それでも俺には未来があった   作:悲劇厨

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1:夢が現実に、現実が夢に

 

 

 

 世界は、崩壊した。

 

 突如として、説明のつかない現象が全世界を襲った。何の前触れもなく、どこからともなく“それ”らは現れた。

 

 モンスター――。おとぎ話やゲームの中にしか存在しなかったはずの異形の存在たちが、現実の大地を踏みしめ、人間を無差別に襲い始めたのだ。

 

 混乱は瞬く間に世界中へと広がった。

 

 人類は、それに抗うために新たな力を手に入れた。誰もが、特別な武器を持つようになった。血肉を裂き、骨を砕くための力を当然のように受け入れた。受け入れるしか生き抜く道がなかった。

 

――その代償として、人々の秩序は失われた。

 

 法律は意味を失い、国家の統制は瓦解した。日本もまた例外ではなく、かつて「法の支配」と呼ばれた幻想は、遠い過去の遺物となった。

 

 社会の均衡が失われ、文明が崩れ去った後に残されたのは、たった一つの古代から続く原則――「強い者だけが生き残る」という、シンプルで残酷な掟だった。

 

 食料も、薬も、水も、命すらも、力なき者から力ある者へと奪われていく。正しさよりも強さが優先される、冷たい弱肉強食の世界。

 

 中学生や高校生が、授業中に夢の中で妄想したような世界が今の現実だ。

 

 こんな世界で、人はどうやって生きていけばいいのか。いつ安らぎを得られるのか、本当に幸福な未来が訪れるのか。

 

 それは誰にも、わからない。

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 この地獄のような世界へと変貌は、何の前触れもなく起こった。

 

 大学生二年生の俺は、その日も特に代わり映えのしない昼休みを送っていた。学食ではなく、気まぐれに立ち寄ったショッピングモールのフードコート。そこで、ハンバーガーを手に、何気ない時間を過ごしていた。

 

 焼きたてのパティの香ばしさ、口の中で広がる肉汁、シャキシャキのレタスと瑞々しいトマトの清涼感。それらをふわふわのバンズで包んだハンバーガー。炭酸の刺激が心地よいスプライトが、それを喉へと流し込む。

 

 まさに「ザ・ジャンクフード」と呼ぶにふさわしい、安っぽくも幸福感のある食事だった。

 

 それは、俺にとっての小さな贅沢であり、週に一度の楽しみでもあった。

 

 これからは――もう二度と味わえないものかもしれないことを知らずに。

 

 それは、間違いなく「平和」だった。

 

 ――その平和は、突然終わりを告げた。

 

 店内のBGMが流れるフードコートの一角。そこで、現れたのは“異常”だった。

 

 全身緑色の肌、猿のように短い手足、ぎょろりと飛び出した眼に尖った耳。不釣り合いなまでに大きな口には、黄色く濁った歯が無秩序に並んでいた。

 

 まるでゲームや漫画に出てくるゴブリンそのままの姿をした、異形の生物。

 

 一瞬、誰もが状況を理解できなかった。いや、理解を拒否していたのかもしれない。現実にあるはずがない“それ”の存在に、脳が思考停止したのだ。

 

 だが、ゴブリンの存在は現実だった。

 

 やがて、ざわめきが、悲鳴へと転じる。

 

 そのゴブリンは、おもむろに手にしたナイフを振り上げ、隣にいた若い女性の腹に突き立てた。何のためらいもなく、ただ残虐な本能のままに。

 

 誰かの甲高い叫び声とともに血が噴き出し、空気が一変する。赤黒い液体が床に飛び散り、人々の恐怖が一気に爆発した。

 

 当事者である女性は叫ぶ間もなく崩れ落ち、腹部から臓物が零れ落ちた。食べたばかりのハンバーガーが、喉の奥から込み上げてくる。胃液の酸味が口内に広がり、俺は息を止めて吐き気を堪えた。

 

 現実感が、失われていく。

 

 足元がふらつき、まるで時間の流れが止まったような感覚に陥る。

 

 ゴブリンは笑っていた。ギャギャギャ、と濁った喉で鳴らしながら、地面に伏した女性の頭を何度も蹴りつける。顔が原形を留めないほど潰れていく音が、嫌でも耳に残った。

 

 ――気づけば、ゴブリンの目が、こちらを向いていた。

 

 凍りついた心臓に、冷たい鉄の杭が打ち込まれるような感覚。逃げなければ、殺される。

 

 俺は無我夢中で走り出した。椅子を跳ね飛ばし、テーブルに身体をぶつけながら、とにかく出口へ向かって駆けた。

 

 背後からは、ゴブリンの甲高い笑い声と、足音が追いかけてくる。どこまでも追いかけてくる。俺を殺すために。

 

 ショッピングモールの出口が見えたとき、俺は希望を見た。逃げられる――そう思った、まさにその瞬間。

 

 目の前に広がったのは、新たな地獄だった。

 

 ショピングモールだけじゃなかった。これは“局地的な異常”なんかじゃない。世界そのものが、狂っていたのだ。

 

 マンションの隙間からは煙が上がり、道端には無残に引き裂かれた遺体。どこから来たのかもわからない、角を生やした牛のような怪物が車を破壊しながら歩いている。その傍らには、腐臭を放つ死体の群れ――ゾンビのような存在が、ゆっくりと、だが確実に動き回っていた。

 

 誰かの叫び声が聞こえる。割れた窓から、無数の人々が飛び降りる様子が見えた。

 

 この場所は、確かに終わっていた。

 

 俺は、もう逃げる先のない現実の中で、立ち尽くすことしかできなかった。

 

 そんな時だった――背中に、これまで味わったことのない、鋭く激しい痛みが走った。

 

 熱い。火のように熱い。いや、鋭利な氷柱を一気に突き立てられたような、身体の奥から全身を痺れさせるような、そんな異質な痛みだった。

 

 呆然としていた俺は、背後から近づいてきた化け物の気配に気づけなかった。ただ、痛みと同時に背筋が凍りついた。何かが、俺の命を刈り取りにきたという、直感にも似た恐怖だけが、本能に突き刺さった。

 

「ぐぁあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!」

 

 喉が張り裂けるような叫び声が勝手に口から飛び出した。痛い。痛い。痛い。痛い。思考が、熱と衝撃に掻き乱されて崩れていく。

 

 鼓膜を打ったのは、あの化け物――緑色の皮膚、尖った耳、血走った目、そして凶悪な笑み。ゴブリンの、甲高く濁った不快な笑い声だった。

 

「グギャギャギャギャ!!」

 

 楽しげに笑っていた。俺が苦しみ悶える様を、まるでアリを潰して楽しむ子どものような目で、眺めていた。

 

 なんで、なんで俺がこんな目に……。

 

 人生は、これからだったはずだ。ようやく、過去の自分と決別して、新しい一歩を踏み出せそうだった。これからの未来に希望を、ようやく抱き始めていた矢先だったのに。

 

 背中を裂くような激痛に耐えきれず、俺は地面を転がった。アスファルトの硬さが骨に伝わり、擦り傷が新たな痛みを刻み込む。

 

 それでも、奴は笑っていた。汚らしい歯をむき出しにして、声を震わせて、楽しそうに。俺の痛みが、苦しみが、奴の“愉しみ”になっていた。

 

 ――ふざけるな。

 

 俺の人生は、こんな低俗な化け物に終わらされていいものじゃない。

 

 お前のようなクズに、夢を、日常を、命を踏みにじられるなんて、絶対に許せない。

 

 怒りが、血の中を駆け巡る。痛みすらも、燃料になった。

 

 クソッ……クソッ……! 俺に、力さえあれば……! 武器さえ――!!

 

 《武器があれば、武器さえあれば!!》

 

 その瞬間だった。

 

 どこからともなく、熱が湧いた。右手に、ずしりとした質量が宿る感覚。

 

 見れば――黒光りするポンプアクション式のショットガンが、俺の手の中にあった。

 

 いつの間に? どうやって? そんな疑問は、今はどうでもよかった。

 

 本能が先に動いた。振り返ると、奴がいた。あの下卑た笑み。醜く、矮小で、卑劣な存在。

 

 俺はその顔に向けて、引き金を引いた。

 

 パァン!!

 

 爆発音のような銃声が駐車場に響き渡った。

 

 弾丸は一直線に飛び、ゴブリンの頭部を吹き飛ばす。頭蓋が砕け、血と脳漿が破裂した風船のように四散した。熱い飛沫が顔に飛び、頬にぬるりとした感触が伝う。

 

 同時に、ショットガンの反動で俺の身体が地面へと叩きつけられた。

 

「ぐっ……ぁ……!」

 

 背中の傷が再び開いたかのように、激痛が襲う。だが、それでも。

 

 それでも、心の底から沸き上がる感情があった。

 

「ハハッ……ハハハハハハッ! やったぞ……やってやった!! 俺の人生を邪魔する害獣を……ぶっ殺してやったんだ!!」

 

 叫びながら、涙があふれそうだった。痛みも恐怖も、怒りと高揚感のなかに溶けていく。これが、生き残るための本能だと、心のどこかで理解していた。

 

「オラァッ! このカスが!! 舐めてんじゃねぇぞ!!」

 

 虫の息のゴブリンに向かって、俺は何度も足を振り下ろした。

 

「人間様に、お前ごときが敵うわけねぇだろうが!!」

 

 鬱憤や恐怖などでぐちゃぐちゃになった感情ををぶつけるように蹴り続けた。

 

 ――俺は、忘れていた。

 

 他にも、化け物はいる。

 

「ブモォオッ!!」

 

 耳をつんざくような咆哮。

 

 視界の端から、巨大な影が飛び込んできた。

 

 ドゴォッ!!

 

 鋼のような腕が振るわれ、巨大なハンマーが、横から俺の身体を弾き飛ばす。

 

 世界が回転した。空が、地面が、ぐしゃぐしゃに混ざる。

 

 そのまま車へと叩きつけられ、金属の悲鳴とともに車体が大きく凹む。

 

 呼吸ができない。視界が白く霞む。しかし、九死に一生と言うべきか、まだ意識は残っていた。

 

「ゲホッ、ゲホッ……!」

 

 咳き込むたび、喉から血がこぼれる。鉄の味が舌を覆い、こぼれ立ちた血が白いシャツを赤く染める。

 

 なんで……なんで俺ばっかり……。

 

 世界はなぜ、こんなにも理不尽なんだ?

 

 意味もなく、そんな問いが頭をぐるぐると回った。

 

 それでも俺は、顔を上げる。

 

 そこにいたのは――牛頭の化け物。巨大な体躯。腕には両手で持つほどのハンマー。そしてその横には、ぬるりとしたシルエットの異形。目だけが、不気味に光っていた。

 

 銃は……落としていた。手には、もう何もない。

 

 そして、この身体では、もう立つことすら難しい。

 

 ――終わり、か。

 

 諦めが、ゆっくりと胸を満たしていく。

 

 もっと、誰かと話せばよかった。恋人がほしかった。友達も、家族も、こんなことになる前にもっと大切にできていたら。

 

 両親に、「ありがとう」なんて、結局まともに言えていない。

 

 あの楽しみにしてたゲーム、まだ発売されてないのに。

 

 まだ何もなせてないのに――。

 

 一歩一歩、化け物が近づいてくる。その重量感のある音は死のカウントダウンを刻んでいた。

 

 これで、終わりか。

 

 ……来世こそは、幸せに生きられますように。

 

 ブォオオオン!!

 

 爆音が響いた。

 

 耳が震え、意識が現実へ引き戻される。振り向くと、爆音を掻き鳴らしながら、一台のバイクが荒れた駐車場を走り回る。

 

 乗っていたのは、今の時代どこにも存在しないようなヤンキーだった。彼はただひたすらに、この場から逃げようと必死にだった。

 

 死に体の俺より生きのいいあいつのほうが良いと思ったのか、牛頭の化け物がこちらを見るのをやめ、バイクの方へ向かって咆哮をあげる。

 

 **ズン、ズンッ!!**と地面を揺らしながら、奴はそちらへ駆け出した。

 

 その瞬間、俺の命は確かに救われた。

 

 俺は、このチャンスを絶対に無駄にしないよう、必死に這うように身体を引きずり、地獄から逃げ続けた。

 

 生きるために。

 

 気がつけば、俺は河川敷に辿り着いていた。

 

 どれほどの時間を這いずってきたのか、もはや分からない。記憶の断片は痛みと恐怖に引き裂かれ、まともな思考は残っていなかった。ただひたすら、生きるために、手足を動かし続けた結果が、ここだった。

 

 辺りは静まり返っていた。さっきまでの地獄のような喧騒は嘘のように消えている。

 

 空は鈍い灰色をしていて、どこまでも重たい。河川敷を流れる川の音が、かすかに耳に届いた。それだけが、今ここに自分が生きて存在していることを証明していた。

 

 俺は橋の下へ身を滑り込ませるように隠れた。鉄骨の影に覆われ、冷たいコンクリートに背を預ける。地面の湿気と血のにじむ衣服が貼りついて、身体が重い。背中の切り傷や全身の打撲による痛みもあるが、それ以上に、全身が疲労で鉛のように動かなかった。

 

 ようやく、少しだけ――ほんの少しだけ、安堵が訪れる。

 

 心臓の鼓動がゆっくりと落ち着いてきた。

 

 あのクソうるさいバイク……今まではただの迷惑でしかなかったのに、今だけは、あいつに感謝しかない。

 

 爆音を響かせて走っていたあの時代遅れのヤンキーが、あの化け物の注意を逸らしてくれなければ、俺は確実に死んでいた。

 

 姿すらよく見えなかった。リーゼントだけはよく覚えているが、名前も、顔も知らない。だけど、命を繋いでくれた存在だ。

 

 あのリーゼントをまた見かけることがあれば、俺は頭を下げるだろう。いや、拝む。文字通り、命の恩人として。

 

 ……でも、おそらく、もう会うことはない。

 

 ――これから俺はどうすればいいのだろうか?

 

 息を吐きながら、天井を見上げる。冷たい橋桁。そこには何の答えもない。

 

 手は空っぽだった。先ほど、あれほど強く握り締めていたショットガンは、もう手元にはない。あれは何だったんだ?

 

 幻覚か?それとも、あの化け物たちと関係する何か……?

 

 もし、あの武器が本物だったのなら、俺の意思に応えて出現したということか? それができる理由が、俺の中にあるとでもいうのか?

 

 それすら分からない。

 

 分からないことだらけだ。

 

 そもそも、あの化け物たちは何者だ? どうして突然現れた? あの牛頭の奴や、緑の肌をしたゴブリンのような存在は何だ? 人間じゃないのは確かだ。常識では、到底説明がつかない。

 

 そして――この世界は、これからどうなる?

 

 誰も教えてくれない。助けてくれる者もいない。

 

 ただ、俺一人だけが、この無秩序の中に取り残されているように思えた。

 

 風が吹いた。川辺を抜けてくるその風は冷たく、血と汗に濡れた俺の身体を容赦なく刺してきた。小刻みに震える身体を抱きしめながら、俺は再び目を閉じる。

 

 考えろ。生き延びろ。死ぬな。

 

 生きていれば、きっといいことがある。

 

 それだけを心の支えにして、俺は、どっと襲いかかってきた睡魔に身を任せていく。

 

 次に目を覚ましたとき、この悪い夢が覚めていることを願って。

 

 




すぐ周りが見えなくなる系主人公
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