「二度寝しよう」
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百鬼夜行連合学院の喧騒は、夕暮れの赤みを帯びた空に溶けていた。御稜ナグサは、百花繚乱紛争調停委員会の事務室へ向かう足取りを重く感じながら、かつての自分を思い返していた。
百鬼夜行の混沌、自由と欲望が渦巻く日々。彼女は副委員長として、アヤメの影で完璧を演じていた。だが、あの空が赤く染まった日——アヤメとナグサの失踪が、調停委員会を崩壊の淵に追いやった。
ナグサはトリニティ総合学園の制服に身を包み、百鬼夜行の過去を背負いながら、かつての仲間たちの様子を見にきていた。
事務室の扉を開けると、埃っぽい空気と静寂がナグサを迎える。
そこに、桐生キキョウがいた。百花繚乱の作戦参謀、論理と勝利を重んじる少女。彼女の目は、ナグサを見つけると一瞬揺れ、すぐに鋭さを帯びた。
「ナグサ……先輩」
「久しぶり、キキョウ。最近の百花繚乱はどう?」
ナグサの声は穏やかだが、過去の重みが滲む。キキョウは机に凭れ、冷ややかに答えた。
「どうもこうもないよ。空が赤く染まった日から、部員も影響力も減っている……戻ってきてよ、ナグサ先輩」
その言葉は、ナグサの胸に鋭く刺さった。
百花繚乱紛争調停委員会は、かつて百鬼夜行の紛争を仲裁するエリート集団だったが、アヤメとナグサの失踪で力を失ったのだ。
キキョウの目は、ナグサを責めるように、しかしどこか縋るように揺れていた。
ナグサは目を伏せ、静かに答えた。
「……私に委員長は無理だと思う。アヤメでも無理だった。アヤメにすらなれない私では、もう無理だと思う」
彼女の声には、百鬼夜行でのトラウマが響く。大切な人を助けられなかった記憶が、ナグサから自信を奪っていた。
アヤメの明るさ、決断力に依存し、彼女の影でしか生きられなかった自分。トリニティで、ナギサやハスミと過ごす日々が、ナグサに新しい自由を与えたが、過去の傷はまだ癒えない。
キキョウの眉が険しくなる。
「……捨てるの? 私達を。トリニティの制服なんか着ちゃって」
キキョウの論理的な口調の裏に、仲間を失った痛みと裏切られた思いが滲む。ナグサは苦笑し、そっと答えた。
「痛いところをつくね。でも、そうかも。トリニティにいるからさ、遊びに来てよ」
「待って、嘘でしょう? 本当に?」
キキョウの声が、初めて動揺に揺れた。彼女の論理と理性が、ナグサの軽やかな言葉に揺さぶられる。ナグサは微笑み、しかしその瞳には微かな哀しみが宿っていた。
「じゃあね、キキョウ」
彼女は背を向け、事務室を後にする。夕暮れの赤い空が、百鬼夜行の過去を静かに照らしていた。
ナグサの胸には、キキョウの言葉が重く残る。百花繚乱は、彼女にとって誇りであり、呪いでもあった。トリニティで、ナギサのロールケーキやハスミの正義に触れ、ナグサは自分の「好き」を探し始めた。だが、キキョウの目は、彼女に問いかける。
過去を捨てて、本当にいいのか、と。ナグサはトリニティの白亜の校舎へ戻る道すがら、思う。ロールケーキの層のように、彼女の心もまた、過去と未来の間で巻かれ、形を成しつつあるのかもしれない。
背後から大きい音がした。
桐生キキョウの涙と銃口が、彼女を過去の傷に引き戻す。キキョウの叫びが響く。
「なんで今更ここに来たの? ふざけないでよ。ちゃんとしてよ。先輩なんだから、憧れた私達の責任を取ってよ!」
ナグサの左腕は、かつての戦いで負った傷が癒えず、動かない。片手だけで立つ彼女の瞳は、トリニティの光に触れた強さを宿す。
だが、キキョウの言葉は、百鬼夜行の混沌とアヤメへの依存を呼び起こす。
「憧れた……その言葉は嬉しいけど、今は重荷かな」
と、ナグサは静かに答えた。
「教えてあげるよ、キキョウでは私に勝てないって」
「みんな、みんな置いて去っていく……私の思いは何処へ向ければ良いの!?」
キキョウの声は震え、涙が頬を濡らす。彼女は銃を構えたが、その手は躊躇う。論理を重んじる作戦参謀の理性が、感情の嵐に飲み込まれていた。
ナグサは一歩踏み出し、冷たく微笑んだ。
「ぶつけてみなよ、纏めて藻屑にしてあげる」
キキョウの銃が火を噴いた。だが、ナグサはすでに動いていた。片手しか使えない彼女は、百鬼夜行の戦いで磨かれた身体の記憶を頼りに、銃弾の軌跡をかわす。
キキョウは銃を投げ捨て、涙を振り払うように拳を握った。
「銃じゃ、届かないなら……!」
彼女は叫び、ナグサに飛びかかる。事務室の狭い空間で、近接格闘戦が始まった。
キキョウの拳は鋭く、百花繚乱の訓練で鍛えられた正確さでナグサを狙う。彼女の動きは、論理的で無駄がない。右の突きがナグサの頬をかすめ、左の蹴りが彼女の脇腹を狙う。
だが、ナグサは片手でキキョウの腕を弾き、低い姿勢でその蹴りをかわした。左腕は使えないが、彼女の身体はトリニティで学んだ軽やかさと、百鬼夜行の生存本能を融合させていた。
「キキョウ、速いね。でも、感情に飲まれてる」
ナグサの声は冷静だが、どこか哀しみを帯びる。
キキョウは歯を食いしばり、連続の拳を繰り出す。
「感情? 先輩が私達を捨てたからだよ!」
彼女の拳は、ナグサの肩を掠め、事務室の机を倒す。埃が舞い、赤い夕暮れの光に溶ける。ナグサは一瞬の隙を見逃さず、キキョウの腕を片手で掴み、身体を捻って彼女を床に押し倒した。
「キキョウ、私は捨てたんじゃない。トリニティで、自分の『好き』を見つけたんだ」
ナグサの声は、ナギサのロールケーキの甘さを思い起こさせる。
シンプルで、純粋な情熱。
キキョウは床に倒れ、涙が止まらない。
「ナギサの……ロールケーキ? そんなものに、何があるって言うの?」
彼女は立ち上がり、最後の力を振り絞ってナグサに突進する。だが、ナグサはキキョウの突進をかわし、片手で彼女の襟を掴み、壁に押しつけた。
「キキョウ、トリニティに来なよ。ロールケーキ、食べてみる? ナギサ姉さんの絵には、キキョウが忘れた『好き』があるかもしれない」
キキョウの力が抜け、彼女は壁に凭れて膝をついた。涙が床に落ち、百鬼夜行の空に溶ける。
「ナグサ先輩……」
彼女の呟きは、事務室に小さく響いた。ナグサはキキョウをそっと離し、振り返らずに扉へ向かう。
「今度こそじゃあね、キキョウ。百花繚乱は、私の宝物だったよ」
◆
「……今、あの時の夢を見るんだ。キキョウ元気かな。そろそろお祭りもあるし久しぶりに様子を見に行こう」
ナグサはトリニティの制服を纏って、百鬼夜行へ向かった。