、赤々と照らし出す。
空の雲は麦酒の盛大に立ち上った泡から、生まれ故郷の北の海で豊富に穫れた鰯のように成り果てる。
西に傾いた陽を背に浴び、寺堂の影が長く伸び、2人を覆いつくした。
黄昏に抱かれ、かつての憧憬を振り返る安里の脳裏に、理想を追いかけた皆の姿が、在り在りと描き出された。
半島出港の日、希望の歌を歌ったエルフの友人の白い喉元。
航海のさなか、地裂海の夏の日差しが熱いと上衣をはだけたその美しい裸身。
領主から提供された土地の一面に雑草が生い茂り、しかしその夕日に輝く黄金。
我らの旅路に加わった異種族たちのエキゾチックな顔立ち。
【聖地】に辿り着いたら異教徒の奴らをこれで鏖にするんだと、腰に携えた形見の剣を指して語った少年剣士は、鎧こそ身に着けていなかったものの、その厳かな声音からなる荘厳さは、伝説に謳われる老齢の剣士と見紛うものであった。
以降生存者は四散した。
安里はパールサの商人の奴隷になった。その後更に売られてバーラトに流れた。
そこで大カーンの孫パットの征西の噂を聞き、故郷存亡の危機を思って泣いた。
あれほど願った【聖地】に着くことはなかった。
親友のデックとも生き別れ、この永い人生の間、彼女ら魔種族たちとも再会は叶っていない。
彼女の終生の師匠となる大罰覚師が、修行の旅に天竺を訪れていたのは偶然であった。
そこで白エルフのアンリを見出した覚師は、慈悲の心で彼女を奴隷の境遇から解放した。晴れて自由の身となったアンリは、そのご恩返しとして、生涯彼の世話をすることを申し出た。そして名を安里とあらため、彼の故郷である秋津洲まで帯同したのであった。
覚師に付き従い、この地で様々な体験をした安里である。
伝説に謳われる未踏の地へ侵入し、処女雪に第一歩を踏みしめた。
この地でまだ見知らぬ魔種族たちとも邂逅した。
傾国の姫の陰謀を暴き、その正体である妖狐を封印した。
沼の深みの鯰と対話し、大地の怒りを鎮めた。
因習蔓延る村で起こった難事件を解決に導いた。
事件がなくとも教えを説いて周り、迷える大勢の人々を救った。
めくるめく冒険を繰り返しながら、しかし心は駆け抜けた青春時代、あの陶酔に至ることはない。
その陶酔の源。
信じていたものに、自分たちを見守ってくれている筈だったものに、自分たちは2度裏切られた。
そんな安里に、覚師の教えは説く。
『世界』とは無量にして無辺。
我らがいるこの宇宙は、64の64乗の瞬きからなる泡沫。我らの周りには、同じような泡沫が、無数に存在する。
その無数に存在する泡沫が並列して、更に一つの宇宙を構成する。すなわち我らの宇宙はその一つの宇宙を構成する一片の細胞のようなもの。
その宇宙とてまた、更なる宇宙を構成する細胞の一つに過ぎない。そしてその宇宙もまた……。
さりとて下を見れば、我らを構成する細胞の一つ一つの中にもまた、宇宙が広がっている。そのミクロ宇宙を構成する細胞の一つ一つに、また宇宙が広がって……。
――問。つまり我々にとっての「神」とは、我々の上位宇宙にあたる宇宙に生きる、生命のことを指すのか。そこに住まう生命。腹が減れば喰らい、眠くなれば寝る。欲望だってある。世俗に塗れた我々と何一つ変わらぬヒトを、ただ「神」と崇めていたに過ぎぬのか。
否。その答えは一面の真実をつきながら、なお正確ではない。
確かにその宇宙に存在する生き物は、我々と何一つ在り様の変わらぬ、ただの人間なのかも知れない。
しかし我々が我々の細胞に住まう微生物を、それより微小なミクロの宇宙の生命を気にも留めぬように。我々にとって彼らなど、取るに足らぬ存在であるように。
彼らにとっては、我らなど取るに足らぬ存在であろう。確かに彼らは我々には想像が及ばぬくらい、壮大な生き物なのだ。
ただしそれは相対的な比較に過ぎず、やはり彼らも、この無辺の「世界」からしたら矮小な存在。
我らはこの無限の泡沫の宇宙の連なりの中、「世界」で行動する生き物。
そこに上位・下位といった優劣はない。
我々は皆例外なく「世界」の「点」にして、等しく「一」
こうして考え続ける者こそ、究極の「個」
覚師の言うことはあまりにも途方もない話で、数百年経った今何となく理解できるばかり。いや、自分には到底理解の及びようが無いということが呑み込めた。
覚師亡き後も望郷を望みを捨て、大恩ある彼の菩提を弔うためこの地に残ることを決意した安里の心には、ただ平穏があった。
覚師の教えを受けた安里の心には、もうかつての信仰はない。
私たちを見守る神が手を広げて迎えてくれるのを願ったり、こことは別の素晴らしい
けれどもこの夕暮れ、山の木々が紅に燃え、視界の向こうの海岸線が朱の線になって輝くのを目撃したとき、思い返さずにはいられなかった。
私の人生において奇跡が起きるとしたら、あの輝かしい日々をおいて、他になかった。 しかし遂ぞ、願いは叶わなかった。
何故指導者は我らを見捨てたのか、創造主は我々に手を差し伸べなかった。
こうして夕日を眺めては幾度と思索にふけるが、答えは出ない。
今や帰りたいと願っても、安里が帰るべき故郷は、遥か時の向こう。昔日の彼方に沈んでしまった。
「外」を目指した希望に満ちた頃のエルフィンドは今や存在しない。
生涯唯一の伴侶と番った、あの羊を追いかけし牧場はもう無いのだ。
禅師を弔いこの地に永住することを決意したとき、海の向こうに故郷は消えてしまったのかも知れない。
実のところ奇跡が起きなかったとき、とうにそれら故郷は消滅していたのではないか。
何が真実かは分からない。
安里は今一度瞼を強く閉じ見開くと、話の聞き役であった童に目を向けた。
童は長椅子に座ったまま両膝を抱えて、いつとはなしに眠りについていた。
その顔は虹のかかった滝の流れる様を未だに見ているのか、遠き地の父を思うのか。幸せに満ちていた。
翌年になって安里は身罷った。
奇しくもその日は、故郷の白銀樹がオルクセン軍の砲火で燃え尽きた日と、同日であった。
おそらく安里の一生にとって、海がもし2つに分れるならば、それはあの一瞬を措いてはなかったのだ。そうした一瞬にあってさえ、海が夕焼けに燃えたまま黙々と広がっていたあの不思議……。
(三島由紀夫 「海と夕焼」)
(*)もちろん秋津洲関係の設定は架空のもの以下同じ
(**)白エルフが麦酒を好きなんてことあるの? むしろ他の酒なんじゃという向きもあるが、「小麦をふんだんに使った酒」が、小麦が貴重なエルフィンドでは黒エルフの間に小麦ビールが普及していなかったという事情もあることから、逆にビールを愛好した白エルフがいてもおかしくないのではないかと解釈することにしている。なお未成年飲酒
(***)まだこの時点で黒エルフに対する差別意識は生まれていない
(****)「我らの言葉を喋る者は皆平等」という概念が、巡り巡って「自分たち以外の種族(魔種族)は排斥して良い」という排斥に利用されるようになるのも、そう時間はかからなかった。