それでも俺には未来があった   作:悲劇厨

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4.ドア・イン・ザ・フェイス(物理)

 

 

 

 息が荒い。視界が揺れる。

 夜の闇を裂くように、俺はただ無我夢中で走っていた。背後で響いていた地を蹴る足音も、次第に遠のいていく。

 いま俺が駆けているのは、街灯ひとつない田んぼのあぜ道。左右は背丈の低い水稲と泥が広がるだけの、逃げ場も隠れ場所もない一本道だ。

 

 (……撒いたか?)

 

 ちらりと振り返る。追ってきていたはずのゴブリンの群れは、もうどこにも見えなかった。

 どうにか逃げ切れた――そう、思いたかった。

 

 ——だが、それでも“奴”だけは、姿を消していなかった。

 

 「……チッ、しつけぇな……」

 

 暗がりの向こう。風すら止んだ静寂の中、地を這うような唸り声が響いた。

 重く、しかし一定のリズムを刻む足音。それは二足ではない、四足の獣特有の踏み込みだった。

 

 その影は、他のゴブリンとはまるで異なる。

 全身は毛皮ではなく、まるで焼けただれたような瘡蓋で覆われ、裂けた皮膚の隙間からは腐敗したような赤黒い筋肉がむき出しになっている。

 血走った両目が、闇の中でぎらつき、異様に肥大化した鼻面が地を嗅ぐように動いていた。

 

 (……服に付いた血か……!)

 

 脇腹の傷がズキリと痛む。出血は既に止まっているが、シャツには赤黒く染み込んだ血がまだ乾ききっていない。

 それが、この“嗅ぐ魔物”を呼び寄せているのだ。

 

 「……もういい。逃げ切れねぇ。やるしかねぇ……!」

 

 俺は足を止め、深く息を吐いてから振り返った。

 そして、右手でショットガンを構える。銃身の重みが、頼れる武器がまだ手元にあることを実感させてくれた。

 

 残弾数は——一発。

 それが、今の俺に残された、最後の牙だった。

 

 闇の中から、獣が飛び出す。

 低く構えたまま、矢のように一直線にこちらへ跳ぶ。狙いは――俺の足。

 

 俺は息を止め、引き金を引いた。

 

 ――最後の一発。

 閃光と轟音が夜を裂く。しかし、奴の動きは俺の狙いをわずかに上回った。

 

 「——がッッ!」

 

 視界が傾き、激痛が走る。

 左太ももに食い込む鋭い牙。反射的に足が崩れ、俺の身体は地面に叩きつけられた。

 口を突いて出た叫びは、喉を引き裂くような絶叫になって夜空へ消えていった。

 

 ショットガンで殴る。

 咄嗟に逆手に構え、何度も、何度も、獣の頭部めがけて力任せに叩きつけた。

 だが、左脚の激痛と出血で体は思うように動かず、勢いはどこか鈍い。

 それでも、必死に振り下ろした銃身は鈍い音を立て、獣の骨に跳ね返されるだけだった。

 

 (終わるのか……俺はここで……?)

 

 頭の中が真っ白になりかけていた。意識が遠のきかける。

 ——そのとき、不意に脳裏に蘇った感触があった。

 

 (……ナイフ。そうだ、あの時の……!)

 

 あれは、初めて倒したゴブリンから手に入れた一本のナイフ。

 剣というにはあまりに短く、刃渡りは15センチほど。刃の縁には無数の刃こぼれがあり、柄は寄せ集めの布切れで雑に巻かれている。

 頼りない見た目だが、それでも「武器」だった。

 

 抜き身のままポケットに突っ込んでいたそのナイフに、震える手を滑り込ませる。

 刃こぼれの部分が布に引っ掛かっていたのか、ブチブチと繊維を断ち切る音がやけに鮮明に耳に残った。

 だが、俺は迷わなかった。

 

 ——迷いは、なかった。

 

 犬の化け物の側頭部に狙いを定め、全身の力を込めて、腕を突き出す。

 

 「死ねえええええええええッ!!」

 

 ズブリ。

 確かな手応え。ナイフが腐った毛皮を裂き、硬い頭骨を砕き、ぬるりと脳髄へ達した感覚が手元に伝わってくる。

 獣の目が大きく見開かれ、全身が一度ビクリと痙攣したかと思うと、力を失って俺の上に崩れ落ちた。

 

 どさり、と重い音。

 そのまま俺も、抵抗する力を失い、その場に力なく座り込んだ。

 

 喉から漏れた呼吸は、痛みと安堵と恐怖がないまぜになった、濁った吐息だった。

 全身が震えていた。視界もぼやけ、何が現実なのかすら曖昧になっていく。

 

 それでも——また、生き延びた。

 

 それだけが、今の俺をかろうじて支えていた。

 

 

 

「はぁ……どこだよ、ここ」

 

 普段通らない道に、見覚えのない景色。

 端的に言えば、完全に迷子だ。

 けれど、俺にはスマホがある。

 この文明の利器さえあれば、現在地の確認なんて朝飯前。

 

 画面の隅に表示された充電残量は《58%》。

 できるだけ電源を切って節電しているが、それでもジワジワと減っていくバッテリーに不安が募る。

 このままでは、スマホが使えなくなるのも時間の問題だろう。

 

 地図を確認すると、さっきまでいたショッピングモールまでは約5km。

 荷物は何としても回収したいが、そこまで戻るには少し時間がかかる。下手をすればまた何かに襲われかねない。

 

 ——ぐぅぅ。

 

 腹の虫が、情け容赦なく鳴いた。

 空腹はすでに限界に近い。さっきから何度も不規則に唸るような音を立てている。

 地図を拡大して周囲を探すも、スーパーやコンビニの類は見当たらない。

 あるのは点在する住宅だけだった。

 

(……住居に、入るか?)

 

 誰もいない家に忍び込んで、食料を探す。それだけだ。

 この状況なら、住人はとっくに避難していてもおかしくない。

 置いていかれた食料なんて、このままじゃ腐るだけ。それを無駄にしないのは、ある意味“有効活用”とも言えるんじゃないか……?

 

「……いやいや、何考えてんだ俺は。別に、犯罪者になったつもりはないぞ」

 

 声に出して自分を否定する。でも、心のどこかで甘えが生まれる。

 

「でも、ちょっとだけなら……な。状況が状況だし、仕方ない。きっと、みんなそうしてる」

 

 そんな言い訳をブツブツと呟きながら歩くこと数分、俺は一軒の家の前に辿り着いた。

 庭は荒れておらず、郵便受けにも手つかずのチラシが詰まっている。何の変哲もない一軒家だ。

 念のため、玄関先のインターホンを押してみる。

 

 “ピンポーン”

 

 電子音があたりに虚しく響く。

 だが、応答はなかった。誰もいないらしい。

 

 そっと玄関の前に立ち、ドアノブに手を伸ばす。

 

 金属の冷たさが、じかに指先を刺した。ごくりと唾を飲む。その音さえ、この無人の世界では異様なほど大きく響いた。

 

 ドアノブをそっと押し下げる。抵抗はない。カチリ、と軽い音がして、扉はわずかに開いた。

 

「……こんな状態、もう『入ってください』って言ってるようなもんじゃないか……」

 

 誰にともなく呟く。その言葉は、許しを請うための言い訳にしか聞こえなかった。

 

 震える指先で、ゆっくりと扉を引き開ける。ギィ……という小さな軋みが、やけに生々しく耳に残った。まるで「侵入者だ」と、この家自身が警鐘を鳴らしているかのように。

 

 隙間から、そっと中をのぞく。

 

 中は散らかっていた。散らかった靴、途中で止まった荷造り。棚には折りたたまれた衣類が不規則に積み上がり、その横には小さなランドセルが転がっている。誰かが、ここで暮らしていた。つい昨日まで、日常があった。

 

 ——慌ただしく、避難したのだろう。

 

 まだ残る生活感が、胸を刺すように痛かった。

 

 背中を冷たい風が這い回る。手のひらは湿っていて、じっとりと汗がにじんでいる。心臓が早鐘のように鳴っている。呼吸は浅く、途切れ途切れ。体が、わずかに震えていた。

 

 ——これは、犯罪だ。

 

 住居侵入罪と窃盗罪

 

 「正当な理由なき人の住居への立ち入り」

 「占有を破って他人の財物を自己の占有に移転する行為」

 

 六法に載っていた定義が、そのまま脳内で再生された。俺が今、やろうとしていることは、まさにそれだ。

 法を学ぶものが法を破る、何とも皮肉なものだな。

 

 だが、これは非常時だ。非常時だから——

 

 ……本当に、それでいいのか?

 

 頭が真っ白になった。熱く、痛い。頭の奥がズキズキと締め付けられる。目の奥が熱くなり、視界がにじんだ。涙なのか、汗なのか、それすらわからなかった。

 

「俺は……何やってんだよ……」

 

 吐き出すようにそう呟く。

 

 これは略奪だ。犯罪だ。誰かの生活を踏みにじる行為だ。だが、それでも俺は、腹が減っている。震えるほど、飢えている。腹が減った状態だとエネルギーが足りず、モンスターに殺される確率がぐんと上がる。

 

 今ここで食料を得られなければ、まともな敵に当たると俺は死ぬ。

 

 そう言い訳しながらも、内心ではわかっていた。これは「生きるため」だけではない。空腹が恐怖を打ち消していく。罪の意識より、喉の渇きが勝っていく。

 

 覚悟を決めた。顔をドアの隙間から僅かに中に差し込む。

 

 ヒューと風の音が鳴った瞬間、心臓が跳ね上がった。

 

 まるで天から見ているぞ、と警告を受けたみたいだ。だけど、もう止まれなかった。

 

 ——罪悪感が、胸を焼いた。

 

 けれど、顔を入れてしまえば……案外、その先は、どうということはなかった。

 

 それが、何より恐ろしかった。

 

「……『ドア・イン・ザ・フェイス』ってやつ、だな」*1

 

 一歩踏み込めば、次は簡単だった。

 俺はもう、中にいた。

 これで俺は、きっと——もう、犯罪者だ。 もう、後戻りはできない。食料を探そう。

 

 そう腹を決めた俺は、真っ先にキッチンへと向かい冷蔵庫の扉を開けた。中には、保存の効かなさそうな鶏もも肉や野菜、卵といった生鮮食品が残っている。更に炊飯器を確認すると、ラッキーなことに二合分ほどの白米が保温されたまま残っていた。

 

 腹を空かせた俺は迷わず卵を取り出し、あったかいご飯にそのままかけてかき込む。キャベツやトマト、アボカドも冷蔵庫にあったので、ざくざくとカットして皿に盛り、ドレッシングをかけてむさぼり食った。

 

 ようやく落ち着いてきた俺の中に、ある余裕が芽生えた。

 

「……久々に料理でもするか」

 

 実は俺は料理が得意だ。そして、やると決めたらとことんやるのが俺の性分だ。まずは鶏もも肉を適当なサイズに切り分け、砂糖と塩を溶かしたブライン液に漬け込む。これだけで驚くほど肉がジューシーになるから不思議だ。

 

 漬け込みの間に鍋で湯を沸かし、卵を数個投入して茹で始める。次に、タレ用の調味料――水、醤油、みりん、砂糖、酢、にんにく、唐辛子の代わりに七味、レモン果汁の代用にはポッカレモン。全部を混ぜ合わせて鍋で火にかけ、とろみが出るまで煮詰める。

 

 その間、玉ねぎをみじん切りにして水にさらす。こうすることで辛味が抜けて生でも食べやすくなる。卵が茹で上がると氷水を張ったボウルに入れて冷まし、ピーマンも細かく刻んでいく。

 

 冷えたゆで卵の殻をむき、さらしていた玉ねぎ、刻んだピーマンをボウルに投入。大量のマヨネーズに胡椒、塩、少しの酢、を加え、フォークで潰して混ぜる。こうしてタルタルソースが完成した。

 

 三十分ほど漬け込んだ鶏もも肉をブライン液から取り出し、水気をキッチンペーパーで拭き取ると、バッター液にくぐらせ、さらに片栗粉をまぶす。そして熱した油に投入し、一度目の揚げ。しばらくして取り出し、少し冷ました後、再び油へ。カリッと音が鳴るまで二度揚げすると、焦茶色に輝く衣が完成した。

 

 仕上げに煮詰めたタレをたっぷりとかけ、さらにタルタルソースを惜しげもなく盛る――完成! 俺特製、チキン南蛮!

 

 千切りキャベツを添え、ご飯をよそい、できたてアツアツのチキン南蛮に思いきりかぶりつく。

 

「ッ……うまっ!!」

 

 ザックザクの衣に、甘酸っぱいタレと濃厚なタルタルが絡み合う。ピーマンのほろ苦さが絶妙なアクセントになって、味に深みを与えていた。これ、店で出されたって違和感ないぞ……!

 

「やっぱ、俺の料理って最高だな……!」

 

 そう自画自賛しながら、チキン南蛮、ご飯、キャベツと、まるで黄金の三角形を描くように順番にかき込んでいく。

 

 ……ふぅ、満足、満足。

 

 食べていなかったのは半日程度だったはずだが、何度も戦闘を行ったことによる疲れが相まってその食事量は普段の数倍。二合分のご飯も、気づけばすっからかんになっていた。

 

 なんだか、いっぱい食べたら眠くなってきたな……。

 

 俺はそうつぶやくと、リビングのソファに身を沈め、そのまま意識がゆっくりと遠のいていった。

 

 ――ぐぅ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 ――頭が、割れそうに痛い。

 

 意識が浮かんだ瞬間、焼けつくような熱と共に襲いくる激痛に俺は呻いた。

 

「う……あ、あああ……ッ」

 

 全身が鉛のように重く、頭の中は沸騰したように熱を持っていた。皮膚が火照り、吐き気が込み上げ、視界はぼやけている。

 

 なんだ……これ……熱か?

 

 体を起こそうとするが、力が入らない。背中のシャツが汗でぐっしょりと濡れているのがわかる。

 

 ……そういえば、戦ったとき、俺――どこか、怪我してたよな……。

 

 足。背中。脇腹。ゴブリンのボロいナイフにより切りつけられたり、犬の化け物の不衛生な牙で噛みつかれたり。思い当たるフシは幾つもあった。そこから細菌や毒素が入ってもおかしくない。

 

「まさか、あの傷……感染したのか……?」

 

 ぐらりと視界が揺れた。額に手を当てると、火のように熱い。まるで体が自分のものじゃないみたいに、内側から焼かれていく感覚。

 

「ッ……くそっ……このままじゃ……やばい……!」

 

 必死で意識を集中する。俺には、スキルという切り札がある。

 

 そうだ――確か、[病気耐性]っていうのがあった。たしか、前に汎用スキルで見かけたはず……!

 

「……取る……今すぐ、取る……!」

 

 震える指でステータス画面を呼び出し、スキルポイントを[病気耐性]Lv1に振り込む。スキルが体に馴染む感覚がわずかにあった……が――

 

 ――効果、なし。

 

 ほんの少しだけ良くなった気もするが、頭痛はおろか、熱も吐き気も一向に収まりそうにない。目の奥がズキズキと痛み、喉の奥からは変な味がこみ上げてくる。

 

「ダメか……! 一レベルじゃ、足りない……ッ!」

 

 選択の余地はなかった。迷っている余裕など、今の俺にはない。

 

「……もう一レベル、頼む……ッ!」

 

 残るスキルポイントを使い、[病気耐性]をLv2へと強化する。今度は、体の奥に鈍い光が走ったような感覚があった。徐々に、体を焼いていた熱が引いていく。

 

 痛みは残るが、明らかに違った。まるで、毒が抜けるように、体が軽くなっていく。高熱を出した時にバファリンを飲んだら見る見るうちに楽になって感動したあの感じと似た感覚だ。

 

 それでもまだ、意識は途切れ途切れで、動く力までは戻らない。

 

 ――眠ろう。

 

 このまま安静にしていれば、[自然治癒]と[病気耐性]で、きっと回復してくれる。そう信じて、俺は再びソファに身を委ねた。

 

 夢のような現実。だけど、確かに今、俺はここで生きている。死にかけても、這いつくばってでも――。

 

「……生きてやるよ……こんな世界でもな……」

 

 そう、微かに笑ったまま、俺の意識は深い眠りに沈んだ。

 

 

*1
違う。『ドア・イン・ザ・フェイス』は最初に大きな要求をして、のちに小さい要求をするのちの要求へのハードルを下げるために行われる行為です。つまり、名前だけで勘違いして覚えています。覚えていました。




何だこの主人公。四話中三話寝てんだけど。なんかものすごくいろいろ沈んだ後、吹っ切れたのか現実逃避か人の家で手の込んだチキン南蛮作り始めて、図太くソファーで眠り始めた、情緒不安定か?
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