昴くんはなにもしない   作:あまも

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箸休め回です

休めざるを得ないです


……残念です


閲覧ありがとうございます




68-1:ホームズフリーク

 

 

 

 

 四万温泉での一週間の滞在は、この左脚に確かな変化をもたらしていたんじゃないだろうか。

 死んだ組織を削ぎ落とした手術痕はすっかり完全に塞がり、皮膚の突っ張りも温泉の効能でだいぶ和らいでいる。

 むしろ前よりちょっと皮膚がきれいになった。

 美肌〜!

 

 結果、お医者先生の定期受診で、これまでの左脚に体重をかけない生活から、段階的に負荷をかけていく方針に。

 

「これからは筋力を戻すことと、今後のため、変な歩き癖がつかないようにするリハビリですね。全体重を支えてしまうクラッチ杖は卒業して、普通のT字杖に切り替えましょう」

 

 その言葉に内心で快哉を叫んでいた。

 軽いとは言ってもあの杖は、あのヘッポコミッチャン刑事ですら「何かあったんです?」と聞きたくなるような怪我人スタイルだったからね。

 

 実際には、湯治に向かう前の段階でもう手術の傷痕はほとんど無かったし、削ぎ落とされた部位にも肉芽がしっかりと盛り上がって、本来の脚の形を取り戻していたはずだけれど……

 

 きゅ、と続けて眉を軽く上げたお医者先生が、厳しめの口調で指を立てた。

 

「いいですか、沖矢さん。温泉の効果で一見すると良くなっているように思えるでしょうが、ここで油断したらすべてが水の泡です。組織の内部はまだまだ生まれたての赤ん坊のようなものなのですから」

 

 先生は私の隣で一緒に聞いてくれている阿笠さんと灰原さんの顔を見回しながら、大袈裟なほどに険しい顔で首を振った。

 

「これから普通のT字杖を使って“正しく歩く”リハビリに入ります。ですが、これは決して自由に動き回っていいという意味ではありません。車の運転は当然まだまだ先ですし、階段の昇降や長距離の歩行などもってのほかです。一日の歩行時間は厳格に区切り、少しでも違和感を覚えたら即座に座る。これを徹底してください」

「はい……」

 

 うーん……?

 

 言葉の端々に、妙な力みが混ざっている。この先生、本当に止めたい時は『心配』のほうが強いはず。

 おそらく、灰原さんや、小林くんあたりから、本人には実際より少しキツめに制限をかけてほしい、とか言われてるんじゃなかろうか。

 さもないとすぐに無理をして勝手に動き回るから、とか。

 

 さもなきゃ、いくら私が言ったからって峠のダウンヒルでジェットコースターしないだろ、零くん。

 いやまぁあれも本来のスピードの半分とかだろうけど。

 

「……わかった? 先生の仰る通り、慎重に、よ」

「はい……」

 

 灰原さんが小さなお姉さん顔でキッと見上げてくる。

 さて、そうすると杖はどうしようか。

 

 ■

 

 阿笠邸に戻ると、早速その次の段階に向けた道具の調達について、阿笠さんがニコニコと口を開いた。

 

「普通の杖じゃろう? それなら、ワシがとっておきの機能を仕込んだものを新しく作ろうか。どうじゃろ、ボタン一つで仕込み椅子が飛び出したり、万が一の時には電撃が走ったりするような」

「それ普通に警察に怒られるタイプの武器じゃないですかね」

 

 阿笠さんの発明欲が、親心と結びついて暴走を始めてしまったらしい。

 電撃出せる機能なんて……正直、この手袋ですら最大出力がバレたらまずいかもしれないのに。

 見とがめるべき小林くんは、そういう自衛手段を持たせるのは友人としても安心できるから大賛成だ、などと無責任に太鼓判を押していた。

 一瞬で意識刈り取るのは、携帯してる側も怖いんだけど。

 

 そんな、良かれと思って新発明のアイディアを輝かせる阿笠博士の横から、紅茶のカップを持った灰原さんが呆れたような小さいため息をこぼした。

 

「余計なものを仕込んで、また転んで傷口を開けたらどうするの。どうせ完治すれば使わなくなるんだから、普通にレンタルでいいじゃない。これまでのクラッチ杖だって貸出用の品だったんだから」

 

 私もその意見に全面的に同意である。

 いずれ使わなくなることが分かっているリハビリ器具に、過剰なテクノロジーを詰め込まれても困る。

 

 2対1、負け濃厚な気配を察知した阿笠博士は、ならば、と方針を切り替えた。

 

「それなら、普段は日傘や雨傘として使えるようにして、中に通信機を内蔵するというのはどうじゃ。それなら治った後でも使えるじゃろ」

「そもそも私、手に持つ物ってあまり使わない……」

 

 傘とか使わないし、通信ならノアズ・アークがいる。身軽な方がいい。

 しかし波に乗ってきた阿笠さんが新たな設計図をアイデアノートに描き込もうとしたその時、裏口のノックと共に、一人の男がひょこりと顔を出した。

 毎度おなじみ、橋波さんである。

 

「煮るだけだと聞いて、じっくり煮込んだビーフシチューを作ってみたんですが……良かったらもらっていただけないかと」

 

 逃げるタイミングを逃した灰原さんは、キッチンカウンターの裏に逃げ込んでしまった。野生動物かな。

 

 彼が持ってきた大きな耐熱容器からは、赤ワインの芳醇な香りとデミグラスソースの濃厚な匂いが立ち上り、阿笠さんの興味を持っていった。

 阿笠さん、ビーフの言葉に惹かれてない?

 

 その橋波さんの現れたタイミングに、隣で聞いてたのかななんて思ったが、ふと、隣といえば、と、クローゼットの一角を思い出した。

 

 以前、あの家……クローゼットの隅に木製のステッキが立てかけられていたような……いや、あったっけかな、なかったっけかな。

 

「レンタルもいいけれど、そういえば隣の工藤先生の屋敷に、一本立派な杖があったような気がするんです。あれを少しの間、借りることはできないでしょうか」

 

 橋波さんもそれを知っているのか、そんなの見なかったかと訊ねた私に、フム、と頷いた。

 

「そういえば、奥にあるクローゼットに、確かに見覚えがありますね。僕が少し見てきましょうか」

「お願いします。もしあれば、わざわざレンタル手続きをする手間が省けて助かるかも」

 

 橋波さんは一度工藤邸へと戻っていった。

 その隙に灰原さんが地下へと逃げ込んでいく。野生動物かな。

 

 そして数分後、彼が携えて戻ってきたステッキは、私が目の端で覚えていたのとは少し趣が異なっていた。

 

 それは、紳士が日常的に愛用していそうな、極めてシンプルで、飾り気のない木製のステッキだった。

 持ち手は掴みやすそうな曲線で、シャフトの部分には艶消しの黒い塗装。

 現代の介護用品のような無機質さは一切なく、どこか古風で、工藤邸から出てきたのも納得できそうな、何となくお高そうな気品が漂っている。

 ……え、見た目凄くシンプルでいいんだけど……

 ……高そう……

 

 ちょうどその時、新一くんが「博士ー」と実に軽い調子でやって来た。彼にチャイムの概念は無いらしい。

 

 橋波さんが、私と同じ体格を活かして、私の代わりに自らの足の横で長さの比較をしてくれている、その杖を見た瞬間。彼の大きな目がまんまるに見開かれた。

 

「あ、それ、コレクションのやつ」

 

 新一くんはすぐに杖の元へと駆け寄ってくる。

 コレクション……コレクション!?

 

 工藤邸で“コレクション”とか言われたら……

 

「……あの、杖の切り替えのために、少し借りようか、と、思ってたんですが……これ、もしやお高い……?」

 

 橋波さんが軽く体重をかけてもビクともしない頑丈さを見せてくれてるが、待てお前、体重かけるな。てかもしかして素手もまずいか。

 新一くんは、うーん、と首を傾げている。

 その様子から、どうもこれは彼の物ではなく、工藤氏の物であるらしいと見えた。

 

「貸すのは別に構わないと思うよ。実際使えるようにしてあるはず。だけどさ、これ、ただの古い杖じゃないんだよ。ほら、この持ち手の裏側の薄く刻まれているシリアルナンバー。“1881”――ホームズとワトスン医師が、ベーカー街221Bで初めて共同生活を始めた記念すべき年なんだ。イギリスの職人と老舗メーカーが、当時の文献を元にワトスン医師の持っていたステッキとして再現した、2000本限定モデルなんだけど、その中でも228とか、このナンバーは結構人気高かったらしいね」

 

 新一くんは嬉々として上機嫌に語っているが、世界に数あるコレクションの中でも、シリアルナンバーがつけられる系の代物は往々にしてプレミア価格が付く。

 新一くんのあまりの早口に、その『人気高かったらしい』品について嫌な予想が湧いてくる。

 ︎︎それが工藤邸にあるって事は、同じくホームズ大好きな工藤氏がそれなりのツテか札束かで所有権を手に入れたわけで。

 そんな記念碑的な限定品、リハビリのよろめきで地面に激突させて傷でもつけたら、工藤親子にどれだけネチネチと言われるか……それ以前に私が恐れ多くてたまったもんじゃない。

 

 私は即座に、その貴重なステッキから手を引く決意を固めた。橋波さんは「ホー」とか言いながら軽くくるりと杖を回している。

 そんな雨上がりの下校時の小学生の持たされた傘みたいに振り回すんじゃない、すっぽ抜けたらどうする。

 

「そんな大切なものとは知らずに、勝手を言ってしまいました。もし傷をつけてしまったら大変ですね。やはり病院の標準的な貸出用のアルミ杖を借りることにします」

「うん、その方が……新一にーちゃんとしても安心じゃないかな」

 

 新一くんは露骨に安堵の表情を浮かべ、今更「自分じゃなくて新一にーちゃんや工藤優作が心配だろうから」と言葉を付け足した。

 橋波さんに話してないの?

 そんな、橋波さんから杖を受け取って愛おしそうに眺めているのに?

 

 危うく、貴重品でそこら辺歩き回ってしまうところだった。危ない危ない。

 

 新一くんがその杖について、どこにあったの?とか橋波さんに訊ねている様子を見ながら、私はただの雑談のつもりで、本当に一切の他意はなく、その場の空気を繋ぐために……うっかり一つの疑問を口にしてしまった。

 

「そういえば、ワトソンって……そもそも作中で杖を使っていましたっけ。軍医として負傷して戻ってきたのは知っていますが、あまり杖をついて歩いている印象がなくて。どちらかといえば、ホームズと一緒に犯人を追いかけて、アクティブに動いていたような気がするのですが」

 

 たぶん、後世のドラマとかの影響でそんな覚えなんだと思うが。

 その言葉を私の口から出した瞬間、空気がにわかにザワッと揺れた気がする。

 ︎︎そういった気配には鈍いはずの阿笠さんは、即座に自分の額を右手で押さえ、深く首を振ってため息をついた。そのまま、何も見なかったかのようにそそくさと地下の実験室へと退散していく。

 あ、これは。

 

「そこなんだよ、スバルさん」

 

 新一くんの眼鏡の奥の瞳に、病的(フリーク)と呼ばれる熱意が灯った。

 

「多くの人が誤解しているけれど、ワトスン医師が作中で日常的に杖をついていたという明確な記述は、実はほぼ存在しない。だけど、彼が杖を所有し、それを手に取った瞬間は作中に確実に存在するんだ。短編『這う男』の冒頭を知ってる?ホームズからの『すぐ来い』という電報を受け取った時、彼はベッドに入りかけていたにもかかわらず、服を着直し、自分の“(stick)”を手にしてベーカー街へ向かったと明記されているんだ」

 

 うっわ、始まった。スイッチを押しちゃった。

 誰かこの熱血探偵のブレーカーを落として。

 

 しかし、新一くんの解説プレゼンテーションの軽快な早口は徐々に熱量と、言葉なのに物量感じる勢いでどんどん流されていく。

 彼は、私があまりホームズ作品には詳しくないのは元々知っている。しかし最近橋波さんにつられて暇つぶしの読み物として、『ぶな屋敷(唯一燃えずに済んでいたものらしい)』を読んでるのを新一くんにバッチリ見られてしまったからな。

 ご興味がおありで!?……ということらしい。

 

 ︎︎新一くんの口から怒涛のごとく溢れ出る解説を、私はほとんど右の耳から左の耳へと聞き流し始めていたが、彼の熱量は一向に衰えない。

 さらに悪いことに、隣にいた橋波さんまでが、面白そうにその主張に参戦してきた。

 

「『4つの署名』の冒頭でも、彼は“以前に負傷した脚”の痛みで歩くのにも苦労しているという描写がありましたよね。であれば、日常的にステッキを突いていたのでは、と解釈する方が自然ではないですか」

 

「第1作の『緋色の研究』では、アフガニスタンのマイワンドの戦いでジェザイル弾を肩に受け、骨を砕かれたとある。なのに、第2作の『4つの署名』になると、なぜか“かつて負傷した脚を痛そうに”という描写に変わる……肩の傷がなぜ脚に移動したのか。彼の負傷部位の謎、いわゆる『さまよえる銃創』の議論だね。これはシャーロキアンの間でも、単なるドイルの書き損じとする現実派から、実は両方撃たれていたとする説がある」

「たしか、他にも戦争の凄惨な体験による精神的な後遺症、つまり心因性の痛みが脚に現れたとする新説もありましたね」

「そう!つまりね、スバルさん。これはホームズ作品の数多くの謎の中でも、一晩中議論ができる一大テーマなんだよ」

 

 新一くんは眼鏡をクイと押し上げ、ひと呼吸入れてまた口を開く。

 ノンストップである。

 新幹線である。

 完全に自分の世界に入り込んでいる。

 

「ワトスン医師にとっての杖は、単なる肉体的な歩行補助具としての意味以上に、彼がかつて戦場にいたという記憶の象徴ではあるものの、同時にロンドンの紳士としての嗜み……そして時には犯人を制圧するための護身具としての意味合いが強いんだ。

 だからこそ、この限定モデルのステッキは、そのすべての背景を内包したデザインになっていて、日常使いに……」

 

 長い。

 話が深いし長い。

 

二人のホームズフリークによる、ワトソンの負傷部位の考察話が、私の横で右に左にと激しく飛び交い始める。

 聞いちゃった自分が完全に悪かったと思いながらも、この終わりなき議論をどうにかなんとかならないかと口を挟んだ。

 

「あの……でも、……医者である彼が、自分の痛みをただの思い込みだと判断して、杖を持たずに、自由奔放なホームズについていくものでしょうか。怪我自体は事実で……そう、かつて怪我していたとしても、怪我は治っていたとしても、“古傷”として痛む時はあり、単に痛みがあったから、杖を引っ掴んで、呼び出しに応じた、という描写なのでは……」

 

 私のその一言が、どうやら新一くんの探究心に最悪の形で油を注いでしまったようだった。

 

「待っててスバルさん。今、隣の家からその3つの作品の原書と、翻訳版をいくつか持ってくるから。原文のニュアンスを比較すれば、ドイルがどういう意図でその単語を使ったのかが絶対に分かるはずだから、しっかり読んでくれる?あんたの感想が聞きたい」

「えっ、いやそんな熱心な話するつもりは」

 

 新一くんはそう言い残すや否や、ものすごい勢いでリビングを飛び出し、隣の工藤邸へと走っていった。

 嵐の去った研究所内に、沈黙が戻る。むしろ台風の目か?

 橋波さんは、自分が火をつけた議論の結末を愉快そうに見送りながら、ニコニコと穏やかな笑みを浮かべていた。

 

「量がありますからね、僕も彼の手伝いに行きますか」

「えっ」

 

 冷めた耐熱容器をレンジ前から冷蔵庫に移して、橋波さんまで隣の屋敷へと戻って行った。

 この後、大量の蔵書を読まされるってコト?

 

 ホームズフリークという人種に変な質問をしてしまった己の軽率さを静かに反省して、なんとか先ほどの彼らの主張を軽くまとめた。

 要するに……ええと、肉体的な補助というよりは、紳士の嗜みや護身用としての意味合いが強い、のかね。

 

 私は残されたお茶を一口すすり、なんだかんだで残されたステッキを眺める。

 

「……で、結局のところ、ワトソンさんは実際に杖を使っていたんですかね」

 

 おそらく、その答えはこの後の強制座談会でも解決しないんだろう。

 結局、ヲタクはそういう考察話を仲間内で議論してるのが楽しいのである。

 

 私、ホームズヲタクじゃないんですけど。

 

 

 





色々悲しいけれど、最初のお父さんのブログがいちばんきましたね


とても残念です



読んでいただきありがとうございました!
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