「ぐっ、ああっ!?」
血飛沫が夜の闇に散った。シュロの身体が、まるで操り人形の糸が切れたかのように崩れ落ちる。
銃声の残響が、冷たく湿った世界こだまする中、シュロを支えたのは一人の少女だった。金髪が月光を浴び、まるで燃えるような輝きを放つ。だが、その瞳には、かつての温もりの欠片もない。
「選手交代。次は私が、出るよ」
少女の声は静かで、しかしどこか不気味な確信に満ちていた。まるで運命の歯車が、彼女の手の中で軋みながら回り始めたかのように。
ナグサの瞳が、驚愕に見開かれた。目の前に立つ少女の姿は、記憶の中の彼女と重なりながら、どこか決定的に異質だった。
「久しぶり、ナグサ」
その声に、ナグサの心臓が一瞬止まった。聞き慣れた声。だが、どこか冷たく、どこか壊れた響き。
「アヤメ……!?」
「うん、地獄の底から戻ってきたよ」
アヤメ――いや、彼女はもうそう名乗らない。黒と赤の服が、まるで血と闇を織り交ぜた異形の鎧のように彼女を包む。右の瞳は深い青、左の瞳は燃えるような赤。左右で異なる色が、まるで彼女の魂が二つに引き裂かれた証のように、ナグサを睨みつける。
「なんで……その姿は!?」
ナグサの声は震え、恐怖と懐かしさが交錯する。
「瞳も、色も……! 何があったの、アヤメ!」
少女は一瞬、静寂の中に沈んだ。まるでナグサの言葉が、彼女の心の奥底に埋もれた何か――かつての自分を呼び起こそうとするかのように。だが、すぐにその唇が冷たく歪む。
「アヤメの名前はもう捨てた。今はヒトツメ」
その瞬間、彼女の周囲に異形の怪物が浮かび上がった。黒い霧のような影が、まるで意志を持った生き物のようにうねり、彼女の身体を包み込む。
ナグサは一歩後ずさり、息を呑んだ。そこにいるのは、かつての親友ではない。いや、親友だったはずの存在が、まるで地獄の業火に焼かれ、別の何かへと変貌していた。
「アヤメ……いや、ヒトツメ! なぜ! なぜこんなことに――!」
ナグサの叫びは、しかし、ヒトツメの冷笑によって切り裂かれた。彼女の手には、黒光りする銃が握られている。その銃口が、ゆっくりとナグサに向けられる。
「知りたい? なら、感じてみなよ。私の絶望を。私の闇を」
銃声が響いた。ナグサの肩を貫いた弾丸は、ただの金属の塊ではなかった。それは、ヒトツメの記憶そのものだった。弾丸が肉を裂く瞬間、ナグサの意識に、まるで洪水のようにアヤメの過去が流れ込む。
血と叫び声。絶望に塗れた笑顔。壊れた鏡に映る、かつてのアヤメの姿。彼女が「ヒトツメ」となるまでの、果てしない闇の連鎖。
ナグサは膝をつき、頭を抱えた。流れ込む記憶は、まるで彼女自身の心を抉る刃のようだった。
「やめ……やめて、アヤメ!」
だが、ヒトツメは一歩、また一歩と近づく。彼女の瞳――青と赤の二つの色が、まるでナグサの魂を飲み込もうとするかのように輝く。
「ナグサ。覚えておきなよ。地獄は、逃げても追いかけてくる」
■
七稜アヤメの瞳は、まるで凍てついた湖面のように静かで、しかしその奥底には尽きることのない業火が揺らめいていた。百花繚紛争乱調停委員会――その名は華やかだが、実態はアヤメの肩に全てがのしかかる、終わりのない試練の場だった。彼女の手には、百蓮。
だが、その輝きは今や色褪せ、ただの重石と化していた。役立たずの証。勝利の象徴であるはずのそれは、まるで彼女を嘲笑うかのように沈黙を続けていた。
街は喧騒に満ち、桜の花びらが風に散る。だが、アヤメの心には春など訪れない。次から次へと押し寄せる問題、紛争、愚痴、期待――全てが彼女の名を呼ぶ。
「アヤメ様、アヤメ様」と。まるで呪文のように繰り返されるその声は、彼女の骨を削り、血を絞り出す。誰もが彼女に頼り、誰もが彼女に押し付ける。誰でもできる雑務すら、なぜかアヤメの役目だった。
「ふざけるな」と、彼女は心の中で吐き捨てる。どれだけ身を削ってきたか。どれだけ夜を徹して策を練り、どれだけ自分を殺して笑顔を貼り付けてきたか。なのに、百蓮は応えない。かつては力を宿したその無垢なる刃は、今やただの鉄の塊。彼女の努力を、犠牲を、まるで無意味だと告げるかのように。
風が吹く。街の雑踏の中で、アヤメは立ち尽くす。彼女の背中には、誰もが見ず、誰もが求める重圧がのしかかる。もう逃れられない。勝利の先に待つのは、また別の戦い。ハードルは高くなる一方で、終わりなど見えない。彼女は思う――なぜ、私だけが。
だが、その瞳に宿る業火は、決して消えない。燃え尽きるまで、彼女は戦い続けるだろう。たとえ百蓮が沈黙しようとも、たとえ誰もその苦しみを理解しなくとも。七稜アヤメは、ただ一人、乱調の花園を歩み続ける。
■
冷たい夜の帳が下り、銃煙が肺を灼く戦場の只中。七綾アヤメは、まるで心の底から血を吐くように叫んだ。
「大嫌いだった!」
その声は、瓦礫の隙間を縫い、凍てつく風を切り裂く。花鳥風月部の制服に身を包んだ彼女の姿は、まるで砕けた鏡の破片のように鋭く、脆い。
誰もが讃えるアヤメ委員長、眩しい笑顔の裏に隠された本音が、御陵ナグサへと突き刺さる。
「大嫌い! アンタも、みんな! 何かあるたび重荷を押し付けて、泣き喚くだけの弱い猿共が!」
言葉は刃よりも鋭く、彼女の胸の奥で燻る炎が吐き出される。誰も彼女の涙を見ない。誰も彼女の笑顔の裏に隠された傷に触れない。完璧な仮面を被り、誰よりも強くあろうとした彼女の心は、ただ歪に映る自分自身だけを閉じ込めていた。
「高まるハードル、救いを求めてクズノハ様に縋っても、あったのはおとぎ話の残響だけ!」
役立たずの神話は、彼女の傷を癒すどころか、虚無を刻むだけだった。それでも彼女は立ち上がる。凍てつく決意を瞳に宿し、囁く。
「無能な猿ばかりなら、私が世界を創る。みんながおとぎ話に縋るなら、私が怪異譚を紡ぎ、すべてを見守る『目』を手に入れる!」
その声は、星よりも遠く、風よりも鋭い。誰も守ってくれないなら、彼女自身が守るための力——どんな犠牲を払っても——を手に入れる。笑顔の裏で押し殺した悲鳴、誰にも理解されない痛みを、彼女は力に変える。世界を塗り替えるために。
「私が、全部救ってやる……!」
銃弾が空を切り裂き、硝煙が肺を焼く。瓦礫の影に身を潜め、アヤメの瞳は怒りと諦めの間で揺れる。
「アンタには一生わからない! 私がどんな思いで笑顔を振りまいてきたか!」
その叫びは、銃声よりも鋭くナグサの胸を貫く。偽りの笑顔で塗り固めた心の叫び、誰も見ようとしなかった傷、押し殺した涙。それを、友達だと信じるこの少女には、永遠に理解できないのだ。
「私はアンタを友達だなんて思ったことない!」
言葉は冷たく、しかしどこか震えていた。戦場の喧騒の中で、ナグサの心は孤独の淵に立つ。それでも、銃撃の合間、弾丸が地面を抉る音に混じって、彼女は言う。
「それでも!」
「なんでそこまで! 他人のために!」
「友達だから!」
その答えは、戦場の煙を突き抜ける光のように愚直で純粋だった。アヤメの目が一瞬揺らぐ。だが、すぐに顔を歪め、声を荒げる。
「だからアンタなんてどうでもいい!」
銃声が途切れ、静寂が二人を包む。ナグサは血と汗にまみれ、ただ真っ直ぐにアヤメを見つめる。
「アヤメが私をどう思おうと知らない。でも、私は助けたい。だから助ける」
その言葉は、銃弾よりも強く、彼女の心に波紋を広げる。アヤメの手が震え、瞳に怒りと痛み、そしてほんの少しの迷いが生まれる。瓦礫の向こうで再び銃声が轟く。だが、二人の間には、時間が止まったかのような熱く脆い瞬間が漂っていた。
戦場の爆音が空気を引き裂く中、アヤメの叫びはまるで世界そのものに問いかける。
「何!? 何度も何度も何度も、アンタは一体何なの!? なんでそこまで私に!」
その声には怒りと混乱、埋もれた悲しみが渦巻く。どれだけ拒絶しても、ナグサは離れない。その執念が、アヤメの心を焼き、苛立たせ、揺さぶる。
「友達だから」
ナグサの答えは、いつもと同じ。シンプルで、頑固で、戦場の無慈悲を切り裂くほどに純粋。アヤメの拳が震え、銃を握る手に力がこもる。
「友達だなんて一度も思ったことない!」
言葉は鋭いが、その裏には脆さが滲む。ナグサを拒絶することで、彼女は自分の心を守ろうとしているのかもしれない。それでも、ナグサは一歩も引かない。
「だとしても。私は友達だと思ってる。この想いが届くまで」
その声は、風よりも柔らかく、銃弾よりも強く、アヤメの心に突き刺さる。血と汗に濡れたナグサの瞳は、揺るぎない光を宿していた。
アヤメは唇を噛み、過去の傷が胸を抉る。
「百花繚乱を裏切り、怪異をけしかけた。空が赤くなった時も助けなかった。それでも友達?」
彼女の声は、ナグサを試すように過去の裏切りを突きつける。
「友達だから。いや、友達でも、そういうこともある」
ナグサの答えは穏やかで、頑固だった。戦場の爆音が遠のき、彼女の言葉だけが響く。
「私も弱い。でも支えてくれる友達がいる。だから私も、アヤメの友達でありたい」
アヤメの目が細まり、感情が爆発する。
「昔から苛立たせる! アンタのその弱いくせに縋る態度が!」
彼女の声は、抑え込んできた感情が堰を切ったように溢れる。ナグサの一途さが、彼女を苛立たせ、心を締め付ける。
「アヤメみたいになりたかった。アヤメは私の憧れだった」
その言葉は、戦場の熱気の中で凍りつくように届く。アヤメの心が一瞬止まる。憧れ? 誰も彼女にかけたことのない言葉。
笑顔の裏の痛みを、ナグサは見ていたのだ。
「だったら……友達だっていうなら、ナグサが私を守ってよ!」
その叫びは、怒りではなく懇願に近い。孤独が砕けそうになる音が、彼女の心の奥で響く。ナグサは一歩踏み出し、銃撃の嵐をものともせず、アヤメを見つめる。
「もう、一人で絶望なんかさせない」
その言葉は、誓いのように重く、硝煙を突き抜けてアヤメの胸に届く。
戦場の空気が凍りつき、銃煙と血の匂いが絡み合う。アヤメの叫びが荒々しく響く。
「ナグサァァァ!」
それは怒りか、絶望か、それとも深い感情の爆発か。彼女の声は、瓦礫を越え、大地を震わせる。瞳には、拒絶と願いが絡み合う複雑な光。
「アヤメェェェ!」
ナグサの叫びが応える。血と泥にまみれ、肩で息をしながら、彼女は一歩踏み出す。銃撃の嵐の中、彼女の目は揺るがない。友達だと信じた信念が、どんな弾丸よりも強く、アヤメに届こうとしていた。
「もう、離さない」
その囁きは、戦場の喧騒に飲み込まれそうになりながらも、アヤメに届く。二人の叫びが交錯する瞬間、時間は止まる。銃声も爆風も、遠い世界の音に変わる。
アヤメの胸の奥で、何かが砕け、溶け、再生する。ナグサの愚直な想い——友達だという言葉が、彼女の孤独を温める。
戦火の中で、二人の視線は絡み合い、壊れそうな絆をつなぎ止める。アヤメの瞳に、初めて小さな光が灯る。拒絶と憧れ、怒りと願いが交錯した、熱く脆い瞬間だった。
「アヤメ……! アヤメ……!」
「やっぱり私は、アンタの泣き虫のところ。嫌いだったよ」