それでも僕は生きているー死と化物が跋扈する世界でー 作:抹茶露
教官による簡単な指導を終えると、ボクは静かに階段を降りた。
一階には、誰の姿もなかった。
――いや、正確にはただ一人。“資源回収課”と書かれた札の下に、男が座っていた。
くたびれた背広に、疲れ切った顔。
眉間に深い皺を刻んだまま、こちらに目を向けようともしない。
それ以外には誰もいないのか、ペンの走る音だけが役所に響いた。
おそらく皆、“お勤め中”なのだろう、義務という名の刑罰から生き延びるために。
今も難しい顔でペンを走らせている男を横目に燈は重たいドアを押し開け、建物の外に出た。
風が吹き抜ける。埃っぽく、乾いた匂いを運ぶ風だった。
ポケットから受け取った地図を広げる。
役所を中心に、三つの赤い円が描かれている。それぞれに「震度0」という謎の言葉が添えられていた。
(震度なのに、ゼロ? 地震、じゃないのか。それとも……何かのコードネーム?)
その言葉の意味を正しく理解できないままボクは空を仰ぐ。
太陽はまだ真上に届かず、やや東寄り――今は、おそらく午前十時か十一時と言ったところだろうか。
「……どこへ行くにしても、決めなきゃ」
選択肢は三つ。そしてそれ以外は、“死”と隣り合わせの空白地帯なのかもしれない。
彼女は地図を畳み、壊れかけのクロスボウとダガーの状態を確かめる。
素人目から見ても、ところどころヒビや、削れが入っているのが分かるが頼るのは、もはやこれしかない。
(夜には“化物”が活発化する、らしい……なら、今日は近場に絞ろう)
自分にそう言い聞かせるように、ボクは小さく息を吐く。
正体もわからぬ敵に、いきなり命を張るつもりはない。
(あの軍服の女がこの武器を選んだんだ。まったく役に立たないなんて、そんな貧乏くじは引かせないはず)
たとえ壊れていても。弦が切れかけていても、それでもこれは、“今日を生きる”ために渡された道具だ。
(今日は偵察も兼ねて――まずは、生き残ること)
そう心に刻むと、ボクは頭に焼きつけた地図を思い出す。
地図の道をなぞるように、行動のイメージを描いていく。
そしてクロスボウを――強く、強く握りしめた。
まだ手は震えていた。けれど、膝は折れていない。
「行こう」
小さく呟いて命を懸けた最初の一歩を踏み出した。
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震度0。赤い円で示されたその地点は、役所からそう遠くはないはずだった。
だが、道中の景色は――あまりに異常だった。
舗装は割れ、看板は朽ち、建物は数十年も放置されたかのように朽ち果てている。
瓦礫と枯れ草に覆われた道を進みながら、燈は胸の奥に強い違和感を覚えていた。
(こんな場所……あったかな?)
孤児院にいた頃、おつかいで出かけた時に、街の話題はそれなりに触れてしまう。
地図の片隅に載る程度の地域でも、ここまで荒廃していれば話に出ることはある。
たとえ記憶が風化していたとしても数年ごとには慰霊祭があってもおかしくなくニュースにもなるはずだ。
だが、記憶には一切ない。
まるで――いや、「まるごと」存在を隠されていたかのように。
(おかしい……人の噂って、こんなに綺麗に消えるっけ?)
胸に燻る靄が、喉の奥にこびりついて離れない。
知らなかったというより、“知らされていなかった”感覚が、骨の奥までじわじわ染み込んでくる。
その感覚を晴らせないまま、歩き続けるが、その先には、さらに異常な光景があった。
荒れ果てた土地に、不自然な隆起――いや、洞窟。
大地が盛り上がり、裂け目のように開いた暗い穴が、ぽっかりと口を開けている。
だが中は光を拒むかのように真っ暗だった。
覗いても、一寸先すら見えない。けれど、視線だけでなく、心までもが、その闇に引きずり込まれそうになっていた。
(……行くしか、ないの? 本当に?)
クロスボウを握る手が、じわりと汗が滲む。
それに気づいて着ている衣服に汗をぬぐうが、身体からは嫌な汗が吹き出し続けている。
だが、それでも、ここまで来た以上――目を逸らすべきではない。
洞窟の奥からは未だに生ぬるく湿った風が吹き出していた。風というより、誰かの吐息のようにも感じられた。
(化物が夜に出るなら、今が唯一のチャンス。今なら――“見つからずに”覗けるかもしれない)
目的はあくまで“偵察”。深入りは禁物。今の自分を守るのは、一歩引いた冷静な判断だ。
そう自分に言い聞かせると、クロスボウを持ち直し、状態を確認する。
(弦は……まだ切れていない。頼むから、今日だけ持って)
そう祈りながらボクは、暗闇の中へ一歩を踏み出す。
「……行こう」
声は震えているが、偵察だから死ぬことはない、そう自分に言い聞かせながら誰にともなく、ボクは呟いた。
返事などあるはずがない。けれど、声に出さなければ心が持たないと自覚しながら暗闇の中へ入って行った。