トリニティ総合学園の朝は、まるで聖堂の鐘の音のように厳かだ。白亜の校舎に朝陽が差し込み、ステンドグラスの光が廊下を虹色に染める。だが、謝肉祭の準備が始まるこの時期、トリニティはいつもと違う熱気に包まれる。
生徒たちの笑顔、慌ただしい足音、そしてどこかで響く小さなため息。それらが混ざり合い、まるで一つの大きな絵巻物のように広がっていく。
御稜ナグサは、正義実現委員会の控室の窓辺に立っていた。彼女の手には、謝肉祭の準備リストのコピーが握られている。リストの文字は整然と並んでいるが、彼女の心はどこか乱れている。百花繚乱の副委員長として、ナグサはいつも「完璧」を求められてきた。
いや、求められていると勝手に思い込んできたのかもしれない。彼女の瞳は、窓の外の喧騒を見つめながら、どこか遠くを漂っている。
「ナグサさん、準備の確認、終わりましたか?」
ハスミの声が、控室に柔らかく響く。羽川ハスミ、正義実現委員会の柱。背筋を伸ばし、堂々とした佇まいは、まるでトリニティそのものを体現しているようだ。だが、彼女の笑顔には、どこか姉のような温もりが宿る。ハスミはナグサの隣に立ち、リストを覗き込む。
「はい、ハスミさん。……一応、確認しましたけど、少し量が多くて」
ナグサの声は静かで、丁寧だ。だが、その言葉の端には、ほんのわずかなためらいが滲む。彼女はリストを指でなぞりながら、思う。自分は本当にここにいるべきなのか。こんな大舞台で、誰かの期待に応えられるのか。
ハスミはそんなナグサの様子に気づき、軽く肩を叩く。
「ナグサさん、リストは目安でいいですよ。謝肉祭は、完璧じゃなくたって、みんなの笑顔があれば成功です」
その言葉に、ナグサの瞳がわずかに揺れる。ハスミの声は、まるで朝の光のように、ナグサの心の霧をそっと晴らす。彼女は小さく頷き、リストを閉じる。
「そう、ですね。……どこから始める?」
ハスミはにっこりと笑い、窓の外を指差す。
「あそこ見てもらえますか。ちょっと困ってる子がいます」
広場の片隅、小柄な後輩がうずくまっていた。彼女の手元には、折り紙で作られた飾りが散らばっている。どうやら、風に飛ばされて形が崩れてしまったらしい。後輩の肩は小さく震え、まるで世界が終わったかのように見える。
ナグサは一瞬、躊躇する。自分に何ができるのだろう。だが、ハスミの視線を感じ、彼女は一歩踏み出す。
彼女の足音は、まるでトリニティの石畳に響く小さな祈りのようだ。
「大丈夫?」
ナグサの声は、静かだが、どこか温かい。後輩が顔を上げる。涙で濡れた瞳が、ナグサを見つめる。
「う、うう……飾り、ダメにしちゃって……謝肉祭、台無しになるよ……」
「台無しにはならないよ。ほら、こうやって、ちょっと直せば……」
ナグサはしゃがみ込み、散らばった折り紙を拾い上げる。彼女の指は、まるで壊れ物を扱うように丁寧だ。折り紙を一つ一つ整え、ゆっくりと花の形にしていく。彼女自身、こんな簡単なことで誰かを助けられるなんて、思ってもみなかった。だが、後輩の瞳が少しずつ輝きを取り戻すのを見て、ナグサの胸に小さな温もりが広がる。
「すごい……! ありがとう!」
後輩の笑顔は、まるで謝肉祭の花火のようだ。ナグサは照れくさそうに目をそらし、髪を軽くかき上げる。
「う、うん。……たいしたこと、ない」
遠くからその光景を見ていたハスミは、満足げに頷く。彼女はナグサのそばに歩み寄り、軽く笑う。
「ナグサさん。いい感じでした。次も行きましょう。謝肉祭はまだまだこれからだ」
「ハスミ先輩……本当に休む暇ないですね」
ナグサの声には、わずかに愚痴っぽい響きが混じる。だが、その口元には、ほんの小さな笑みが浮かんでいる。ハスミはそんなナグサを見て、くすりと笑う。
「正義って、休まないものだからね。ナグサさんなら、きっとわかると思いますが」
トリニティ総合学園の広場は、謝肉祭の準備で一層の活気に満ちていた。色とりどりの飾りが風に揺れ、生徒たちの笑い声が石畳に響く。
まるで聖堂の賛美歌のように、喧騒の中にもどこか厳かな調和がある。だが、ナグサの心には、別の旋律が流れていた。
百鬼夜行の記憶。そこは、トリニティとはまるで異なる世界だった。
百鬼夜行。あの場所は、ルールも秩序も曖昧で、気ままに笑い、騒ぎ、時にはぶつかり合っていた。誰もが都合の良い役割をナグサに求めた。
だが、その自由な空気の中でも、彼女は弱い者たちに頼られ、いつも「強いナグサ」を演じていた。本当の自分——脆さや迷いを抱えたナグサを出すことは、許されなかった。
彼女はリストを握る手に力を込め、思う。トリニティの整然とした空気は、まるで「正しいナグサ」を要求しているようで、しかし同時に、どこか違う。トリニティでは、なぜか心が軽いのだ。
「ナグサさん、少し手伝ってください」
ハスミの声が、ナグサの回想を優しく引き戻す。羽川ハスミ、正義実現委員会の柱。彼女は真っ直ぐでトリニティの白亜の校舎のように揺るぎない。だが、その笑顔には、姉のような温もりが宿る。
ハスミは広場の中央で、飾り付け用の布を広げる生徒たちをまとめている。彼女の視線の先には、布を絡ませてしまった後輩たちが困り果てた顔で立っていた。
「ハスミさん、また何かのトラブルですか?」
ナグサはリストを脇に挟み、軽い足取りで近づく。彼女の声は静かで丁寧だが、どこか柔らかい響きがある。ハスミは笑いながら、絡まった布を指差す。
「はい、ちょっと。この子たち、飾り付けの布を結ぼうとしたら、ぐちゃぐちゃにしちゃったみたいですね」
後輩の一人が、顔を真っ赤にして呟く。
「ご、ごめんなさい……私、こういうの苦手で……怒らないでくださいね?」
その言葉に、ナグサの胸が小さく疼く。
百鬼夜行なら、こんな場面で彼女は「副委員長」として完璧に振る舞い、弱い者を守るために笑顔で全てを解決していた。
だが、その笑顔の裏で、彼女はいつも自分を押し殺していた。脆い自分、迷う自分を見せることは、許されなかった。だが、ここはトリニティ。後輩の怯えた瞳を見ても、ナグサはなぜか、肩の力が抜けるのを感じる。
「怒らないよ。……私も、こういうの、実はあんまり得意じゃないから」
ナグサの言葉に、後輩が驚いたように顔を上げる。ナグサは小さく笑い、しゃがみ込んで布を手に取る。
「ほら、こうやって、ゆっくり解いていけば大丈夫。焦らなくていいよ」
彼女の指は、まるで自分の心の絡まりを解くように、丁寧に布をほぐしていく。百鬼夜行では、彼女はいつも急いでいた。誰かの期待に応えるために、完璧でいるために。だが、トリニティでは、誰も彼女に完璧を求めていない。ハスミの視線、後輩の笑顔、それらがナグサに教えてくれる。ここでは、ただのナグサでいいのだ。
「ありがとう! ほんと、助かりました!」
後輩の声は、まるで花火のように弾ける。ナグサは照れくさそうに髪をかき、目をそらす。
「うん、……よかった。たいしたことないよ」
ハスミはそんなナグサを遠くから見つめ、満足げに頷く。彼女はナグサのそばに歩み寄り、軽く肩を叩く。
「ナグサさん、いい感じでした。なんか、さっきより顔が明るくなりましたね」
「え、そう? 自分じゃ、よくわからないですけど……」
ナグサの声には、ほんのわずかな照れが混じる。ハスミはくすりと笑い、広場を見渡す。
「トリニティは見た目は厳かだけど、実はみんな、こうやって助け合ってる。百鬼夜行とは全然違うでしょうが、似てるところもあると思いませんか?」
その言葉に、ナグサの心が小さく揺れる。百鬼夜行の混沌は、確かに自由だった。だが、そこで彼女はいつも誰かのために「強いナグサ」を演じていた。トリニティでは、違う。ここでは、彼女はただのナグサでいられる。迷っても、失敗しても、誰かがそっと手を差し伸べてくれる。ハスミの笑顔が、まるでその証のように輝いている。
「……ハスミさん、トリニティって、不思議なところだと思う」
ナグサの声には、初めての軽やかさが宿る。ハスミはにっこりと笑い、リストを手に取る。
「ふふ、そうですね。さぁ、次に行きましょう。まだまだ、困ってる子たちが待ってます」
彼女はハスミの背中を追いかけながら、思う。百鬼夜行の過去も、トリニティの今も、どちらも彼女の一部だ。だが、ここでは、彼女は初めて、本来の自分を偽らずにいられるのかもしれない。謝肉祭の光の中、ナグサの心に、ほのかな希望が灯り始める。