■夢■
夜のキヴォトス。
百花繚乱紛争調停委員会の事務室は、蛍光灯の淡い光に照らされ、静寂に沈んでいる。書類の山が整然と積まれた机、壁に貼られた調停記録の紙片、そして窓の外に広がる、星も見えぬ曇天の闇。まるでこの部屋そのものが、七稜アヤメの心を映す鏡であるかのように。
アヤメは椅子に腰掛け、百蓮の証――その重い装飾を指先でなぞる。彼女の手は、まるでそれに触れることを恐れるかのように、かすかに震えていた。彼女の瞳には、普段の気さくさも、剛胆な笑顔もなかった。そこにあるのは、深く、暗い水面のような静けさ。
まるで、何かを呑み込むことを拒む、しかし沈むことを許さぬ水面だ。
対して、ナグサは窓辺に立つ。彼女の姿は、まるでこの部屋の唯一の温もりであるかのように、柔らかな輪郭を放つ。ナグサの視線はアヤメに向けられ、しかしその目は、彼女の心の奥底を覗き込むことをためらうように、どこか遠くを見ているようだった。
「ねえ、ナグサ」
アヤメの声は、夜の静寂を裂くように響く。だが、その響きは脆く、まるでガラス細工が触れ合う音のようだ。
「もし、私が悪い子になったらさ。ナグサが助けてくれる?」
その言葉は、まるでこの部屋の空気を一瞬で凍らせた。ナグサの手が、窓枠を握る指先に力がこもる。彼女は振り返り、アヤメの顔を見る。そこには、いつもの委員長の笑顔はない。代わりに、まるで自分自身を疑うような、怯えるような瞳があった。
「悪い子、か」
ナグサの声は穏やかだが、その底には、どこか重いものが沈んでいる。
「アヤメはそんなことにはならないよ」
その言葉は、まるで呪文のように響いた。だが、アヤメの心には届かない。彼女の唇が、わずかに歪む。笑顔ではない。嘲笑でもない。それは、まるで自分自身を切り裂くような、痛みを帯びた表情だった。
「そうかな」
アヤメの声は、まるで虚空に投げかけられた石のように、虚ろに響く。
「ナグサはそう思うかもしれない。でも、さ。私、ずっと考えてたんだ。みんなが私に求めるもの――委員長で、優等生で、誰よりも正しくて、誰よりも強い私。それって、本当に私なのかなって」
彼女の手が、百蓮の証を強く握りしめる。指の関節が白くなるほどに。
「この百蓮、私には重すぎるよ。扱えないんだ。私、みんなが思うほど完璧じゃない。なのに、みんなは私に頼る。助けてって、救ってって、まるで私が神様みたいに。……そんなの、嫌いだよ。自分のことくらい、自分でやってよって、そう思っちゃうんだ」
アヤメの声は、まるで刃のように鋭く、しかしその刃は彼女自身を切りつけているようだった。彼女の瞳には、憎しみと、しかしそれ以上に深い悲しみが宿っていた。
ナグサは一歩、アヤメに近づく。彼女の足音は、まるでこの部屋の静寂を優しく撫でるようだった。
「アヤメ。君がそんな風に思うなら、それは君が本当の君をまだ見つけてないだけだよ。君は、誰かのために頑張りすぎたんだ」
「本当の私?」
アヤメの声に、嘲笑の色が混じる。
「本当の私なんて、どこにもいないよ。ナグサ。みんなの期待に応えて、笑って、強く振る舞って……それが私だよ。でも、もし私がそれじゃなくなったら? もし、私が全部放り投げて、みんなを支配して、永遠に見張ってやろうって思ったら? それでも、ナグサは私を助けてくれる?」
ナグサは答えない。彼女の瞳は、アヤメの言葉を呑み込むように、ただ静かに見つめる。アヤメの心に潜む闇――それは、ヒトツメと呼ばれる怪異の影を帯びていた。支配し、監視し、すべてを自分の掌中に収めることでしか、彼女は自分の存在を確かめられない。そんな衝動が、彼女の心を侵食しつつあった。
「アヤメ」
ナグサの声は、まるで夜の風のように柔らかく、しかし確かな力を帯びていた。
「君がどんな道を選んでも、私は君を信じるよ。悪い子になっても、君は君だ。助けるって約束はできないけど……君のそばにいるよ。君が自分を取り戻すまで」
アヤメの瞳が、わずかに揺れる。ナグサの言葉は、彼女の心に小さな光を投じた。だが、その光はまだ、彼女の闇を照らしきれなかった。彼女は小さく笑う。まるで、自分をあざ笑うように。
「ナグサって、ほんと優しいね。……でも、さ。それが一番怖いんだよ」
窓の外で、雲がわずかに動き、月光が一瞬、部屋を照らす。アヤメの顔に、影と光が交錯する。その瞬間、彼女の瞳には、まるで何かを決意したような、冷たい輝きが宿っていた。
■■
夜は、まるで心の底を抉るかのように冷たく、静かだった。
御稜ナグサは、自室の窓辺に立ち、星々の冷淡な瞬きを眺める。
夢を見た。
あの夜、百花繚乱紛争調停委員会の事務室。蛍光灯の薄い光の下、七稜アヤメの揺らぐ瞳と、彼女の震える声。
『もし、私が悪い子になったらさ。ナグサが助けてくれる?』
その言葉は、夢の中で何度も繰り返され、ナグサの心を締め付けた。そして、彼女自身の答え。
『アヤメはそんなことにはならないよ』
その言葉が、まるで呪いのように、夢の中でナグサを追い詰める。ナグサは、窓に額を押し当てる。冷たいガラスが、彼女の熱い感情を嘲笑うかのようだった。
「アヤメ……私は、貴方の叫びを聞けなかった」
彼女の声は、独り言のように小さく、しかし深い慟哭を帯びていた。
あの瞬間、アヤメの言葉は、ただの戯れではなかった。彼女の笑顔、気さくで剛胆な仮面の裏に、壊れかけの心が隠れていた。
ナグサは気づいていた。いや、気づかないふりをしていた。親友として、アヤメのそばにいるはずだったのに、彼女のSOSを見ず、聞かず、ただ「完璧なアヤメ」を信じようとした。なぜなら、それがナグサにとってのアヤメだったからだ。皆を導く太陽、誰からも慕われる委員長。だが、その太陽は、燃え尽きる寸前のロウソクだった。
「君が悪い子になるなんて、ありえないって……そう言った私こそが、君を縛った鎖だったのかもしれない」
ナグサの声は震え、涙が頬を伝う。
彼女の手は、ノートを握り潰すように力を込める。アヤメの問いかけは、助けを求める叫びだった。
彼女は、完璧な仮面を脱ぎ捨て、ただのアヤメとしてナグサに手を差し伸べたかったのだ。だが、ナグサはそれを受け止められなかった。
『そんなことにはならない』
と、彼女の心を閉ざす言葉を投げつけてしまった。
夢の中で、アヤメはナグサに微笑んだ。だが、その笑顔は、まるでガラス細工が砕ける直前の光のように脆かった。そして、その後、姿を消す直前に彼女は言った。
『友達だと思ったことは一度もない』
その言葉は、ナグサの心にナイフのように突き刺さり、夢から覚めた今も、彼女の胸を切り裂く。アヤメは、ナグサを憎んだわけではない。彼女が憎んだのは、期待という名の檻だった。ナグサは、その檻の一部だったのだ。
「どうして、君の心を見抜けなかったんだろう」
ナグサの声は、夜の闇に溶ける。彼女は、アヤメの瞳に宿っていた深い淵を思い出す。あの時、彼女はアヤメの手を取るべきだった。
「どんな君でも、そばにいるよ」と、ただそれだけを伝えるべきだった。だが、ナグサは自分の無力さに気づくことすらできず、アヤメを深淵へと突き落とした。
「君が姿を消した今、こんな後悔しかできないなんて……」
ナグサの拳が、窓枠を叩く。彼女の心は、まるで壊れた時計のように、過去のあの瞬間に止まったままだった。アヤメの笑顔、彼女の震える声、彼女が隠していた痛み。それら全てが、ナグサの心に焼き付いて離れない。
「アヤメ、どこにいるの?」
ナグサの呟きは、誰にも届かない。彼女は、アヤメを探し出すことを決意する。たとえアヤメが「悪い子」になろうと、どんな姿になろうと、ナギサは彼女を見捨てない。なぜなら、それがナギサにとっての友情であり、アヤメへの贖罪だからだ。