紅雨-架橋戦記-   作:法月 杏

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百話・惜春の長夜[2]

 

「楽に何する気か教えてよ、後継様」

 

 声がしたのは里冉の背後。そこにいたのは、この部屋に入ってすぐにいつの間にか姿を消していた樹だった。

 

「……流石、弟様にはバレバレですか」

 

 薄く笑みを浮かべた里冉が両手を挙げ、俺に触れていた方と逆の手に握っていた暗器を畳に落とした。

 

「アンタ下手だよね、人に取り入るための嘘つくの」

「そんな、酷いなぁ」

 

 これ、退けてよ。と言いながら里冉は視線を樹が手を回している方へと流す。樹は俺に目配せをし、俺が頷いたのを確認してから、渋々その手を引っ込めた。瞬間、里冉は後方の十様の側へと飛び、反対に樹は静かに俺の隣へとやってくる。

 

「ふむ。やはり流石は中の者じゃの、樹。バレてしまっては仕方ない」

 

 十様が扇子を閉じ、その先を口元に当てる。

 

「こちらも本題に入らせてもらおう」

 

 空気が変わる。先程までとは比べ物にならない威圧感を感じて、半ば強制的に十様へと視線が吸い寄せられた。限界まで細めて弧を描いた赤い目が、俺をじっと見ている。そのニヤリと歪められた口元からは、心底楽しそうな、けれど隠しきれない怒気を孕んだ声が発された。

 

「ここまで盛大にお膳立てしてやったのじゃ。この法雨という因縁の地で再びお主の手によって華々しく散れることに、礼の一つでも言わせてやれ、里冉」

「お任せください、主君」

 

 そう答える里冉の声色も、さっきまでとは全然違う。鋭く冷たい、俺があまり聞いたことのない、というよりは法雨に来るまで知らなかった里冉の声。本部での俺相手の里冉を『わかりやすい』と言っていた法雨の面々は、もしかして今のこの冷たい空気感を見慣れているからなのではないか、という考えがふと頭に浮かぶ。

 ただ今はそんなことを考えている場合ではない。華々しく散るだって? 冗談じゃない。というか────再び?

 

「一体なんの話です? 俺は法雨に因縁などない……はずですが」

「これから死ぬというのに雑談とは、随分呑気じゃの。知ったとて持ち帰れる情報ではない。それに小童、お主には言っとらん」

 

 やはりか。十様が言っているのは十中八九、白偽のことだろう。だとしたらあの記憶は間違いなく白偽のものだ。

 再び華々しく散る。里冉の手で。そう言った十様。そして初めて白偽の存在に気づいた里冉班での初任務後のあの里冉の様子。

 もしかすると、いや、もしかしなくても────白偽は昔ここで里冉の手で一度死んでいる……?

 

 いや、考えるのは後だ。今はなんとかしてこの状況を切り抜けないといけない。

 

「逃げるよ、楽」

 

 里冉から距離を取ろうと後ずさる樹。一方で、俺はその場から動かない。

 

「ちょ、どういうつもり」

「ここで逃げ回っても里冉に地の利があって俺は逃げ切れないし、十様の見えるところでやらなきゃ意味がない」

 

 は? と言った樹のその声色は、信じられない、という顔をしているのが見なくてもよく伝わってくる。

 

「兄貴相手に姿見せて戦うとか、馬鹿なの?」

「樹と違って俺は陽忍なんでね」

「はあ? 陽忍でも優先すべきは命だし、そのための遁術で────」

「それでも、正面から向き合わなきゃなんだよ、今は」

 

 俺達の話が終わるのを待っているのか、動かない里冉。真っ直ぐその姿を視界に捉えたまま、同じく動かない俺。その様子は、今の俺には何を言っても無駄であると語るには十分だろう。

 

「……ほんっと人の話聞かない馬鹿ばっか。どうなっても知らないからね」

 

 冷たくそう言い残して、樹はどこかへと姿を消した。

 一人になった俺は苦無を構え直して、里冉と向かい合う。里冉の動きの癖は少しなら頭に入っているが、今の俺がまともにやり合うことなど不可能であることは明白だ。真正面から突っ込んで行っても勝ち目はない。だから、待つ。里冉が先に動くのを。

 そうしてしばらく睨み合った後、里冉が姿勢を落とす。来る……!

 

「……ッ!」

 

 間一髪のところで後ろに避ける。腕が長い分リーチも長いが、振りかぶる動作も大きいため正面からならなんとか反応できる。俺の死角に入る一瞬で手に持ったらしい苦無が目の前を切り裂き、思わず背筋が冷える。間違いない、コイツは俺を殺しに来てる。

 当然一発で終わるはずもなく、二発、三発、と攻撃は続く。それを俺はひたすらに避ける。こちらから攻撃する意思はないことを証明するように、ただひたすらに、避ける。俺が師匠に初日から褒められていたスピード。それを活かせる目を樹に付き合ってもらって養っていたのが、まさか里冉相手で役に立つとはな。そんなことを頭の片隅で考えながら、里冉の動きを見切ることだけに集中していた。

 絶対当たってやるもんか。だって、俺を自分の手で殺しかけたなんて事実を作ってしまったら、記憶を取り戻した後のお前は絶対に落ち込むだろ、里冉。

 

 数分にも感じられる数秒の攻防を経て、里冉が一度動きを止めた。その一瞬の隙を俺は見逃さない。素早く背後に回り込み、振り上げる最中でくるりと苦無を持ち替えて、持ち手の方を里冉目掛けて振り下ろした。しかしそれが当たった感触はなく、代わりに腕に絡みつくのは暗い紫色をした羽織だった。

 

「これは……!」

 

 知ってる。空蝉の術に見せかけるこのやり方。初日の手合わせで師匠が使っていた。ということは────後ろ!

 咄嗟に羽織を掴み、背後に向かって翻す。同じ動きをしてくるかどうかは完全に賭けだったが、どうやら当たっていたらしく里冉の持つ苦無に引き裂かれる羽織。俺は視界を遮っている今のうちに、と縁側のある方へとダッシュし、そのまま屋根の上へと逃げた。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 逃げる鈴、いや楽と名乗る少年の姿を、里冉は辛うじて視界に捉えていた。十の目の前でやらねば意味がないと言っていたくせに結局逃げるのは忍びの習性か、などと考えながら里冉は当然その後を追った。いつもならば深追いはしない里冉だが、今回は主人からの命である。途中放棄する選択肢などあるはずがない。

 上だ。上にいる。登って追うか、それとも。そんな一瞬の思考の最中、里冉は左足首に違和感を覚える。見やれば、いつの間にか縄が絡み付いている。縄が伸びてるのは縁側の下。もしや上に逃げるのをわざと目視させて注意が上に向くようにしたのか? まさか────そう思いながら手裏剣で縄を切った瞬間、頭上から人影が降ってくる。咄嗟に人影に向かって苦無を放った里冉。しかし────

 

「変わり身……!」

 

 苦無が貫いたのは間違いなく先程まで楽が纏っていた着物。だがその中に楽はいない。やられた、と一瞬動揺した里冉の視界の端にまた人影が映る。黒と赤の装束を纏った、小柄の少年。知らないはずなのになぜだか強烈な既視感を感じる姿の少年──楽が、思いっきり蹴りを入れてくるのを里冉は見た。不意を突かれた。悔しい。縁の下に潜む者のことも気になるが、まずは目の前のこの少年を殺さねばならない。殺さねば。

 

「なっ……!」

 

 楽が思わず声をあげたのもそのはず、不意を突いたはずの攻撃は、真正面から受け止められた。どころか。

 

「離、せ……っ!」

 

 掴まれたままの足。楽はその手を振り払おうともがくが、里冉が離す気配はまるでない。まずい、楽がそう思ったその時だった。

 ────どさり。里冉と楽の間に灰色の何かが突如現れたかと思えば、次の瞬間には重さのあるものが床に勢いよく打ち付けられる鈍い音が響いた。気付けば里冉の手から逃れていた楽は、驚きながらも目の前の光景を改める。そこには里冉の体に覆い被さるようにしてその腕を噛む、見慣れない大きな狼の姿があった。鼻を掠める、よく知っている者の匂い。そして鋭い緑色の瞳と目が合った楽は、一瞬にして状況を理解する。

 

「櫻夜さん……!!」

 

 助かりました! と言い残して、楽はそのまま渡り廊下の先、屋敷の方へと全速力で逃げて行った。腕を押し込むようにして櫻夜に口を開けさせ、すぐに楽を追おうとする里冉だったが、今度は袂を強く噛まれて立ち上がることは叶わない。その一瞬の隙にもう楽は姿を眩ませており、里冉は眉を顰めた。

 地の利がどうたら言っていた割には家の中を逃げ回るつもりか。いや、視界から外れたのをいいことに木陰の大事で人に紛れ込む作戦といったところか。そう考えながら、里冉は楽を助けたらしい櫻夜へと視線を戻す。今度は袂がその牙に引き裂かれていくのも気にせず力一杯に腕を引き、そのまま櫻夜の喉元を鷲掴みにした。少しの怒気を孕んだ冷たい声が櫻夜の耳に届く。

 

「へえ、君もそっち側なんだ」

「……ッ、はは、すんません。アンタがあの人を手にかけるとこ、見たくないんで」

 

 人の姿に戻りながら、櫻夜は里冉の手の中で苦しそうに笑った。その言葉を聞いて途端に興味を失ったのか里冉は「ああ、そう」とだけ言い、それからあっさりと手を離す。そう、ターゲットは櫻夜ではない。里冉は一瞬も迷うことなく、楽を追って屋敷の中へと走り去った。

 その姿を目で追うことしかできなかった櫻夜は、里冉が見えなくなったのと同時に床に大の字に寝転んだ。

 

「あー、くそ。俺じゃ足止めにもなんねーってか……」

 

 櫻夜が無力さに身を投げ出したその頃。里冉は屋敷内の人の気配を片っ端から追っていた。

 案の定使用人の気配に惑わされ、楽はなかなか見つからない。出会った使用人全員に楽の姿を見ていないかと尋ねるが、誰も見ていないと言う。苛立ちが募り始めた頃、里冉が最も見慣れていると言っても過言ではない使用人二人組と鉢合わせた。

 

「あれ? 里冉様……!? 外に出てもよろしいのですか……!?」

「なんか殺気立ってないですか? ていうかその格好……」

 

 杳己と雪也。里冉の護衛組である二人は主人のその姿を見て驚き、首を傾げる。

 

「あー、うん、ちょっとね」

 

 説明している時間はない。里冉が本題に入ろうとしたその時、杳己が「丁度良かった~!」と表情を明るくした。

 

「小春様から里冉様へのお使いを頼まれていまして、お部屋に向かってたとこだったんですよ~」

「小春から?」

「はい。あれ? えっと、確かこの辺に入れてたはず……」

 

 懐を探り始めた杳己が、これも違う、これも、と物を出しては雪也にパスしていく。思わぬ足止めを食らって気を立てた里冉は「ごめん、また今度でいいかな」とにこやかにその場を去ろうとするが「ええ、ちょっと待ってくださいよ~」と情けない声を出す杳己に拒まれた。

 

「急用です?」

 

 雪也が聞く。里冉は一つ息を吸って、苛立ちを隠しながら二人に向き直った。

 

「君達このくらいの背丈の黒髪の男の子見てない?」

 

 楽の頬に触れた時を思い出しながら大体の身長を手で示し、赤と黒の装束の、と付け足した。すると二人は顔を見合わせ、そのまま少し考え込んだ後、更に特徴を聞いてくる。里冉が思いつく限りの特徴を伝えると、二人はまた顔を見合わせ、不安そうに里冉へと視線を戻した。

 

「ええ……も、もしかして侵入者とかですか……!?」

「また十様を狙った襲撃です?」

「見たの? 見てないの?」

 

 苛立ちを隠しきれなくなった里冉がさっさと答えろと言わんばかりに答えを急かすと、二人は慌てたように「見てません!」「見ていません」と声を揃えた。

 

「そう、じゃあ」

 

 里冉はそれだけ言って足早にその場を去ろうとする。

 

「あ! でもその、関係あるかはわからないんですけど、さっき冬倭がちょっと怪しい動きをしてて……」

「冬倭が?」

 

 櫻夜同様に樹の護衛をしている山中冬倭。確かに彼も鈴の近くにはいたわけで、協力者である可能性が高い。そう思った里冉が足を止める。

 

「はい。えっと、さっきそこですれ違ったんですけど……あ、さっきってのは小春様から預かり物をしたすぐ後で、抜け道使って戻ってきたところで鉢合わせて、それで」

 

 杳己が悠長に説明をし始める。雪也が更にその話のどうでもいい点を補足し始め、脱線していく。何が怪しくて現在どこにいそうかなどの要点を簡潔に伝えることすらできないのか、とイライラする里冉が「もういい、俺急いでるから」とその場を離れようとした。が、そんな里冉の手を杳己が掴んだ。

 

「何? 離してよ」

 

 俯いたまま何も言わない杳己。里冉が手を振り払おうとしたその瞬間。

 

「すみません、里冉様」

 

 ────ぶしゅう! 顔の目の前で何かを噴射する音がする。しかしその顔は里冉ではなく。

 

「雪也!? ご、ごめん……!」

「予備動作わかりやすすぎ」

 

 杳己が里冉に向かって噴射したはずの催涙スプレーは、見事雪也の顔面を捉えていた。驚く二人。どうやら途中で気付いた里冉が咄嗟にその軌道を変えたらしかった。

 

「櫻夜に続き君達まで……一体どうして」

「う、すみま、せん……」

 

 それだけ言って激しく咳き込む雪也の代わりに、杳己が声を少し震わせながら答える。

 

「主が望まない仕事をさせられそうになってたら止めますよ、そりゃ。俺ら、十様の下で働いてるとはいえ〝里冉様〟の護衛ですもん」

「望まない仕事……」

 

 望まない仕事。里冉は何かを思うような表情でそれだけ呟いた直後、何かを確信、或いは決心したかのように迷いなく走り出した。その方向は、明らかに十の部屋だ。

 護衛組の二人も迷わずその背を追う。気付けば外は雨が降っていた。

 

 

 

   * * *

 

 

 

 櫻夜さんのおかげで里冉を撒けた俺。殺気立ったアイツが屋敷の中へと走って行くのを確認した後、縁の下に潜んでいた樹と合流し、十様の部屋へと戻った。

 

 護衛組が時間を稼いでくれているはずの今。今しかない。里冉の邪魔無く十様と直接話ができるのは。ここで以降の作戦が決まる、重要な局面。決して敵意を感じさせてはならない。挑発に乗ってはならない。偽ってはならない。

 覚悟を決めた俺は十様の横に姿を現し、片膝をついて座った。十様を挟んだ反対側には樹が立っている。

 

「アイツの記憶の戻し方を教えてください」

「嫌じゃ」

「この通りです、お願い致します」

 

 俺は忍器を全て床に置く。しかし十様はこちらに目もくれず「嫌じゃ」と一蹴する。

 

「十様と争う気は無いんです。俺は、ただアイツを、里冉を元に戻したい……っ」

 

 返事はない。俺は続ける。 

 

「記憶を奪ってまで俺から遠ざけたい理由はなんなんですか。俺はそんなにアイツにとってよくない存在なんですか。俺は……そんなに目障りですか……?」

 

 例え自分で口にしていても、あまり言われたくないことが言葉になるのは、苦しい。

 俺は少し泣きそうになりながら、更に続ける。

 

「俺が立花で生まれたのは確かです。でも、俺個人には、これまでの不仲だった歴史は関係ない。俺はこの家が、法雨の人達が好きです。樹の護衛として過ごしたこの期間は、苦しいこともあったけど、すごく……すごく、楽しかった。それと同時に、里冉がいないのがずっと、寂しかった……っ」

 

 ずっと思っていたことだからか、どんどん言葉が出てくる。まだ全然言い足りない。けど、十様から言葉を引き出さないと、俺だけが話していても意味がない。

 

「こうなってるのは俺に原因があるんですよね……? 俺は、どうすれば十様に認めてもらえますか……?」

 

 十様が溜め息を吐く。やっと俺の方へと向いた赤い瞳は、作り物のような冷たさをしていた。

 

「何か勘違いしておるようじゃの」

 

 勘違い……? 俺が思わず聞き返すと、その視線はまたふいと逸らされる。まるでお前の姿など見たくもないと言われているような、拒絶の気配を感じて息が詰まる。

 

「お主がいくらワシを説得しようとしても無駄じゃ」

「そんな」

「記憶を奪ったのは、里冉、彼奴に原因があるからの」

 

 十様は心底つまらなさそうにあくびをする。

 

「彼奴が外への、お主への関わり方を変えぬ限りは戻さぬ。そしてそれは変わることは無い。無いものは変えようがないからの」

 

 そう言いながら十様は俺の方を見て、ニヤリと唇の端を吊り上げる。

 なんだ、つまり、里冉が俺への関わり方を変えない限りは記憶は戻らなくて、でもそもそも記憶がない状態で本来のアイツの俺への関わり方を変えるなど不可能で、俺がどう説得しても無駄……? それじゃ、俺が法雨に潜入してまで直接話しに来たのは、十様と話す機会を得るためにしてきたことは、全て無駄だったと……? 俺がどう変わったってどう頑張ったって意味なくて、里冉が自分で思い出すしかなくて、でも今の里冉は思い出すことができなくて────────

 

「……それじゃ、俺が中の人間になればいいってことですか」

 

 気付いたら口から言葉が出ていた。

 

「は?」

「俺が法雨の忍びになれば、里冉と関わり続けることは許されるんですか」

「お主、何を言い出す」

「実際問題そう簡単にできないことくらいわかってます。でも俺はそのくらいの覚悟を持って言ってます!」

 

 冷静になれ俺、と思う自分を押し退けて、言いたいことが喉から次々溢れてくる。気付けば俺は立ち上がっていて、十様に向かって声を荒げていた。

 

「内だとか外だとかそんな理由で大好きな友達とこんな別れ方させられるくらいだったら、俺は法雨の忍びになってアイツの側にいることを選びます!! どこに居たって俺は俺なんで、中の者になることで里冉と関わることが許されるんだったら居場所くらいいくらでも変えてやりますよ!!」

 

 少し困惑したような表情の十様の向こうで、樹が頭を抱えているのが見えた。ごめん樹、作戦通りにはいかないかも。

 

「俺は欲張りなんで、もう何一つ取り零したくないんです……! そん中でも絶対に離したくないのが里冉で、だから、俺に変えられることじゃないって、無駄だって言われたって関係ない!! 俺が変わって、俺が変えるんです!! 無駄じゃなかったって証明してやる!!」

 

 そこまで一気に言って、荒くなった息を整える。しばらく俺の呼吸音だけが部屋に響いていたが、十様の声が沈黙を破った。その声は低く、鋭かった。

 

「まだ気付けぬ正真正銘のうつけのようじゃから、冥土の土産に教えてやろう。ワシはお主が────」 

 

 赤い眼が、俺を見る。

 

「嫌いじゃ。心の底からな」

 

 虫ケラでも見るような、嫌悪の色が濃く渦巻く十様の目。それに睨まれ、一気に体の芯が冷える。

 

「どうして……!」

「理由まで教えてやる義理はない。が、強いていうなら、そういうところじゃ」

 

 俺はその場から動けなくなる。まるで蛇に睨まれた蛙だった。

 

「図々しくて、幼稚で、傲慢で。反吐が出る」

 

 急速に冷えた意識の最中、いつの間にか降り始めていた雨の音が急に俺の耳に届いた。

 まずい、失敗した。これじゃ記憶を戻してもらうどころか────そう思ったまさにその時、十様が樹を呼ぶのが聞こえた。

 

「お主も付き合う者は選べ。一人でここまで連れて来たことで少しは大目に見ていたが、これ以上此奴に肩入れするようならお主も同類と見做すぞ」

「……っ、」

 

 樹が俯く。何か言おうとして、口を噤む。その様子を見る内に、俺はふと思い至る。

 

「白偽のせいですか」

「……何の話じゃ?」

 

 十様の目の色が少しだけ変わったように見えた。

 

「地下牢で、白偽の記憶を見ました。十様は、もしかして、白偽に恨みがあるんじゃないですか。だから俺のこと────」

 

 そう話す俺の耳に、聞き覚えのある声が近づいてくるのが聞こえる。

 

「わ~ん待ってくださ~い!」

「させません里冉様!!」

 

 はる兄と雪也さん……! まずい、もう戻って来たのか。そう思った時にはもう、部屋の入り口に里冉の姿があった。その目を見て思い出す。そうか、さてはこの雨って……!

 その一瞬の思考の隙、何かが空を切って真っ直ぐに俺目掛けて飛んできた。

 

「……っ!」

 

 俺は咄嗟に飛んできたそれを、棒手裏剣を、顔の目の前で掴んで打ち返した。

 掴んで、打ち返した……?

 

「主から離れろ」

 

 打ち返したそれは、里冉の手の苦無で呆気なく弾かれた。が、待て、今俺もしかして……里冉の打った手裏剣で車がえしに成功した?

 ギリギリで受けすぎて少し頬を掠ったものの、間違いなく特訓の成果が発揮された。喜んでいる場合ではないし、能力を使ってまで俺を探すくらい本気の殺気を向けられているし、全く喜べる状況ではないのだが、それでも嬉しさが込み上げてくる。師匠、そして恋華、空翔(偽物の方だけど)、修行付き合ってくれてありがとな。……などと思っている場合ではない。落ち着け、俺。まずは十様に危害を加える気は全くないことを表明する為に、一先ず言われた通りにしよう。

 

 距離を取りながら考える。さて、どうしたものか。十様を説得する線がほぼ消えた上に、里冉が戻ってきてしまった。説得の線が消えたとはいえ今回無理やり記憶を戻したところでまた術をかけられての繰り返しになることは明白で、それでは意味がない。そもそも記憶を戻す術すら聞き出せていない。もしかしたら取っ掛かりになるかもしれない白偽の話の続きがしたいが、里冉が本気を出し始めた今、十様から引き剥がして話す時間を作るのはもう不可能に近い。せめて無力化する手段があれば……。

 何度確認しても絶望的な状況。でも十様にも言った通り、無駄だったとしても関係ない。諦めない。俺にやれることが本当の本当に底をつくまでは、なんだってする。これまでの俺を、同じく里冉を思う皆の協力を、無駄になどしない。俺はやっぱり俺を知る里冉と、この世界を生きていきたい。

 

 なんにせよ、まずは里冉の無力化、もしくは命令の取り下げだ。まだ手はないわけじゃない。不意はつける。だって、まだあの人がいる。

 

「……どうした、里冉?」

 

 異変に気が付いた十様が声をかける。直後、里冉はよろめいて、その場に座り込んだ。

 座り込んだ里冉の後ろを見れば、はる兄と雪也さんが渡り廊下の真ん中を空けるように立っていて、更にその向こうには吹き矢を手に持つ冬倭兄の姿があった。

 

「安心してください、眠ってもらっただけなんで」

 

 その声を聞くと同時に、俺は入り口の方へと駆け寄る。今のうちだ。この機を逃せばおそらくもう俺達にチャンスは巡ってこない。今のうちに拘束しておかねば、そう思って護衛組から縄を受け取り、里冉の背中へと近寄る。

 その時だった。

 

「楽! 離れて!」

「……え?」

 

 珍しく樹が声を張り上げるのが聞こえた。その声とほとんど同時にこちらへと振り向いた里冉のその手は、明確に俺の首を狙っていた。まさか、効いたふり……!?

 咄嗟に後ろに退こうとするが、だめだ、間に合わない────そう思った瞬間、思わぬ出来事が起こった。

 

「な……っ!?」

 

 里冉が後方へと吹っ飛ばされたのだ。まるでものすごい力で引っ張られたように。

 おかげでその手から逃れた俺。一体何が起こったんだ……!? と驚きながら目の前の光景をまじまじと眺める。

 

 そこには、さっきまではいなかったはずの人物が立っていた。

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