それでも僕は生きているー死と化物が跋扈する世界でー 作:抹茶露
お役所の地下――
素人の手で増築されたらしい薄暗い空間は、コンクリートの壁に無数の亀裂が入り、かすかな蛍光灯が揺らめいていた。
その狭い一室で、資源回収課に配属されてから長く苦労を重ねてきた九条治は、無意識に深く刻まれた眉間の皺を指で揉みながら、手元の資料をじっと見つめていた。
(今回の配属は10名。初日で6名が命を落としたか……)
幾度となく「死」と隣り合わせに過ごしてきた自分にとっても、若くこれからの未来を生きるはずだった20歳の男女の死は、やはり胸に重くのしかかる。
(貴重な若い命を、こんなにも軽く扱い、消耗させ続ける老害どもは一体何を考えているんだ……)
無意識に思い浮かべた官僚たちの顔に吐き気がこみ上げ、九条は手にしたマグカップをあおる。黒く濁ったコーヒーの味はいつにも増して不味く、その苦みと異臭が口の中で広がった。
「どれほど腕利きの淹れ手がいても、こんな味を美味しく変えることは無理だろう」
そう思いながらも、逆にこの不味さが、余計な雑念や眠気を払いのけるには最適だと認めざるを得なかった。
その時、地下構内にけたたましいエンジン音が響き渡る。
救出部隊が帰還したのだろう。夜の闇に紛れて音は一層鋭く、九条の神経を研ぎ澄ませる。
「また死人の数を数える羽目になるのか……」
自然と浮かぶ女軍人の姿。いつも厄介事ばかり持ち込む氷室静葉の顔を思い浮かべ、そんなことは起きないでくれと心の底で静かに願った。
しかし、そんな願いは簡単に裏切られた。
バンッ――!
まるで扉を蹴破るかのような轟音と共に、ノックも告げず乱入者が現れた。
眉間に皺を寄せ、皮肉を言いたくなりながら振り返ると、そこにはいつもの軍服姿の女、氷室がいた。だがそんな余裕はなく、すぐさま状況を理解する。
「よぉ、先生。急患だ。今すぐ手術の準備を頼む」
氷室の背中に背負われていたのは、灰色の長髪を揺らす見知らぬ女性だった。
その顔は土気色に染まり、まるで死の淵に立っているかのように青ざめている。
「死んでるんじゃないか……」
九条はそう思わずにはいられなかったが、言っている暇はなかった。
「すぐ奥の部屋に連れて行け。場所は分かるな?」
「あぁ、あの臭い研究室か……頼むぜ、先生。こいつが死んじまったら、多分私もお前も首が飛ぶ、物理的にだがな」
その言葉に、改めてこの女が嫌いだと感じた。
毎回、厄介ごとばかり持ち込んでくる。
だが、重い決意を胸に、久しぶりに白衣をスーツの上から引っ掛け、無言で奥の実験室へと歩を進めた。
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助手はおらず、医療機器も使い捨て前提の最低限の支給しかない。
そんな劣悪な環境のなかで、九条は疲労困憊の表情を浮かべ、奥の実験室から現れた。
血に染まった白衣のまま、着替える気力もなさそうに椅子へと身を投げ出すように座る。
「で、どうだ? 助かったか?」
「半々といったところだな。運が良かったのか、肝臓には傷一つなかった。だが――血液をかなり失っている」
明瞭な口調に、九条は目だけこちらを向けて答える。
手探りでマグカップに触れ、一口啜ろうとしたが、中身が空だったのかすぐ机に戻す。
無言のまま立ち上がり、近くのコーヒーメーカーから新しいカップに湯気の立つコーヒーを注ぎはじめた。
「半々かよ。せめて冗談でも、“七三で無事だ”くらい言ってみろってんだ」
その言葉に、九条は鼻で笑う。
「まともな医療設備もなし、輸血パックすら最小限。それで結果だけ求めるなんて幻想だ。もしあいつらと通信できるなら、こう伝えろ――ハンヴィーと運転手を寄越すなら、医療設備も一緒に送れ、とな」
「それを言って聞くなら、こんな場所に若い奴が送り込まれると思うか?」
重い溜め息が返ってきた。
それは苛立ちでも嘆きでもなく、どうしようもない現実に対する絶望のようだった。
日向陽の行方不明――そして、政治家どもの出し渋りによる対応の遅れ。
最後まで足を引っ張り続ける連中のせいで、救えるはずの命がまた一つ失われかけている。だが、終わったことを悔いても何も戻らない。
(このままじゃ、私も、こいつも、共倒れか)
どのみち死ぬなら、勝負に出るしかない。
「なぁ、九条」
「――やらんぞ。お前が俺の名を呼ぶときは、大抵ロクな話じゃない」
「まだ何も言ってねぇだろ。最後まで聞け」
不満げな表情を浮かべながらも、九条は顎を少し上げ、続きを促す。
「お前がコソコソ作ってる“進化薬”。あれを――アイツに打て」
一瞬ではあるが部屋の中を沈黙が支配した、しかしすぐに椅子がガタンと大きく音を立てて倒れ、九条が立ち上がる。血走った目が氷室を射抜くように睨みつけてきた。
「正気か、氷室! あれはまだモルモットでも成功していないっ! それをアイツに打ってみろ、間違いなく死ぬぞ!」
「どうせ今も死ぬか生きるかの瀬戸際だ。分の悪い賭けでも、勝率が上がるなら――賭ける価値はある」
「俺は医者だ。死人を相手にしてるが、生きてる命まで殺したくはない!」
九条の声は叫びにも近かった。だが、氷室の声は低く、静かに返る。
「瞳孔、開いてんぞ先生。落ち着け――もしあいつが死ねば、日向陽の告げ口ひとつで、政治家どもの銃口が私たちに向くだろうな」
「……それとだ、俺にはもう一つ引っかかってることがある」
その言葉にも、怯む様子を見せないが、九条が言い淀む。
「なんでお前は、あいつにそこまで執着する?……まさか、8年前に死んだ、あの――」
言い終わる前に、氷室の手が動いた。九条の胸ぐらを掴み、そのまま壁に叩きつける。
「……あいつのことは関係ねぇ。やるか、やらねぇかだ。拒むってんなら、今すぐ意識落として、私が適当なもん打ち込むだけだ」
九条は苦しげに咳き込みながらも、睨み返してくる。
数秒の沈黙の後、「……わかった」と搾り出すように答えた。
氷室が手を放すと、九条は胸を押さえながら激しく咳き込む。だが、やがて呼吸を整えると、真っ直ぐな目を向けてきた。
「打とう。ただし……これだけは言わせてもらう。お前のことは信用してる。だが――見損なったぞ、氷室。本人の同意もなく人体実験をやるような奴だったとはな」
「お勤め期間とっくに過ぎても前線に残ってる連中なんざ、ネジがぶっ飛んでるに決まってんだろ。……一つ勉強になったな、先生?」
皮肉まじりに笑えば、忌々しげな舌打ちが返ってきた。
だが、九条は約束通り奥の実験室へと歩き出す。氷室もその背を追った。
室内は薬品の刺激臭が充満し、正体不明の機械や、実験用のモルモットが所狭しと並んでいた。そしてその奥、点滴と輸血パックに繋がれた結城燈が、微かに呼吸するだけの状態で眠っていた。
九条は棚から赤黒い液体の入った小瓶を取り出し、アルコール漬けにされていた注射器を取り上げ、中身を吸い上げていく。
そして、氷室に視線を向けた。
「準備はできた。……どうなっても、恨むなよ」
「分かってるさ。むしろ恨む権利があるとしたら、こいつだけだろ」
氷室が結城を顎で指せば、九条も「……そうだな」と低く呟いた。
そして注射器を結城の片腕に差し込み、ゆっくりと薬剤を流し込む。
「……あとは、成功を祈るだけだ」
氷室は返事をせず、ただその場を静かに後にした。
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扉の向こうではハンヴィーを整備しているのか、ガチャガチャと機械音が鳴り響いていた。九条はその騒音を耳の奥で遠ざけながら、カップの縁に口を付ける。熱いはずの液体は、いつの間にかぬるくなっていた。
「……にしても、あの灰髪の女、いつから入ってきたんだ?」
問いかけた九条に、氷室は一瞬だけ口を閉ざし、目線を僅かに伏せた。
「……昨日入ってきた新人だ、だが、下手な奴よりかは使える」
「なるほど、そいつは上等な答えだな」
皮肉を込めた言葉に、氷室は返事をせず、代わりにコーヒーの匂いを嫌そうに鼻で払った。
「……あんたの部屋、いつも臭ぇんだよ。モンスターの内臓でも煮てるのか」
「それが俺の仕事場だ。趣味でやってるわけじゃない」
ぶっきらぼうに返しながらも、九条の顔にはどこか諦めと慣れが滲んでいる。
沈黙の時間がしばし流れた。コーヒーの湯気だけが、部屋の中を静かに立ち昇る。
沈黙の中、九条が椅子に深く腰掛け直しながら、ぽつりと呟いた。
「……あの娘、生き延びたらどうする気だ?」
「決まってる。もう一度戦場に戻ってもらう」
「鬼か、お前は」
「現場の人手が足りてりゃ、こんなことにはならなかった。違うか?」
反論を許さない口調だったが、九条はそれでも言い返す。
「……それでも、命は使い捨てじゃない」
「なら、あんたの研究でどうにかしてみせろ。あんたが言ってたろ? 人間を強くするってやつを作る、と」
まるで最初からそれを期待していたかのように、氷室はにやりと笑って言った。
九条はコーヒーを飲み干すと、小さく息をついて立ち上がった。
その目に映るのは、もはや冷めきった日常ではなかった。
命を繋ぐための、冷徹な現実だけがあった。
――その頃、実験室のベッドの上で結城燈のまぶたが、微かに震えた。