湖南省の緑豊かな農村で、青年・李明は先祖代々の田んぼで米作りに励んでいた。しかし、米の価格は伸び悩み、将来への漠然とした不安が胸に渦巻いていた。そんな中、村では稲刈り後の水田でザリガニを養殖する「蜊稲輪作」が一大ブームとなっていた。政府からの手厚い補助金もあり、ザリガニ養殖で大金を手にする者も現れ始める。「米だけ作るのと、ザリガニもやるのとでは、140万元も違うらしい」――そんな噂が村を駆け巡る。
上海などの大都市でのザリガニ料理ブーム、地元で開催されるザリガニフェスティバル、そして加工や物流といった産業全体の広がり。明は、伝統的な農業への誇りと、未知の養殖への不安、そして時代の大きなうねりとの間で揺れ動く。
幼馴染の陳浩、農業技術指導員の王麗、そして家族や村の人々との関わりの中で、明はついに蜊稲輪作への挑戦を決意する。これは、変わりゆく中国の農村で、赤いザリガニに夢を託した若者たちの、奮闘と成長の物語である。
じりじりと照りつける太陽が、湖南省の広大な水田を黄金色に染め上げていた。
稲刈りを終えたばかりの田んぼからは、むわりとした土の匂いと、刈り取られた稲わらの香ばしい匂いが立ち上っている。
トラクターのエンジン音が遠ざかると、辺りには夏の終わりの静けさが戻ってきた。
目の前には、先祖代々受け継いできた田んぼが広がっている。
今年も豊作だった。
数週間前まで風にそよいでいた黄金色の絨毯は、今はもう、稲株だけが残る少し寂しい風景に変わっている。
(今年も、終わったな……)
毎年繰り返されるこの光景に、明は安堵と、そしてほんの少しの物足りなさを感じていた。
米は、作った。
だが、それだけだ。
米の値段は、ここ何年もたいして変わらない。
むしろ、少しずつ下がっているような気さえする。
このまま米だけを作り続けて、本当に大丈夫なのだろうか。
そんな不安が、稲刈りを終えるたびに、胸の奥にもやもやと広がってくるのだった。
遠くの田んぼでは、すでに水を張り始めている家もある。
あの水の下で、やがて赤い宝が育つのだ。
「よう、明! 今年もいい米ができたみたいだな!」
土手を軽快な足取りで歩いてきたのは、幼馴染の
明とは対照的に、小綺麗なポロシャツに流行りのジーンズという出で立ちだ。
彼はトラクターを乗り回すよりも、スマートフォンをいじっている時間の方が長いような男だった。
手には、最新モデルらしきスマホが握られている。
「ああ、浩か。まあ、なんとか、な」
明はぶっきらぼうに答えた。
「なんだよ、元気ないな。稲刈りが終わったんだ、もっと喜べよ! さあ、これからが本番だぜ!」
浩は屈託なく笑いながら、明の隣に腰を下ろした。
彼の真新しいスニーカーが、土手の草を軽く踏む。
「お前こそ、最近見ないと思ったら、何してたんだ? 家の手伝いはいいのか?」
「ははっ、俺はもう、次のステップに進んでるんだよ。情報収集と計画さ!」
浩は得意げに胸を張り、スマホの画面を明に向けた。
そこには、真っ赤に調理されたザリガニの写真が映し出されていた。
「これだよ、これ。明、お前も始めるんだろ? 蜊稲輪作!」
蜊稲輪作。
稲とザリガニの輪作。
今、この村で、いや、中国の多くの農村で、熱狂的なブームとなっている新しい農業の形だった。
(蜊稲輪作……)
明の脳裏に、村のあちこちで交わされる噂が蘇る。
稲刈り後の田んぼに水を張り、ザリガニを育てる。
ザリガニは、稲の切り株や雑草を食べ、田んぼを綺麗にしてくれるという。
さらにザリガニの糞は良い肥料となりさらに稲を美味しくするのに使われるのだ。
そして、そのザリガニが、信じられないような値段で売れるのだ。
「……まだ、考えてる」
明は正直に答えた。
「考えてる、だと? 何を迷うことがあるんだよ! 隣の江西省じゃ、もうすごいことになってるらしいぜ! 1ムーあたり1000元以上儲かるって話だ! 見ろよ、俺の田んぼ!」
浩は立ち上がり、自分の家の田んぼを指さした。
明の田んぼとは違い、浩の田んぼにはすでに水が張られ、何やら網のようなものが設置されている。
水際には、ザリガニが逃げ出さないようにするための青いフェンスも見える。
「もう準備万端だ。今年は去年の倍、いや、3倍は稼いでやるぜ! なんたって、政府から補助金も出るんだからな。14万元だぞ、14万元!」
浩は指を立てて強調した。
14万元。
普通の農家にとっては、目がくらむような大金だ。
「それに、聞いたか? 上海じゃ、ザリガニ料理が大ブームなんだ! 『麻辣小龍蝦』って、辛いやつ! 夏になったら、若いやつらが店に行列作るんだってさ。だから、こっちで作ったザリガニが、飛ぶように売れるんだ!」
浩は興奮気味にまくし立てる。
「うちの省だって負けてないぜ! 毎年夏には『ザリガニフェスティバル』が開かれて、料理コンテストとかあって、そりゃもう大騒ぎさ! 米だけ作ってるのと、ザリガニもやるのとじゃ、140万元も違うって話だ! 家が建つぞ! 輪作で作った米はブランド米として通常の米の3倍の価格になるみたいだしな! 3倍だぞ3倍! やっぱ赤いやつはちげえな!」
(140万元……)
それは、明が米作りだけで一生かかっても稼げるかどうか、という金額だった。
その言葉の持つ重みに、明はくらりとした。
魅力的でない、と言えば嘘になる。
その金があれば、家のローンも返せるし、老朽化した農機具も新しくできる。
父親にも、楽をさせてやれるかもしれない。
だが、それでも、明の中にはためらいがあった。
祖父が、そして父が、大切に守ってきたこの田んぼ。
米を育むための神聖な場所。
そこに、あの真っ赤で、ハサミを振り上げるザリガニを入れることに、どうしても抵抗があったのだ。
(ザリガニなんて、本当にうまく育つのか? 田んぼの生態系がおかしくなったりしないのか? それに、ブームなんて、いつまで続くか分からないじゃないか……。それに、あの赤い奴らは、稲の根まで食っちまうんじゃないか?)
不安が次々と湧き上がってくる。
村の張爺さんが、「自然のバランスを崩すと、後でしっぺ返しが来る」と話していたのを思い出す。
「……俺は、いい」
明は、絞り出すように言った。
「はあ? なんでだよ! お前、まだそんな古臭いこと言ってるのか? 時代は変わったんだよ、明! 伝統も大事だけど、それだけじゃ食っていけないだろ! それに、今は生態系に配慮した『グリーン』な養殖が主流なんだ。ちゃんとやれば、米作りにもいい影響があるんだぜ!」
浩は呆れたように言った。
彼の言葉は、正論だった。
明自身、痛いほど分かっていることだ。
「それに、お前、王麗さんのこと、気になってるんだろ?」
突然、浩がいたずらっぽく笑った。
「なっ……! な、何を言ってるんだ!」
明は動揺した。
最近、村にやってきた農業技術指導員の女性だ。
都会的で、明るくて、そして、農業に対する情熱を持っている。
彼女は、蜊稲輪作を積極的に推進しており、村の若者たちを集めて勉強会なども開いていた。
明も、何度か彼女と話したことがある。
彼女の知識と情熱に、惹かれるものを感じていたのは事実だった。
「図星だろ? 王麗さんだって、やる気のある男の方が好きなはずだぜ。このまま米だけ作ってる貧乏農家より、ザリガニでガッポリ稼ぐイケてる農家の方が、絶対いいって!」
「……うるさい! お前に何がわかる!」
明は顔を赤くして怒鳴った。
「まあまあ、怒るなって。俺は、お前のためを思って言ってるんだぜ。俺たちは、親友だろ?」
浩は肩をすくめて言った。
その言葉に、明は何も言い返せなかった。
浩は、昔からこうだった。
お調子者で、時に無神経だが、根は優しい。
明のことを、誰よりも心配してくれているのも知っていた。
「……考えてみる」
明は、ぽつりと言った。
「そうこなくっちゃ! 分かんないことがあったら、何でも俺に聞けよ。それか、王麗さんに聞くって手もあるぞ?」
浩はニヤニヤしながら明の肩を叩いた。
「もういい! 帰れ!」
明は浩を追い払うように手を振った。
浩は「じゃあな! 決めたら連絡しろよ!」と手を振りながら、軽い足取りで去っていった。
一人残された明は、再び広大な田んぼを見つめた。
稲株が残る水田は、まるで、何かを待っているかのように静まり返っている。
(蜊稲輪作……)
浩の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
補助金。
140万元の差。
上海のブーム。
フェスティバル。
そして、王麗の笑顔。
(本当に、俺にもできるんだろうか……)
太陽は、ゆっくりと西の山に傾き始めていた。
田んぼの水面が、夕日に染まって、まるで血のように赤く見えた。
それは、これから始まる新しい挑戦を象徴しているかのようだった。
あるいは、それは、ザリガニの色だったのかもしれない。
◇
その夜、明はなかなか寝付けなかった。
布団の中で、何度も寝返りを打つ。
目を閉じると、田んぼの中を無数のザリガニが這い回る光景が浮かんでくる。
ある時は、それが黄金の宝のように見え、またある時は、田んぼを荒らす不気味な怪物のように見えた。
(父さんは、なんて言うだろうか……)
父、
祖父から受け継いだ米作りを、黙々と続けてきた。
新しいものには、あまり関心を示さない。
きっと、蜊稲輪作なんて言い出したら、いい顔はしないだろう。
(でも、このままじゃ……)
未来への不安が、再び胸を締め付ける。
弟や妹は、まだ学生だ。
彼らの学費も、稼がなければならない。
いつまでも、苦しい生活を続けさせるわけにはいかない。
翌朝、明は意を決して、父のいる居間へと向かった。
父は、いつものように、朝早くから起きて、茶をすすっていた。
「父さん、話があるんだ」
明が切り出すと、父はゆっくりと顔を上げた。
その深いしわの刻まれた顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
「なんだ」
「……俺、蜊稲輪作をやってみようと思う」
明は、唾を飲み込みながら言った。
どんな反対の言葉が飛んでくるか、身構えた。
しかし、父の反応は意外なものだった。
彼は、何も言わず、ただじっと明の顔を見つめていた。
長い沈黙が流れる。
居間の柱時計の音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、父は、ふう、と一つ息をつくと、口を開いた。
「……そうか」
たった、それだけだった。
反対も、賛成もしない。
ただ、息子の言葉を受け止めた、というような響きだった。
「いいのか? 父さんは、反対しないのか?」
明は、拍子抜けして尋ねた。
「お前の人生だ。お前が決めたことに、俺が口を出すことはない」
父は、そう言うと、再び茶をすすった。
「……ただ、一つだけ言っておく」
父は、湯呑を置くと、まっすぐに明の目を見た。
「生き物を育てるというのは、米を作るのとはわけが違う。楽な道じゃないぞ。それに、自然を相手にするんだ。欲をかきすぎず、自然の声に耳を傾けることを忘れるな。覚悟は、できているのか?」
その言葉は、静かだったが、重みがあった。
長年、自然と向き合ってきた男の、実感のこもった言葉だった。
それは、張爺さんの言葉とも通じるものがあった。
(覚悟……。自然の声……)
明は、父の真剣な眼差しを受け止め、強く頷いた。
「ああ。できてる」
父は、それを聞くと、かすかに頷き、それ以上は何も言わなかった。
それは、明にとって、何よりも力強い励ましのように感じられた。
父の許しを得た明の心は、少し軽くなっていた。
やるべきことは山積みだ。
まずは、政府の補助金を申請しなければならない。
そして、ザリガニの養殖について、もっと詳しく知る必要があった。
(そうだ、王麗さんに相談してみよう)
浩の言葉が、再び頭をよぎる。
彼女なら、きっと力になってくれるはずだ。
明は、少し緊張しながら、村の役場にある農業技術指導室へと向かった。
指導室のドアを開けると、王麗はデスクでパソコンに向かっていた。
明に気づくと、彼女はぱっと顔を上げ、明るい笑顔を見せた。
「あら、李明さん。どうしたの?」
その笑顔に、明の心臓が少しだけ速く打った。
「あ、あの……王麗さん。俺……蜊稲輪作を、やってみようと思うんです」
明が言うと、王麗の目がきらりと輝いた。
「本当!? 嬉しい! 李明さんなら、きっと良いザリガニを育てられるわ!」
彼女は立ち上がると、明のそばにやってきた。
ふわりと、石鹸のような良い香りがした。
「決心したのね! 応援するわ。何か相談? 補助金のこと? それとも、養殖技術のこと?」
「えっと……両方、です」
明は、少しどもりながら答えた。
「分かったわ。じゃあ、まずは補助金の申請からね。書類の書き方、結構ややこしいから、一緒にやりましょう」
王麗は、頼もしく言った。
彼女は机から書類の束を取り出した。
「それから、養殖技術だけど……ただ育てるだけじゃないのよ。今は、ザリガニも一大産業になってるんだから」
「一大産業、ですか?」
「そうよ。昔みたいに、捕ってきて売るだけじゃない。ここ十年でザリガニ産業は大きく発展したわ! 今は、選別して、きれいに洗って、サイズごとに分けて出荷するの。それに、加工工場もたくさんできてる。ザリガニの身だけを取り出したものとか、調理済みの冷凍パックとかね。それを全国に運ぶための『コールドチェーン』っていう冷凍輸送の仕組みも整ってるし、最近じゃ、スマートフォンで注文できる『オンライン販売』もすごく伸びてるのよ」
王麗は、目を輝かせながら説明した。
彼女の話は、明が漠然と抱いていたザリガニ養殖のイメージを、大きく塗り替えるものだった。
それは、単なる田んぼの副業ではなく、巨大なビジネスチャンスなのだ。
「そんなに……すごいことになってるんですね」
「ええ。だからこそ、質のいいザリガニを、安定して供給することが大事なの。そのためには、やっぱり技術が必要よ。近々、隣町で養殖の先進農家さんを見学するツアーがあるんだけど、一緒に行ってみない? きっと参考になるわよ」
「! はい! 行きます!」
明は、思わず大きな声で答えていた。
王麗は、くすくすと笑った。
「頼もしい返事ね。じゃあ、決まり! 詳しいことが分かったら、また連絡するわ」
「は、はい! よろしくお願いします!」
明は、新しい世界への扉が開いたような興奮を感じていた。
やるべきことは多い。
だが、それ以上に、期待が胸を満たしていた。
自分の田んぼで育った赤いザリガニが、加工され、冷凍され、スマホひとつで上海の食卓に届く。
そんな未来を想像すると、わくわくが止まらなかった。
紅き龍が、今、まさに飛び立とうとしていた。
◇
補助金の申請は、王麗の的確なサポートのおかげで、思ったよりもスムーズに進んだ。
計画書には、明の米作りへの経験と、これから学ぶ養殖技術への熱意を込めた。
生態系への配慮として、農薬の使用を極力控え、水質管理を徹底することも明記した。
王麗は、明の計画書を見て、「李明さんらしい、真面目で、自然を大切にする良い計画ね」と微笑んでくれた。
その言葉が、明の心を温かくした。
そして、隣町への養殖見学ツアーの日がやってきた。
明は、浩、そして王麗と共に、村の他の希望者たちとマイクロバスに乗り込んだ。
「いやー、楽しみだな! どんだけデカいザリガニを育ててるんだろうな!」
浩は、遠足気分ではしゃいでいる。
明は、期待と同時に、少しの緊張を感じていた。
王麗は、そんな明の隣に座り、見学先の農家について説明してくれた。
「今日行くところは、この地域で最初に蜊稲輪作を始めて、大成功した農家さんよ。規模も大きいし、技術も進んでる。でも、きっと苦労もたくさんあったはず。しっかり見て、話を聞いてきましょう」
バスが到着した場所は、明の想像をはるかに超えていた。
見渡す限り、水が張られた田んぼが広がっている。
その規模は、明の村全体の田んぼを合わせたよりも広いかもしれない。
田んぼの周りには、立派な管理棟や、選別・洗浄を行うための施設まで建っていた。
農家の主人は、日に焼けた、精悍な顔つきの中年男性だった。
彼は、明たちを快く迎え入れ、養殖場を案内しながら、自身の経験を語ってくれた。
「最初は、俺も手探りだったよ。ザリガニなんて、誰も本気で育てようなんて思ってなかったからな。でも、上海のレストランでうちのザリガニが美味いって評判になって、そこから一気に火が付いた」
彼は、巨大な養殖池を指さした。
水面には、時折、赤いハサミが見え隠れしている。
「大事なのは、水と、餌、そして病気対策だ。水は、常に綺麗に保たなきゃならん。ザリガニは丈夫だけど、水が汚れると一気に病気になる。餌も、栄養バランスを考えないと、大きくならないし、味も悪くなる。うちは、稲わらや米ぬかに、魚粉や野菜くずを混ぜた自家製の餌をやってる」
彼は、病気で大量死させた失敗談や、台風で池が決壊しそうになった話も、包み隠さず話してくれた。
市場価格が暴落して、赤字になった年もあったという。
「楽して儲かるなんて話は、どこにもない。生き物を育てるってのは、365日、気が抜けない仕事だ。それでも、やりがいがある。自分の育てたザリガニが、みんなを笑顔にするんだからな」
彼の言葉は、浩の楽観的な熱を少し冷まし、明の心には現実の厳しさとして響いた。
だが同時に、その言葉の奥にある誇りと情熱が、明の決意をさらに固くした。
村に戻った明は、すぐさま自分の田んぼの準備に取り掛かった。
見学ツアーで学んだことを参考に、まずは田んぼの周りに深い溝を掘った。
これは、ザリガニの隠れ家になると同時に、水質を安定させる効果もあるという。
そして、浩が使っていたのと同じ、青いプラスチックのフェンスで田んぼをぐるりと囲み、ザリガニの脱走を防ぐ。
作業の途中、張爺さんが杖をつきながらやってきた。
「ほう、明。いよいよ始めるのか」
「ああ、爺さん。見ててくれ。きっと、いいザリガニを育ててみせる」
張爺さんは、明の仕事ぶりをしばらく黙って見ていたが、やがてぽつりと言った。
「ザリガニはな、水の生き物だ。水が命なんだ。稲も水で育つが、ザリガニはもっと正直だ。水を汚せば、すぐに答えが出る。爺さんたちの時代にはいなかった生き物だ。うまく付き合っていけるかどうか、お前さんたちの腕の見せ所だな。欲を出しすぎて、田んぼを殺すんじゃないぞ」
それは、父の言葉とも重なる、自然への畏敬を促す言葉だった。
「……分かってるよ、爺さん。うまく、やってみる」
明は、深く頷いた。
稚ザリガニは、王麗のアドバイスを受け、信頼できる業者から仕入れることにした。
病気に強く、成長の早い品種だという。
数日後、トラックで運ばれてきた稚ザリガニは、小さくても、しっかりと赤いハサミを持っていた。
明は、祈るような気持ちで、稚ザリガニを水が張られた田んぼへと放った。
小さな赤い命たちは、あっという間に水の中に姿を消した。
明の、長い挑戦が始まった瞬間だった。
◇
ザリガニの養殖は、まさに365日、気の抜けない仕事だった。
明は、夜明けと共に田んぼへ向かい、水質をチェックし、餌を与えた。
餌は、見学ツアーで学んだことを参考に、米ぬかや野菜くずを混ぜた自家製のものを用意した。
日中は、水温や酸素量に気を配り、ザリガニの様子を注意深く観察した。
夕方には、再び餌を与え、フェンスに異常がないか確認して回る。
(ちゃんと、育っているだろうか……)
水の中に隠れてしまうザリガニは、稲のように成長が目に見えるわけではない。
不安になることもあったが、時折水面に現れる赤い姿や、餌に集まってくる様子を見ると、安堵と喜びがこみ上げてきた。
浩も、自分の田んぼの管理に追われていたが、時々明の様子を見に来ては、アドバイスをくれたり、冗談を言って笑わせたりしてくれた。
「明、お前のやり方は真面目すぎるぜ! もっと楽にやろうぜ!」
「馬鹿言うな。お前みたいに大雑把だと、いつか失敗するぞ」
「ばっかやろう! ザリガニなんて枝豆でも合わせた餌食わせてりゃ二週間で育つんだよ! 簡単さが売りの養殖が聞いて呆れるぜ!」
言い合いながらも、二人は互いの存在を心強く感じていた。
王麗も、頻繁に巡回してきて、専門的な知識で明を助けてくれた。
「李明さんの田んぼ、水質がすごく安定してるわ。これならきっと、いいザリガニが育つわね」
彼女に褒められると、明は照れくさかったが、それまでの苦労が報われるような気がした。
しかし、順調に見えた養殖にも、試練は訪れた。
梅雨の時期、連日の大雨で田んぼの水位が急上昇し、フェンスを越えてザリガニが逃げ出しそうになったのだ。
明は、父や浩、そして駆けつけてくれた王麗と共に、夜通しで土嚢を積み、排水路を確保する作業に追われた。
泥まみれになりながら、必死で田んぼを守った。
またある時は、一部のザリガニの動きが鈍くなり、病気の兆候が見られた。
明は慌てたが、王麗がすぐに原因を突き止め、薬を使わずに水質を改善する方法や、病気の個体を隔離する方法を教えてくれた。
張爺さんの「水を汚せば答えが出る」という言葉が、身に染みて分かった。
明は、より一層、丁寧な水質管理を心がけた。
いくつもの困難を乗り越え、季節は春を迎えた。
4月下旬、いよいよ収穫の時が来た。
田んぼの水面は、大きく育ったザリガニたちの赤い色で、まるで燃えているかのように見えた。
「すごいな、明! お前のところ、でかいのがゴロゴロいるじゃないか!」
浩も自分の田んぼの収穫を始めながら、明の田んぼを見て歓声を上げた。
収穫は、夜間に行われる。
ザリガニは夜行性のため、夜に光を当てると集まってくるのだ。
明と浩は、互いの家族や友人にも手伝ってもらい、頭にライトをつけ、網を持って田んぼに入った。
水の中は、まさに赤い絨毯だった。
網を入れるたびに、ずっしりとした重みがかかる。
威勢よくハサミを振り上げるザリガニたち。
その力強さが、これまでの苦労を吹き飛ばしてくれた。
作業は夜通し続いた。
疲労困憊だったが、誰もが興奮と喜びに満ちた表情をしていた。
夜が明ける頃には、田んぼの脇にはザリガニでいっぱいのカゴが山のように積まれていた。
明は、自分の手で育て上げた、赤く輝くザリガニを見つめた。
その一匹一匹に、これまでの日々が詰まっているように感じられた。
すぐに、選別と洗浄が始まる。
王麗の指導のもと、サイズごとに分け、泥を丁寧に洗い落とす。
やがて、仲買人の大きなトラックがやってきた。
「おお、これは見事なザリガニだ! 色もいいし、サイズも揃ってる。これなら上海でも高く売れるぞ!」
仲買人は、満足そうに頷いた。
ザリガニが次々とトラックに積み込まれていく。
明は、期待と、そして少しの寂しさを感じながら、トラックが見えなくなるまで見送った。
数日後、明の手元には、これまでの米作りでは考えられなかったほどの金額が振り込まれていた。
◇
ザリガニは、期待以上の高値で売れた。
明は、生まれて初めて手にする大金に、しばらく実感が湧かなかった。
浩も、明以上の収益を上げ、満面の笑みで新しいスマートフォンを自慢しに来た。
「見たか、明! 言っただろ! これからはザリガニの時代だって! 俺、次はトラクター買い替えるんだ!」
村は、空前のザリガニ景気に沸いていた。
あちこちで新車が見られるようになり、家を建て替えたり、リフォームしたりする家も増えた。
子供たちの服も新しくなり、村全体が活気に満ちているように見えた。
夏になり、待ちに待った湖南省のザリガニフェスティバルが開催された。
会場は、省都の大きな公園で、巨大なザリガニのオブジェが飾られ、何百もの屋台が軒を連ねていた。
空気中には、唐辛子と山椒の、食欲をそそるスパイシーな香りが満ちている。
明と浩、そして王麗も、村の仲間たちと連れ立ってフェスティバルにやってきた。
明たちの村からも、共同で屋台を出している。
自分たちの育てたザリガニが、『麻辣小龍蝦』や『蒜蓉小龍蝦』(ニンニク風味)など、様々な料理に姿を変え、多くの人々に喜ばれているのを見るのは、格別な喜びだった。
「うまい! ここのザリガニは身が締まってて、味が濃いな!」
客たちの賞賛の声が、何よりの報酬だった。
ステージでは、ザリガニ料理コンテストや早食い競争が行われ、会場は熱狂的な歓声に包まれていた。
そんな中、王麗が興奮した様子で明の元へやってきた。
「李明さん! 上海の大きなレストランのバイヤーさんが、うちの村のザリガニに興味を持ってるわ! あなたのザリガニ、品質がいいって評判になってるのよ!」
王麗に紹介されたバイヤーは、洗練されたスーツを着た男性で、明のザリガニの品質を高く評価し、来シーズンからの直接契約を持ちかけてきた。
それは、安定した販路と、さらなる収益を意味する、願ってもない話だった。
成功の喜び。
村の活気。
未来への期待。
明は、幸せの絶頂にいるはずだった。
しかし、その一方で、彼の心にはかすかな影が差し始めていた。
この熱狂は、いつまで続くのだろうか。
誰も彼もがザリガニ養殖を始め、供給過剰になって価格が暴落するのではないか。
ザリガニを育てるために、田んぼの環境は本当に大丈夫なのだろうか。
張爺さんの言葉、父の言葉が、ふとした瞬間に頭をよぎる。
フェスティバルの喧騒の中で、明は一人、夜空を見上げた。
打ち上げられた花火が、夜空を赤く染めている。
それはまるで、今のザリガニブームそのもののようだった。
美しく、鮮やかだが、いつかは消えてしまう儚い光。
(俺は、これからどうすべきなんだろう……)
隣では、王麗が嬉しそうに花火を見上げていた。
彼女の横顔を見つめながら、明は、この成功の先に続く道を、真剣に考え始めていた。
ただ儲けるだけではない、何かを見つけなければならない。
そう強く思った。
◇
熱狂的なブームは、数年をかけてゆっくりと落ち着きを見せ始めた。
予想通り、ザリガニの生産量は増え、価格は以前ほど高騰することはなくなった。
儲けだけに目がくらんで参入した農家の中には、採算が合わなくなり、養殖をやめてしまう者も出てきた。
村の活気も、以前ほどの派手さはない。
しかし、明は蜊稲輪作を続けていた。
彼は、ブームの初期に得た利益を、目先の贅沢ではなく、未来への投資に使った。
水質を浄化するための設備を導入し、ザリガニの餌も、より環境に優しく、品質を高めるための研究を重ねた。
浩も、一時の熱狂からは醒めていたが、彼もまた、ザリガニ養殖を続けていた。
明とは対照的に、彼は新しい品種の導入や、加工品の開発といった、攻めの姿勢でビジネスを展開していた。
二人は、時に対立しながらも、互いを認め合い、村のザリガニ産業を支える中心的な存在となっていた。
王麗は、その後も村に残り、技術指導員として明たちをサポートし続けていた。
彼女は、明と共に、持続可能な農業のあり方を模索していた。
二人は、仕事のパートナーとして、そして、それ以上の存在として、互いを深く信頼し合うようになっていた。
「李明さん、これ見て! 私たちの村のザリガニ、オンラインショップのレビューで、星5つよ!」
王麗が嬉しそうにスマートフォンの画面を見せる。
明たちは、上海のバイヤーとの契約に加え、自分たちでオンライン販売も始めていた。
環境に配慮し、丁寧に育てられた『
それは、一時のブームに流されるのではなく、地道に品質を追求してきた成果だった。
ある日の夕暮れ、明は自分の田んぼの土手に立っていた。
田んぼには、青々とした稲が風にそよいでいる。
そして、その緑の下の水面には、元気に動き回る赤いザリガニたちの姿があった。
稲とザリガニ。
かつては相容れないと思っていた二つが、今、この田んぼの中で、見事な共生を 이루している。
稲はザリガニに日陰と隠れ家を提供し、ザリガニは雑草や害虫を食べ、田んぼの土を豊かにする。
それは、張爺さんや父が教えてくれた、自然との共生の形だった。
(俺は、間違っていなかった)
明は、深く息を吸い込んだ。
土の匂い、稲の香り、そして、かすかな水の匂い。
それは、彼が守り、そして新しく作り上げてきた、故郷の匂いだった。
遠くから、王麗が手を振りながら歩いてくるのが見えた。
彼女の隣には、浩の姿もある。
明は、彼らに向かって、穏やかな笑顔で手を振り返した。
太陽が西の山に沈み、水田を茜色に染めていく。
それは、かつて明が見た、血のような赤色ではなかった。
暖かく、穏やかで、豊かな実りを約束する、希望の色だった。
水田に躍る紅き龍は、これからも、この土地で、明たちと共に生きていくのだろう。
未来へと続く、豊かな水田の中で。