百鬼夜行の大通り、朽ちた鳥居の影が地面に長く伸びる。夕暮れの空は鉛色に沈み、冷えた風がナグサの白い髪を乱す。彼女の足元には、濡れた石畳が鈍く光り、遠くで怪異の唸りが低く響く。ナグサの指は銃を握り、しかしその手は微かに震えていた。
「大丈夫、私は……私は大丈夫」
と、ナグサは呟く。声は小さく、まるで自分に言い聞かせる呪文のようだ。怪異が現れる。黒い霧は、まるでナグサの過去の影のようにうごめき、彼女の心を締め付ける。彼女は一歩踏み出し、銃を撃つ。銃声は鋭く、霧を切り裂くが、ナグサの瞳はどこか遠くを見ていた。
それを見ていた箭吹シュロが現れる。彼女の笑顔は、昏い空の下でも異様に鮮やかだ。
「いやいやいや、ナグサちゃん! 何それ、めっちゃカッコつけてるじゃないですか! そんなポジティブな顔、手前は見たくねーんですよ」
シュロの声は軽快だが、どこかナグサの心を抉る刃のようだ。彼女はふわふわと、ナグサに近づく。
ナグサは銃を下ろし、シュロを静かに見つめる。
「シュロ……何の話?」
彼女の声は、雪が降る前の静寂のように冷たい。だが、その奥には、隠しきれぬ怯えが揺れている。シュロは一歩踏み出し、指でナグサの頬を軽くつつく。
「ナグサちゃん、いつも自分を誤魔化すよね。『大丈夫』って。怪異と戦って、怖くて心が軋んでたはずなのに、なんでそんな凛々しい顔してるの? もっとさ、ボロボロ泣いて、みっともないナグサちゃんが見たいんですよ、手前は」
ナグサの瞳が揺れる。シュロの言葉は、彼女の心の奥に沈む暗い湖を攪拌する。あの半年、誰も知らぬ場所で震え、誰にも見せられなかった弱さ。怪異の気配は、まるでその時の自分を嘲るかのようだった。なのに、ナグサは唇を噛み、薄く笑う。
「シュロには関係ないよ。……私は、ちゃんとやれたから」
「ふーん、そっか。ナグサちゃん、ホントに強いね。強くなったね。でもさ、苦しいことって、誰かに吐き出したっていいよね? それを『試練だった』とか『成長のチャンス』とか、ポジティブに誤魔化すのは見たくないなぁ」
彼女の声は、からかうように、嘲りの調子が混じる。
石畳に水滴が落ち、鈍い音を立てる。ナグサはシュロを見つめ、言葉を探す。彼女の心は、雪のように積もり、しかし溶けない。
「シュロは……私の何を見たいの?」
シュロは笑う。まるで闇に咲く花のように。
「全部、かな? ナグサちゃんの泣き顔も、笑顔も、焼き鳥食べてるときのバカっぽい幸せな顔も。全部。そしてそれが全部駄目になる瞬間の顔がみたい」
ナグサの唇が、ほんの一瞬、緩む。彼女は目をそらし、呟く。
「……ねぎま、食べたい」
「誰も焼き鳥の話はしてねーんですけど?」
ひび割れた石垣の隙間から冷気が漂う。灰色の空は重く垂れ込め、カラスの声が遠くで途切れる。ナグサの白い髪は、湿った風に揺れ、彼女の手は銃を握ったまま微かに震えている。怪異の気配は消えたが、彼女の瞳にはまだその影が宿る。
静かで、壊れそうな光。
シュロが一歩近づく。彼女の声は、闇に響く花火のようだ。
「ナグサちゃんさぁ、心を無理矢理、みんなと共有化させられて恥ずかしくないの? 悲しくないの? 失望されるのを恐れて震えなよ!」
ナグサの唇が僅かに開くが、言葉はすぐに出ない。怪異の影は、彼女の心の奥で蠢く。倒したばかりの怪物ではなく、過去の自分――誰も知らぬ場所で半年間震え、涙を隠した少女。あの孤独と恐怖が、冷たい霧のように彼女を包む。だが、ナグサは顔を上げ、薄く笑う。
「昔の私はそうだった。だけど、今の私はトリニティで学んでいる……案外、大丈夫だって。」
シュロの目が大きく見開く。彼女は扇子を握りしめ、声を張り上げる。
「な、な、な、何を勝手な! そんなポジティブな事考えちゃ駄目なんですよ! ナグサちゃんは悲観的で、盲目的で、寂しがり屋じゃないと駄目なんですよぉ!」
路地の奥で、風が石畳を叩き、水滴が鈍い音を立てる。
ナグサの心は、雪のように積もり、溶けそうで、しかし溶けない。
「シュロ……私は、」
彼女は言葉を切り、唇を噛む。過去の自分が、怪異のように心の奥で囁く。失望される恐怖、誰にも見せられなかった弱さ。それでも、ナグサは一歩踏み出す。
「私は、逃げないよ。もう、逃げない。」
シュロの笑顔が、苦くなる。
「ふーん、ナグサちゃん、ホントに強くなっちゃったんですねぇ」
つまらなそうに、シュロは言う。
「なら手前も相応のものを出さないと駄目ですかねぇ」
百鬼夜行自治区の空が、まるで古傷のように裂けた。黒い亀裂が天蓋を這い、鈍い軋みを響かせ、まるで世界が息を詰まらせたかのようだった。
そこから、闇が滲む。油じみた、粘つく闇。
ナグサは百鬼夜行自治区に散乱した祭りの瓦礫に膝をつく。肩に担いだ白蓮――その白銀の銃身が、煤けた月光を鈍く反射していた。彼女の瞳は、曇った硝子玉のように光を宿し、どこか冷たく、鋭く、闇を見据えていた。
「何か、来る?」
と、ナグサは呟いた。声は風に溶け、虚空に消える。
空の裂け目から、無数の目玉が現れた。血走り、蠢く、まるで生き物の臓腑を剥き出しにしたような眼球の群れ。それらが一斉にナグサを捉え、視線だけで彼女の皮膚を刺す。
続いて、黒い毛並みが波打つ巨躯が降り立つ。クロカゲ――百鬼夜行の住人たちが畏怖する、闇の具現。犬とも獣ともつかぬ姿は、黒い粘液を滴らせ、触れた地面を侵しながら、じりじりとナグサへ迫る。
「逃げるな。逃げちゃ、駄目」
ナグサは自分に命じる。
指はすでに白蓮の引き金に触れていた。彼女の呼吸が、大気を切り裂く。クロカゲの目玉が一斉に彼女を睨み、視線が心を抉る。恐怖、憎悪、絶望――その目は、ナグサの過去を暴くように光る。
クロカゲが咆哮し、地面が震えた。黒い毛並みが風を切り、尾のような影がナグサを薙ぐ。彼女は身を翻し、瓦礫の間を滑るように回避する。
尾が地面を叩き、爆音とともに土煙が舞う。ナグサの髪が乱れ、煤けた匂いが鼻をつく。彼女は白蓮を構え、銃口をクロカゲの無数の目に向ける。
「遅い」
クロカゲの動きは、闇そのものが意志を持ったかのように予測不能だった。
彼女は引き金を引く。白蓮が咆哮し、銀色の弾丸が闇を裂く。弾はクロカゲの脇腹を撃ち抜き、黒い粘液が噴き出す。粘液は地面に落ち、まるで生き物のように蠢いた。
クロカゲは痛みを知らぬかのように咆哮し、前肢を振り上げる。その一撃は廃墟の柱を粉砕し、ナグサを瓦礫の海へ叩きつける。彼女の身体は硬い石に打ちつけられ、息が詰まる。血の味が口に広がる。白蓮が手から滑り落ち、瓦礫に埋もれる。
「まだ」
彼女は這うように立ち上がり、白蓮を拾い上げる。銃身は冷たく、彼女の掌に食い込む。クロカゲの目玉が、嘲笑うように彼女を見つめる。だが、ナグサの瞳には、消えぬ焰が宿っていた。
彼女は叫ぶ。言葉にならぬ、獣じみた叫び声を上げ、白蓮を再び構える。
銃口が、クロカゲの首元の目玉を捉える。ナグサは引き金を引く。白蓮の咆哮が響き、銀色の弾丸が闇を貫く。目玉が一つ、また一つと砕け、黒い粘液が噴き出す。クロカゲの巨躯が震え、咆哮が空を裂く。ナグサはさらに撃つ。弾丸がクロカゲの毛並みを引き裂き、闇を散らす。彼女の指は引き金を離さず、白蓮の熱が掌を焼く。
クロカゲが膝を折る。無数の目が閉じ、巨躯が黒い霧となって崩れる。空の亀裂が、まるで嘆くように軋みながら閉じていく。
廃墟に静寂が戻る。ナグサは白蓮を下ろし、息を整える。銃身から立ち上る硝煙が、彼女の顔を包む。背後で、闇の残滓がまだ蠢いていた。
ナグサは一歩踏み出し、振り返らずに歩き出す。白蓮を肩に担ぎ、彼女はただ前を見据える。
「手前の、クロカゲがこうもあっさり!?」
「シュロ、もう終わり。私には勝てない」
「弱いナグサちゃんの癖に生意気な……! トリニティへ行ったことで、何がそんなにナグサちゃんを変えたんですぅ?」
その問いに、ナグサは答えることができない。
「わからない。だけど、見返りを必要なく自分に優しくしてくれる人に出会って、私は何もなくても愛されることができるのだと知った。だから、失望されても怖くない。駄目になったらまた始めれば良い。何度でも、立ち上がって」
「くだらない、くだらない、くだらない! くだらないってんですよぉ! 愛されてる? 怖くない? そんな言葉がナグサちゃんから出てきちゃ駄目でしょうが!」
シュロのその言葉に、ナグサは真っ向から立ち向かう。
「怖くて、悲しくて、痛い。だけど戦うのを諦めない。それが私の演じる御稜ナグサ。そうでありたい御稜ナグサ! 誰も見ていなくても、私はそうでありたいと思うから」
だから。
「貴方の望むナグサを、見ることはできない」
「この箭吹シュロに向かって……!」
銀の銃弾がシュロを貫いた。